メモ/ランダム

memorandum || (memory / random)

ペドロ・コスタ 『ホース・マネー』

画面奥の暗闇からあらわれてはきえゆく路地の人々の彷徨。大西洋に浮かぶカーボ・ヴェルテ出身の老翁の黒い肌はリスボンの暗闇の中へと沈んでゆく。暗闇の中で変化する陰影は生と死のうつろい。

暗闇の手前でカメラは常に定点観測をしている。その微動だにしないカメラの静観は、観客を異国の貧しい移民の観察者へと強要する。 しかし、私達は観察者にしかなれないのだろうか。いや、それだけでもいいのかもしれない。映画の中で映し出される陰影は、その暗闇を読み解きたいと欲求せずにはいられないほどの描写である。

画面の中央で光に照らされる人物は、その周りの暗闇に閉じこめられている。スクリーン中心の明るみから階調を描きながら四隅へと広がるこの暗闇は、リスボンのスラム街と私たちの劇場の暗闇の空間を地続きにしているようだ。映画の暗闇と劇場の暗闇がまるで同化し、観客である私たちも映画の暗闇へ溶け込んでいるようなのである。しかし、その暗闇を通してこちらから向こうへ簡単に行くことができるのかは分からない。互いの距離は、暗闇であるがゆえに計り知ることはできないからだ。向こうまでの距離は絶望的にまで隔てられているかもしれないし、その反対にもしかしたら、すぐそこに絶望が待ち構えているのかもしれない。とはいえ、映画とは絶望するためだけに観るものではない。

老人の入院と退院。その病院は「行き先も未来もない」時空を隔てた牢獄の迷宮。 現在と過去が区別されずに、ほとんど死にながら生きている老人が、生きているようで死んでいる(もしくは、実存すらしていないのかもしれない)友人や親類や軍人と会う。そして、声をきき、会話をする。

その老人が、甥と思われる人物と一緒に故郷の歌を唄うシーンがある。そこで2人は、歌詞のとある固有名詞が、友達の名前なのかカーボ・ヴェルテの丘の名前なのかで口論する。記録されずに口承により伝えられ、あやふやになりゆく故郷の記憶。そのうち誰も唄わなくなり、誰の口元からも消え去ってゆくのかもしれない。

その唄は、一聴、外側の人間が、ラテンのラウンジ、ムードミュージックとして消費可能な強度を持つ明るいラテンのメロディーである。しかし、その歌に込められた思いに近づくことは、私たちのような部外者にはほとんど不可能だろう。

ただ、この映画で描写される、「過去」は「現在」でもあり、その逆も然りであるというような、その矛盾を受け入れることが出来れば、こちらにも少しはその思いが響き伝わっているのかもしれない。暗闇と時空の隔たりを通り越えて。

映画冒頭でスライドのように映される19世紀の写真家ジェイコブ・リースが撮影したNYのスラム街の写真の数々は、映画半ばで次々に映されるカーボ・ヴェルデの人々のポートレイトと呼応している。その二者のフレームは、定点観測としては同じだが、コスタ監督のそれはリースのような写真の静止画とはなっていない。構図と被写体のポーズは、まるでリースの写真のようなのだが、コスタ監督はそれを動画(映画)として映し出しており、被写体は動いている。写真は簡単に過去の動かぬ記録になり下がってしまうのに対して、動画として存在することは、記憶でも記録である以上に、このような光景が、常にこれから進みゆく「現在」として、この映画の中だけでなく、どこにでも現前するということを示しているかのようだ。

最後に主人公のヴェントゥーラは、まるで絵画の様な夕日に照らされて退院する。これから夜が待っている。

具体的にはいうまでもないが、2016年のこの世界の、日本の情勢の中で、これからのために今こそ観るべき映画。

映画 『Y/OUR MUSIC』  タイの都市と地方の音楽から浮かび上がる世界 (Asian Meeting Festival 2016 2/7 )

トムヤムクン、ガパオ、カオマンガイ・・・、料理屋さんも多数あり、最近ではコンビニの惣菜になったり、スナック菓子のフレイバーにもなっているタイ料理は、現在日本で割と一般的になっていると思います。私自身も時々タイ料理屋さんにいったり、たまたま近くに売っているので昼にガパオ風のお弁当をよく食べています。しかし、タイについて食べ物以外に目をむけてみると、あまり、というか正直ほとんど何も知りません。日本から近く、物価も安い人気観光地ではありますが、それでもタイについてあまり知らない方は私に限らず結構な数いるのではないでしょうか。
そんな中で、とあるきっかけで、タイの音楽について描かれた映画を観て、全くの未知の世界だったタイ音楽の、そして、タイの文化の多様さを垣間みることができました。
私が今まで観てきた音楽ドキュメンタリー作品の中でも屈指の面白さです。
 
 
2/5~2/14の間に日本で開催されたAsian Meeting Festival 2016(http://asianmusic-network.com/about/)の企画の一環で上映された『Y/OUR MUSIC』は、タイの都市(首都バンコク)と地方(タイ東北部のイサーン地方)で音楽に関わる10組ほどの人々を取材したドキュメンタリー映画です。
 
○都市の音楽
バンコクでは、インディペンデントに活動しているレーベル、バンド、楽器職人、商店街でヴァイオリンを弾くおじいちゃんなどか出演し、それぞれがインタビューに答えたり、実際に演奏する映像が流れます。
 
例えば・・・。
ラジオから流れるクラシック音楽をきいて、サックスの音色に惹かれたおじさん。しかし首都バンコクでもサックスは中々手に入らないため、メガネ職人としてのスキルを活かして竹を使って独自にサックスの作成を開始することに一号機は音がまともに鳴らず、一時は完全に作成を断念してしまいます。しかし、数年放置し竹が乾くと、楽器が響くことに気が付いたことがきっかけで、ついに完成させ量産へ。本編のラストでおじさん本人がこの竹サックスを吹くのですが、(正直そんなに期待してなかったんですが)、その響きは、通常の金属のサックスよりあたたかみとふくよかさがあり、タイに行ったら買ってみたい!と思うくらいのものでした。
 
または、ファッション感覚でかっこいいからという理由で、全く楽器は弾けないのにバンドを組み、いきなり野外ステージに挑んだ若者の男女。バンド名はHappy Land。当然、スキルはないものの、音数少ないサイケ/パンクのような感じで、やたら舞台映えしており、結構良い感じでした。楽器演奏素人によるバンドといえば、The ShaggsやNO. NEW YORK 、または、金魚草(完全に脱線しますが、千葉の高校生が一時的に組んだこのバンドには、一種のミラクルが起こっています→ https://www.youtube.com/watch?v=y9tHXlHPXtM)  のようなバンドを連想しました。楽器が弾けなくてもやりたいように堂々と演奏するヘタウマの系譜の人たちです。
 
他にも、欧米のフォーク系のポップスが好きで、自分でもそういう音楽を作ってみたいとインディペンデントレーベルを運営している人など、紹介しきれませんが、様々な方が出演されています。
 
こういった都市の市井の人々だったりインディペンデントな活動をしている人々の音楽を通してみえてくるのは、20世紀において、あらゆる世界が西洋文化の影響を逃れられなかったように、やはりタイにおいても、西洋音楽が文化横断し、人々の生活に浸透している、ということです。さらに、タイでは音楽産業や音楽教育がそれほど発達していないゆえに、ノウハウがあまりない状態で西洋音楽を独自に解釈した音楽が多数うまれているということ。このようなインディペンデントな音楽はタイに限らず世界中のアンダーグラウンドにあるでしょうが、そういった音楽は、いくらインターネットが発達してもきっかけがない限り外国から見たら存在を認知することが難しいですし、このような記録はとても貴重です。
 
○地方の音楽
一方、地方の取材では、タイの伝統音楽や民謡(モーラムと呼ばれます)を演奏する人々が登場します。
 
例えば・・・。
エレクトリックピン奏者のおじさん(というか、おっさん)。ピンは、私のみた感じの印象だと、日本でいう三味線のような弦楽器です。
そのおじさんが、屋外で暑いのか上裸になってピンを弾きながら、若者に打楽器を指導するシーンがあります。演奏が盛り上がるうちに、ピンを弾くのをやめ、塗装のスプレー缶を振り回してリズムを刻んで一人で勝手に盛り上がり、かと思えば、演奏中なのに、そのスプレー缶でピンの楽器本体に塗装を始めたりする自由さには、笑ってしまいました。
 
ほかには、盲目の笙(ケーン)吹きだったり、農村のステージで民謡を歌って踊るおばあちゃんがでてきたりします。
彼/彼女を通して語られるのは、、地方の過疎化による伝統音楽を継承する若者の不足だったり、モーラム(地方の貧しい人々の民謡音楽)への都市からの差別についてです。このような地方の問題、伝統の継承の問題は、あらゆる世界の国々においても起こっていることですが、やはりタイにおいても同様のようです。
ただしこの件については悲観的になって終ったわけではありませんでした。映画のラストの方で、真昼間の田舎で上裸で演奏していたはずのエレクトリックピン奏者おじさんや、盲目の笙吹きサングラスおじさんが、何故かバンコクのライブハウス、またはクラブといえるようなスペースで、ドラム、ベースをバックにいれて、ビートを強調したモーラムの演奏を行い、若者がそれに合わせて踊っている映像が映し出されます。
これについては、上映後に監督の解説があって具体的に分かったのですが、ここ5年ほどで、伝統音楽への再評価がなされ、バンコクにおいて、モーラムとロックのエレクトロニクス系の音楽の融合の試みがなされるようになったとのことで、このラストシーンではその取り組みの一環が撮影されたようです。
 
○最後に
私はこの映画を観て、その国の文化の多様さとは、アンダーグラウンド(いいかえると、人々の生活の範囲のそれほど広くないコミュニティ。いわゆる「アングラ」というジャンルの事ではないことに注意)で活動する市井(一般)の人々の多様さによってあらわれるということを、強く思いました。それらは大手メディアがとりあげるメジャーな文化産業の表面をみるだけでは決して分からないことです。この映画を通して、タイの売れ線の音楽が分かるということはありませんが、映画に登場する市井の人々の音楽からは、タイにはもっとほかにも、ヒットチャートにのるようなポップスや歌謡やロックやアイドル音楽もあれば、インディーズやノイズの様なバンドも一杯あるのだろうし、または、様々な伝統音楽もあるのだろうと想像がふくらみました。いや、想像で終わることなく、タイの外に住む私たちが知らないだけで、それらは独自の形で確実に存在するのでしょう。
 
都市と地方の市井の人々の間を行き交いながらこの映画の中で響きゆく音楽は、タイの人々の生活と社会だけではなく、現代の世界の現状すらもほのかに浮かび立たせているようにきこえます。そこから垣間見ることのできる西洋文化と現地文化の相互関係は、グローバルに捉えれば日本を含めて世界中で同じように起こっている事象であり、ローカルに捉えれば、その自国文化と他国文化の融合/衝突/葛藤は、各国で独自に違っていることです。
 
私がこの映画をみて見逃してはならないと思ったのは、この映画の舞台のタイだけでなく、他のアジアの国々、そしてアジアに限らず世界中には、自分が知らない所で、多様な音楽と人々の生活があるということです。これは、いってみれば恥ずかしいほど当たり前すぎる事ですが、しかし、ある一国の日常に住み、せいぜい広くて欧(南)米の音楽をきくだけでは、中々意識しにくい事だと思います。
 
自分たち(OUR)のまわりの音楽の外には、別の音楽があり、それらをあなたたち(YOUR)の音楽と意識する事によって文化の交流が生まれるということ。
 
『Y/OUR MUSIC』。
 
ある一国(日本)に暮らす私たちが、その生活の中できいたり演奏したりする音楽は、世界の関係の網と過去・現在・未来の時空間において、どこからやってきたのか?、そして、これからどこへ向かおうとしているのか?ということを問い直すきっかけにもなるように、この映画を多くの人に観ていただけたらと思います。
 
 
補記1:
ここ一年で私がみた音楽ドキュメンタリーだと、ミャンマー音楽の現地録音の密着取材をした「BeautyofTraditionミャンマー民族音楽への旅」とキューバ本国とニューヨークで活動するキューバのジャズミュージシャンを密着取材したキューバップ『Cu-Bop』の2本があります。両者とも音楽文化の記録、保存作品として素晴らしいですが、本編内に起きる出来事の説明があまりに不親切で、映像作品制作の素人感はぬぐいきれないのに対して、この映画は、取材や構成など、作りがしっかりしており、本文のようにとても面白いので、規模の大小を問わず、上映の機会がもっとあれば良いと思います。
 
補記2:
上映後のトークで、大友良英さんも仰っていたように録音が素晴らしく、楽器の響きを余すところなく記録しているのに加え、インタビュー中にきこえる生活音、野外の風のせせらぎ、虫の鳴き声までもが気持ちが良かったです。
 
補記3:
この文章の大半は、上映後の帰宅途中にスマホにばーっと書いて、そのまま放置していたものです。久しぶりにたまたま読み直したら、ブログにアップする価値ありと判断し、2か月遅れとなっております。
 

 

151031 水道橋 Ftarri

杉本拓(ギター)、Johnny Chang [from Germany/New Zealand](ヴァイオリン、ヴィオラ)、池田若菜(フルート)、大蔵雅彦(リード)
 
前回紹介したAntoine Beugerの作品にヴィオラで参加しているJohnny Changがちょうど来日し、Wandelweiser楽派の音楽家と親交のある杉本拓とのコンサートがちょうどあるということで、水道橋Ftarriへ。
 
一部の演奏は杉本拓作曲作品(「Quartet」というタイトルだとか)。前回取り上げた『konzert minimal』と同様に、持続音を主体にできている。杉本拓以外の3人はアコースティック楽器。杉本拓はエレクトリックギターをe-bow(電気的に弦を振動させ持続音をならすための装置)を使用して演奏。e-bowから生じる持続音にはゆらぎやかすれは感じられない。
 
4人の前には楽譜が置かれた譜面立てがあり、それぞれ、別々のタイミングで(きっと楽譜にかかれているであろう)一定のピッチのロングトーンを持続させては、沈黙し、ピッチをかえてまたロングトーンを響かせる。
 
単純に思える演奏だが、少ない組み合わせの中で*1、各楽器から生じる音の関係はさまざまに、そしてゆるやかに移り変わってゆく。
 
その中で4人ともが音をならさない沈黙の時間は短くて、長くて5秒程度だったと思う(もっと長かったかもしれないけれども、体感ではこの程度のように感じた)。この沈黙の短さは何かしらの指示で制御されていたのかもしれない。一旦の短いリセットはあるが、音はほとんど常に響いていたかのような印象が残る。
 
そして、音量はほぼ一定であり、音のダイナミクスもほとんどない。そうなると、耳は自然と、4つのそれぞれの楽器と、変わりゆく音程の響きのたたたずまいにひかれる。その中で、楽器の倍音を感じ取ることもだんだんとできるようになるが、それも束の間の事であった。持続していた音はある瞬間にふと消えゆき、または、別の楽器の音がふとたちあらわれる。ある一つの状態の響きを捉えようとしてもすぐに逃げてゆく。
 
このため、ある音をフォーカスしてきこうとしようとしても集中力は続かず、しだいに、それぞれの音が溶けたかのようにきこえる感覚になる。
 
演奏は50分間、延々と行われたが、長時間だと感じることはなかった。永続的にゆるやかに移りゆく音の運動の中で、耳の焦点もゆっくりと変化してはうつろいゆき、それは、飽きがこない、といういいかたもできるが、それよりも、持続音は時間を感じる感覚を限りなくなくそうとするからなのかもしれない。
 
面白いのは、12音階を用いており、ときおり、各楽器の音程関係が長3度(ドに対してミ)や完全5度(ドに対してソ)などになることがあっても、それは和音(ハーモニー、コード)の協和には決してきこえようがないところ。一般の音楽における和声進行の力学は、規則的な時間順序の中での変化によって成立しているのが分かる。
 
そして、長時間の持続音の、不規則な時間順序での音程の変化と音の消失は、決してメロディにはなりえない。
 
また、時折、楽器の音が重なると鼓膜の奥に重みが少しのしかかったかのような低い響きを感じることが幾度もあった。それは、二つの音のピッチが近いときに発生する「うなり」であるように感じることもあり、それは、光の干渉縞(高校物理で習うヤングの実験を思い出そう)を鼓膜で感じている、かのような感覚。
 
さらに、うなりというよりかは低周波の音が実際に響いているようにきこえるときもあった。それは楽器から直接ならされていないはずの音。これも勘違いや幻聴でなければ、二つの楽器のそれぞれの音程の「差音」(二つの音の周波数の「差」)*2がきこえていたのだと思う。
 
そしてどこから発生しているか指さすことのできないこれらの低い響きは、片方の楽器の音が抜けた瞬間に消える。その瞬間、音が透きとおって響く。
 
ここで、差音を意識的に認知できるかどうかは重要ではないし、この差音の効果を作者が意図しているのかも分からない。しかし、この効果は、無意識の中で、ききての印象に対してなにか影響をあたえているかもしれない。
 
私は以上のように、この作品を成り立たせているシステムや音の物理現象を中心に捉えてこれを書いてみた。しかし、本エントリーを読み、Wandelweiser楽派に興味をもたれることがあれば、以上の事をいったんは忘れ、先入観なしにこの楽派の作品をきいてみてもらいたい。以上のことはもしかしたらききかたの参考にはなるのかもしれないが、他人のききかたを縛ることはあってはならないと考えている。それは、この文章に限ったことではない。まずは、自分なりに捉え、それから他人の捉え方と、照らし合わせてみること。同じ音をきいても、同じように鼓膜に響くとは限らず、同じように脳内で処理されるとは限らず、同じように感じられるとは当然限らない。
 
ところで、杉本拓のこの作品を7人編成に拡張したと思われる(思われる、というのは、これも特に確認を取った訳ではないため)『Septet』というCDが近日リリースされる。さらに、11/22に六本木Super Deluxで開催されるFtarri Fes(2日目)でもこの『Septet』が演奏されるそうだ。

*1:とはいえ、単純計算で楽器の組み合わせは15通り。それに、各楽器の音程の組合わせと、音の入る/消えるタイミングを考慮すれば、パターンは果てしなく多い

*2:周波数A Hzの音と周波数B Hzの音をかけあわせると、加音(A+B Hz)と差音(A-B Hz)が生じる。これは高校数学で習う、三角関数の積和の公式で理解できる。この原理はリング・モジュレーションといわれる技術で使用され、電気的に加音と差音を生じさせることができる。また、電気的な処理を行わない場合、人間の耳には加音はあまりきこえず差音の方がとらえやすいといわれている

Antoine Beuger 『Konzert Minimal』

 
この音楽は、12のアコースティック楽器の持続音と沈黙のみによって演奏されている。ただそれだけだ。しかし、そこには驚くほどに情報量が豊かな楽器の音色、そして、問題提起でみちている。
 
John Cageの、かのあまりにも有名な「4分33秒」は、楽曲中に楽器を全く演奏しないことで、私たちが普段音楽をきいている際に無視してしまっている環境のノイズを浮かび上がらせ、そして、それは音楽になりえるのだと提示した。しかし、コンセプトなどの事前情報を知らない状態で、4分33秒」を鑑賞した場合、能動的にそれらのノイズを「音楽」としてきこうとする者は極めて少ないだろうと思われる。きっと、いつ演奏がはじまるのかと疑問に思ううちに4分33秒が過ぎてしまうだけだろう。それに、もし、4分33秒」のコンセプトを知っている場合でも、そこできくことのできる音は、その演奏会場で偶然に発生するノイズの恣意性にしかすぎない。
 
極端なまでのミニマリズムを志向しているというWandelweiser(ヴァンデルヴァイザー)楽派のAntoine Beuger(アントワーヌ・ホイガー)によるこの作品は、起伏のない持続音と種々の楽器の響きの重なり合い、そして、沈黙によって演奏されている。ここで、本作品で用いられるこの沈黙は、「4分33秒」の演奏しない状態の役割と、全く異なっている。この作品での沈黙は、音が響く状態とのコントラストを生じさせ、楽器の響きを如実に浮かび上がらす。これによって、この音楽のきき手の意識は、否応にも楽器の多彩な響きのテクスチャー(肌触り)に向かうことだろう。そして、その中には、様々な管楽器の息の掠れ、弦楽器の摩擦の掠れ、そして、それらの重なり合いによるうなりが豊かに響いていることに気が付く。持続音とはいえ、それらは決して均質に響いてはいない。
 
これは、この作品で用いられる楽器が全てアコースティック楽器であることによってなしえられる。持続音を生じさせるための管楽器の呼吸の循環、弦楽器の弓の往復の循環はともに、人間の身体を用いる限り、不可避的にずれやゆらぎを生じさせる。
 
持続音は表面をなぞれば線の運動といえるが、その運動を駆動しているのは、このような呼吸と身体の循環運動、または回転運動だといえる。
 
例えば、サイン波の持続音を、完全な球体がフラットで摩擦のない平面を回転しながら直進する運動としてみよう。そうすると、本作品のアコースティック楽器の持続音は、道行く先を車輪で走る際に身体が感じる振動のようだといえるだろうか。どんな道にも少なからず凹凸があり、車輪との接触では摩擦が生じ、また、車輪を駆動する力(例えば、漕ぐ力やアクセルの力)も常に均一であることはない。管楽器はマウスピースと唇との接触の状態で、呼吸というエンジンの循環によって音が響き、弦楽器は弦と弓の摩擦のなかでの腕の往復運動によって音が響く。呼吸の反復も身体運動の反復も常にわずかにゆらいでいる。そして、そこから生じる響きは二度とおなじには起こらない。
 
音には重力があり、ほとんどの音楽はその重力に対して、あらがったり、従ううちに、時が進んでゆく。例えば、わたしたちの日常に溢れるポップミュージックは、西洋クラシックのドミナントモーション(カデンツァ)の、不安定から安定状態の反復運動で成り立っている。ジャズにおいても基本的には、この運動で成り立っており、特にビバップにおけるドミナントでの高度なフレーズの繰り出しは、体操選手が床体操で飛び跳ねて技を繰り出す姿に似ている。それは、アスリート的な音楽である。技を繰り出すには、適度な助走が必要で、空中での技の後に、きれいに着地することで評価が高くなる。それとは異なり、一回飛び跳ねた後に、長い間浮いたままの状態となる音楽も多々あるだろう。
 
しかし、この音楽の沈黙から持続音への往復は、脚が地面を離れることなく、這いながら進んでは止まったりする運動のようだ。
 
それは暗闇の中で、耳と触覚をたよりにゆるやかに進みゆく、ゆきさきのみえない旅。

UN.a 『Intersecting』

 
Intersect : 交差する,相交わる.
 
現在進行形の交差、と題される本アルバムが「ジャズ&エレクトロニカのニュースタンダード」とプロモートされるのは、このアルバムが昨今世界的に活性化しているジャズ周辺の音楽への応答となっている面があるからだといえる。

澄んだ女性ボーカルによるエレクトロポップスとして多くの音楽リスナーに訴求する響きとなっている本作品に、ジャズの響きがあるとしたらどこだろう。

例えば、響きのテクスチャ。フュージョンやソウルなどのブラックミュージックで多用されるローズ・ピアノや、サックス、ウッドベースの音色。
 
例えば、音列操作。セブンスの和声進行、M1で不穏にはさまれるAugmentedコード。サックスのフレーズの半音階の動き。
 
例えば、リズム。現代版ジャズにおけるビートの進化は主に、ポリリズム変拍子の導入、そしてそこから生じる訛りを指し、これらはもはや一般教養化しているといっても言い過ぎではないと思うが、本アルバムでも、M1には7拍子と5拍子の奇数拍子の移り変わりがあり、M3には5連符の揺らぎの3拍子に対し、さらに4拍子が交差している箇所があるようにきこえる。
 
ここで私は、ジャズで用いられる楽器の音色が響き、音列や和声の時間変化があり、リズム構造があるということで、この音楽も現代のジャズなのだ、と単なる普遍論を唱えることはしない。ジャンルを規定するのは、音色でも音列でもリズム構造でもなく、私たちのラべリングの欲望、所有の欲望である。
 
とはいえ、キャラメルナッツがトッピングされたアイスクリームが美味しいように、フレイバーとしてジャズがトッピングされたエレクトロニカはとても美味しい、という喜びのマリアージュを本アルバムから感じることはできる。しかし、それよりも私は、打ち込みと人力演奏の交差(Intersecting)から芽生えようとしている響きに興味がある。私は、ここに、本アルバム自身がもつ特性、昨今のジャズにおいてもあまりみられないサウンドをききとる。
 
人力とマシンのリズムの相互影響によって、ニューチャプターや今ジャズとよばれる現代のジャズにおいて人力ドラムの進化論が指摘される中、本アルバムでは、プレイヤーによるドラム演奏はなく、人力リズムの揺らぎのグルーヴは感じられない。その代わりにリズムは打ち込まれ、電子音、ノイズがステレオ空間をあらわれてはきえゆく。そこには、生ドラムでは生じえないグルーヴがある。
 
そのような空間の中で、生演奏の導入の割合が特に多いのが、M1である。ローズピアノのやわらかな和声がボーカルを彩り、エレクトリックギターはボーカルに対してカウンターのようなメロディを奏でたりしている。低音はエレクトリックベースが支え、5拍子の躍動的なグルーヴを作ったり、ビートが控えめな箇所ではメロディアスになったりしている。これらの生演奏は機械的なバッキングをすることなく、ボーカルのメロディに対して、有機的に絡み合っている。それは最初に指摘した面も合わせてジャズ的ではあるが、さらにそこに共存する電子音の数々は、ジャズとは別の何かにたらしめている。
 
トラックに導入される生演奏のバランスは曲によってまちまちである。例えば、M2やM4などは特に親しみやすいエレクトロポップチューンとなっている反面、生演奏の割合は少ない。だが、全ての楽曲の中であらわれるサックスは、メロディ装置となっていると同時に、スケールから音をはずし、断片的なフレーズをはさみこみ、それはフリージャズ的なソロであるという以上に、本アルバムに通奏して不穏さをあらわす。特に、M5において、サックスのメロディの半音階の動きは、調性の希薄なウッドベースのラインとともに、ドローンの曖昧な世界をよびだす。
 
反対に、ときに曖昧にうつろいゆく音世界になっても、本アルバムがポップスと聞こえる強度をもたらしているのは、ボーカルの透明な声色とメロディだ。M8の途中で曲が切断され、ウッドベースとビートのアブストラクトな世界になるなかで、ボーカルがもう一度メロディの世界を誘い出す。
 
エレクトロニカとジャズとクラシック、ポップスと実験、人と機械、具体と抽象・・・など幾層もの交差が生じている本アルバムは、様々な角度から照射することで、影響関係などを露わにする事はある程度可能だとは思うが、交差から新たに芽生えるものは、既存の価値観で捉えようとしても、多くは影となり残されたままになるだろう。本アルバムの魅力はそのあいまいな影のうごめきにあらわれていると私は思う。

Streifenjunko 『Sval torv』/電子楽器の思想が管楽器奏法にもたらしたもの


streifenjunko.bandcamp.com

1曲目の、静的なドローンでもありメロディでもあるかのような響きをきいて、どのような楽器から音が生じていると想像するだろうか。もしかしたら、電子楽器やエフェクタによる音の操作が行われていると感じる人もいるかもしれない。しかし、この演奏は2本の管楽器のみで行われている。録音のためのマイクロフォンが微細な音を捉えるのみで、電子的な音の加工は一切なされていない。

Streifenjunkoはノルウェー出身のトランペット奏者Eivind Lønningとテナーサックス奏者のEspen Reinertsenによる2本の管楽器のみによるduoである。ここできくことのできるのは、通常のクラシックやジャズでもちいられるこの2本の管楽器から一般に想像できる響きからは程遠い音色である。西洋クラシックでよい発音とされる整数次倍音を強調した音色でないのはもちろん、ジャズのざらついたニュアンスもない。

彼らの立ち位置は50年代末から登場したフリージャズの系譜、特にDerek Baileyに端を発するヨーロッパのフリーインプロヴィゼーションシーンの流れから捉えることができる。しかし、その演奏はフリージャズといえば多くの人が思い描くであろう、乱雑さや轟音の快楽性からは一線を画している。マウスピースへの息の過入力によるノイズ発生装置としての管楽器の用い方を彼らはしていない。

乱雑であったりノイジーなイメージを抱かれがちなフリーインプロヴィゼーションシーンにおいても演奏の変遷の歴史がある。特に近年になると、音数を減らし静寂に耳をすましながら、ノイズ発生装置というよりかは音響発生装置として管楽器を駆使する奏者があらわれる。Michel Doneda、John Butcher、Axel Dörner、Xavier Charleなどがその例としてあげられる。彼らは管楽器の特殊奏法によって繊細で多様な響きをつむいでゆく演奏家である。そして、Streifenjunkoの2人はこの彼らの系譜にいるとみなすことができるだろう。しかし、そうとはいえども、この演奏をきいてしまうと、Michel Donedaらの演奏には静寂の中にも音の自由な羽ばたきがあることに気づかざるをえない。それに対して、Streifenjunkoの多くの演奏はより徹底して静的に響いている。

2本の管楽器がそれぞれロングトーンを持続して響かせながら、呼吸とアンブシュア(マウスピースをくわえる口の形や力)をコントロールし、ゆったりとしたうなりを発生させたり、音をひずませる。そして、吐く息が、リード、マウスピース、管内、ミュートの間をこぼれたり、かすれては過ぎ去ってゆく。また、サックスのキーを押さえるときのタンポンの打音や、トランペットにおいても点描される音があり、極小音の打楽器のように管楽器を使用しているともいえる。

2本の管楽器による明滅しあう音響。

持続音を発生させるとき、彼らは響きの微細な変化をききながら、呼吸、口腔、そして手によって静的な制御を行い、それによって音色をゆっくりと変調させてゆく。その制御は、たとえば、電子楽器のフィルタやLFOなどのつまみをゆっくりとまわして音を変調させる制御方法に近いように私は思う。電子楽器の発する音をききながら、手でエフェクトを調整して響きを変化をさせるかのように、管楽器にむかいあっているかのようである。

管楽器奏者がこのような音を発するようになるまでにはどのような過程があっただろうかと考えてみたとき、それは音楽をめぐるテクノロジの発展の歴史と大いに関わりがあるとしてみよう。

まず、作曲家、ピアニストの高橋悠治は74年に「電子楽器の思想」と題して、以下のように伝統楽器と電子楽器の違いを指摘している。彼は60年代に欧米を飛びまわりながらコンピュータ音楽に関与し、この文章を書いた70年代中盤当時は、バロック時代のバッハのフーガの技法パーセルの作品を、電子楽器によって演奏した意欲的な録音を残している時である。以下は彼が電子楽器の発達の過渡期の真っただ中に試行錯誤を重ねてきた中での言葉だ。

「この(引用註= 電子楽器における)操作という概念は、演奏についての伝統的なかんがえ方とは対立する面をもっている。楽器で音をだすのは、それを演ずるのであり、筋感覚に対応して、演奏者には音に対する感情移入がはたらく。発振器の音をコントロールするときは、ききながら調節するので、装置は筋肉の延長ではなく、音は演奏者の外部にある。(中略)電子的な操作は、発音の方法ではなく、きくための方法なのだ。のぞむ音を装置からひきだすのは、なれた手ではなく、敏感な耳である。」
[*1] 「電子楽器の思想」 高橋悠治著 『ロベルト・シューマン』 p140 1974年9月初出

ゴングなどの残響の多い楽器を除き、多くのアコースティック楽器(伝統楽器)は、手(時には足)の動きや呼吸を制御することで音がなる。それは、演奏家が「このような音をならしたい」と思う意志から生じる制御と、実際に響く音が直接連動するということである。この時、楽器は「筋肉の延長」として、体の一部のように扱われ、そこから発せられる音は、演奏者や作曲者の感情と容易に結びつきやすい。

しかし電子楽器に相対する場合は事情は異なる。例えば、発振器は、そのスイッチをオンした後、自分の意志とは無関係に無防備に音が鳴り続ける。または、鍵盤のついているオルガンやシンセサイザについても、アコースティック楽器のように手の微細な動きと音のニュアンスの変化が連動しにくく、ピアノよりも感情を音に乗せにくい。電子楽器においては、その「装置」そのものも、そこから発生する「音」も「演奏者の外部」にあり、さらに、「のぞむ音を装置からひきだすのは、なれた手ではなく、敏感な耳である」と高橋はいう。

このように、電子楽器を操作するとき、そこから発生する音は演奏者から離れて対象化されやすいといえる。この時、演奏者は、電子楽器が発する音を、耳を敏感にして観察する必要が生じてくる。

くわえて、この音の観察は、テクノロジの別の側面が推し進めることを、ここで補足しておく。それは、入力する音をこだまさせる「ディレイ」や、演奏した一部のフレーズを反復再生する「ループ」処理である。これらのエフェクトは、本来なら一度ならされると消えゆく音が再生されることで、リアルタイムに音が演奏者から離れて自立する。そして、「再生」といえばそもそも、20世紀初期から本格的に発達した録音のテクノロジそのものが、消えゆく演奏を保存し、過去を振り返ることを可能にした。

音楽に導入された新たなテクノロジは、音を人から切り離し、対象化するポテンシャルをもつ。そして、音の対象化は、人の音に対する意識をかえ、音のきこえかたをかえ、耳をかえる。その変化は新たな音楽が生まれる契機となる。その新しさとは、音色の新規性の追求によるものではなく、音自体をどうきくのか?という態度をもって、既存の音楽がどのようなシステムで成り立っているかを見直すことによってあらわれるものである。 

しかし、そのような変化が表だってみえるようになるには、ある程度時を待たなければならない。高橋が同論考内で以下のように指摘するように、変化はそう簡単にドラスティックには起こらないものだ。

「技術は芸術より、おそらく科学自体よりも状況の変化と、表面にあらわれない要求に敏感なのだ。芸術家があたらしい技術のもつ意味を知るのは、何十年もあとのことである。」
[*2] 同前 p137

電子楽器黎明期は、新たな音楽のありかたの模索がクラシックのアカデミズムの現場で試みられてきた。そして、60年代末になり商用の電子楽器が普及し始めると、ジャズにおいても実験が試みられ、その結果は、フュージョンと呼ばれる音楽になる。たとえば、フュージョン黎明期の70年代前半のMiles Davisや、Weather Report初期を振り返ってみてもいいかもしれない。しかし、70年代中盤になると鍵盤化されるシンセサイザはピアノの進化系となることで成熟する。その成熟化は、電子楽器を従来のオーケストレーションやアレンジの延長線上で用いることを容易にした。しかし、そのようなテクノロジの使用方法は、パレット上にならべられる音色の種類が増えただけにすぎなかった。たとえば、冨田勲のシンセサイザによる音楽はオーケストラの電子音響化にすぎないといえるだろう。新たな音色は作曲のイメージを新たに膨らますことを可能にしたかもしれないし、今までにない素材の響きやリズムの目新しさを生じさせることは可能にしたが、音楽そのものがなりたつシステムを見つめ直すまでにはあまり向かわなかった。

高橋は以下のように電子楽器がもたらす新たな可能性を示唆している。

「電子楽器での操作の概念は、伝統楽器の演奏法に影響をあたえるだろう。楽器は体の一部のようにかけがえのないものではなく、その部分はとりかえられるものとなり、演奏者のエゴの表現や、音への感情移入はすがたをけし、持続する音の各瞬間に対する意識はするどくなり、特殊な個人的技術は否定されるだろう。」
[*3] 同前 p142

20世紀が終わる直前の00年、東京においてオフサイトという演奏スペースがあらわれる。杉本拓、中村としまる、大友良英Sachiko Mをはじめとした多くの即興音楽が集うようになるその場所は、近隣への騒音問題対策のため、そこでの演奏は静かにならざるをえなかったそうだ。彼らはそのような環境の中で、音楽のありかた、もっといえば、音の発生や、音と音の関係性を、耳をすますことによって問い直しながら、演奏活動をおこなっていった。当事者でもあった音楽家、批評家の大谷能生は当時の演奏のありかたをこう振り返る。

「ベイリーによる楽器の拡張は、彼の身体に蓄えられたギター技術によって支えられている。彼の手によってギターはそれまでとは異なった連続体となるが、その変化を導く彼の手自体は、更新されることはあっても常に統合され続けている。(中略)
ぼくたち(引用註= 00年前後にかけてのオフサイトまわりにいた日本の即興音楽家たちをあいまいに指している)は、この技術を一旦括弧にいれてみた。ステージに上がり、演奏として、たとえば、アンプの電源をONにして、その後、OFFすること。たとえば、ターンテーブル上にシンバルを乗せて、それにレコードの針を落としてその響きを聴いてみること。たとえば、コンタクト・マイクで机をこすってみること。このような作業によって、ぼくたちは音と発音体とそれを扱う身体とのあいだに距離を作り、個人的な手の技術に依存しない即興演奏のあり方を模索してみた。操作の減少は、演奏を個人的なものから非=個人的なものへ、能動的なものから受動的なものへと導き、そして、その非人称的な音は、演奏者と観客両方に、いま鳴っている音の帰属先を常に疑いながら聴くことを要求する、積極的な耳のあり方について示唆するようなライブを形成するようになる。」 
[*4] 「覚えていないことを思い出すために(レコードとは何か?)」 大谷能生著 『ジャズと自由は手をとって(地獄へ)行く』 p25 2013年 

先の高橋の「楽器は体の一部のようにかけがえのないものではなく、その部分はとりかえられるものとなり、(中略)、特殊な個人的技術は否定されるだろう。」という70年代の予見は、そのまま、大谷が指摘する「音と発音体とそれを扱う身体とのあいだに距離を作り、個人的な手の技術に依存しない即興演奏のあり方」に対応してしまう。高橋の予見は約20年後の00年前後の日本の即興音楽シーンにおいてようやくあらわれたといえる。Derek Baileyの試みてきたフリーインプロヴィゼーションでは、伝統楽器を用いる限り、楽器は手の延長となり、音からイディオム(意味)を引きはがそうとしても、そこには"Bailey"という個人はどうしても音に残存してしまう。対して、00年前後にあらわれる彼らは、簡易な装置、または既存の楽器を用いながら、やろうと思えばだれでも操作できる方法によって、「非人称的な音」を響かせてゆく。そのような匿名性のある音楽は、音響的即興と呼称されるようになる。

それでは、はじめに戻ろう。Michel Doneda、John Butcher、Axel Dörner、Xavier Charleら、そして、Streifenjunkoの2人のような、従来の管楽器の発音技術とは全く異なる技術の習熟が必要な特殊奏法は、Derek Baileyと同様に「特殊な個人的技術」に依ってはいる。しかし、そこでは、音響的即興とよばれる音楽の思想を通過した響きがつむがれている。高橋が「電子楽器での操作の概念は、伝統楽器の演奏法に影響をあたえるだろう」というように、伝統的な管楽器がただ単に電子楽器の音色を真似るのではなく、電子楽器のテクノロジが音楽のありかたを問い直すことで別の演奏法がうみだされたのだといえる。その時、その伝統楽器から発せられる音は、従来の響きとは別のものとなる。

人間の吸って吐く行為が音となる管楽器は、人間の声帯の代用として捉えることができる。管楽器による音の「発生」は「発声」でもあるのだと。呼吸と声帯の微細なコントロールによって多彩なニュアンスをつけることが可能な声のように、管楽器には管楽器にしかできない音を生じさせる可能性をもつ。これら管楽器奏者たちの演奏の音のうなり、息のかすれの微細なニュアンスを、ピアノや弦楽器のような、基本的に手の入力のみによる完成された楽器で響かせるのは難しい。

最後に、Streifenjunkoの本アルバムについて特徴的な点として、メロディの別のありかたを指摘できる。1,2,曲目のゆったりとしたメロディは、アルバムを通して形をかえて繰り返される。管楽器をかすれる音の持続の微細な変化の中で、メロディはドローンのようにもきこえる。ドローンとメロディ(Jose Maceda)。または、変奏されるドローン・・・。そして、2本の管楽器からならされる持続音は複数の音程という面だけではなく、音色そのもののハーモニーとしても響いている。その静的な制御は、演奏ごとに微妙に変化し、その点では即興でもあるのだが、同時に、その響きはアンサンブルとして繊細につむがれてもいる。

*ちなみに、このメロディは彼らが参加するChristian Wallumrød Ensembleのアルバム『outstaires』(ECMレーベル)でもきくことができる。このアンサンブルグループは、「ノルウェーのフォークと教会音楽にインスパイアされ、古楽ジョン・ケージ後のアヴァンギャルドに影響を受けながら、ジャズの自由な思考により解放された多次元室内楽ECM評)http://www.nedogu.com/blog/archives/8898」と評され、ピアノ、アコーディオンと弦楽器とドラムにくわえて、この2人の管楽器奏者が参加したサウンドは、何を志向/試行/思考しているのかをとらえようとしてみてもいいかもしれない。

ラッスンゴレライによるリズム講座  基礎編

  • 前置き

この前、夜22時ころに新宿駅そばのインド料理屋さんに行ったんですね。店舗ビル7階へ上がるためにエレベータを待っていると、明らかに酔っている20代の女性がドアから出てきて、ふらふら〜としながら「ちょ、ちょ、ちょっとまって…」と千鳥足になっていると、すかさず一緒にいた別の女性が「お姉さん!」と言葉をはさんだんです。これ、明らかに最近テレビで流行っているお笑い芸人8.6秒バズーカーのネタ、ラッスンゴレライの「ちょっとまってちょっとまってお兄さん」からの引用だと分かるもので、「そっか、「ラッスンゴレライ」だけじゃなくて、ツッコミの「ちょっとまってちょっとまってお兄さん」も印象的だよな、なるほど〜」と思いました。


去年流行語大賞を受賞した、日本エレキテル連合の「ダメよ〜ダメダメ!」のように、誰もが日常の様々な場面で使用可能な言葉を極端にカリカチュア(誇張、歪曲)化する事が、ブレイクの一つの秘訣とすれば、この「ちょっとまってお兄さん」も、リズムに乗って誇張される事で多くの人の印象に残りやすく、かつ、言葉の利用シーンの汎用性も高くて、真似されやすいんだと思います。


人を惹きつけたり人の印象に残るための秘訣というのは、強力なキャラクターやネタが肝となり、その要素としては外見(ルックス)や発声の誇張があるでしょう。それらは人類の歴史における様々な儀式や芸能において重要な要素ですが、、といってしまうと、とりとめのない話になってしまいますが、時代をさっと現代に戻しまして、インターネットやモバイルの発達のために、多くの人が同じテレビ番組をみて芸能や娯楽の知識を共有する文化が衰退しつつあるこの時代のブレイクの秘訣は、瞬時に人を引き付ける強烈さにあるといえるでしょう。


日本エレキテル連合は、ネタ内の会話のイントネーションとコスプレを徹底的なまでに誇張していますが、8.6秒バズーカーのネタについても同様に、関西弁がリズムに乗ることによって、イントネーションが誇張されています。そして、2人が意識しているのかは全くわかりませんが、赤いシャツに、黒ネクタイというコスプレは、ドイツの元祖テクノユニット、クラフトワークを彷彿とさせます。彼らがクラフトワークを聞くような音楽好きなのかはわかりませんが、楽器もバックトラックも用いていないのに、彼らのリズムはテクノの様な反復性、持続性があり、過去のあらゆる歌ネタやリズムネタの中でもリズミックだと感じます。更にいうならば、彼らの別のネタのリズムからは、海外の新しいポップスのリズム感覚までもが垣間見る事ができます(こちらは次の機会に *時期未定)。


そもそも、楽器を使用する/しないに関わらず、歌/リズムネタにおける音楽の役割は、ネタの間の挿入歌であったりするなど、リズムが中断する芸が結構多いです。楽器を用いるネタの場合、古くはかしまし娘、現在の大御所ですと横山ホットブラザーズは喋りを挟みますし、楽器やバックトラックを用いない芸人の場合は、レギュラーの「あるある探検隊」、藤崎マーケットの「ラララライ」がありますが、これらも途中に寸劇がはいったりと、リズムは中断されます。そんな中で、身体のみを用い、かつ、2,3分のネタ全体がリズムをキープした「曲」になっている芸は、今までオリエンタルラジオ位しか有名になっていないと思います。オリエンタルラジオがラッスンゴレライをカバーし、8.6秒バズーカーとの共演が多いのも、誰もが分かるように両者のネタとリズム感覚の親和性が高いからですね。それではここから、8.6秒バズーカーのリズム感覚について踏み込んでいきます。聞きながら確認したい方は適当に動画サイトで検索をお願いします。

  • ボケに対するツッコミとリズムのツッコミ

ラッスンゴレライは、ボケとツッコミの反復の形式で成り立っています。これは過去の芸人のリズムネタの中でも今まであまりなかったと思います。オリエンタルラジオ藤崎マーケット、レギュラーのネタは、ボケ、ツッコミのない形式なしで、キメ台詞とリズムの勢いで笑いを取りにいきます。それらに対して、8.6秒バズーカーのこのネタには、漫才のようなボケ、ツッコミの形式が付け加えられています。
ラッスンゴレライという意味不明な言葉に対して、「楽しい南国〜」、「彼女と車で〜、」と、様々な意味(多義性)を含ませながら説明し、「ラッスンゴレライってなんですのん?」「でも、南国いうてもいろいろあるよ?」「彼女おらんし車ないやん」と、ツッコンでいき、ラッスンゴレライの意味に更に迫ろうとすると、途中からスパイダーフラッシュローリングサンダーという別の意味不明な言葉に切り替わり、それからはこちらの言葉に対して再びツッコンでいきます。
ここで、ツッコミがどのタイミングではいっているかみてみると、ボケに対するツッコミが、文字通りリズム上でも4拍子の頭に対して「ツッコン」でいます。そのツッコミにもいくつかのバリエーションがあり、以下4つ取り出してみます(「| |」の間を1拍とし、1文字が8分音符となっています(*のみ例外))。


1.1: |(せつ)|(めい)|(して)|いや|
1.2: |(・・)|(・・)|ちゃう|ちゃう|
1.3: |(・・)|(・・)|(・・)|(・)でも|  *「でも」2文字で8分音符とする
1.4: |(・・)|(・・)|(・)ちょっ|ちょっちょっ|

  • 合いの手・掛け声

まず「1.1」について。このように4拍目に言葉がはさまれるリズムは、日本特有の合いの手、掛け声的なものだといえます。このリズムは、古くから日本の祭事、儀式などでみられ、現在でも野球などのスポーツの応援や、歌手のライブなどでおなじみのものです。特に最近は、AKB48ももいろクローバーZなどのアイドル系やアニソン系のライブなど、舞台の上の少女たちに応援を捧げるオタ芸に顕著です。

  • 裏拍と「お兄さん→ゥオニサン!」の強調

そして、ネタが展開されていくなかで、ツッコミの田中は左手でヘッドホンを片耳に押さえ、右手でスクラッチという典型的なDJのしぐさをして上記「1.4」のリズムに切り替えます。このリズムは「ちょっ」が3拍目の裏から挿入され、裏拍が強調されることでリズミックになっています。
また、その後のツッコミのフレーズにも、反復されていくうちにパターンが変化していきます。ここでは以下3つ を取り出しました。


2.1:|ちょっとー|まってー|ちょっとー|まってー|おに|ーさ|ん・|・・|
2.2:|ちょちょ|・ちょっ|・と|まて|・・|ゥオニ|サン|
2.3:|ちょちょ|・ちょっ|・ちょっ|・ちょっ|・と|まて|ゥオニ|サン!|


はじめのうちは「2.1」のパターンが繰り返されます。これも表拍が「ちょっ」と跳ね、裏拍が伸びることで裏拍が強調されるリズムです。そして、ネタが展開されていく中で、「2.2」「2.3」に変わり、表拍を抜くことによって裏拍を強調してリズミックに展開され、かつ、「お兄さん」が「ゥオニサン!」と誇張されます。動画での観客の反応をみると、この箇所は特にウケていると見受けられます。漫才のようなボケ、ツッコミの形式が繰り返される中で、ツッコミをよりリズミックに誇張して変化させていくことが、ネタの最後まで観客を飽きさせずに笑いを発動させる効果になっていると指摘できそうです。
リズムの観点では、このような裏拍強調のリズムはシンコペーションと呼ばれ、今や日本でも欧米、南米のポップミュージックを通じてあらゆる音楽にまぎれこんでいますが、例えば、ジャマイカ発のスカがそうです。ぱっと思いつく中では、2年前のNHKの人気朝ドラ「あまちゃん」(音楽:大友良英)のOPにもその要素があります。

ここで、ライターの柴那典氏はラッスンゴレライのリズム分析を行い(http://shiba710.hateblo.jp/entry/2015/03/23/073000)、ツッコミの部分の4拍目の「いや」を「シンコペーション」と指摘しています。しかし、この「いや」については極めてシンコペーションと言い難いと私は考えます。シンコペーションとは、表拍(強拍。4拍子では1,3拍目)に対して、リズムが突っ込んで鳴らされ、直後の表拍が「1:鳴らされずに引き伸ばされる」「2:鳴らされずに休拍となる」「3:小さな音で鳴らされる」の3つ*1のいずれかの裏拍が強調される場合をいい、ブラックミュージックや南米音楽などが由来となって、今や日本のポップスにも日常的に用いられます。ですが、「いや」の次の小節の1拍目は、「ちょっと」と強く入っており、シンコペーションとは言えません。この部分に関しては、私が先ほど説明したように、日本的な掛け声のリズムだといえます。表拍に対してツッコんでいるというだけで、シンコペーションの裏拍強調リズムと日本の掛け声のリズムは、同じリズム感覚が元になっているとは言えません。むしろ、柴氏の記事の後半で指摘している裏拍の説明や、私の説明した上記の「1.3」「1.4」「2.2」「2.3」のリズムパターンこそがシンコペーションと呼べるものです。
また、もう一つ補足しておきます。柴氏の上記記事では、「ラッスンゴレライ」を337拍子と指摘しているのですが、こちらについては、説明を単純化していると私は考えます。そもそも氏が7と指摘する「|ラッ|スン|ゴレ|ライ|説|明|して|ね|」は、誰もが数えればわかると思うのですが8です。ただ、全く337拍子ではないかというと、そうではなく、その特徴はあるといえます。それは、私が今まで説明したように、4拍目に「いや」が入ったり、こちらは柴氏も指摘していますが「フー!」と掛け声が入る所にあります。

細かい話だと感じる方も多いかと思いますが、柴氏の説明では「シンコペーション」の指摘箇所をあやまっており、337拍子の指摘も不十分です(実際8なのに7と指摘してしまっている)。リズミックなシンコペーションはツッコミの「いや」にではなく、他の箇所の裏拍強調リズムに、そして、その「いや」は4拍目に「掛け声」として入っており、むしろこちらを337拍子的だと捉えるべきでしょう。柴氏の指摘では、日本的なリズムとシンコペーションを混同してしまい、両者の特徴の違いを見えにくくしてしまっていると私は考えます。今や、日本のポップスにおいて掛け声のリズムとシンコペーションのリズムが両立するのは普通の感覚ですが、本来は別々の文化由来です。どの箇所がどちら由来かが分かると、例えば日本の音楽がどのように海外の音楽から影響を受けてきたかがより鮮明に見えてくると私は思います。
そして、8.6秒バズーカーのネタがリズミックに聞こえることの説明は、シンコペーションと掛け声のリズムのみの指摘ではまだ不十分です。

  • 16分音符のツッコミ

このネタでは、1拍が4分割され、16分音符の細かさで刻まれています。そして、その細かさの中でのリズムのツッコミもあります。それは、出だしの「ラッスンゴレライ」のフレーズから既にあらわれています。具体的には、以下の「3.1」のように捉えられます。上記と異なり、ここでは1文字分が16分音符となり、4文字で1拍となります。


3.1: |ラッスン|ゴーレ「ラ」|イ・・・|(フー!)|


また、以下リンクで桂文枝(ex.新婚さんいらっしゃい!)が彼らと共演しています。

https://www.youtube.com/watch?v=B_zH7rvPZqk


なのですが、師匠のここのリズムの取り方が少し違うことに気が付かないでしょうか。
実際には以下のようになっています。


3.2: |ラッスン|ゴーレー|「ラ」イ・・|(フー!)|


3.1と3.2を比較すると「ラ」の位置が違いますよね。師匠はこの「ラ」を、コンビでやっているような2拍目の4つめではなく、3拍目の頭に入れています。読んでいる方も、実際にやってみたら感じられると思うのですが、「3.2」の取り方ではリズムのドライブ感が少し失われる感じはしないでしょうか。これは、「3.2」の場合は、全てのアクセントが4分音符単位で単調にとられているのに対し、「3.1」の場合は、3拍目の表拍に対して16分音符分、突っ込んで早く入る効果があるためです。これについても、アクセントの位置が表拍(強拍)からずらされて16分音符分早くツッコんでおり、シンコペーションといえます。これは、ゲロッパ!で有名なジェームズ・ブラウンのファンクや南米のラテン音楽を由来として、現代の欧米のポップスや日本のポップスでもなじみのあるリズムです。ただ、元々日本になかったリズムなので、欧米の音楽の影響が現代より少ない時代を生きてきた世代にとっては、とりにくいリズムなのでしょう。

  • まとめ

ここまで、所謂リズムの「ツッコミ」の観点から彼らのネタのリズミックさを説明しましたが、私はまだ彼らのグルーヴ感覚を指摘しきれていなく、今までの説明は基礎編となります。これらのリズムは比較的新しいとはいえ、オリエンタルラジオには該当しますし、日本のポップスにおいても今や特に珍しいリズムではありません。私は、彼らの別のネタから、海外の新しいポップスにあらわれているリズム感覚を読み取ります。キーワードは「伸縮」です。ダイジェストにまとめると、これは元々人間の身体に備わっている感覚であるのですが、音楽の体系化、機械化、産業化によってポピュラーミュージックの内では抑圧され、ここ最近になって、海外のポップス(ex. Arca, FKA Twigs)にみられるようになった感覚です。次回の機会があれば発展編として説明したいと思います(時期未定)。また、この長文をここまで読まれた方はきっと音楽やリズムに興味のある方かと思われますが、本ブログの他のエントリーで、これらのリズムに関連のあるNew Chapterや今ジャズと呼ばれる近年の新しいポップなジャズにみられるリズムの解説を行っており参考になると思うので、お時間があれば、覗いてみてください。
MadlibのトラックからNew Chapter系/今ジャズ系のリズムを解説する試み http://d.hatena.ne.jp/Blackstone/20141001
Arca 融解するビート/現代のリズムの揺らぎ http://d.hatena.ne.jp/Blackstone/20141214