メモ/ランダム

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カフカ鼾 新宿Pit-Inn 2Days

14年9月14日(日) カフカ鼾: ジム・オルーク(Bass+Effects)、石橋英子(Grand Piano、Keybord+Effects )、山本達久(Drums+Effects) + 勝井祐二(Violin+Effects)
14年9月15日(月) カフカ鼾: ジム・オルーク(Bass+Effects)、石橋英子(Grand Piano、Keybord+Effects )、山本達久(Drums+Effects) + 山本精一(Guitar+Effects)

欧米のポストロック、実験音楽シーンで活躍したジム・オルークが、世界を飛び回ることをやめて東京に住み始めたのが2006年。そして、この東京でジム・オルークが主体となって継続的に活動させているバンドは数少ないと思うが、カフカ鼾は珍しくジム・オルークが継続的に13年初頭から数か月に一度のライブを行っているバンドだ。方法論とそれによって生み出されるサウンドを簡潔に説明してしまうならば、即興で生の楽器とエフェクターを用いながら、ミニマルに音を反復させたり、ロングトーンで持続させたり、拡散させたり、変調させながら、微細音から轟音の間の響きのダイナミズムを時間をかけてゆっくりと変化を描いてアンサンブルを形成していくバンドといえる。それはジム・オルークの過去のポストロックや実験音楽の活動でのドローンやアンビエントの作品とも連続性があり、現在音源として入手可能なのはBand Campよりリリースされた初期録音と去年の六本木Super Deluxのライブ演奏を録音したCDの2作品。即興演奏によるそのサウンドはライブごとに全く異なるため、毎回のライブを聞き逃すことのできないバンドだ。
ここで、まずは各メンバーの演奏についてそれぞれ説明していきたい。
ジム・オルークはライブではシンセサイザー(Synthi A)と多数のエフェクターを使用することが多く、バンド全体の響きを聴き調整しながらリアルタイムで電子音のサウンドプロダクションを行う。
石橋英子は鍵盤によるミニマルな反復やエフェクターによるロングトーンの形成、変調を行いつつ、その演奏をループさせることで更にミニマルなサウンドにしていったりする。シンガーソングライターとしての作品作りやピアノでの弾き語りの活動も行う彼女だが、彼女の最近のカフカ鼾周りでの即興のピアノはミニマルな演奏が多い。このミニマルな面は彼女の過去の作品(Works for everythingやイタリアの即興演奏家との共演アルバム「Maboroshi」など)からすでに聞くことができるが、(彼女がドラマーでもあることとももしかしたら何か関わりがあるのかもしれない)、彼女の音楽性が自然とジム・オルークとの出会いを引き起こしてから、彼女のなかでミニマルな演奏の追求がより高まったようにも感じる。
山本達久は、他の二人が静かなアンビエントやドローンを形成して演奏が開始される中で、小物(ホースやたわしや金具の様なもの)で音を出したり、それらを用いてヘッドを擦ったりするなど、多様な方法でドラムセットから様々な音の響きを即興で発生させる。この演奏方法自体は以前から行っていたことだが、更に最近は、カフカ鼾が活動開始して去年から始めたコンタクトマイクとディレイとリングモジュレーターとルーパーによるドローンのようなサウンドをリアルタイムに演奏するようになり、表現の幅がより一層広がっている。
そして、静寂から音楽がはじまり、ゆっくりと音が立ち上がって行き時間が経過する中で、山本達久はドラムでリズムを叩きはじめる。その時の響きや時間が推移していくに従う演奏の高揚に応じてブラシやスティックなどに持ち替えて、しなやかで軽やかなビートから激しいビートまで多様に叩きわける。他の二人がミニマルだったりアンビエントな音響を発生させる中で、その中から呼吸をつかみだし、リズムを立ち上げて、徐々にビートを強調していき、それに応じて石橋英子が紡ぐピアノのリズムが徐々にドラムのリズムとあわさりあったり、またはずれながら共存したりする。リズムの同期と非同期の間を揺れ動く中で、そのドラムのビートは、リズム/バンドの土台になっている以上に、全体の音響の一部に溶け込んでしまうかのように響く時があり、これは様々な音響的な音楽があるなかでも稀有な瞬間だと僕は感じている。
カフカ鼾はメンバー三人がディレイやループを多用するが、これらをバンド内で用いるのは今や特にめずらしいことではない。たとえば、ギタートリオとしてのフォーマットでのバンド的なアンサンブルを完全即興で形成していくキャリアの長いバンドとして、ECMビル・フリゼールから影響を受けている内橋和久のアルタードステイツを挙げてみる。そこでは内橋和久は必ずループを用いるが、それは、自分を増殖させたり、自分で共演者を作り出すことによって、一人でアンサンブルを拡張して形成しているという一面がある*1。しかしカフカ鼾の様な、ゆっくりと響きを変化させるバンドにおけるディレイ、ループの用い方は、それとは少し異なる態度である。ディレイやループによって自分の演奏が時間を隔ててスピーカーから鳴ることによって、自分の音を自分からひき離して、音楽全体の一部にする。そして、自分の過去の響きとリアルタイムで鳴らされる他の奏者の音の響きに耳を開きつつ対話しながらアンサンブルを組み立てていく。そこでとられている態度は、演奏家としての個を増強したりぶつけるのではなく、共演者や過去の自分と対話しながら、新しい響きや波を見つけていくもののように感じる。
さて、ライブの話に徐々にうつりたいと思う。今回の新宿Pit-Innのようにカフカ鼾がゲストを招き入れるのは初めての事ではなく、過去、カフカ鼾はチューバ奏者の高岡大祐、ノルウェーのトランペット奏者Eivind Lonning(ex. Christian Wallumrød Ensemble )と共演している。昨今の即興音楽シーンでは、音響発生装置のように捉えて、電子音、ノイズ、ドローンのように管楽器を演奏する音楽家が多い傾向がある*2のだが、この二人の金管楽器奏者ももれなくその中に入り、エフェクターを通さず、マウスピースや楽器本体を通常の奏法で使用せずに、響きを紡いでいく音楽家だ。
どちらとの共演も私自身ライブで聴き、双方ともとても良いライブだったと記憶している。特にEivind Lonningの、まるでトランペットから音が鳴っていないようかのような響きは、カフカ鼾のサウンド、特にジム・オルークのシンセサウンドにそのまま溶け込んでしまったかのようだった。溶け込みすぎることで、彼のサウンドがどこに響いているのか把握しずらく、彼単独のトランペット奏法の凄さが分かりにくかったが、それは個の主張をあまり行わない最近の即興演奏家の態度ゆえの結果だといえる。*3
このような即興演奏での「個」の主張や感情、存在を無にしようとする試み*4は、例えば大友良英Ground Zero後のFilament、ISOなどでの活動でも行われていたが、大友良英Sachiko Mほどの極端なまでのミニマミズムの追求ではない方法で、このアティチュードを引き継いだり、影響を受けたり、または影響は関係なしに、新たな即興のアンサンブルを目指そうとしている演奏家は最近とても多いのではないか。
大きな決まりがない上で各個人が音を紡いで演奏を形作る即興演奏は、その演奏者の「個性」が演奏の流れや全体のサウンドを作るため、メンバーが一人増減されるだけで、その演奏内容が様変わりする。このため、ただのセッションではない、あるコンセプトをもった即興のバンドではたやすく他の演奏者を入れることは難しい。カフカ鼾のようなミニマム/ミニマルに即興演奏を行うバンドで、高岡大祐やEivind Lonningというゲストと共演したのは、彼らがこのような「ミニマムな個」として音を発することができる音楽家だからこそだといえるのかもしれない。
そんな中で、今回の新宿Pit-Innでの2daysで、一日目に勝井祐二、二日目に山本精一という、ROVOのメンバーでもある若干上の世代の音楽家を招きいれる事となった。二人ともエフェクターを操った多才な音の響きの演奏を行う素晴らしい音楽家だが、高岡大祐やEivind Lonningの共演者の周辺の即興シーンとは少し離れた位置におり、演奏のアプローチも異なるため、カフカ鼾の演奏にどのような変化をもたらすのか大変期待して観に行った。
一日目の勝井祐二との共演は、彼のヴァイオリンとエフェクターによるアンビエントな演奏がカフカ鼾の演奏とマッチしており、また、演奏の後半ではかつてのカフカ鼾にないほどに奏者全員の熱量があがった、かなりハードなシーンもあって、彼らの化学反応をとても楽しめることができた。
二日目の山本精一との共演については、予想以上に素晴らしかったのでもう少し詳述していく。
ゲストが加わって高い音域で音が混雑しカオスにならない事を考慮してなのか、ジム・オルークがベースの役割に回り、いつものシンセサイザーによるサウンドプロダクションが減ることで*5、静寂な音空間が増え、そこに石橋英子グランドピアノのミニマルな響きが浮かび上がる。その上で山本精一は、単音で調性( ドレミファのメジャースケール)にのったシンプルなフレーズを反復させ、山本達久が軽やかな8ビートを叩きはじめる。そして、ジム・オルークはビートに乗せてベースのフレーズをシンプルに反復させる。各々が発する音のリズムが同期と非同期の間を揺れ動いていく。それはまるで、山本精一が2002年のアルバム「Crown of Fuzzy Groove」で目指したミニマルな音世界と、カフカ鼾の音風景が見事に合わさっていたかのようだった。
より具体的には、リズム面でとらえると、山本精一がこのアルバムで打ち込みによって追求したシャボン玉のようなFuzzy Groove=曖昧なグルーヴ*6が、カフカ鼾との生演奏で実現できてしまったかのようだった。個人的には即興演奏でこれほどまでに調和された世界を提示されたことは今までほとんど経験していないと感じている。しかし、その調和された世界に永遠に安住せず、ふとしたきっかけで演奏は次第に激しくカオスに拡散されていって1stセットの演奏は終了した。
2ndセットの前半も1stセットの流れをくむ演奏だった。このセットは20分ほどで一旦演奏が終わり、2回目のセッションもあったのだが、この演奏とアンコールについては、それまでのミニマルでアンビエントな演奏とは少し異なり、より即興的で、フレーズのかたまりのあるセッションとなっており、カフカ鼾の演奏の別の可能性が垣間見れた。
旅に向かい移動する中、いつの間にか周りの風景が変化していく。そして、帰ってきたときには元の自分ではない。カフカ鼾の演奏は、変化や他者を受け入れながら、自分の道を進むことの大切さを伝えているように僕には響いている。

*1:これはあくまでも一面であり、機械のつまみを弄ることによってループさせている素材を偶発的なサウンドに変化させ、その予想不可能なサウンドと共演するという面もある

*2:エフェクターを用いる音楽家もいるが、完全に生音で特殊奏法やミュートを駆使している音楽家も多い。会場や演奏内容の条件や奏者の意図としてマイクを通してスピーカーから出すかださないかの違いはある

*3:脱線しつつ関連のある話題をするが、この夏初めてワールドハピネスに行った。そこで特徴的に感じたのが金管楽器の起用の多さだった。権藤知彦(トランペット or ユンフォニウム)は高橋幸宏 with In Phase、くるり、No Lie-Sense(鈴木慶一&ケラリーノ・サンドロヴィッチ)、高橋幸宏 & METAFIVEに、ファンファン(トランペット)はくるりに参加。奏者の資質にも関係はあるだろうが、ナチュラルな金管楽器の音色は電子機器の響きやアコースティックのアンサンブルに溶け込ませやすく、好まれて使用される傾向がある。反対に木管楽器のサックスがこのような用途で用いられないのは、ざらついたジャズ的な音色の特色やソロ楽器としての存在感がポップミュージックにおけるサックスでは出てしまいがちになるからではないか。

*4:逆説的にその態度は、音を聴きながらミニマムな発音を行うという個の意志の表れでもある

*5:もちろんベースでもエフェクトを駆使して素晴らしいサウンドプロダクションを行うシーンもあった

*6:山本精一曰く、「あれはリズムマシーンの反則使い的なもので、どんどんパターンを1小節に2回ずつつくらい変えていってるんですよ。いや、そんなもんじゃないですね。1小節に8回くらいかえてますね。それがひとつのグルーヴになって錯綜して〜」参照 原雅明著 音楽から解き放たれるために

Old Jazz→Bjork→Jazz The New Chapter(もしくは今ジャズ)

さて、アイスランドの歌姫Bjorkほどあらゆる響きが混淆したジャンルレスなポップミュージックを表現する音楽家は他にいないと思いますが、今回はそのあらゆる要素の中からジャズ的な要素を抽出し、昔のジャズから最近の(ニューチャプター系や今ジャズと呼ばれつつありそうな)ジャズとどのような関連性があるのかみていきたいと思います。まずは、昔のジャズとの関わりから。

ソロデビューする前の1990年に、Bjork母国アイスランドのピアノトリオとともにオーソドックスなジャズアルバムをリリースしています。これを意外に思う人もいるかもしれませんが、デビューアルバム「Debut」ではジャズスタンダードナンバーLike Someone In Love*1をハープの伴奏のみでカバーしていることや、2ndアルバム「Post」では、ミュージカルナンバーIt's Oh So Quiet*2を演奏していることから、彼女がジャズスタンダードの原曲となるブロードウェイミュージカルナンバーを含む昔のジャズが好きだというのは間違いないと言えるでしょう*3。また、地元のジャズピアノトリオとの作品の実現は、アイスランドという人口の少ない*4ヨーロッパの辺境の北国では、音楽シーンが小さい分、ジャンルを超えた交流がしやすい環境があったからこそだからなのではと僕は想像してしまいます。
ここまでは、90年代までの話になります。
Bjorkは00年代に入り、同時代に発達するDAW*5環境での更なる新たな表現の追求を行います。2001年の5thアルバム、「Vespertine」では、室内楽のストリングスとハープ(Zeena Parkins)*6、オルゴールといったアコースティックな静謐な響きの中に、DAWを駆使して様々な微細な自然のノイズとエレクトロニクスのビートを美しく溶け込ませています。そして、2004年の6thアルバム、「Medulla」では、人間の声のみを用いて楽曲を作成しており、これもDAWでの録音、編集技術がなければ、完成が実現しなかった作品です。
特に、エレクトロニクスのリズムの打ち込みという観点で彼女の活動を振り返ると、デビュー後まもなくの1995年位まではソフトウェアの未発達もあるせいか、ライブは通常のロックバンドのドラム、ベース、ギターという形態で行っています。しかし、2ndアルバムリリース後の1996年以降からは、ステージ上でも打ち込みのビートを多用するようになります*7。これは、発達するエレクトロニクスから生じるビートにBjorkが無限の可能性を感じたからなのでしょう。
しかし、07年の7thアルバム「Volta」以降は、それまでのエレクトロニクスの駆使から方向転換しています。この方向転換は彼女がインタビューで「Volta」の製作背景について発言しているので、以下引用します。

「今回はフィジカルでアップビートな音楽を作りたい気分だったわ。シリアスな内容のアルバムが続いたし、自宅で作業することも多かったし、ここにきてまた冒険を楽しみたくなったのよ。娘も3〜4歳になって以前ほど手がかからなくなったから、身軽になれたんだと思うわ」
「いろいろと試しているうちに悟ったのよ。今回は小賢しくて気取ったビートは似合わない、必要なのはすごくベーシックで衝動的な音なんだって。だから生のドラマーも起用したし、楽器にしても同じことで、『Vespertine』の時みたいな透明感のある弦楽器より、もっと弾力のある音が欲しくて、中国の琵琶や西アフリカのコラを使ったの」

http://tower.jp/article/feature/2007/05/24/100035603/100035609

ミュージカル映画Dancer in The Dark」のために制作した「Selma Songs」、そののちの「Vespertine」と「Medalla」と、シリアスで内省的な作品な続いた後、再びポップな方向性でアップビートなダンスミュージックを作成する際に彼女が欲したのは、「ベーシックで衝動的な音」を産み出すことが可能な、人間が身体で叩くドラムのリズムでした。そして、実際にドラマーとして作品に参加したのは アメリカのアヴァンギャルドな音楽シーンで活躍しているBrian Chippendale と Chris Corsanoの二人です。今回はジャズとの関連性をみていくということでChris Corsanoに着目してみたいと思います。
Chris Corsanoに関しては僕自身、日本のフリージャズサックス奏者、坂田明とJim O'Rourkeの新宿Pit-Innでのライブ録音のアルバム*8に参加していることでフリージャズ系のドラマーと認識していたので、Bjorkの作品に参加しているという事を知った時には個人的な驚きがありました。しかし、人脈をよく調べてみると、そもそもBjorkと近接したポストロックやオルタナティヴロックの音楽シーンの重要人物Jim O'Rourkeや、Thurston MooreWilcoのNels Clineとの交流*9のあるChris CorsanoがBjorkの作品に参加するのはごく自然なことであるともいえます。
また、実際にChris CorsanoとのレコーディングについてBjorkがインタビューで話しています。それによると、彼にはじめて曲を聞かせたのはスタジオに呼んだときで、それに合わせて一曲ずつ即興で叩いて貰った結果、一日で録音が終わってしまい、今まで打ち込みでありとあらゆる試行錯誤して迷走していた状態が解決したそうです*10。そして、Chris CorsanoはVoltaicライブツアーのドラマーとしとして選出されました。
こうして、人間が叩くドラムの即興的な演奏の躍動的なリズムは、アルバム「Volta」完成の最後の一ピースとなったのでした。このようにBjorkがフリージャズ系のドラマーを起用した事は、音楽性や表現の方向性は異なるものの、前回のエントリーで指摘したTayler McferrinがジャズドラマーMarcus Gilmoreを起用している事と重なっています。これは、打ち込みのビートがかき鳴らされる中で、人間の感覚と身体によって即興的な判断を行いリアルタイムにグルーヴを調整しながら音楽を紡いでいく演奏能力を、自由で柔軟な表現にこなれたジャズドラマーがポテンシャルとして兼ね備えているが故の、シンクロした事象と考えられると思います。
また、機械と人間のリズムの関係を遡ってみると、エレクトロニクスによる打ち込みは人間によるドラム表現を発達させてきました。具体的には、80年代にMIDIやリズムマシーンが登場し、機械によって均質なビート生成が可能になった事が、人間が叩くドラムのリズムに影響を与えています。たとえばNYのスタジオミュージシャンを代表するSteve Gaddのビートは「機械のようなリズム」と形容されていたりします。しかし、エレクトロニクスの発達によって様々なビートが生み出された後の現在では、機械、人力を問わず、均質ではない身体的な揺らぎをもつビートのポップミュージックが増えてきつつあるように思います。その中で、今回指摘したBjorkやNew Chapter系/今ジャズ系などを含む昨今の様々な世界のポップミュージックにおいて、打ち込みのリズムと人力のリズムの共存のあり方が探究されているのは、機械によって身体感覚の拡張をさせ、それによって今まで体感できなかった一種の「生」の感覚を新たに得ようとするためだといえるのではないでしょうか。当然ですが、それは、人間の機械化のためではないのです。

Voltaic Live in Paris (Drums: Chris Corsano)

そして、ドラマーの起用は、最新作となる8thアルバム「Biophilia」でも継続されます。それはオーストリア出身のハン(スティールパンの改良楽器)、パーカッション、ドラム奏者のManu Delagoです。実際に僕が彼を認識したのは、去年のフジロックフェスティバルBjorkを観に行った時で、ステージ上でManu DelagoがBjorkの楽曲の複雑なビートを人力ドラムンベースのように叩く姿に大変興奮したのでした。以下の動画のラストの方を観れば彼の演奏がある程度分かると思います。基礎ビート(8ビートの一拍分)を3連符でとるパターンと4連符でとるパターンを行き来して、ビートに揺らぎを持たせ緩急をつけながら、高速でフレーズをたたみかけていく方法は、まさにChris DaveやMark Colenburgを代表とするNew Chapter系/今ジャズ系と呼ばれるドラマーの演奏方法の基本であるといえます。
Crystalline (Drums: Manu Delago)

さて、フジロックから帰ってManu Delagoについて調べると、彼は子供のころからロックバンドで活躍し、大学ではクラシックや、ジャズを学んだそうで、今の活動はポップミュージックやワールドミュージック、さらにロンドンシンフォニーオーケストラとの共作など多岐にわたる活動を行っていることが分かりました。そして、2013年の彼のアルバム「Bigger Than Home」を聴くと、まさにNew Chapter系/今ジャズと呼べる音楽となっており、個人的にも13年のベストディスクとなるくらい愛聴しています。硬質なハンの響きの重なりを中心に、鍵盤、ウッドベース、ドラムのジャズ的なサウンド、室内楽ストリングス、そしてそれらのアコースティックな響きの中に自然とエレクトロニクスのビートや歪むシンセ、浮遊するギター溶け込ませており、BjorkRadioheadなどのオルタナティブロックが好きな人はもちろん、最近のジャズのようなジャンルレスな音楽を楽しむ人にお勧めしたくなる音楽です。

Manu Delago 「Bigger Than Home EPK」


A Long Way feat Andreya Triana *11


Manu Delago ライブ動画 2014

番外編: Manu Delagoの人脈をたどってみると、ヨーロッパでも正規な音楽教育を受けた多くの音楽家がポップスやジャズ、クラシックの垣根を越えた音楽の表現をしている事がわかります。これらもNew Chapter系/今ジャズと呼べるのではないでしょうか。
1: 「Bigger Than Home」でギターで参加しているStuart Mccallumはイギリスで活動をしており、この動画ではジャズと室内楽の融合を目指していることが分かります。スタイルは最近の若手ギタリストと同じように、Kurt Rosenwinkelの影響をもろに受けていることが分かりますね。
https://www.youtube.com/watch?v=e8Lt3niWgjo

2: Manu Delago自身のバンドでドラムを担当しているChris Norzは、Manu Delagoと同じオーストリア人で地元でHI5という「Minimal Jazz Chamber Music(公式サイトより引用)」のバンドを組んでいます。
実際に聞いてみると、このポリリズミックなミニマルさはTortoisや、日本のToe、Sardineといったポストロック系の音楽とも近いものを感じます。それにしてもこの動画のように3X4のポリリズムは、世界中の音楽家の共通言語になりつつあるように思います。
https://www.youtube.com/watch?v=gnNaRkZkT9c

*1:Like Someone In Love https://www.youtube.com/watch?v=lGWBx51eda8

*2:It's Oh So Quiet https://www.youtube.com/watch?v=TEC4nZ-yga8

*3:Spike Jonesを監督に起用したPVがミュージカル風なのも、この曲自体1951年のブロードウェイミュージカルナンバーが原曲だからです。比較するとBjorkバージョンは原曲をほぼ原曲に忠実にアレンジしていることが分かりますし、彼女のミュージカルに対する愛情や敬意を強く感じます。原曲 It's oh so quiet - Betty Hutton (1951) https://www.youtube.com/watch?v=WrDZpTHlkLk 余談で付け加えるとこの原曲には更なるドイツの原曲があります。Harry (Horst) Winter - Und jetzt ist es still (1948) https://www.youtube.com/watch?v=6zmhvJpTELc また、ミュージカルといえば、あの救いようのない映画「Dancer In The Dark」に出演しているのはあまりにも有名ですね

*4:2012年で32万人。日本の都道府県人口最下位の鳥取県よりも少ないです

*5:Digital Audio Workstation。簡単にいえばPCでの音楽制作

*6:「Vespertine」に参加のハープ奏者、Zeena Parkinsはフリーインプロヴィゼーションシーンで活躍していたりします。後述するChris Corsanoときわめて近いシーンにおり、Bjorkアヴァンギャルドな音楽シーンとのかかわりがここでもみられます。

*7:この時期のステージについて調べ切った訳ではありませんが、ギターやベースはいなくなり、打ち込みが多用されるようになっています。1997年にドラマーがいるステージを確認していますが、打ち込みが主流になっているという点は見逃せない点だと思います

*8:このアルバムではないですが坂田明との共演の映像です。 https://www.youtube.com/watch?v=m5TQkQlvlD4

*9:Nels Clineをはじめとするシカゴ音響派とジャズの関係については最近刊行されたJazz The New Chapter 2に詳しいのでぜひ参照ください

*10:参考:http://pitchfork.com/features/interviews/6592-bjork/

*11:Andreya TrianaはFlying Lotusと共演しています、https://www.youtube.com/watch?v=XKQVcJ_Zi9M

5/23 Brainfeeder ライブレビュー (テイラー・マクファーリン サンダーキャット フライング・ロータス)

現行音楽シーンの最重要ビートメーカーであるフライング・ロータス主宰のBrainfeederのレーベルパーティーのために新木場Agehaへ。数々の出演者の中、今回の目玉といえるテイラー・マクファーリン、サンダーキャット、フライング・ロータスについてライブレビューを。
(注意:以下、プレイ内容を記述していきますが、テイラーとフライロではワタクシ、ブチ上がっていました。そのため、記憶があいまいな事が多々あるため、勘違いの可能性あり。ちなみに念のためキメたのはレッドブル二本のみでございます(最近お酒飲むと体調悪くなりやすい…))

テイラー・マクファーリンは世界的に有名なシンガーソングライター、ボイスパフォーマーのボビー・マクファーリンの息子であり、マーカス・ギルモアは、90歳近い現在でも現役で、ビバップ時代にチャーリー・パーカーと共演をしているジャズドラマー、ロイ・ヘインズの孫である。二人とも一流ミュージシャンのサラブレッド。この彼らの血筋と、ステージ上に鍵盤とドラムがセッティングされた光景から、ソロなどが含まれるジャズ的な演奏が行われるのではないかと少し予想していたのだが、先に演奏全体を振り返っておくと、生楽器は打ち込まれるビートの中の一トラック、一パーツとして使用されるという方法を取っており、分かりやすい姿でジャズ的な要素は現れていなかった。テイラーは鍵盤を弾くものの、ジャズの語法を用いたソロ演奏は行わず、コード進行の形成、または、ビートメイキングの一環として鍵盤を叩く事に徹しており、マーカスのドラミングも、打ち込みのビートの中の一素材として演奏しているように捉えることができる。アルバムの中のメロディ色の強い曲は演奏されず、ビートのグルーヴを調整しながらシームレスに曲間をつなげていくことで、フロアを持続して湧き上がらせる事に徹したダンスミュージックだった。
それでは、演奏開始から振り返ってみる。
テイラーが森林の鳥のさえずりのようなサンプルを流す中、アルバム「Early Riser」の一曲目をローズピアノとドラムのみで演奏する事から始まる。アルバムのこの一曲目はボーカルが入っており、鍵盤を弾くテイラーの口元にはマイクがあったので、彼の歌やボイスパフォーマンスが聴けるのかなと思っていたのだが、そのマイクはMC(注:ラップではなくしゃべり)以外で演奏に使用されることはなかった。生演奏の中、テイラーが徐々に打ち込みのトラックを重ねることでビートを強調していき、フロアを沸かしはじめていった。そして、機械による複数の打ち込みのトラックを抜き差しすることでグルーヴを変化していくと同時に、それに合わせて行われるテイラーの鍵盤とマーカスのドラムの演奏によって生身の人間の身体的なグルーヴをリアルタイムにビートの中へ溶け込ませ、全体のグルーヴを調整していく。そうやって推進力を持たせて演奏を展開していき、フロアをしなやかにトランスへともっていった。
特筆できる点としては、打ち込みに合わされる生演奏*1の存在のありかたを指摘できる。それは、人間の演奏が機械化されているという風にとらえるのは的外れだ。テイラーが再生するトラック自体にはパターンの変化と揺らぎを同時に含ませており、そして複数のトラックを抜き差ししていく中でグルーヴを変化させていく。その打ち込みのありかただけで、それはテイラーの技術と感覚によるグルーヴといえるのだ。そして、テイラーとマーカスは、リアルタイムにその時その時の打ち込みのビートを聴きながら、即興的な判断で演奏し、そのビートとの共演の中で、全体のグルーヴを調整していっているのだ。この即興的な判断と身体による演奏という点は、ジャズという音楽のもつ特徴そのものであるといえるのかもしれない。
それが特徴的に表れていると感じたのは、アシッドサルサと呼べるような曲(アルバムには入ってないです)で、トラック自体に持たせているパターンの変化と揺らぎと、それらのトラックの抜き差しと、そして生演奏の共演によって、リズムをポリリズミックに錯綜させていたシーン。ここが個人的にハイライトだった。マニアックな話だが、どうポリリズミックだったかというと、まず、クラーベのリズムを強烈なキックに担わせていた。クラーベは1小節を不均等に5つに分割するリズムと16ビートを4つに均等に分割するリズムが共存するのだが、テイラーはトラックの揺らぎとその抜き差しによって、その共存する2つのリズムのグルーヴを階調を描いて変化させ、リズムを錯綜させていたのだ。そうやって、フロアをトランスさせていった。
ライブごとにどのくらい演奏が変化し、どのくらい柔軟性や即興性があるのかを確認したいというのもあるが、そんなことよりも、ただ単純にとても楽しく、彼らのライブパフォーマンスをもう一度観たくて仕方がない。

  • サンダーキャット (Thundercat - bass/vocals Dennis Hamm - keyboards Justin Brown - drums)

基本的にアルバムで聴くことの出来る、彼がソングライティングを行った楽曲の中に、ソロパートを長めに挿入つつ演奏を進めて行った。テーマ→ソロ→テーマという形式がとられている曲が多く、この点ではきわめてジャズ的だったといえる。特にアルバムでは控えめだったサンダーキャットのベースソロがステージではかなり炸裂していた。ジャズやフュージョン的な語法の超高速フレーズだったり、ワウを用いた効果音的なエフェクトソロだったり。このワウについては曲中のベースラインの演奏自体にも用いていたが、エフェクトの調整またはPAの調整か会場との相性が原因なのか、鍵盤とドラムの演奏に埋もれがちに聞こえ演奏があいまいになっているように感じた所は少し残念。また、1stアルバムのIs it Loveの演奏では、ベース、鍵盤、ドラムの三人で曲の繊細なコーラスワークを行おうとしていたのだが、PAの不備でマイクの音が出ないトラブルがあり、演奏の流れが悪くなってしまったのも残念。テイラーとマーカスのグルーヴを繊細に形成していった演奏と比較すると、サンダーキャットの超尺ソロによってベースが抜けてしまう事で、グルーヴが持続されづらく、フロアもガンガンに盛り上がるような演奏ではなかった。ビートミュージックの中におけるジャズ的なソロのあり方の難しさを示しているように私は感じたが、もしも先述したトラブルもなく順調に演奏できていたらより良いサウンドになりフロアは盛り上がったのではないかとも感じている。
後半は、キャプテン・マーフィ(=フライロ)がラップで参加し、サンダーキャットバンドがそのバックに徹するという形に。ここではバンド全体が引き締まった演奏になっておりフロアも沸いていた。

ステージの中央にぽつんとおかれたDJ卓の前後に巨大な2面のスクリーンを立たせ、その前後に宇宙的であったり未来的であったり幾何学的な立体映像の流れが映し出される。銀河の様な映像が流れる中。DJ卓の前に立つFlying Lotusの大きな影が映し出される様子は、彼が宇宙船のコックピットにのって宇宙旅行をしているかのよう。
正直言って、今までここで私がテイラーやサンダーキャットの音楽を記したように、フライング・ロータスの音楽を言葉で描写するには、彼の音楽はとても幻想的で、あらゆるサウンドが溶け合って、とても抽象的だ。彼が使用する機材と彼の才能と音楽性と技術が相まって、彼の音楽は彼独自のものとしかいいようがなく、歴史の連続線上で捉えたり他の音楽との関連性で語る言葉を自分は持ち合わせていないというのが本音だ。
しかし、その記述不可能性が、リスナーを魅了し、夢見心地にさせるのだろう。
それと同時に、なんでガンガンに盛り上がるわけでもない抽象的な音楽がこれほど多くの人に人気があるのだろうと個人的に疑問に思ってもいたのだが、今回彼のプレイが終わった後、近くにいた女性が「やっぱ、ディスコのほうが楽しいよう〜」といっており、「お姉さん、その気持ち分からなくもない」と思ったりもするのでした。

*1:こういうライブ手法は最近結構よくあるのかあまり知らないのですが、菊地雅晃氏のTTTATとか私好きです

ジャズのコスモポリタニズム

先週の水曜日(5/14)に吉祥寺にunbeltipoのライブを観に行くまえに、その日発売のTaylor Mcferrinのアルバム「EARLY RISER」を目当てにタワーレコードへ。Flying Lotus主宰レーベルのBrainfeederからのリリースとして、過去の経験上、ジャンル的にはエレクトロニカやクラブ/テクノ系の棚にあると思って探していたが見当たらず。さてはと思ってジャズコーナーに向かってみると、試聴コーナーで大きく展開されていた。何故初めにクラブ/テクノ系の棚へ向かったというと、去年リリースされた同じくBrainfeederレーベルのThundercatの2ndアルバム「Apocalypse」がタワーレコードのそのコーナーでしか陳列されていなかったからだ。もともと、自分自身は11年にリリースされたThundercatのデビュー作「Golden age of Apocalypse」をamazonで購入し、様々な音楽の要素を感じながらも基本的にはジャズの文脈で聴いていて、世間的にもジャズの系譜で捉えられているものと半ば思い込んでいた。この思い込みゆえに、去年リリースの2ndアルバムはまずディスクユニオンの新宿ジャズ館へ寄った時に購入する予定にしていたのだった。しかし、販売していなかった。さすがにタワーレコードのジャズコーナーにはあるだろう、と向かってみると、結局はクラブ/テクノ系のコーナーにしか置いていなかった。
ある音楽のジャンル付けはカタログ化するための便宜的なものであり、Brainfeederの音楽のように、エレクトロニカなのか、アンビエントなのかダブステップなのか、エクスペリメンタルなのか、黒人音楽なのか(そのなかでもR&Bなのかネオソウルなのかジャズなのかファンクなのか)様々なジャンルが曖昧に越境した音楽については、その音楽の出自や、言説をもとにどこかしらのカテゴリーに当てはめるか、または、新たなジャンル名を創出するしかないのが現状だ。*1
私がThundercatをジャズの文脈で聴いていたのは、今まで新旧合わせてある程度のジャズと呼ばれたり、ジャズと関連している音楽を聴いてきた中で、Thundercatの作品のサウンドに、それらの音楽の要素を感じとっていたためだ。そして、それは私だけが感じていることではなかったと確実にいえる。しかし去年の段階ではThundercatをジャズの系譜でとらえる事はそれほど主流なことではなかったのだろう。
そして、今回のThundercat=クラブ/テクノとTaylor Mcferrin=ジャズのタワーレコードでのジャンルの区分けの変化から、世界中で発生している「ジャズをとりまく音楽の越境」について、ここ最近になってようやく、過去の音楽との連続性と関連性をもって捉えられるようになったことがいえる。
「ジャズをとりまく音楽の越境」は最近になってはじまったことでは、もちろんない。それは、20世紀初頭からあらゆる世界の文化がひしめきあうアメリカのような国を中心として、様々な世界中の音楽が交差する中で試行錯誤されながら既に常に行われてきた事だ。
それはコスモポリタン世界市民主義)的な文化の混淆といえるだろう。そしてその中で誕生してきた世界の音楽が20世紀のメディアの発達によって世界中に届けられ、相互の文化横断が行われてきた。更にこの文化横断は、95年以降のインターネットによるネットワーク化の中で加速度的に早まった。人と膨大な情報が今までにないスピードで交差する中で新しい音楽が誕生し消費されているのが現状だ。
そして、この20年ほどのジャズ(いってみれば、マイルス・デイヴィス没後のジャズ)についても、様々な変遷があり、特にここ最近は目まぐるしいほど複雑に文化横断している状況になっている。音楽についての言説は、その音楽の誕生よりも必ず遅れる、という事がほとんどだとしても*2、90年台以降のこの変遷を、歴史の連続性をふまえた観点や他のジャンルとの関連性でとらえようとする視点は、つい最近まで数少なかったように思える。
その要因は様々あるだろう。
例えば、多くのジャズミュージシャンの、常に前進する啓発的なモダニズム的態度*3。精神の高みの追求がそのまま音楽の追求となり、ジャズが技術志向の複雑な音楽になった結果、聴衆がジャズミュージシャンの意図をつかむことが困難になってしまったということ。
ジャズという音楽が誕生し、様々な語法(パーカー、コルトレーン、モンク、エバンスなど果てしなく続く…)や様々なスタイル(スウィング、ビバップ、モード、フリー、ラテン、アフロ、フュージョン等)が誕生してきたが、参照可能な音楽の情報量とバリエーションが現在よりも少なかった時代は、音楽家の独力によって語法やスタイルが生まれやすく、その個性(独自性)も認知されやすかったのではないかといえるのではないか。そして、その新たなスタイルの誕生と変遷は、その認知されやすさゆえに、歴史としても記述されやすかったといえるのではないだろうか。
しかし、時代の後になればなるほど、新しいサウンドを追い求めるためには、音楽家は既に生み出された語法やスタイルと対峙せざるを得なくなる。もう出尽くしたのではないかと諦めそうになほどの情報量の中、もはやジャズに限らない世界中のあらゆるスタイルを参照して、自分独自の「ボイス」を見つけなければならない。そしてその結果、参照先の様々な音楽が錯綜して溶け込んだサウンドがうまれる。その複雑に溶け込みあったサウンドを蒸留して、様々な要素を抽出し、それら関係性をひも解く、という作業は、聞き手にも膨大な音楽に関する知識を要する。その困難さ。そして、そのサウンドから新しさを見出すことの困難さ。
ほかにも沢山あるだろうが、ここ最近のジャズを取り巻く音楽についての言説の少なさには、これらの要因が含まれていると私は思う。
そのような状況の中で、ここ数年になって世界中の若い音楽家によって、ジャズなどの複雑な技術を取り入れたプログレッシブなポップミュージックの実践が行われ、その例として、リスナーがほとんど分離されていたであろうアントニオ・ロウレイロや挾間美穂、石橋英子の音楽の関連性について論じてみたのが前回、前々回のこの私のはてなダイアリーのエントリーなのであった。それはやはり世界の音楽シーンで起こりつつあることに対する言及の少なさや、ジャンルの島宇宙化の苛立ちから記してみたものだったと現在感じている。
そんな中で、ようやく今年になって、「Jazz The New Chapter ロバート・グラスパーから広がる現代ジャズの地平」という、ここ20年ほどのジャズのとりまく世界中の様々な音楽についてはじめて体系的に描写した雑誌が刊行された。

私自身はロバート・グラスパーという音楽家に対する評価は定まってはいないのだが*4、00年代の数少ない若手のジャズのスターであるロバート・グラスパーによるジャズと(ヒップホップを中心とする)ポップミュージックに対する眼差しの批評性を論じることからはじまり、そこから視点を様々な世界へ広げて行く点は、初心者にもやさしく理解しやすい戦略がとられており入門書として薦められる。それと同時に、既にある程度ジャズを聴いてきた人にとっても現代のシーンに対する理解が深まり様々な新旧の音楽家について知るきっかけになる参考書となるだろう。
私が、この本で初めて知ったことでキーポイントだと思ったのは、アメリカにおける様々な音楽の「コミュニティ」のあり方だ。
例えば、ロバート・グラスパー、マーク・コレンバーグ達がその経験を語る、セッションの場としての教会でのコミュニティ。
ヒューストン、フィラデルフィア、LA、ダラスなどでポップ、ジャズを問わない一流の音楽家を輩出するパフォーミング・アーツ系の名門高校でのコミュニティ。
ドラマー、ビリー・ヒギンスが毎週LAで開催するワークショップという場のコミュニティ。
バークリーのような音楽学校に通った音楽家が、「授業で得たことより、世界中から音楽を志す同志が集まりともに演奏できるできるのが良かった」というようなことを頻繁に発言するように、音楽は人と人が出会い、コミュニティが生じることから産まれるという事。そのようなコミュニティでは、教育と実践が行われつつ、技術の洗練化とその共有がなされ、様々な音楽の融合が試みられているのだろう。
ジャズと教育という観点では、西洋クラシックが音楽教育の中心であり続けた中で、ジャズの技術(具体的には和声理論とアドリブとリズムの方法論)が教育体系に組み入れられ、世界中の音楽学校で学べるようになった現状がある*5。アントニオ・ロウレイロについて前回指摘したように、ミナスの洗練された音楽の誕生も、ミナスの大学の音楽教育と、その中でのコミュニティがあってこそといえるのではないだろうか。
私は、ここ数年、このような世界中のジャズを取り巻く環境の変化を捉えることに必死だったし、その中でお気に入りの音楽も沢山発見できたので、ここ最近まではこのような現象をウェルカムに思っていたのだが、現在はある恐れを抱きつつもある。
それは、これらの新たな音楽のサウンドのテイストや演奏技術の方法論がある程度似通っているように感じていること、そしてそもそも音楽に対する価値観がエリートの音楽として均一化されつつあるように感じていることに対する恐れだ。
言い方を変えるなら、それは、ジャズが世界中に広がったと同時に、その音楽が持つコスモポリタン的な思想も同時に拡散されてしまっているのではないかという疑いである。
ミュージシャン二世、三世のサラブレッドたちの活躍はすさまじいが、音楽はそのような血筋のあるエリートまたは、十分な教育を受けたエリートしか表現できないものなのでは決してないのは当然だ。それに、リスナーがエリートの超絶技巧の音楽をただ単にありがたがって聴くような状況だけにしてしまうならば、それは19世紀以降、クラシックをコンサートホールでありがたく聞く聴衆の姿とほとんど変わりないのではないか。
「Jazz The New Chapter」は新たに世界中で誕生している折衷された音楽をジャズの歴史の連続性と他ジャンルとの関連性で豊かに論じており、それはここ最近まで言説が止まり、ジャンル間の壁が存在する状況に対してアゲンストするための第一歩として重要なことだと私は思う。確かに、音楽の越境は加速度的にこれからも果てしなく続くだろうし、新しく産まれ落とされていく音楽の、過去、現在との関連性をひも解く作業は重要である。
しかし、音楽の越境は常に行われるものの、あらゆる音楽がなんでも折衷できるようなハッピーな世界では決してない*6。共感不可能性は乗り越えようとするだけで解決されることではなく、時には交わりあえないことを受け入れることも必要だ。
その中で、私たちはまだまだ知り、そして考えるべきことが沢山あるのではないのだろうか。
例えば、新しい音楽の歴史上での連続性と断絶性について
または、新しい音楽の新規性と既存性について
音楽を比較したときの類似点と相違点について
音楽のフォーマットの可塑性がもたらす文化横断について
文化横断によって生まれるサウンドと失われるサウンドについて
音楽コミュニティのつながりと壁について

私たちは、ジャズについて、いやジャズに限らず世界の音楽について、まだまだ知らない事だらけなのだから。

Jazz The New Chapter~ロバート・グラスパーから広がる現代ジャズの地平 (シンコー・ミュージックMOOK)

Jazz The New Chapter~ロバート・グラスパーから広がる現代ジャズの地平 (シンコー・ミュージックMOOK)

*1:しかし、今回のTaylor のアルバムが新宿タワーレコードでどのように展開されているかを確認したが、ところがどっこい、ジャズコーナーにしか置いていなく、Flying LotusやThundercatは相変わらずクラブ/ディスココーナーのみに置いていた。Brainfeederの作品ならNew Ageやクラブ/ディスコ、ジャズなど複数のコーナーにまたいで置かれてもいいのではないかと個人的には思う

*2:「ほとんどだとしても」、というのは、音楽の言説によって新たな音楽が生じる可能性が別にある事をさしている

*3:ざっと象徴的な音楽家を挙げると、マイルス・デイヴィス、または、ハービー・ハンコック、ウエイン・ショーター等の創価学会系、パット・メセニー上原ひろみなどを思い浮かべるが、老若男女問わずジャズほど自己啓発的な音楽家の多いジャンルはないように感じる

*4:例えばBlack Radio 1,2は聴いていてもどかしさしか感じない

*5:いってみれば、それまで西洋音楽が世界の覇権を握ってきた中で、黒人音楽が勢力を伸ばしているといえるだろう。

*6:もしそうであったら世界は乱交パーティーだらけだ。ピース。

ジャズに新たなポップ性を求めて (アントニオ・ロウレイロ ライブ評)

日:2013/8/29 (木)   会場:渋谷WWW      メンバー:アントニオ・ロウレイロ - piano 鈴木正人 - bass 芳垣安洋 - drums 佐藤芳明 - accordion

もう一か月以上前になってしまったが、前エントリーでも取り上げた、ブラジルの若手音楽家アントニオ・ロウレイロの初来日公演を観に行ったので今回はその感想を(と予定してたんですけど、色々思う所があり、長くなってしまいました)。

渋谷のライブハウスに入ると400人キャパの会場は満員だった。結果として、興業的にも盛り上がり的にも大成功だったのではないだろうか。ブラジルの才能あふれる、しかしまだ世界では無名の音楽家の今回の来日の成功は、日本がいち早くブラジルの新たな才能を発見して、一部のシーンで話題になったからこそだ。それには、いち早く彼をMySpace上で発見した高橋健太郎氏と、国内版CDのリリースの実現と今回の来日を企画した成田佳洋氏が大きく貢献している。

ライブ評に入る前に、何故2013年の現在、世界に先駆けていち早く日本人がブラジルの新たな才能を見出し、話題になったのか?という事を考えてみたい。

・日本におけるラテン音楽の受容
過去、ラテン音楽がどのように日本で受容されてきたか?と振り返ると、それはアルゼンチンタンゴから始まる。タンゴは元々欧米経由で大正時代に日本へ紹介され、日本の大衆音楽は瞬く間にタンゴの影響を受けた。よほどのタンゴ熱があったのだろうが、その後は欧米を経由せずに古賀政男藤原義江ブエノスアイレスを訪れ、直接現地の音楽家との交流があったそうである*1
60年代に誕生したボサノバも、まずは欧米経由で入ってきたのちに日本の大衆音楽へ影響を与えた。その後、日本人音楽家が本場の音楽家と交流を持った事も、タンゴの場合と同様にあったのだろう。*2
もちろん、80年代にはワールドミュージックブームによってあらゆる世界の音楽が日本へ紹介され、日本人の音楽家が異国の音楽家と交流を持つ、という事象は調べればいくらでもあったのかもしれない。しかし、欧米出自のポップミュージック以外で日本において最も愛されている海外の音楽はラテン音楽といって間違ってないだろうし、直接、間接(ラテン音楽の影響を受けた欧米のジャズ、ポップミュージックからの影響)を問わず、日本のポップミュージックはラテン音楽の影響を大きく受けてきたといえる。
エキゾチックラテン音楽を愛し、その外来文化が日本の自文化の中に溶け込み帰化した。そして時には現地の音楽家との交流もあった。そのような土台があるからこその、日本人によるアントニオ・ロウレイロの発掘であり、今回の来日と日本人音楽家と共演の実現といってもおかしくないだろう。

・共通言語としてのジャズを用いたポップミュージック
前エントリーにも記したが、アントニオ・ロウレイロの音楽は自らの土着のブラジル、ミナス地方の音楽を基盤としつつも、昨今のコンテンポラリージャズの影響を大きく受けている。このため、彼の複雑な楽曲を演奏できるのは、高い演奏技術を持ったジャズミュージシャンでなければ難しいと同時に、彼の楽曲の持つポップ性も理解しなければならない。その中で、今回彼と共演した3人の日本人音楽家はポップスシーンから、フリージャズを含むジャズシーンで幅広く活動し、ラテン音楽の造詣も深い強者達だ。ロウレイロとの年齢差は感じるものの、ほとんどベストな人選といって良いだろう。

芳垣安洋:自らがリーダーのオルケスタリブレ、Rovo南博トリオ、大友良英との共演など
鈴木正人:バークリー音楽学校出身、多数のポップスレコーディング、菊地成孔南博トリオ、大友良英との共演など
佐藤芳明:サルカヴォ、大友良英あまちゃんバンドなど

さてライブを実際に聴いた感想に移りたい。それは、ロウレイロの流麗で複雑な楽曲上で、演奏者全員が共通言語としてのジャズ語(それは勿論ラテン音楽語も混ざっている)を話して即興演奏を行いつつも、ポップミュージックとしても成立した素晴らしい演奏であった。さすがにリハーサルにそれほど時間がかけられなかったためか、譜面を追うだけで精一杯である所や、詰めがあまくラフな演奏もあったように感じたが、全員が即興演奏にこなれてるからこそのサウンドは、柔軟性の高さと自由さを感じるアグレッシブなものでもあった。数回のリハーサルでこれほどの演奏が出来たということは、彼が固定バンドを組んで継続すれば、もっと化けるのではないか?と、そのような高いポテンシャルも感じられた。今後がますます楽しみな音楽家である。

・ジャズを学んだ音楽家によるプログレッシブなポップミュージック
今回実際にライブでロウレイロのピアノ演奏を聞いて、ソロにおいてはジャズの影響、例えば、インタビューで影響を受けたと発言していたブラッド・メルドーに近いフレージングを感じる瞬間があった。ここでもし、自分がジャズリスナーとしての耳で彼のピアノを聞くとするならば、彼以上に技術を持つ演奏家はいくらでもいるとは感じる。しかし、ロウレイロの音楽をそのような耳で聞くことは野暮でしかないだろう。
今回のライブでも改めて感じたが、アントニオ・ロウレイロの音楽の何が新しくて素晴らしいのか?というと、コンテンポラリージャズをはじめとしたあらゆる世界の音楽を土着のミナスの音楽の中へ溶け込ませながら高度なアンサンブルを組み立てて、かつ柔軟度の高い即興を行い、さらに歌もののポップミュージックとして成立しているところだといえる。彼の音楽は、リズムの冒険を行いながら精緻にアンサンブルを構築した(従来のプログレッシブロックとは異なる)現代のプログレッシブな音楽であり、歌とアンサンブルと即興が豊かな関係で結びつきつつ、ポップに響いていると僕は感じている。
この彼の音楽性は、演奏レベルの向上を追い求めた結果、リスナーを置いてけぼりにしてしまった面があることも否めないコンテンポラリージャズの複雑怪奇な進化が、ここ最近になって若い音楽家によって見直されていることとリンクしているように僕は強く感じている。それは、ジャズを学んだ音楽家による、ジャズの技術を活用したポップミュージックの実践といっていいのかもしれない。直接ジャズシーンと関係のない*3ミナスのアントニオ・ロウレイロたちももれなくその中に入るといっていいだろう。

現代の世界のジャズシーンでその代表例を挙げるなら、上原ひろみがいる。彼女はジャズの伝統を正統に受け継ぎながら、リズム面でもアントニオ・ロウレイロと同じように*4先端のジャズの実験(変拍子ポリリズムの実験)を行いつつ、相当に難易度の高い奇想天外な曲を演奏しているのだが、それをポップに聞かせる天才性と天真爛漫なタレント性で世界の人々の心をつかむことに成功している。
ほかに、アントニオ・ロウレイロの音楽のように歌とアンサンブルと即興が豊かな関係で結びついている音楽の例としては欧米の音楽家では下記リンクを参照頂きたい。題名は「ジャズとブラジル音楽、そしてミナス」だが、「歌とアンサンブルと即興」という面でも読み解けるものがあるように僕は感じている(ボーカルがない音楽もあるが、楽器によるメロディの演奏も「歌」と捉えてみることもできるだろう)。
http://diskunion.net/latin/ct/news/article/1/39430

さらに、日本においても「歌とアンサンブルと即興」の関係性が豊かな素晴らしい音楽があることを僕は指摘しておきたい。
たとえば、前回取り上げた二作と同じくこれも2012年リリースなのだが、ジム・オルークプロデュースの石橋英子「Imitation of Life」がある*5(ちなみにこの曲の終盤近くに入っているフリーキーなサックスはフリージャズ奏者の坂田明です)
このアルバムも現代的にプログレッシブな音楽だと僕は感じるのだけれど、アルバムリリース時のインタビューで、彼らにとっての「プログレッシブ」という言葉の持つ意味について以下のような発言をしている。

ジム「でも、〈プログレ〉と言っても、イエスとかそういうのじゃない。いろんなハーモニーができて、いろんなリズムができて、曲で何を使うか限定しない。それが私のプログレの意味です」
石橋「うん。本当の意味での〈プログレ〉って型にはまったものじゃなく、いろんな可能性を試すっていうことだと思うんですよ。そういうことは、アルバムを作っていきながら段々意識していったのかもしれない」

http://1fct.net/archives/3832/

アントニオ・ロウレイロをはじめとした、ポップであることに意識的なジャズミュージシャンにとっても、プログレッシブという言葉は、この二人と同じ意味をもっているのではないだろうか。

・まとめ
2012年あたりから、アメリカ、ブラジル、日本の、一見別々にみえる音楽シーンで同時多発的に、複雑なリズムとアンサンブルを凝らしたポップな音楽が誕生し、それらの音楽は、どこか根底が通じ合っているかのように感じていた。それは、アメリカのジャズやポップミュージックと南米のラテン音楽が相互に影響を与えてきた中で、日本という第三の国も独自にそれらの音楽を吸収してきたことが基盤となって発生したといえるのかもしれない。だからこそ今回、ロウレイロと日本人音楽家との素晴らしい共演が実現されたわけだし、前エントリーで紹介した挾間美帆のような音楽家が活躍しているわけだ。
さらに、ネットワーク技術が発展し音楽データが溢れ、もはや新しい音楽など必要ない、とさえ感じてしまいそうな現代において、音楽の新たな「ポップ性」を求めて、今までジャズの世界を中心に高度に発展してきたリズムや和声が、世界各地のジャズ周辺の音楽家によって見直され、その成果を取り入れたサウンドが、次々と生まれているかのように僕は感じている。
2013年の今、ジャズを学んだ世界中の音楽家によって、たくさんのプログレッシブなポップミュージックが生まれようとしているのではないか?、そのように僕は直感し、期待している。

*1:世界音楽の本 5.2.1 輸入ジャンルの「日本化」の諸相 より

*2:ちなみに日本で人気のある、ミルトン・ナシメントエルメスト・パスコアール、エグベスト・ジスモンチの場合は、欧米で発掘された後に日本へ紹介されたようだ

*3:ついに最近、ロウレイロはNYのジャズミュージシャンたちと交流をもったようだ

*4:といっても、上原の音楽性自体はロウレイロとそれほど類似していない。彼女の音楽のリズムは自分には過去のプログレッシブロックそのもののリズムの発展ヴァージョンのようにも聞こえる

*5:きりがなくなるが、ほかにはコトリンゴ、ものんくるを挙げておきたい

アントニオ・ロウレイロと挾間美帆 次世代の新たな才能  −ラテン音楽とジャズの共犯関係

  • Introduction

去年の年末にアントニオ・ロウレイロの2ndアルバム「So」と、挾間美帆のデビューアルバム「Journey to Journey」にほぼ同時に出会った。かたやブラジルのミナス地方の86年生まれの若手音楽家の壮大なソロ作品。かたや日本の音楽大学卒業後にアメリカの音楽大学へ留学し、在籍時にメンバーを集めて製作した86年生まれの女性作曲家によるジャズオーケストラ作品である。僕は二人の新しく瑞々しい才能に圧倒されたと同時に、両作品があわせもつシンクロニシティに驚いた。2012年末の同時期に同年代の音楽家が与えてくれた衝撃。はじめて両作品を聞き終わった時、それらの音楽内容にはいくつもの共通するものがあると直感した。そして、夢中になって聴きつづけているうちに少しずつ何かが見えてきたように思えてきたので、今回このように文章でまとめてみようとブログを開設してみた。
それでは、僕が感じたシンクロニシティを箇条書きにすると以下の4点にまとめることが出来る。

1:リズムを捉える解像度が高い
2:アコースティック楽器を基調とするラージアンサンブル
3:複数の楽器が奏でるリズムが同期しながらポリリズミックに複層的に堆積している
4:アンサンブルのコンポジション(作曲)が、複雑なのに圧倒的にポップに表現されている(なのでジャズ好き、ブラジル音楽好きに関わらず、多くの人に気に入ってもらえる作品だと思う)


1の解像度の高いリズム感はここ20年ほどのコンテンポラリージャズ界の音楽家にとって必須の能力である。それはジャズの歴史における、ラテン音楽(ブラジル、キューバプエルトリコ、メキシコ音楽など*1)、そしてそれら全ての音楽のルーツとなるアフリカ音楽との関わりの中で発達してきたものだといえる。40年代にキューバ音楽、そして60年代にブラジルのボサノバはジャズに豊かなリズムのバリエーションをもたらした。そして、60年代末に誕生するジャズミュージシャンが生み出したフュージョンと呼ばれる音楽も、ロックとファンクと同時にラテン音楽の影響を大きく受けている*2
ジャズとラテン音楽は歴史上常に共犯関係にあるのだ。この共犯関係が継続されてきたからこそ、アメリカのジャズにおいてリズムの細分化が進んだのだといえるだろう。そしてさらにその成果がルーツとなる地へフィードバックされ続けたことで、Milton Nascimentに続いて、現代において再びブラジルのミナス地方からネクストレベルの音楽が誕生したのだと考えてもいいのかもしれない。

  • コンテンポラリージャズのリズムの実験

ロウレイロと挾間の話題をするうえで、もう少しリズムの話題を続けていきたい。細分化された解像度の高いリズムを用いたコンポジションは、コンテンポラリージャズの創作上で様々な音楽家によって実験がなされてきた。より具体的に説明するならば、それは微分的リズム(アフロポリリズム=複数の拍子の同居)と、積分的リズム(変拍子)をいかに同時に成り立たせながら作曲とアドリブを行うのか?という実験である。しかし、それは主にコンボの小編成の演奏でなされていたものが数を占めていた(それと比較し数少ないと思われるラージアンサンブルの例は後述する)。コンテンポラリージャズのテーマの内の一つは「複雑なリズムコンポジション上でいかにアドリブを行うのか?」という事なのである。
たとえばここでHerbie Hancockに可愛がれ、最近では巷で大人気のRobert Glasperとの交流もあるアフリカ人ギタリストLionel Louekeトリオの演奏を聞いてみよう。この曲は6+7の13拍子の変拍子とみなせるが、テーマ後のアドリブ部ではそれと同時にポリリズムも発生している。具体的には1:41からギターソロが開始するとき、ベースが13拍子を2倍に細分化した26のビットマップを、9に分割(厳密には3連符×8回+2連符×1回=26)して演奏することで、13拍子との関係の中でポリリズムが生じているのだ。更に演奏全体を通して聞くと、ギター、ベース、ドラムの三人は、その26のビットマップを共有しながら、自由自在にアクセントのポイントを変化させ複層的にリズムを重ねていること、特にLionel Louekeのリズム感覚は驚異的であることが分かるだろう。アフリカ人だからこそ、という事はあるにしてもここまでのリズム感を持つ音楽家はなかなかいないと思う。

また、シンクロニシティ1と3に関して、ポリリズミックな大編成バンドといえば、昨今を代表するものでは菊地成孔氏主宰のDCPRG*3があるじゃないかと思われるかもしれない。しかし、ロウレイロと挟間の作品とDCPRGが異なるのは、DCPRGではほぼリズムしかコンポジションを行っておらず、メロディと和声のコンポジションが行われていない点にある。DCPRGポリリズムファンクバンドであり、そのコンポーズされたポリリズム上でいかにアドリブを行い*4、フロアをトランスさせながら躍らせるのか?という事が主なテーマとなっているのだ。
DCPRGの複層的リズムをまとめるならば、主に
・3と4(Playmait at hanoi)
・4と5(構造1)
・4と7(Circle Line)
の2つの拍子が同居したポリリズム*5、または、基礎ビットマップを共有しない恣意的でカオティックなポリリズム(Catch22)になる。

  • ロウレイロと挾間の音楽の革新性と音楽教育

前置きが長くなってしまったが、それでは、ロウレイロと挟間の作品の何が新しいのか?という問いに答えるならば、それは複層的にリズムを織りまぜたコンポジションから産まれ出されるアンサンブルの、その圧倒的なポップ性という事になる。両作品の、変幻自在な変拍子上で複層的にリズムを編み出しながら構築・展開されていくその流麗なアンサンブルの響きは、全く新しいものだと僕は感じている。

元々アフリカ音楽のポリリズムは打楽器のアンサンブルによって演奏されたものであり、James Brownが発明したファンクの細分化された16ビートも和声が停滞すること(コードが一発)で生まれたものであった。しかしロウレイロと挾間の音楽では、そのポリリズムや細分化された変拍子のリズムの民族性の上で、西洋音楽発の和声進行を伴うアンサンブルが組み上げられているのである。

この複雑なリズムのコンポジションを可能にしたものは、単なる個人の才能のみではなく、両者とも正規な音楽教育を受けてきた事と大きな関係があるだろう。日本とアメリカの音楽大学で教育を受けた挟間のこの作品はアメリカの音楽大学でメンバーを募って製作されたものだ。今やアメリカでは、ジャズとは昔のように現場だけでなく、学校で教育を受け、その後指導するものとなっており、上記のリズム(微分的、積分的リズム=ポリリズム変拍子)の研究と創作が多くなされているのだ。きっと挟間はそこで様々なリズムを用いた作曲を学んできたのだろう。

また、幼いころから様々な楽器を操りミナスの大学で音楽を専攻したロウレイロの作品も、大学で多才な仲間たちとともにずっと音楽を製作してきた成果の結晶となって産み出されたものだ。これはミナスには歴史的に豊穣な音楽の土壌があるのに加えて、流通やインターネットを通して、リアルタイムにアメリカのコンテンポラリージャズや世界の音楽に触れ大学の仲間たちとともに消化してきた結果なのだろう。実際、インタビュー*6によるとロウレイロはKeith JarrettBrad Mehldau、The Bad Plusといった昨今のジャズミュージシャンや、クラシックで変拍子を多用したストラビンスキー、さらにアフリカ音楽など、様々な世界の音楽の影響を受けたようだ。もちろん流通とインターネットさえあれば、日本でもどこでも世界中の音楽を聴くことは可能ではある。しかし、ラテン音楽とジャズは共犯関係にあるからこそ、ミナスの彼らはアメリカのコンテンポラリージャズを自らの土着の音楽の中へ独自に咀嚼・消化・成長させることができたのだろう。
ロウレイロのリズム感覚についてここで説明すると、2ndアルバムSoの一曲目の導入部は、4/16と5/16拍子を組み合わせた、細分化された怒涛の変拍子*7であると同時に、メロディーとベースラインの拍の取り方の解釈が多様にできるのである*8。これも細分化された変拍子ポリリズムが同時に成立したリズムだといえるだろう。

  • 次世代のアコースティックアンサンブル

もちろん、ジャズの歴史の上でロウレイロや挟間の前にも、細分化されたリズムを用いたラージアンサンブルのバンドはあった。しかし、00年代半ば以降にこれといった作品はあまり出ていないのではないかと思う*9。たとえば、ジャズフュージョンとブラジル音楽を融合させ、細分化されたリズムを用いながらギターとシンセサイザーによるオーケストレーションをポップにコンポジションしたバンドとしてPat Metheny Group(PMG)がある。いうまでもなく世界最高峰の技術を持つミュージシャンが集った、世界的に成功したバンドである。しかしPMGは2005年のThe Way Upにおいて、白人側からのジャズ・フュージョン史への一つの総決算的な回答をした後に新作を出すことができない状態になった*10。ここから予想するに、ギターとシンセサイザーを用いたラージアンサンブルはPat MethenyLyle Maysの中ではひとまず区切りがついてしまったのだろう。
正直に言えば、僕は2008年前後からアメリカのコンテンポラリージャズを追うのをほとんどやめてしまっていた。今振り返ると、その原因の一つには、Wayne Shorter*11の活動がカルテットのみになり、PMGが総決算的な作品を出し、Michael Brecker*12白血病で若くして死んでしまった後に、トレンドとなるようなラージアンサンブルの作品がなかなか生まれてこなかったことがあるように思える。
その中で、2012年末に両作品のアコースティック楽器を基調にした次世代の音楽の響きを聴いて、僕はアコースティック音楽の可能性がまだまだ失われていないことに興奮したのだった。
彼・彼女らの音楽は80年代のWynton Marsalisによるアコースティックジャズ(モダン)への回帰とは全く異なった、次世代による革新的なアコースティックアンサンブルなのだ。

  • 二人の今後

アントニオ・ロウレイロはこの夏日本に来日し、鈴木正人(ベース)、芳垣安洋(ドラム)、佐藤芳明(アコーディオン)と共演するようだ*13。東京のジャズシーンを中心に幅広く活躍しているこの三人との共演は楽しみである。また、さらに9月にはNYの若手有望株ギタリストMike Morenoと共演するらしい*14。70年代におけるMiltonとHerbie HancockWayne Shorterの共演のような出会いが再び起こるのは、両者の音楽の親和性から考えると必然だろう。そう、きっとそれは必然であり、これからきっと何かが起きるに違いないと僕は期待したくなってしまっている。
挟間美帆に関しては、僕は今年の1月にジャズ作曲家宣言と題された東京オペラシティー・コンサートホールでの東京フィルハーモニー交響楽団山下洋輔による彼女がコンポジションした楽曲の演奏を聞き、これ以上ないほどの衝撃を受けた。既に巨匠の風格さえあるようなコンポジションであった。作曲家としての活動は演奏家としての活動と異なるため、予想はしにくいが、今後彼女がどのような活動を繰り広げるか大変楽しみである。

ソー

ソー

ジャーニー・トゥ・ジャーニー

ジャーニー・トゥ・ジャーニー

*1:日本においてラテン音楽は一括りでみなされることが多いが、アメリカ以南のカリブの島々の音楽と、南アメリカ大陸各国の音楽の多様性については本来慎重に区別されるべきである

*2:プログレッシブロック、クラシック(現代音楽)、ミニマル音楽のリズムとの関係もあるのであろうがここではおいておく

*3:ここでは菊地氏の別バンド、ペペトルメントアスカラールについては言及しない

*4:よってこの面ではアメリカのコンテンポラリージャズと同じである

*5:しかし再結成後の新ドラマーの田中氏はそれらの曲にもう一つの新たな拍子を加えている時があるように僕はライブで感じた

*6:Latina 2013年1月号

*7:変拍子というと4分音符単位や8分音符を足し引きしたものが多いが、昨今のコンテンポラリージャズにおいては更に細分化し、16分音符を足し引きした変拍子が多用されている

*8:もう少し詳細に説明すると、0:00から示されるピアノが奏でるメロディとベースラインの2つのリズムの関係だけで既に複層的なのだが、そのフレーズが再び7:33からパーカッションが加わりながら繰り返されるときに、より複層的になっている

*9:Maria SchneiderDjango Batesなどの素晴らしい作品はあるが(といっても不勉強ながら僕はMariaの音楽は噂ばかりを聞くのみで未聴です。ごめんなさい)、やはり大編成バンドの運営の困難さからしても、数は少ないのではないだろうか。何かお勧めがあれば是非教えていただきたい

*10:現に、定期的にリリースされてきたアルバムが2005年以降沈黙状態となっている

*11:95年の「High Life」、03年の「Alegria」はジャズ史に残るラージアンサンブル作品だと思う

*12:Michael Breckerはコンボスタイルで細分化リズムとメカニカル無調フレーズを追求したコンテンポラリージャズサクソフォン奏者の第一人者である。そのリズムスタイルを15人編成へと応用したバンドを結成してアルバムを03年に発表したが、その後白血病を発症し、闘病生活後07年に亡くなった

*13:http://www-shibuya.jp/schedule/1308/003962.html

*14:http://www.mikemoreno.com/shows.html#nav