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ジャズのコスモポリタニズム

先週の水曜日(5/14)に吉祥寺にunbeltipoのライブを観に行くまえに、その日発売のTaylor Mcferrinのアルバム「EARLY RISER」を目当てにタワーレコードへ。Flying Lotus主宰レーベルのBrainfeederからのリリースとして、過去の経験上、ジャンル的にはエレクトロニカやクラブ/テクノ系の棚にあると思って探していたが見当たらず。さてはと思ってジャズコーナーに向かってみると、試聴コーナーで大きく展開されていた。何故初めにクラブ/テクノ系の棚へ向かったというと、去年リリースされた同じくBrainfeederレーベルのThundercatの2ndアルバム「Apocalypse」がタワーレコードのそのコーナーでしか陳列されていなかったからだ。もともと、自分自身は11年にリリースされたThundercatのデビュー作「Golden age of Apocalypse」をamazonで購入し、様々な音楽の要素を感じながらも基本的にはジャズの文脈で聴いていて、世間的にもジャズの系譜で捉えられているものと半ば思い込んでいた。この思い込みゆえに、去年リリースの2ndアルバムはまずディスクユニオンの新宿ジャズ館へ寄った時に購入する予定にしていたのだった。しかし、販売していなかった。さすがにタワーレコードのジャズコーナーにはあるだろう、と向かってみると、結局はクラブ/テクノ系のコーナーにしか置いていなかった。
ある音楽のジャンル付けはカタログ化するための便宜的なものであり、Brainfeederの音楽のように、エレクトロニカなのか、アンビエントなのかダブステップなのか、エクスペリメンタルなのか、黒人音楽なのか(そのなかでもR&Bなのかネオソウルなのかジャズなのかファンクなのか)様々なジャンルが曖昧に越境した音楽については、その音楽の出自や、言説をもとにどこかしらのカテゴリーに当てはめるか、または、新たなジャンル名を創出するしかないのが現状だ。*1
私がThundercatをジャズの文脈で聴いていたのは、今まで新旧合わせてある程度のジャズと呼ばれたり、ジャズと関連している音楽を聴いてきた中で、Thundercatの作品のサウンドに、それらの音楽の要素を感じとっていたためだ。そして、それは私だけが感じていることではなかったと確実にいえる。しかし去年の段階ではThundercatをジャズの系譜でとらえる事はそれほど主流なことではなかったのだろう。
そして、今回のThundercat=クラブ/テクノとTaylor Mcferrin=ジャズのタワーレコードでのジャンルの区分けの変化から、世界中で発生している「ジャズをとりまく音楽の越境」について、ここ最近になってようやく、過去の音楽との連続性と関連性をもって捉えられるようになったことがいえる。
「ジャズをとりまく音楽の越境」は最近になってはじまったことでは、もちろんない。それは、20世紀初頭からあらゆる世界の文化がひしめきあうアメリカのような国を中心として、様々な世界中の音楽が交差する中で試行錯誤されながら既に常に行われてきた事だ。
それはコスモポリタン世界市民主義)的な文化の混淆といえるだろう。そしてその中で誕生してきた世界の音楽が20世紀のメディアの発達によって世界中に届けられ、相互の文化横断が行われてきた。更にこの文化横断は、95年以降のインターネットによるネットワーク化の中で加速度的に早まった。人と膨大な情報が今までにないスピードで交差する中で新しい音楽が誕生し消費されているのが現状だ。
そして、この20年ほどのジャズ(いってみれば、マイルス・デイヴィス没後のジャズ)についても、様々な変遷があり、特にここ最近は目まぐるしいほど複雑に文化横断している状況になっている。音楽についての言説は、その音楽の誕生よりも必ず遅れる、という事がほとんどだとしても*2、90年台以降のこの変遷を、歴史の連続性をふまえた観点や他のジャンルとの関連性でとらえようとする視点は、つい最近まで数少なかったように思える。
その要因は様々あるだろう。
例えば、多くのジャズミュージシャンの、常に前進する啓発的なモダニズム的態度*3。精神の高みの追求がそのまま音楽の追求となり、ジャズが技術志向の複雑な音楽になった結果、聴衆がジャズミュージシャンの意図をつかむことが困難になってしまったということ。
ジャズという音楽が誕生し、様々な語法(パーカー、コルトレーン、モンク、エバンスなど果てしなく続く…)や様々なスタイル(スウィング、ビバップ、モード、フリー、ラテン、アフロ、フュージョン等)が誕生してきたが、参照可能な音楽の情報量とバリエーションが現在よりも少なかった時代は、音楽家の独力によって語法やスタイルが生まれやすく、その個性(独自性)も認知されやすかったのではないかといえるのではないか。そして、その新たなスタイルの誕生と変遷は、その認知されやすさゆえに、歴史としても記述されやすかったといえるのではないだろうか。
しかし、時代の後になればなるほど、新しいサウンドを追い求めるためには、音楽家は既に生み出された語法やスタイルと対峙せざるを得なくなる。もう出尽くしたのではないかと諦めそうになほどの情報量の中、もはやジャズに限らない世界中のあらゆるスタイルを参照して、自分独自の「ボイス」を見つけなければならない。そしてその結果、参照先の様々な音楽が錯綜して溶け込んだサウンドがうまれる。その複雑に溶け込みあったサウンドを蒸留して、様々な要素を抽出し、それら関係性をひも解く、という作業は、聞き手にも膨大な音楽に関する知識を要する。その困難さ。そして、そのサウンドから新しさを見出すことの困難さ。
ほかにも沢山あるだろうが、ここ最近のジャズを取り巻く音楽についての言説の少なさには、これらの要因が含まれていると私は思う。
そのような状況の中で、ここ数年になって世界中の若い音楽家によって、ジャズなどの複雑な技術を取り入れたプログレッシブなポップミュージックの実践が行われ、その例として、リスナーがほとんど分離されていたであろうアントニオ・ロウレイロや挾間美穂、石橋英子の音楽の関連性について論じてみたのが前回、前々回のこの私のはてなダイアリーのエントリーなのであった。それはやはり世界の音楽シーンで起こりつつあることに対する言及の少なさや、ジャンルの島宇宙化の苛立ちから記してみたものだったと現在感じている。
そんな中で、ようやく今年になって、「Jazz The New Chapter ロバート・グラスパーから広がる現代ジャズの地平」という、ここ20年ほどのジャズのとりまく世界中の様々な音楽についてはじめて体系的に描写した雑誌が刊行された。

私自身はロバート・グラスパーという音楽家に対する評価は定まってはいないのだが*4、00年代の数少ない若手のジャズのスターであるロバート・グラスパーによるジャズと(ヒップホップを中心とする)ポップミュージックに対する眼差しの批評性を論じることからはじまり、そこから視点を様々な世界へ広げて行く点は、初心者にもやさしく理解しやすい戦略がとられており入門書として薦められる。それと同時に、既にある程度ジャズを聴いてきた人にとっても現代のシーンに対する理解が深まり様々な新旧の音楽家について知るきっかけになる参考書となるだろう。
私が、この本で初めて知ったことでキーポイントだと思ったのは、アメリカにおける様々な音楽の「コミュニティ」のあり方だ。
例えば、ロバート・グラスパー、マーク・コレンバーグ達がその経験を語る、セッションの場としての教会でのコミュニティ。
ヒューストン、フィラデルフィア、LA、ダラスなどでポップ、ジャズを問わない一流の音楽家を輩出するパフォーミング・アーツ系の名門高校でのコミュニティ。
ドラマー、ビリー・ヒギンスが毎週LAで開催するワークショップという場のコミュニティ。
バークリーのような音楽学校に通った音楽家が、「授業で得たことより、世界中から音楽を志す同志が集まりともに演奏できるできるのが良かった」というようなことを頻繁に発言するように、音楽は人と人が出会い、コミュニティが生じることから産まれるという事。そのようなコミュニティでは、教育と実践が行われつつ、技術の洗練化とその共有がなされ、様々な音楽の融合が試みられているのだろう。
ジャズと教育という観点では、西洋クラシックが音楽教育の中心であり続けた中で、ジャズの技術(具体的には和声理論とアドリブとリズムの方法論)が教育体系に組み入れられ、世界中の音楽学校で学べるようになった現状がある*5。アントニオ・ロウレイロについて前回指摘したように、ミナスの洗練された音楽の誕生も、ミナスの大学の音楽教育と、その中でのコミュニティがあってこそといえるのではないだろうか。
私は、ここ数年、このような世界中のジャズを取り巻く環境の変化を捉えることに必死だったし、その中でお気に入りの音楽も沢山発見できたので、ここ最近まではこのような現象をウェルカムに思っていたのだが、現在はある恐れを抱きつつもある。
それは、これらの新たな音楽のサウンドのテイストや演奏技術の方法論がある程度似通っているように感じていること、そしてそもそも音楽に対する価値観がエリートの音楽として均一化されつつあるように感じていることに対する恐れだ。
言い方を変えるなら、それは、ジャズが世界中に広がったと同時に、その音楽が持つコスモポリタン的な思想も同時に拡散されてしまっているのではないかという疑いである。
ミュージシャン二世、三世のサラブレッドたちの活躍はすさまじいが、音楽はそのような血筋のあるエリートまたは、十分な教育を受けたエリートしか表現できないものなのでは決してないのは当然だ。それに、リスナーがエリートの超絶技巧の音楽をただ単にありがたがって聴くような状況だけにしてしまうならば、それは19世紀以降、クラシックをコンサートホールでありがたく聞く聴衆の姿とほとんど変わりないのではないか。
「Jazz The New Chapter」は新たに世界中で誕生している折衷された音楽をジャズの歴史の連続性と他ジャンルとの関連性で豊かに論じており、それはここ最近まで言説が止まり、ジャンル間の壁が存在する状況に対してアゲンストするための第一歩として重要なことだと私は思う。確かに、音楽の越境は加速度的にこれからも果てしなく続くだろうし、新しく産まれ落とされていく音楽の、過去、現在との関連性をひも解く作業は重要である。
しかし、音楽の越境は常に行われるものの、あらゆる音楽がなんでも折衷できるようなハッピーな世界では決してない*6。共感不可能性は乗り越えようとするだけで解決されることではなく、時には交わりあえないことを受け入れることも必要だ。
その中で、私たちはまだまだ知り、そして考えるべきことが沢山あるのではないのだろうか。
例えば、新しい音楽の歴史上での連続性と断絶性について
または、新しい音楽の新規性と既存性について
音楽を比較したときの類似点と相違点について
音楽のフォーマットの可塑性がもたらす文化横断について
文化横断によって生まれるサウンドと失われるサウンドについて
音楽コミュニティのつながりと壁について

私たちは、ジャズについて、いやジャズに限らず世界の音楽について、まだまだ知らない事だらけなのだから。

Jazz The New Chapter~ロバート・グラスパーから広がる現代ジャズの地平 (シンコー・ミュージックMOOK)

Jazz The New Chapter~ロバート・グラスパーから広がる現代ジャズの地平 (シンコー・ミュージックMOOK)

*1:しかし、今回のTaylor のアルバムが新宿タワーレコードでどのように展開されているかを確認したが、ところがどっこい、ジャズコーナーにしか置いていなく、Flying LotusやThundercatは相変わらずクラブ/ディスココーナーのみに置いていた。Brainfeederの作品ならNew Ageやクラブ/ディスコ、ジャズなど複数のコーナーにまたいで置かれてもいいのではないかと個人的には思う

*2:「ほとんどだとしても」、というのは、音楽の言説によって新たな音楽が生じる可能性が別にある事をさしている

*3:ざっと象徴的な音楽家を挙げると、マイルス・デイヴィス、または、ハービー・ハンコック、ウエイン・ショーター等の創価学会系、パット・メセニー上原ひろみなどを思い浮かべるが、老若男女問わずジャズほど自己啓発的な音楽家の多いジャンルはないように感じる

*4:例えばBlack Radio 1,2は聴いていてもどかしさしか感じない

*5:いってみれば、それまで西洋音楽が世界の覇権を握ってきた中で、黒人音楽が勢力を伸ばしているといえるだろう。

*6:もしそうであったら世界は乱交パーティーだらけだ。ピース。