メモ/ランダム

memorandum || (memory / random)

Antoine Beuger 『Konzert Minimal』

 
この音楽は、12のアコースティック楽器の持続音と沈黙のみによって演奏されている。ただそれだけだ。しかし、そこには驚くほどに情報量が豊かな楽器の音色、そして、問題提起でみちている。
 
John Cageの、かのあまりにも有名な「4分33秒」は、楽曲中に楽器を全く演奏しないことで、私たちが普段音楽をきいている際に無視してしまっている環境のノイズを浮かび上がらせ、そして、それは音楽になりえるのだと提示した。しかし、コンセプトなどの事前情報を知らない状態で、4分33秒」を鑑賞した場合、能動的にそれらのノイズを「音楽」としてきこうとする者は極めて少ないだろうと思われる。きっと、いつ演奏がはじまるのかと疑問に思ううちに4分33秒が過ぎてしまうだけだろう。それに、もし、4分33秒」のコンセプトを知っている場合でも、そこできくことのできる音は、その演奏会場で偶然に発生するノイズの恣意性にしかすぎない。
 
極端なまでのミニマリズムを志向しているというWandelweiser(ヴァンデルヴァイザー)楽派のAntoine Beuger(アントワーヌ・ホイガー)によるこの作品は、起伏のない持続音と種々の楽器の響きの重なり合い、そして、沈黙によって演奏されている。ここで、本作品で用いられるこの沈黙は、「4分33秒」の演奏しない状態の役割と、全く異なっている。この作品での沈黙は、音が響く状態とのコントラストを生じさせ、楽器の響きを如実に浮かび上がらす。これによって、この音楽のきき手の意識は、否応にも楽器の多彩な響きのテクスチャー(肌触り)に向かうことだろう。そして、その中には、様々な管楽器の息の掠れ、弦楽器の摩擦の掠れ、そして、それらの重なり合いによるうなりが豊かに響いていることに気が付く。持続音とはいえ、それらは決して均質に響いてはいない。
 
これは、この作品で用いられる楽器が全てアコースティック楽器であることによってなしえられる。持続音を生じさせるための管楽器の呼吸の循環、弦楽器の弓の往復の循環はともに、人間の身体を用いる限り、不可避的にずれやゆらぎを生じさせる。
 
持続音は表面をなぞれば線の運動といえるが、その運動を駆動しているのは、このような呼吸と身体の循環運動、または回転運動だといえる。
 
例えば、サイン波の持続音を、完全な球体がフラットで摩擦のない平面を回転しながら直進する運動としてみよう。そうすると、本作品のアコースティック楽器の持続音は、道行く先を車輪で走る際に身体が感じる振動のようだといえるだろうか。どんな道にも少なからず凹凸があり、車輪との接触では摩擦が生じ、また、車輪を駆動する力(例えば、漕ぐ力やアクセルの力)も常に均一であることはない。管楽器はマウスピースと唇との接触の状態で、呼吸というエンジンの循環によって音が響き、弦楽器は弦と弓の摩擦のなかでの腕の往復運動によって音が響く。呼吸の反復も身体運動の反復も常にわずかにゆらいでいる。そして、そこから生じる響きは二度とおなじには起こらない。
 
音には重力があり、ほとんどの音楽はその重力に対して、あらがったり、従ううちに、時が進んでゆく。例えば、わたしたちの日常に溢れるポップミュージックは、西洋クラシックのドミナントモーション(カデンツァ)の、不安定から安定状態の反復運動で成り立っている。ジャズにおいても基本的には、この運動で成り立っており、特にビバップにおけるドミナントでの高度なフレーズの繰り出しは、体操選手が床体操で飛び跳ねて技を繰り出す姿に似ている。それは、アスリート的な音楽である。技を繰り出すには、適度な助走が必要で、空中での技の後に、きれいに着地することで評価が高くなる。それとは異なり、一回飛び跳ねた後に、長い間浮いたままの状態となる音楽も多々あるだろう。
 
しかし、この音楽の沈黙から持続音への往復は、脚が地面を離れることなく、這いながら進んでは止まったりする運動のようだ。
 
それは暗闇の中で、耳と触覚をたよりにゆるやかに進みゆく、ゆきさきのみえない旅。

UN.a 『Intersecting』

 
Intersect : 交差する,相交わる.
 
現在進行形の交差、と題される本アルバムが「ジャズ&エレクトロニカのニュースタンダード」とプロモートされるのは、このアルバムが昨今世界的に活性化しているジャズ周辺の音楽への応答となっている面があるからだといえる。

澄んだ女性ボーカルによるエレクトロポップスとして多くの音楽リスナーに訴求する響きとなっている本作品に、ジャズの響きがあるとしたらどこだろう。

例えば、響きのテクスチャ。フュージョンやソウルなどのブラックミュージックで多用されるローズ・ピアノや、サックス、ウッドベースの音色。
 
例えば、音列操作。セブンスの和声進行、M1で不穏にはさまれるAugmentedコード。サックスのフレーズの半音階の動き。
 
例えば、リズム。現代版ジャズにおけるビートの進化は主に、ポリリズム変拍子の導入、そしてそこから生じる訛りを指し、これらはもはや一般教養化しているといっても言い過ぎではないと思うが、本アルバムでも、M1には7拍子と5拍子の奇数拍子の移り変わりがあり、M3には5連符の揺らぎの3拍子に対し、さらに4拍子が交差している箇所があるようにきこえる。
 
ここで私は、ジャズで用いられる楽器の音色が響き、音列や和声の時間変化があり、リズム構造があるということで、この音楽も現代のジャズなのだ、と単なる普遍論を唱えることはしない。ジャンルを規定するのは、音色でも音列でもリズム構造でもなく、私たちのラべリングの欲望、所有の欲望である。
 
とはいえ、キャラメルナッツがトッピングされたアイスクリームが美味しいように、フレイバーとしてジャズがトッピングされたエレクトロニカはとても美味しい、という喜びのマリアージュを本アルバムから感じることはできる。しかし、それよりも私は、打ち込みと人力演奏の交差(Intersecting)から芽生えようとしている響きに興味がある。私は、ここに、本アルバム自身がもつ特性、昨今のジャズにおいてもあまりみられないサウンドをききとる。
 
人力とマシンのリズムの相互影響によって、ニューチャプターや今ジャズとよばれる現代のジャズにおいて人力ドラムの進化論が指摘される中、本アルバムでは、プレイヤーによるドラム演奏はなく、人力リズムの揺らぎのグルーヴは感じられない。その代わりにリズムは打ち込まれ、電子音、ノイズがステレオ空間をあらわれてはきえゆく。そこには、生ドラムでは生じえないグルーヴがある。
 
そのような空間の中で、生演奏の導入の割合が特に多いのが、M1である。ローズピアノのやわらかな和声がボーカルを彩り、エレクトリックギターはボーカルに対してカウンターのようなメロディを奏でたりしている。低音はエレクトリックベースが支え、5拍子の躍動的なグルーヴを作ったり、ビートが控えめな箇所ではメロディアスになったりしている。これらの生演奏は機械的なバッキングをすることなく、ボーカルのメロディに対して、有機的に絡み合っている。それは最初に指摘した面も合わせてジャズ的ではあるが、さらにそこに共存する電子音の数々は、ジャズとは別の何かにたらしめている。
 
トラックに導入される生演奏のバランスは曲によってまちまちである。例えば、M2やM4などは特に親しみやすいエレクトロポップチューンとなっている反面、生演奏の割合は少ない。だが、全ての楽曲の中であらわれるサックスは、メロディ装置となっていると同時に、スケールから音をはずし、断片的なフレーズをはさみこみ、それはフリージャズ的なソロであるという以上に、本アルバムに通奏して不穏さをあらわす。特に、M5において、サックスのメロディの半音階の動きは、調性の希薄なウッドベースのラインとともに、ドローンの曖昧な世界をよびだす。
 
反対に、ときに曖昧にうつろいゆく音世界になっても、本アルバムがポップスと聞こえる強度をもたらしているのは、ボーカルの透明な声色とメロディだ。M8の途中で曲が切断され、ウッドベースとビートのアブストラクトな世界になるなかで、ボーカルがもう一度メロディの世界を誘い出す。
 
エレクトロニカとジャズとクラシック、ポップスと実験、人と機械、具体と抽象・・・など幾層もの交差が生じている本アルバムは、様々な角度から照射することで、影響関係などを露わにする事はある程度可能だとは思うが、交差から新たに芽生えるものは、既存の価値観で捉えようとしても、多くは影となり残されたままになるだろう。本アルバムの魅力はそのあいまいな影のうごめきにあらわれていると私は思う。

Streifenjunko 『Sval torv』/電子楽器の思想が管楽器奏法にもたらしたもの


streifenjunko.bandcamp.com

1曲目の、静的なドローンでもありメロディでもあるかのような響きをきいて、どのような楽器から音が生じていると想像するだろうか。もしかしたら、電子楽器やエフェクタによる音の操作が行われていると感じる人もいるかもしれない。しかし、この演奏は2本の管楽器のみで行われている。録音のためのマイクロフォンが微細な音を捉えるのみで、電子的な音の加工は一切なされていない。

Streifenjunkoはノルウェー出身のトランペット奏者Eivind Lønningとテナーサックス奏者のEspen Reinertsenによる2本の管楽器のみによるduoである。ここできくことのできるのは、通常のクラシックやジャズでもちいられるこの2本の管楽器から一般に想像できる響きからは程遠い音色である。西洋クラシックでよい発音とされる整数次倍音を強調した音色でないのはもちろん、ジャズのざらついたニュアンスもない。

彼らの立ち位置は50年代末から登場したフリージャズの系譜、特にDerek Baileyに端を発するヨーロッパのフリーインプロヴィゼーションシーンの流れから捉えることができる。しかし、その演奏はフリージャズといえば多くの人が思い描くであろう、乱雑さや轟音の快楽性からは一線を画している。マウスピースへの息の過入力によるノイズ発生装置としての管楽器の用い方を彼らはしていない。

乱雑であったりノイジーなイメージを抱かれがちなフリーインプロヴィゼーションシーンにおいても演奏の変遷の歴史がある。特に近年になると、音数を減らし静寂に耳をすましながら、ノイズ発生装置というよりかは音響発生装置として管楽器を駆使する奏者があらわれる。Michel Doneda、John Butcher、Axel Dörner、Xavier Charleなどがその例としてあげられる。彼らは管楽器の特殊奏法によって繊細で多様な響きをつむいでゆく演奏家である。そして、Streifenjunkoの2人はこの彼らの系譜にいるとみなすことができるだろう。しかし、そうとはいえども、この演奏をきいてしまうと、Michel Donedaらの演奏には静寂の中にも音の自由な羽ばたきがあることに気づかざるをえない。それに対して、Streifenjunkoの多くの演奏はより徹底して静的に響いている。

2本の管楽器がそれぞれロングトーンを持続して響かせながら、呼吸とアンブシュア(マウスピースをくわえる口の形や力)をコントロールし、ゆったりとしたうなりを発生させたり、音をひずませる。そして、吐く息が、リード、マウスピース、管内、ミュートの間をこぼれたり、かすれては過ぎ去ってゆく。また、サックスのキーを押さえるときのタンポンの打音や、トランペットにおいても点描される音があり、極小音の打楽器のように管楽器を使用しているともいえる。

2本の管楽器による明滅しあう音響。

持続音を発生させるとき、彼らは響きの微細な変化をききながら、呼吸、口腔、そして手によって静的な制御を行い、それによって音色をゆっくりと変調させてゆく。その制御は、たとえば、電子楽器のフィルタやLFOなどのつまみをゆっくりとまわして音を変調させる制御方法に近いように私は思う。電子楽器の発する音をききながら、手でエフェクトを調整して響きを変化をさせるかのように、管楽器にむかいあっているかのようである。

管楽器奏者がこのような音を発するようになるまでにはどのような過程があっただろうかと考えてみたとき、それは音楽をめぐるテクノロジの発展の歴史と大いに関わりがあるとしてみよう。

まず、作曲家、ピアニストの高橋悠治は74年に「電子楽器の思想」と題して、以下のように伝統楽器と電子楽器の違いを指摘している。彼は60年代に欧米を飛びまわりながらコンピュータ音楽に関与し、この文章を書いた70年代中盤当時は、バロック時代のバッハのフーガの技法パーセルの作品を、電子楽器によって演奏した意欲的な録音を残している時である。以下は彼が電子楽器の発達の過渡期の真っただ中に試行錯誤を重ねてきた中での言葉だ。

「この(引用註= 電子楽器における)操作という概念は、演奏についての伝統的なかんがえ方とは対立する面をもっている。楽器で音をだすのは、それを演ずるのであり、筋感覚に対応して、演奏者には音に対する感情移入がはたらく。発振器の音をコントロールするときは、ききながら調節するので、装置は筋肉の延長ではなく、音は演奏者の外部にある。(中略)電子的な操作は、発音の方法ではなく、きくための方法なのだ。のぞむ音を装置からひきだすのは、なれた手ではなく、敏感な耳である。」
[*1] 「電子楽器の思想」 高橋悠治著 『ロベルト・シューマン』 p140 1974年9月初出

ゴングなどの残響の多い楽器を除き、多くのアコースティック楽器(伝統楽器)は、手(時には足)の動きや呼吸を制御することで音がなる。それは、演奏家が「このような音をならしたい」と思う意志から生じる制御と、実際に響く音が直接連動するということである。この時、楽器は「筋肉の延長」として、体の一部のように扱われ、そこから発せられる音は、演奏者や作曲者の感情と容易に結びつきやすい。

しかし電子楽器に相対する場合は事情は異なる。例えば、発振器は、そのスイッチをオンした後、自分の意志とは無関係に無防備に音が鳴り続ける。または、鍵盤のついているオルガンやシンセサイザについても、アコースティック楽器のように手の微細な動きと音のニュアンスの変化が連動しにくく、ピアノよりも感情を音に乗せにくい。電子楽器においては、その「装置」そのものも、そこから発生する「音」も「演奏者の外部」にあり、さらに、「のぞむ音を装置からひきだすのは、なれた手ではなく、敏感な耳である」と高橋はいう。

このように、電子楽器を操作するとき、そこから発生する音は演奏者から離れて対象化されやすいといえる。この時、演奏者は、電子楽器が発する音を、耳を敏感にして観察する必要が生じてくる。

くわえて、この音の観察は、テクノロジの別の側面が推し進めることを、ここで補足しておく。それは、入力する音をこだまさせる「ディレイ」や、演奏した一部のフレーズを反復再生する「ループ」処理である。これらのエフェクトは、本来なら一度ならされると消えゆく音が再生されることで、リアルタイムに音が演奏者から離れて自立する。そして、「再生」といえばそもそも、20世紀初期から本格的に発達した録音のテクノロジそのものが、消えゆく演奏を保存し、過去を振り返ることを可能にした。

音楽に導入された新たなテクノロジは、音を人から切り離し、対象化するポテンシャルをもつ。そして、音の対象化は、人の音に対する意識をかえ、音のきこえかたをかえ、耳をかえる。その変化は新たな音楽が生まれる契機となる。その新しさとは、音色の新規性の追求によるものではなく、音自体をどうきくのか?という態度をもって、既存の音楽がどのようなシステムで成り立っているかを見直すことによってあらわれるものである。 

しかし、そのような変化が表だってみえるようになるには、ある程度時を待たなければならない。高橋が同論考内で以下のように指摘するように、変化はそう簡単にドラスティックには起こらないものだ。

「技術は芸術より、おそらく科学自体よりも状況の変化と、表面にあらわれない要求に敏感なのだ。芸術家があたらしい技術のもつ意味を知るのは、何十年もあとのことである。」
[*2] 同前 p137

電子楽器黎明期は、新たな音楽のありかたの模索がクラシックのアカデミズムの現場で試みられてきた。そして、60年代末になり商用の電子楽器が普及し始めると、ジャズにおいても実験が試みられ、その結果は、フュージョンと呼ばれる音楽になる。たとえば、フュージョン黎明期の70年代前半のMiles Davisや、Weather Report初期を振り返ってみてもいいかもしれない。しかし、70年代中盤になると鍵盤化されるシンセサイザはピアノの進化系となることで成熟する。その成熟化は、電子楽器を従来のオーケストレーションやアレンジの延長線上で用いることを容易にした。しかし、そのようなテクノロジの使用方法は、パレット上にならべられる音色の種類が増えただけにすぎなかった。たとえば、冨田勲のシンセサイザによる音楽はオーケストラの電子音響化にすぎないといえるだろう。新たな音色は作曲のイメージを新たに膨らますことを可能にしたかもしれないし、今までにない素材の響きやリズムの目新しさを生じさせることは可能にしたが、音楽そのものがなりたつシステムを見つめ直すまでにはあまり向かわなかった。

高橋は以下のように電子楽器がもたらす新たな可能性を示唆している。

「電子楽器での操作の概念は、伝統楽器の演奏法に影響をあたえるだろう。楽器は体の一部のようにかけがえのないものではなく、その部分はとりかえられるものとなり、演奏者のエゴの表現や、音への感情移入はすがたをけし、持続する音の各瞬間に対する意識はするどくなり、特殊な個人的技術は否定されるだろう。」
[*3] 同前 p142

20世紀が終わる直前の00年、東京においてオフサイトという演奏スペースがあらわれる。杉本拓、中村としまる、大友良英Sachiko Mをはじめとした多くの即興音楽が集うようになるその場所は、近隣への騒音問題対策のため、そこでの演奏は静かにならざるをえなかったそうだ。彼らはそのような環境の中で、音楽のありかた、もっといえば、音の発生や、音と音の関係性を、耳をすますことによって問い直しながら、演奏活動をおこなっていった。当事者でもあった音楽家、批評家の大谷能生は当時の演奏のありかたをこう振り返る。

「ベイリーによる楽器の拡張は、彼の身体に蓄えられたギター技術によって支えられている。彼の手によってギターはそれまでとは異なった連続体となるが、その変化を導く彼の手自体は、更新されることはあっても常に統合され続けている。(中略)
ぼくたち(引用註= 00年前後にかけてのオフサイトまわりにいた日本の即興音楽家たちをあいまいに指している)は、この技術を一旦括弧にいれてみた。ステージに上がり、演奏として、たとえば、アンプの電源をONにして、その後、OFFすること。たとえば、ターンテーブル上にシンバルを乗せて、それにレコードの針を落としてその響きを聴いてみること。たとえば、コンタクト・マイクで机をこすってみること。このような作業によって、ぼくたちは音と発音体とそれを扱う身体とのあいだに距離を作り、個人的な手の技術に依存しない即興演奏のあり方を模索してみた。操作の減少は、演奏を個人的なものから非=個人的なものへ、能動的なものから受動的なものへと導き、そして、その非人称的な音は、演奏者と観客両方に、いま鳴っている音の帰属先を常に疑いながら聴くことを要求する、積極的な耳のあり方について示唆するようなライブを形成するようになる。」 
[*4] 「覚えていないことを思い出すために(レコードとは何か?)」 大谷能生著 『ジャズと自由は手をとって(地獄へ)行く』 p25 2013年 

先の高橋の「楽器は体の一部のようにかけがえのないものではなく、その部分はとりかえられるものとなり、(中略)、特殊な個人的技術は否定されるだろう。」という70年代の予見は、そのまま、大谷が指摘する「音と発音体とそれを扱う身体とのあいだに距離を作り、個人的な手の技術に依存しない即興演奏のあり方」に対応してしまう。高橋の予見は約20年後の00年前後の日本の即興音楽シーンにおいてようやくあらわれたといえる。Derek Baileyの試みてきたフリーインプロヴィゼーションでは、伝統楽器を用いる限り、楽器は手の延長となり、音からイディオム(意味)を引きはがそうとしても、そこには"Bailey"という個人はどうしても音に残存してしまう。対して、00年前後にあらわれる彼らは、簡易な装置、または既存の楽器を用いながら、やろうと思えばだれでも操作できる方法によって、「非人称的な音」を響かせてゆく。そのような匿名性のある音楽は、音響的即興と呼称されるようになる。

それでは、はじめに戻ろう。Michel Doneda、John Butcher、Axel Dörner、Xavier Charleら、そして、Streifenjunkoの2人のような、従来の管楽器の発音技術とは全く異なる技術の習熟が必要な特殊奏法は、Derek Baileyと同様に「特殊な個人的技術」に依ってはいる。しかし、そこでは、音響的即興とよばれる音楽の思想を通過した響きがつむがれている。高橋が「電子楽器での操作の概念は、伝統楽器の演奏法に影響をあたえるだろう」というように、伝統的な管楽器がただ単に電子楽器の音色を真似るのではなく、電子楽器のテクノロジが音楽のありかたを問い直すことで別の演奏法がうみだされたのだといえる。その時、その伝統楽器から発せられる音は、従来の響きとは別のものとなる。

人間の吸って吐く行為が音となる管楽器は、人間の声帯の代用として捉えることができる。管楽器による音の「発生」は「発声」でもあるのだと。呼吸と声帯の微細なコントロールによって多彩なニュアンスをつけることが可能な声のように、管楽器には管楽器にしかできない音を生じさせる可能性をもつ。これら管楽器奏者たちの演奏の音のうなり、息のかすれの微細なニュアンスを、ピアノや弦楽器のような、基本的に手の入力のみによる完成された楽器で響かせるのは難しい。

最後に、Streifenjunkoの本アルバムについて特徴的な点として、メロディの別のありかたを指摘できる。1,2,曲目のゆったりとしたメロディは、アルバムを通して形をかえて繰り返される。管楽器をかすれる音の持続の微細な変化の中で、メロディはドローンのようにもきこえる。ドローンとメロディ(Jose Maceda)。または、変奏されるドローン・・・。そして、2本の管楽器からならされる持続音は複数の音程という面だけではなく、音色そのもののハーモニーとしても響いている。その静的な制御は、演奏ごとに微妙に変化し、その点では即興でもあるのだが、同時に、その響きはアンサンブルとして繊細につむがれてもいる。

*ちなみに、このメロディは彼らが参加するChristian Wallumrød Ensembleのアルバム『outstaires』(ECMレーベル)でもきくことができる。このアンサンブルグループは、「ノルウェーのフォークと教会音楽にインスパイアされ、古楽ジョン・ケージ後のアヴァンギャルドに影響を受けながら、ジャズの自由な思考により解放された多次元室内楽ECM評)http://www.nedogu.com/blog/archives/8898」と評され、ピアノ、アコーディオンと弦楽器とドラムにくわえて、この2人の管楽器奏者が参加したサウンドは、何を志向/試行/思考しているのかをとらえようとしてみてもいいかもしれない。

ラッスンゴレライによるリズム講座  基礎編

  • 前置き

この前、夜22時ころに新宿駅そばのインド料理屋さんに行ったんですね。店舗ビル7階へ上がるためにエレベータを待っていると、明らかに酔っている20代の女性がドアから出てきて、ふらふら〜としながら「ちょ、ちょ、ちょっとまって…」と千鳥足になっていると、すかさず一緒にいた別の女性が「お姉さん!」と言葉をはさんだんです。これ、明らかに最近テレビで流行っているお笑い芸人8.6秒バズーカーのネタ、ラッスンゴレライの「ちょっとまってちょっとまってお兄さん」からの引用だと分かるもので、「そっか、「ラッスンゴレライ」だけじゃなくて、ツッコミの「ちょっとまってちょっとまってお兄さん」も印象的だよな、なるほど〜」と思いました。


去年流行語大賞を受賞した、日本エレキテル連合の「ダメよ〜ダメダメ!」のように、誰もが日常の様々な場面で使用可能な言葉を極端にカリカチュア(誇張、歪曲)化する事が、ブレイクの一つの秘訣とすれば、この「ちょっとまってお兄さん」も、リズムに乗って誇張される事で多くの人の印象に残りやすく、かつ、言葉の利用シーンの汎用性も高くて、真似されやすいんだと思います。


人を惹きつけたり人の印象に残るための秘訣というのは、強力なキャラクターやネタが肝となり、その要素としては外見(ルックス)や発声の誇張があるでしょう。それらは人類の歴史における様々な儀式や芸能において重要な要素ですが、、といってしまうと、とりとめのない話になってしまいますが、時代をさっと現代に戻しまして、インターネットやモバイルの発達のために、多くの人が同じテレビ番組をみて芸能や娯楽の知識を共有する文化が衰退しつつあるこの時代のブレイクの秘訣は、瞬時に人を引き付ける強烈さにあるといえるでしょう。


日本エレキテル連合は、ネタ内の会話のイントネーションとコスプレを徹底的なまでに誇張していますが、8.6秒バズーカーのネタについても同様に、関西弁がリズムに乗ることによって、イントネーションが誇張されています。そして、2人が意識しているのかは全くわかりませんが、赤いシャツに、黒ネクタイというコスプレは、ドイツの元祖テクノユニット、クラフトワークを彷彿とさせます。彼らがクラフトワークを聞くような音楽好きなのかはわかりませんが、楽器もバックトラックも用いていないのに、彼らのリズムはテクノの様な反復性、持続性があり、過去のあらゆる歌ネタやリズムネタの中でもリズミックだと感じます。更にいうならば、彼らの別のネタのリズムからは、海外の新しいポップスのリズム感覚までもが垣間見る事ができます(こちらは次の機会に *時期未定)。


そもそも、楽器を使用する/しないに関わらず、歌/リズムネタにおける音楽の役割は、ネタの間の挿入歌であったりするなど、リズムが中断する芸が結構多いです。楽器を用いるネタの場合、古くはかしまし娘、現在の大御所ですと横山ホットブラザーズは喋りを挟みますし、楽器やバックトラックを用いない芸人の場合は、レギュラーの「あるある探検隊」、藤崎マーケットの「ラララライ」がありますが、これらも途中に寸劇がはいったりと、リズムは中断されます。そんな中で、身体のみを用い、かつ、2,3分のネタ全体がリズムをキープした「曲」になっている芸は、今までオリエンタルラジオ位しか有名になっていないと思います。オリエンタルラジオがラッスンゴレライをカバーし、8.6秒バズーカーとの共演が多いのも、誰もが分かるように両者のネタとリズム感覚の親和性が高いからですね。それではここから、8.6秒バズーカーのリズム感覚について踏み込んでいきます。聞きながら確認したい方は適当に動画サイトで検索をお願いします。

  • ボケに対するツッコミとリズムのツッコミ

ラッスンゴレライは、ボケとツッコミの反復の形式で成り立っています。これは過去の芸人のリズムネタの中でも今まであまりなかったと思います。オリエンタルラジオ藤崎マーケット、レギュラーのネタは、ボケ、ツッコミのない形式なしで、キメ台詞とリズムの勢いで笑いを取りにいきます。それらに対して、8.6秒バズーカーのこのネタには、漫才のようなボケ、ツッコミの形式が付け加えられています。
ラッスンゴレライという意味不明な言葉に対して、「楽しい南国〜」、「彼女と車で〜、」と、様々な意味(多義性)を含ませながら説明し、「ラッスンゴレライってなんですのん?」「でも、南国いうてもいろいろあるよ?」「彼女おらんし車ないやん」と、ツッコンでいき、ラッスンゴレライの意味に更に迫ろうとすると、途中からスパイダーフラッシュローリングサンダーという別の意味不明な言葉に切り替わり、それからはこちらの言葉に対して再びツッコンでいきます。
ここで、ツッコミがどのタイミングではいっているかみてみると、ボケに対するツッコミが、文字通りリズム上でも4拍子の頭に対して「ツッコン」でいます。そのツッコミにもいくつかのバリエーションがあり、以下4つ取り出してみます(「| |」の間を1拍とし、1文字が8分音符となっています(*のみ例外))。


1.1: |(せつ)|(めい)|(して)|いや|
1.2: |(・・)|(・・)|ちゃう|ちゃう|
1.3: |(・・)|(・・)|(・・)|(・)でも|  *「でも」2文字で8分音符とする
1.4: |(・・)|(・・)|(・)ちょっ|ちょっちょっ|

  • 合いの手・掛け声

まず「1.1」について。このように4拍目に言葉がはさまれるリズムは、日本特有の合いの手、掛け声的なものだといえます。このリズムは、古くから日本の祭事、儀式などでみられ、現在でも野球などのスポーツの応援や、歌手のライブなどでおなじみのものです。特に最近は、AKB48ももいろクローバーZなどのアイドル系やアニソン系のライブなど、舞台の上の少女たちに応援を捧げるオタ芸に顕著です。

  • 裏拍と「お兄さん→ゥオニサン!」の強調

そして、ネタが展開されていくなかで、ツッコミの田中は左手でヘッドホンを片耳に押さえ、右手でスクラッチという典型的なDJのしぐさをして上記「1.4」のリズムに切り替えます。このリズムは「ちょっ」が3拍目の裏から挿入され、裏拍が強調されることでリズミックになっています。
また、その後のツッコミのフレーズにも、反復されていくうちにパターンが変化していきます。ここでは以下3つ を取り出しました。


2.1:|ちょっとー|まってー|ちょっとー|まってー|おに|ーさ|ん・|・・|
2.2:|ちょちょ|・ちょっ|・と|まて|・・|ゥオニ|サン|
2.3:|ちょちょ|・ちょっ|・ちょっ|・ちょっ|・と|まて|ゥオニ|サン!|


はじめのうちは「2.1」のパターンが繰り返されます。これも表拍が「ちょっ」と跳ね、裏拍が伸びることで裏拍が強調されるリズムです。そして、ネタが展開されていく中で、「2.2」「2.3」に変わり、表拍を抜くことによって裏拍を強調してリズミックに展開され、かつ、「お兄さん」が「ゥオニサン!」と誇張されます。動画での観客の反応をみると、この箇所は特にウケていると見受けられます。漫才のようなボケ、ツッコミの形式が繰り返される中で、ツッコミをよりリズミックに誇張して変化させていくことが、ネタの最後まで観客を飽きさせずに笑いを発動させる効果になっていると指摘できそうです。
リズムの観点では、このような裏拍強調のリズムはシンコペーションと呼ばれ、今や日本でも欧米、南米のポップミュージックを通じてあらゆる音楽にまぎれこんでいますが、例えば、ジャマイカ発のスカがそうです。ぱっと思いつく中では、2年前のNHKの人気朝ドラ「あまちゃん」(音楽:大友良英)のOPにもその要素があります。

ここで、ライターの柴那典氏はラッスンゴレライのリズム分析を行い(http://shiba710.hateblo.jp/entry/2015/03/23/073000)、ツッコミの部分の4拍目の「いや」を「シンコペーション」と指摘しています。しかし、この「いや」については極めてシンコペーションと言い難いと私は考えます。シンコペーションとは、表拍(強拍。4拍子では1,3拍目)に対して、リズムが突っ込んで鳴らされ、直後の表拍が「1:鳴らされずに引き伸ばされる」「2:鳴らされずに休拍となる」「3:小さな音で鳴らされる」の3つ*1のいずれかの裏拍が強調される場合をいい、ブラックミュージックや南米音楽などが由来となって、今や日本のポップスにも日常的に用いられます。ですが、「いや」の次の小節の1拍目は、「ちょっと」と強く入っており、シンコペーションとは言えません。この部分に関しては、私が先ほど説明したように、日本的な掛け声のリズムだといえます。表拍に対してツッコんでいるというだけで、シンコペーションの裏拍強調リズムと日本の掛け声のリズムは、同じリズム感覚が元になっているとは言えません。むしろ、柴氏の記事の後半で指摘している裏拍の説明や、私の説明した上記の「1.3」「1.4」「2.2」「2.3」のリズムパターンこそがシンコペーションと呼べるものです。
また、もう一つ補足しておきます。柴氏の上記記事では、「ラッスンゴレライ」を337拍子と指摘しているのですが、こちらについては、説明を単純化していると私は考えます。そもそも氏が7と指摘する「|ラッ|スン|ゴレ|ライ|説|明|して|ね|」は、誰もが数えればわかると思うのですが8です。ただ、全く337拍子ではないかというと、そうではなく、その特徴はあるといえます。それは、私が今まで説明したように、4拍目に「いや」が入ったり、こちらは柴氏も指摘していますが「フー!」と掛け声が入る所にあります。

細かい話だと感じる方も多いかと思いますが、柴氏の説明では「シンコペーション」の指摘箇所をあやまっており、337拍子の指摘も不十分です(実際8なのに7と指摘してしまっている)。リズミックなシンコペーションはツッコミの「いや」にではなく、他の箇所の裏拍強調リズムに、そして、その「いや」は4拍目に「掛け声」として入っており、むしろこちらを337拍子的だと捉えるべきでしょう。柴氏の指摘では、日本的なリズムとシンコペーションを混同してしまい、両者の特徴の違いを見えにくくしてしまっていると私は考えます。今や、日本のポップスにおいて掛け声のリズムとシンコペーションのリズムが両立するのは普通の感覚ですが、本来は別々の文化由来です。どの箇所がどちら由来かが分かると、例えば日本の音楽がどのように海外の音楽から影響を受けてきたかがより鮮明に見えてくると私は思います。
そして、8.6秒バズーカーのネタがリズミックに聞こえることの説明は、シンコペーションと掛け声のリズムのみの指摘ではまだ不十分です。

  • 16分音符のツッコミ

このネタでは、1拍が4分割され、16分音符の細かさで刻まれています。そして、その細かさの中でのリズムのツッコミもあります。それは、出だしの「ラッスンゴレライ」のフレーズから既にあらわれています。具体的には、以下の「3.1」のように捉えられます。上記と異なり、ここでは1文字分が16分音符となり、4文字で1拍となります。


3.1: |ラッスン|ゴーレ「ラ」|イ・・・|(フー!)|


また、以下リンクで桂文枝(ex.新婚さんいらっしゃい!)が彼らと共演しています。

https://www.youtube.com/watch?v=B_zH7rvPZqk


なのですが、師匠のここのリズムの取り方が少し違うことに気が付かないでしょうか。
実際には以下のようになっています。


3.2: |ラッスン|ゴーレー|「ラ」イ・・|(フー!)|


3.1と3.2を比較すると「ラ」の位置が違いますよね。師匠はこの「ラ」を、コンビでやっているような2拍目の4つめではなく、3拍目の頭に入れています。読んでいる方も、実際にやってみたら感じられると思うのですが、「3.2」の取り方ではリズムのドライブ感が少し失われる感じはしないでしょうか。これは、「3.2」の場合は、全てのアクセントが4分音符単位で単調にとられているのに対し、「3.1」の場合は、3拍目の表拍に対して16分音符分、突っ込んで早く入る効果があるためです。これについても、アクセントの位置が表拍(強拍)からずらされて16分音符分早くツッコんでおり、シンコペーションといえます。これは、ゲロッパ!で有名なジェームズ・ブラウンのファンクや南米のラテン音楽を由来として、現代の欧米のポップスや日本のポップスでもなじみのあるリズムです。ただ、元々日本になかったリズムなので、欧米の音楽の影響が現代より少ない時代を生きてきた世代にとっては、とりにくいリズムなのでしょう。

  • まとめ

ここまで、所謂リズムの「ツッコミ」の観点から彼らのネタのリズミックさを説明しましたが、私はまだ彼らのグルーヴ感覚を指摘しきれていなく、今までの説明は基礎編となります。これらのリズムは比較的新しいとはいえ、オリエンタルラジオには該当しますし、日本のポップスにおいても今や特に珍しいリズムではありません。私は、彼らの別のネタから、海外の新しいポップスにあらわれているリズム感覚を読み取ります。キーワードは「伸縮」です。ダイジェストにまとめると、これは元々人間の身体に備わっている感覚であるのですが、音楽の体系化、機械化、産業化によってポピュラーミュージックの内では抑圧され、ここ最近になって、海外のポップス(ex. Arca, FKA Twigs)にみられるようになった感覚です。次回の機会があれば発展編として説明したいと思います(時期未定)。また、この長文をここまで読まれた方はきっと音楽やリズムに興味のある方かと思われますが、本ブログの他のエントリーで、これらのリズムに関連のあるNew Chapterや今ジャズと呼ばれる近年の新しいポップなジャズにみられるリズムの解説を行っており参考になると思うので、お時間があれば、覗いてみてください。
MadlibのトラックからNew Chapter系/今ジャズ系のリズムを解説する試み http://d.hatena.ne.jp/Blackstone/20141001
Arca 融解するビート/現代のリズムの揺らぎ http://d.hatena.ne.jp/Blackstone/20141214

Ricardo Moyano x 笹久保伸

2015/2/7 Ricardo Moyano x 笹久保伸 Guests : Miho & Diego Duo 、5歳くらいの女の子 @三軒茶屋 KEN

ペルーでアンデス音楽を学び、現在は埼玉で秩父前衛派として活動しているギタリスト笹久保伸と、アルゼンチン出身のギタリストRicardo Moyanoのコンサートへ。リカルドさんについての前知識は全くなかったのですが、笹久保さんが最も影響を受けたギタリストの中の一人とのことで、熱のこもった告知をツイッターで確認し、気になって向かいました。満員御礼の会場の中、1stセットは、前半を笹久保さん、後半をリカルドさんが別々にソロを演奏。2ndセットから共演が始まりました。以下、リカルドさんのソロから書いていきたいと思います。


リカルドさんのソロがいざ始まり、ギターでシンプルなイントロを奏でる中、静まり返った地下会場には遠くから救急車のサイレンがかすかにこぼれました。演奏の邪魔になるほどではない静かな音量です。すると、リカルドさんはサイレンの音に歩みより、この音を演奏の一部に溶け込ませるように共演してみせました。あからさまにサイレンの音に合わせた場合、客席から笑い声が生じることも十分にありえたと思いますが、気が付かない人もいたかもしれないほどのサイレンの小さな音量と、それに対してさりげなく共演してみせることで、そうなることはありませんでした。静寂の中、耳を繊細に澄ましながら、柔軟にユーモアを発揮してしまう姿を目の当たりに出来たこの瞬間は、演奏開始直後ではありますが、このギタリストはただ者ではないと確信するのに、ささやかかつ十分なハプニングでした。



リカルドさんは簡単な曲紹介をしながら、アルゼンチン、ブラジル、コロンビア、メキシコ、プエルトリコ、そして、現在在住しているトルコ(ロシア経由での来日だとか)の楽曲を演奏していき、寡聞にして私にとっては一曲を除いて聞いた事のないレパートリーでしたが、どの楽曲もきっと現地のスタンダードな歌謡だったり民謡なのではないかと思います。南米の各国からカリブ、そして中東へ旅をするかの演奏であると同時に、1本のギターによって各国の景色が連続して結ばれていくようでした。



この印象は、リカルドさんのリズムアプローチからもう少し具体的に読み解けると感じました。リカルドさんの演奏は各地のリズムがともに溶け込んでいるかのようだったのです。そのリズムは、ラテンのクラーベを基調としつつも、均質なパルスの上に刻まれるというよりかは、演奏の呼吸に合わせて自然な緩急がつけられるうちにへんげしていくようでした。たとえば、3+3+2(=8)の不均等なクラーベのリズムが均等な三拍子に融け込みそうなリズムがあれば、3拍子の中に4拍子を刻んだりとアフリカのポリリズムのようになったり、不均等な5音のフレーズがモーフィングして均等な5拍子に限りなく近くなったりすることがあると感じました。また、トルコの楽曲については、2+2+3+2+3+2(=14)の7拍子と、南米とは異なり、長短のリズムを交互に積んでいく変拍子的なリズム形式で演奏されていました。


リカルドさんのギターは、実際に楽曲として演奏された南米、カリブ、中東のリズムに加えて、それらの音楽と歴史上接触のあるアフリカや欧米のリズムが、一本のギターの呼吸の中に溶け込んでいるかのように響いており、リズムというものは、各地で独自にスタイルが形成されながらも、文化の接触の中で相互に影響を受けあい、伝播していくものだと強く感じました。


音色について。笹久保さんのギターは、明るく、力強く、若さを感じる響きであるのに対して、ラッカー塗装が若干剥げているリカルドさんのギターの音色は、年季と同時に円熟さを感じる響きでした。


また、笹久保さんの演奏は、素早いアルペジオやトリルのなかに土着のメロディーが浮かび上がり、その中で奏でられるベースラインはメロディと一体化するようなのに対して、リカルドさんのギターはメロディと、伴奏、ベースラインが綺麗に分離していると同時に、これら3要素が統合されているように響いていると感じました。この違いは、笹久保さんの演奏楽曲が比較的古いアンデスの土着の音楽なのに対して、リカルドさんの演奏する楽曲は、もう少し近代の、通奏低音と和声と旋律で構成されるバロック以降の西洋音楽の影響を受けている度合いが高いからなのではないか、と印象をもったりしました。



ギター一本から奏でられているとは信じがたいリカルドさんの演奏は、例えば20世紀初頭の伝説的ブルースギタリスト、ロバート・ジョンソンにも感じることができますが、リカルドさんのギターは、それよりも、ラテン化、超絶技巧化されているようです。また、ロバート・ジョンソンのソロギターは、アフリカのポリリズム的要素と同時に、自由に一拍伸縮したりする変拍子的要素もありますが、これは無自覚に演奏されたものであり、アフリカと中東のリズムが融合したとははっきりといえるものではなく、偶然の産物だといえます。それに対して、リカルドさんの演奏は、各国の音楽を学び、それぞれのリズムが体に染み込んだうえで、自然と各国のリズムが一体化しているように感じました。


そのほかには、ギターの3弦目を指板の外にひっかけて、プリペアド風のパーカッシブなアプローチと同時にメロディを奏でる演奏も白眉でした。


2ndセットから、笹久保さんとの共演がはじまりました。リカルドさん曰く、「練習すると本番でやるきがなくなってしまう」そうで、ハプニングを大事にしたいとのことです。このため事前に2人で演奏する曲のリハーサルや打ち合わせはしなかったようです。その中には、5歳ほどの小さな女の子(主催者の関係者の娘さん?)を招き、民謡を歌う中で2人がバックを務める演奏がありました。決して上手な歌とはいえないけれども、会場は暖かい眼差しに包まれ、微笑ましい演奏でした。


また、これも直前に決まったらしいのですが、ちょうどアメリカから来日しているコロンビア人男性と日本人女性のMiho & Diego Duoも最後のセッションに加わり、笛(ケーナ)と太鼓が加わった演奏を行いました。


笹久保さん、リカルドさんのソロ、デュオ、Miho & Diego Duoとのセッションを含め、どの曲についても聞いたことがないものだったため、どこまでが作曲されたパートで、どこまでが即興かは判断がつきにくかったです。けれども、演奏は譜面なしで行われ、楽曲は手、身体の記憶の中に刻まれ、その時その時の演奏の呼吸に応じて、メロディー、リズム、伴奏が変化しているに違いないと思わせる演奏でした。その即興の在り方は、ジャズのような半音階と自己を強調したソロではなくて、楽曲の延長線上で自由自在にその場でアンサンブルアレンジされているかのようです。


また、その場での柔軟なセッションを可能にするのは、西洋音楽平均律とコード進行のフォーマットを用いた楽曲が共有されることで実現されているといえるでしょう。この点では北米での(バロック以降の)西洋音楽と黒人音楽が融合したジャズのように、南米においてもジャズとは別の形で、西洋音楽と、奴隷として連れられた黒人と、土着の音楽が溶け込まれている。そして、現代にかけて、西洋音楽のフォーマットを用いて、即興を交えながら各文化圏の交流がなされているいえるのだな、例えば今回のように、とか考えたりしました。



アルゼンチンで生まれたのち、亡命し、スペインとフランスでクラシック音楽を学んだあと、アルゼンチンへ帰郷し南米音楽に傾倒し、そして、現在はトルコへ移住している複雑なバックグラウンドがそのまま豊潤な音楽性へと結びついているようにリカルドさんのギターは響いています。そして、彼の音からは、歴史を背負うおもみと同時に、そのおもみを跳ね除けてしまうかのようなユーモアも感じます。楽しそうにギターを弾き、共演する姿にその人柄は十分に透けて見えました。かすかなサイレンの音を演奏に溶け込ませるかのような繊細なユーモアをもって、リカルドさんのギターは、南米の、カリブの、トルコの、アフリカの、欧米のそれぞれの音楽を一つに結び付けるかのように響いています。
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Arca 融解するビート/現代のリズムの揺らぎ

2014年現在、Bjorkの次回作のトラックメーカーとして起用されたArcaは世界の音楽シーンでセンセーションとなっているようだ。それは、Arcaの音楽がこの時代の一種の空気をあらわしているからだと僕は感じる。それでは2014年の時代の空気としてどのようなものがあるのか、もう少し踏み込んでみたい。そのためにも、まずはArcaのトラックをまずは聴いてみよう。今年の11月にリリースされたArcaのアルバム『Xen』からタイトルトラック「Xen」を。

幾層に漂うビートがふと切断され、消えてはあらわれていく。時には空白になる間 に、ビートは減速、または加速し、突如と不意打ちされる時もある。そうした中で、リズムは攪乱され融解し、または、揺らぎ、ゆがみ、伸縮しているかのようだ。
複数秩序を単線上に叙述しようとすると訛る*1」とアフリカ音楽のポリリズムの揺らぎや、ヒップホップのラップのフロー(揺らぎ)について菊地成孔氏が解説するように*2、Arcaのトラックにも、通常のポップミュージックの定型的なリズム(8ビートや4つ打ちなど)を超えて、複数のリズムの秩序が多層的に配置されては漂わされ、そして切断されている。
そして、このようなArcaのトラックのリズムは偶発的にランダムにならされ、伸縮し、または一定のビートがないかのように感じられる。例えば、こちらのArcaについての論考のように(http://thesignmagazine.com/sotd/arca_mt/)、人生の時間をはるかに超えているであろう総再生時間の音楽が存在するyoutubeやBand CampやSound Cloudなどで音楽をdigる中で、ブラウザ上の複数タブから無関係の音楽が同時再生されてしまう事が時には起こってしまうような時代に、Arcaの音楽に「ひとつの楽曲のなかで複数の楽曲が同時に再生されているような、無秩序かつ不安定な、「統合された分裂」としての奇妙なグルーヴ(以上記事より引用)」があると指摘しているのは示唆に富んでいる。(ポスト・)インターネット世代は、複層的な時間間隔を持っており、それは現代のテクノロジ環境が可能にしたことなのかもしれない。
それでは、(ポスト・)インターネット世代の新たな才能、Arcaの複層的な時間感覚が、全く新しいものであるかというと、過去〜現在の世界音楽のリズムの多層性と、ある部分で関連性があるとして捉えることは可能だと僕は感じている。例えばこのタイトルトラックである。この曲の複層的なビートの各層は完全にランダムで無秩序な関係にあるというわけではなく、実は4拍子だと僕は分析する*3。そして、その断片的なリズムの根底にはアフリカ音楽のポリリズム構造がある。具体的には、前々回の記事(http://d.hatena.ne.jp/Blackstone/20141001/1412182303)で解説した「3x4のクロスリズム」「ポリがけ(12ビートと16ビートの共存)」「6連の揺らいだ5連への変容」を構造的に取り出すことが可能だ(下記付録参照)。
Arcaのビートを体感上アブストラクトに感じられるのは、このような複数の秩序のリズムが加速され、減速され、断片的に再生されては切断されるなかで、時間がメタモルフォーゼを起こしているかのように聞こえるからだ。それは、通常のブラックミュージック、その起源となるアフリカ音楽のような一定のビートが断片的にあるとしても、Arcaのトラックではタイムキープされずに切断されている故でもある。そして本トラックについてはエレクトロニクスによって生じる空間の中でアフロポリリズムが異化されているかのようである。このビートを気持ちよく感じられるのならば、それは、異化されつつも根底にあるアフリカ音楽の、そしてブラックミュージックのリズムの心地よさを感じているという事なのかもしれない。
しかし、アフリカのポリリズムが構造的に存在するという捉え方は一面的である。Arcaの他のトラックについては、BPMが変化しながら、実際に時間が伸縮している曲も多数存在するようにも感じる。未分析のため保留するが、Arcaの凄さを捉えるための分析の余地はリズム面でもまだまだ残っている。
ところでしかし、まだ余地があるとはいえ、このようなリズムの観点のみで、Arcaの魅力について指摘するには不十分である。リズム以外の視点でもみてみよう。今まで解説してきたように、Arcaの音楽は時間軸の直線上でのリズムの配列のデザインがいびつなのに加えて、得体のしれない粒子が空間内を浮遊しては融解/消失するかのような音の配置のデザイン、そして音色のデザインも、リズムと同時かつ等価にいびつだといえる。
ここで、音楽家、渋谷慶一郎によるArcaについて発言を引用してみる。

この発言に更につけ加えるならば、Arcaはビートについても時間軸を無化しかねないノイズ(非ビート)のように使っているとみなすことができる。空間と時間軸の両方で、複層的に重ねられては別々に切断される音は、空間と時間のお互いの次元を相互に侵食しあっているかのように響いている。渋谷氏の、「ピッチ(ドレミ)をノイズのように扱っている」という指摘と同様に、ビートについてもノイズに変容して空間に融解しているかのようである。または、時間を空間のように扱っているとでもいえるだろうか。

・現代の世界のリズムの揺らぎ
それでは、2014年の時代の空気としてどのようなものがあるのかという話に戻ろう。いってしまえば、Arcaの音楽が世界でセンセーションを起こそうとしているのは、大量の音楽情報が溢れ消費される中で、作る側も聞く側も新たなグルーヴを欲望するようになってきたことのあらわれといえると僕は感じる。20世紀の世界のポップミュージックは主に西洋クラシックの影響による4拍子(と少々の3拍子)が覇権を握ってきた時代だったが、少しずつ時代は変化してきていると確実に言える。これほどまでに、世界中で同時多発的に新たなグルーヴが異なる方法で生み出されている時代は今までなかっただろう。以下、最近の例を挙げていくが、自分の知らない領域があること考えれば、これらはほんの一部にしか過ぎないだろう。
例えば、ダブステップエレクトロニカなどのトラックメーカーでは、前々回解説したMadlibや、2、3年前のトレンドだとJames Blakeのトラックなどにもポリリズム構造が捉えられる。Arcaのビートはそれらよりも断片化され、細分化され、伸縮しているといえる。
または、2000年代前半にはD'angelo(なんと明後日14/12/16に待望の新作リリースだとか)、Erykah Baduを代表とするネオソウルという分野でもそのリズムは揺らいでいた。
そして、このネオソウルなど様々な現代のポップミュージックの影響を受けながら、高度で洗練化されたJazz The New Chapter/今ジャズ系のRobert Glasperを中心とする動き、特にChris Dave、Mark Guiliana、Richard Spavenらのドラマーによる複雑に拍が分割されたグルーヴ感覚。または、このダイアリーで指摘してきた、Antonio Loureiroなどのブラジルミナス派、アルメニアのTigran Hamasyan(通称ハマちゃん)、インド系のVijay Ayerなどの細かくパルスを積んでいくリズム。
最後に、日本に目をむけてみよう。90年代、アフリカ音楽のポリズムを研究し、ジャズ、プログレオルタナティブの影響を受けながら独自の音楽を追求した今堀恒雄をリーダーとするTipographicaのリズムは、現代から振り返っても人力によるポリリズム実験の一つの極北だといえる。97年のTipographica解散後、今堀恒雄はギタートリオのシンプルな構成で伸縮リズムをコンセプトとしたバンド、Unbeltipoでの活動を継続しており、このグルーヴ感覚も世界でほかに到達されていないと感じる。そしてTipographicaのメンバーであった菊地成孔ポリリズムをジャズクラブではなくダンスフロアへ移し、ダンスミュージックとしてのポリリズムバンドとしてDCPRGを活動開始させ、一時の活動休止の後、現在も活動している。また、菊地成孔の相方ともいえる坪口昌恭東京ザヴィヌルバッハは、現在、ジャズバンドのクインテットとしてのフォーマットと、打ち込みのポリリズムビートを共存させる試みとして、最も成功しているバンドだと僕は感じる。
アカデミズム的アプローチではない、インディーズ、アンダーグラウンドの領域では、以前も言及した石橋英子のようなしなやかなプログレッシブ性をもつ音楽家もいれば、脱臼しているかのようなリズムを追求したPanic Smile、skillkillsなどのバンドもある。そして、今年5月の日本のインディーズ、アンダーグラウンドバンドのフェスティバル、新宿JAMフェスで複数のバンドを聞いたが、MUSQISなど、ポリリズムを導入するなどのとても優れたバンドをいくつか確認した。
ところで、J-POPのメジャー音楽の今年のトレンドは一部の聞くところによると「4つ打ちダンスロック」であるらしいのだが、 揺らぐとまではいかなくとも、もう少しリズムの多様性を指摘することは可能である。別の機会があれば言及したいと思う。

・付録: タイトルトラックのリズム分析メモ(CDでの再生時間を参照。youtubeの再生時間で確認する場合2秒ひいて下さい)

*1:例:大阪弁の人が標準語を話す人と会話するとき、相手に影響されて、自分の話す言葉が大阪弁東京弁の中間のどっちともつかないイントネーションになる、など

*2:書籍「憂鬱と官能を教えた学校」にこの解説の詳細があったはずですが、過去友人に貸したままで手元で確認できないので、ネットで確認しています

*3:分析方法は、ネットで落とせるソフト「Hayaemon」でループを作って何回か聴く、という方法しかとっていない。再生スピードを遅くして部分的な確認も一部行っているが、このような音楽は再生スピードを遅くするとリズムは反対に分かりづらくなる。もしもどなたかDAWで波形を確認し、分析に間違いがあればご指摘いただきたい

静寂の果てに

2014/11/21 (Fri)  【静寂の果てに Ambient Version】 灰野敬二 ナスノミツル 一楽儀光 @秋葉原Goodman
静寂な暗闇の空間  3人の手元から光の花がほのかに咲いては消えていく  光は身体にやさしくふれる  照らし続ける振動は対象を揺らして粒子に溶かしていく  粒子が拡散する やがて密集し雲となっては消えていく  光が暗闇の雲の間を通り抜けて陰影をつくっては変化していく 雲はしだいに膨張し大きな唸りとなる  地面と身体を轟かせ天井との間でうごめいていく  四方から飛びかう粒子が身体全体に透過する  それは私を包み込みこんで飲み込むのではなく私自身が粒子のなかに溶けこみながらともに移動しているかのようである  一筋の光のメロディが差し込まれる   うごめく雲はいつの間にか消失し静寂をむかえる   そのとき空間は透明となっていた


『静寂』と名付けられた、従来のブルース、ロックンロールをくつがえすようなバンドの、日本のアンダーグラウンド音楽シーンを代表する3人のメンバーは、一楽がドラマーとしてのキャリアをこのバンドで終えたライブから、まもなく2年という月日が経とうとした秋の終わりに、【静寂の果てに Ambient Version】と題して、ラストライブと同じ空間で再会することとなった。一楽がドラムを引退し彼独自のサウンドシステムを手にするようになったことから、ギター、ベース、ドラムによるバンドサウンドを演奏することが難しくなった代わりに、今回は、強力なリズムを音の持続へ、音の叫びと歪みを音の響きの拡散へと転換することとなった。そのサウンドは、過去の『静寂』のサウンドとは一聴異なるものではあるが、灰野のキャリア初期からの活動、ナスノのアンビエントプロジェクトの離場有浮や先月itunesでリリースされた『Bassmanmachine』、一楽が大友良英Sachiko Mらと活動するI.S.Oなど、彼らが他の活動で志向しているサウンドを知っていればなんら不自然な響きではない。しかし、それでも想像していた以上の演奏であった。
ノイズやドローンのようなサウンドのライブでは、機材による音の増幅、拡散だけではなく、PAのスピーカーとそこから発せられる音が会場の空間内で反響することによって、音は複雑に混じりあい、うねりとなる事が多い。それは演奏者にもよるだろうが、ある程度は意図している部分もあれば、演奏者が制御不可能な効果も生じる事もあるだろう。それに、その時ステージで聞こえるサウンドと、客席で聞こえるサウンドが異なる事もあるはずだ。そして、灰野敬二の場合は、共演者や彼の使用楽器や会場を問わず、彼の発する音量はいくら大きくとも、一聴ノイズに聞こえようとも、そのサウンドは階調を豊かに描いて変化し、ステージ前のスピーカーからしか音が鳴らされていないとはにわかには信じられないほどだ。その中でも今回の演奏は今までも聴いたことがないほど、光が乱反射するかのように、音が左右の間の、天井と床の間の、前面から背後の間の、3次元の中を移動していた。それは今回の3人の演奏の化学反応の結果ともいえるが、そのほかにも通常のライブハウスでの演奏とは異なり、今回は会場の後方の左右にスピーカーを配置していることによる効果も大きかったと感じている(約2時間通しの今回の演奏で、私が会場に着いたのは開演から30分ほど経った暗闇だったためこのことには終演後に気が付いた。演奏中はその音のうごめきにただただ驚くばかりであった)。前方のステージから発せられる音を演奏者が届けて後方の客席の人間が聞く、という従来のコンサートの構図を飛び越えるような演奏を灰野は常に行っていると感じるが、今回は後方にスピーカーが置かれることによって、その効果はより直接的に増強され、そのサウンドはより豊かに複雑に絡まりあっていた。また、一楽が彼のサウンドシステムで多彩に奏でる音響は、彼がドラびでお名義で演奏するスカムさとはうって変わって繊細であり、そのサウンドを彼の手がつまみを調整することで直接左右に移動させている事の効果も大きかっただろう。そして、ナスノのサウンドはエフェクターを駆使することでエレクトリックベースという楽器を超越し、空間を轟かせる。彼らがまた再び集まって演奏するのはそう遠くはないだろうと期待している。