Streifenjunko 『Sval torv』/電子楽器の思想が管楽器奏法にもたらしたもの


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1曲目の、静的なドローンでもありメロディでもあるかのような響きをきいて、どのような楽器から音が生じていると想像するだろうか。もしかしたら、電子楽器やエフェクタによる音の操作が行われていると感じる人もいるかもしれない。しかし、この演奏は2本の管楽器のみで行われている。録音のためのマイクロフォンが微細な音を捉えるのみで、電子的な音の加工は一切なされていない。

Streifenjunkoはノルウェー出身のトランペット奏者Eivind Lønningとテナーサックス奏者のEspen Reinertsenによる2本の管楽器のみによるduoである。ここできくことのできるのは、通常のクラシックやジャズでもちいられるこの2本の管楽器から一般に想像できる響きからは程遠い音色である。西洋クラシックでよい発音とされる整数次倍音を強調した音色でないのはもちろん、ジャズのざらついたニュアンスもない。

彼らの立ち位置は50年代末から登場したフリージャズの系譜、特にDerek Baileyに端を発するヨーロッパのフリーインプロヴィゼーションシーンの流れから捉えることができる。しかし、その演奏はフリージャズといえば多くの人が思い描くであろう、乱雑さや轟音の快楽性からは一線を画している。マウスピースへの息の過入力によるノイズ発生装置としての管楽器の用い方を彼らはしていない。

乱雑であったりノイジーなイメージを抱かれがちなフリーインプロヴィゼーションシーンにおいても演奏の変遷の歴史がある。特に近年になると、音数を減らし静寂に耳をすましながら、ノイズ発生装置というよりかは音響発生装置として管楽器を駆使する奏者があらわれる。Michel Doneda、John Butcher、Axel Dörner、Xavier Charleなどがその例としてあげられる。彼らは管楽器の特殊奏法によって繊細で多様な響きをつむいでゆく演奏家である。そして、Streifenjunkoの2人はこの彼らの系譜にいるとみなすことができるだろう。しかし、そうとはいえども、この演奏をきいてしまうと、Michel Donedaらの演奏には静寂の中にも音の自由な羽ばたきがあることに気づかざるをえない。それに対して、Streifenjunkoの多くの演奏はより徹底して静的に響いている。

2本の管楽器がそれぞれロングトーンを持続して響かせながら、呼吸とアンブシュア(マウスピースをくわえる口の形や力)をコントロールし、ゆったりとしたうなりを発生させたり、音をひずませる。そして、吐く息が、リード、マウスピース、管内、ミュートの間をこぼれたり、かすれては過ぎ去ってゆく。また、サックスのキーを押さえるときのタンポンの打音や、トランペットにおいても点描される音があり、極小音の打楽器のように管楽器を使用しているともいえる。

2本の管楽器による明滅しあう音響。

持続音を発生させるとき、彼らは響きの微細な変化をききながら、呼吸、口腔、そして手によって静的な制御を行い、それによって音色をゆっくりと変調させてゆく。その制御は、たとえば、電子楽器のフィルタやLFOなどのつまみをゆっくりとまわして音を変調させる制御方法に近いように私は思う。電子楽器の発する音をききながら、手でエフェクトを調整して響きを変化をさせるかのように、管楽器にむかいあっているかのようである。

管楽器奏者がこのような音を発するようになるまでにはどのような過程があっただろうかと考えてみたとき、それは音楽をめぐるテクノロジの発展の歴史と大いに関わりがあるとしてみよう。

まず、作曲家、ピアニストの高橋悠治は74年に「電子楽器の思想」と題して、以下のように伝統楽器と電子楽器の違いを指摘している。彼は60年代に欧米を飛びまわりながらコンピュータ音楽に関与し、この文章を書いた70年代中盤当時は、バロック時代のバッハのフーガの技法パーセルの作品を、電子楽器によって演奏した意欲的な録音を残している時である。以下は彼が電子楽器の発達の過渡期の真っただ中に試行錯誤を重ねてきた中での言葉だ。

「この(引用註= 電子楽器における)操作という概念は、演奏についての伝統的なかんがえ方とは対立する面をもっている。楽器で音をだすのは、それを演ずるのであり、筋感覚に対応して、演奏者には音に対する感情移入がはたらく。発振器の音をコントロールするときは、ききながら調節するので、装置は筋肉の延長ではなく、音は演奏者の外部にある。(中略)電子的な操作は、発音の方法ではなく、きくための方法なのだ。のぞむ音を装置からひきだすのは、なれた手ではなく、敏感な耳である。」
[*1] 「電子楽器の思想」 高橋悠治著 『ロベルト・シューマン』 p140 1974年9月初出

ゴングなどの残響の多い楽器を除き、多くのアコースティック楽器(伝統楽器)は、手(時には足)の動きや呼吸を制御することで音がなる。それは、演奏家が「このような音をならしたい」と思う意志から生じる制御と、実際に響く音が直接連動するということである。この時、楽器は「筋肉の延長」として、体の一部のように扱われ、そこから発せられる音は、演奏者や作曲者の感情と容易に結びつきやすい。

しかし電子楽器に相対する場合は事情は異なる。例えば、発振器は、そのスイッチをオンした後、自分の意志とは無関係に無防備に音が鳴り続ける。または、鍵盤のついているオルガンやシンセサイザについても、アコースティック楽器のように手の微細な動きと音のニュアンスの変化が連動しにくく、ピアノよりも感情を音に乗せにくい。電子楽器においては、その「装置」そのものも、そこから発生する「音」も「演奏者の外部」にあり、さらに、「のぞむ音を装置からひきだすのは、なれた手ではなく、敏感な耳である」と高橋はいう。

このように、電子楽器を操作するとき、そこから発生する音は演奏者から離れて対象化されやすいといえる。この時、演奏者は、電子楽器が発する音を、耳を敏感にして観察する必要が生じてくる。

くわえて、この音の観察は、テクノロジの別の側面が推し進めることを、ここで補足しておく。それは、入力する音をこだまさせる「ディレイ」や、演奏した一部のフレーズを反復再生する「ループ」処理である。これらのエフェクトは、本来なら一度ならされると消えゆく音が再生されることで、リアルタイムに音が演奏者から離れて自立する。そして、「再生」といえばそもそも、20世紀初期から本格的に発達した録音のテクノロジそのものが、消えゆく演奏を保存し、過去を振り返ることを可能にした。

音楽に導入された新たなテクノロジは、音を人から切り離し、対象化するポテンシャルをもつ。そして、音の対象化は、人の音に対する意識をかえ、音のきこえかたをかえ、耳をかえる。その変化は新たな音楽が生まれる契機となる。その新しさとは、音色の新規性の追求によるものではなく、音自体をどうきくのか?という態度をもって、既存の音楽がどのようなシステムで成り立っているかを見直すことによってあらわれるものである。 

しかし、そのような変化が表だってみえるようになるには、ある程度時を待たなければならない。高橋が同論考内で以下のように指摘するように、変化はそう簡単にドラスティックには起こらないものだ。

「技術は芸術より、おそらく科学自体よりも状況の変化と、表面にあらわれない要求に敏感なのだ。芸術家があたらしい技術のもつ意味を知るのは、何十年もあとのことである。」
[*2] 同前 p137

電子楽器黎明期は、新たな音楽のありかたの模索がクラシックのアカデミズムの現場で試みられてきた。そして、60年代末になり商用の電子楽器が普及し始めると、ジャズにおいても実験が試みられ、その結果は、フュージョンと呼ばれる音楽になる。たとえば、フュージョン黎明期の70年代前半のMiles Davisや、Weather Report初期を振り返ってみてもいいかもしれない。しかし、70年代中盤になると鍵盤化されるシンセサイザはピアノの進化系となることで成熟する。その成熟化は、電子楽器を従来のオーケストレーションやアレンジの延長線上で用いることを容易にした。しかし、そのようなテクノロジの使用方法は、パレット上にならべられる音色の種類が増えただけにすぎなかった。たとえば、冨田勲のシンセサイザによる音楽はオーケストラの電子音響化にすぎないといえるだろう。新たな音色は作曲のイメージを新たに膨らますことを可能にしたかもしれないし、今までにない素材の響きやリズムの目新しさを生じさせることは可能にしたが、音楽そのものがなりたつシステムを見つめ直すまでにはあまり向かわなかった。

高橋は以下のように電子楽器がもたらす新たな可能性を示唆している。

「電子楽器での操作の概念は、伝統楽器の演奏法に影響をあたえるだろう。楽器は体の一部のようにかけがえのないものではなく、その部分はとりかえられるものとなり、演奏者のエゴの表現や、音への感情移入はすがたをけし、持続する音の各瞬間に対する意識はするどくなり、特殊な個人的技術は否定されるだろう。」
[*3] 同前 p142

20世紀が終わる直前の00年、東京においてオフサイトという演奏スペースがあらわれる。杉本拓、中村としまる、大友良英Sachiko Mをはじめとした多くの即興音楽が集うようになるその場所は、近隣への騒音問題対策のため、そこでの演奏は静かにならざるをえなかったそうだ。彼らはそのような環境の中で、音楽のありかた、もっといえば、音の発生や、音と音の関係性を、耳をすますことによって問い直しながら、演奏活動をおこなっていった。当事者でもあった音楽家、批評家の大谷能生は当時の演奏のありかたをこう振り返る。

「ベイリーによる楽器の拡張は、彼の身体に蓄えられたギター技術によって支えられている。彼の手によってギターはそれまでとは異なった連続体となるが、その変化を導く彼の手自体は、更新されることはあっても常に統合され続けている。(中略)
ぼくたち(引用註= 00年前後にかけてのオフサイトまわりにいた日本の即興音楽家たちをあいまいに指している)は、この技術を一旦括弧にいれてみた。ステージに上がり、演奏として、たとえば、アンプの電源をONにして、その後、OFFすること。たとえば、ターンテーブル上にシンバルを乗せて、それにレコードの針を落としてその響きを聴いてみること。たとえば、コンタクト・マイクで机をこすってみること。このような作業によって、ぼくたちは音と発音体とそれを扱う身体とのあいだに距離を作り、個人的な手の技術に依存しない即興演奏のあり方を模索してみた。操作の減少は、演奏を個人的なものから非=個人的なものへ、能動的なものから受動的なものへと導き、そして、その非人称的な音は、演奏者と観客両方に、いま鳴っている音の帰属先を常に疑いながら聴くことを要求する、積極的な耳のあり方について示唆するようなライブを形成するようになる。」 
[*4] 「覚えていないことを思い出すために(レコードとは何か?)」 大谷能生著 『ジャズと自由は手をとって(地獄へ)行く』 p25 2013年 

先の高橋の「楽器は体の一部のようにかけがえのないものではなく、その部分はとりかえられるものとなり、(中略)、特殊な個人的技術は否定されるだろう。」という70年代の予見は、そのまま、大谷が指摘する「音と発音体とそれを扱う身体とのあいだに距離を作り、個人的な手の技術に依存しない即興演奏のあり方」に対応してしまう。高橋の予見は約20年後の00年前後の日本の即興音楽シーンにおいてようやくあらわれたといえる。Derek Baileyの試みてきたフリーインプロヴィゼーションでは、伝統楽器を用いる限り、楽器は手の延長となり、音からイディオム(意味)を引きはがそうとしても、そこには"Bailey"という個人はどうしても音に残存してしまう。対して、00年前後にあらわれる彼らは、簡易な装置、または既存の楽器を用いながら、やろうと思えばだれでも操作できる方法によって、「非人称的な音」を響かせてゆく。そのような匿名性のある音楽は、音響的即興と呼称されるようになる。

それでは、はじめに戻ろう。Michel Doneda、John Butcher、Axel Dörner、Xavier Charleら、そして、Streifenjunkoの2人のような、従来の管楽器の発音技術とは全く異なる技術の習熟が必要な特殊奏法は、Derek Baileyと同様に「特殊な個人的技術」に依ってはいる。しかし、そこでは、音響的即興とよばれる音楽の思想を通過した響きがつむがれている。高橋が「電子楽器での操作の概念は、伝統楽器の演奏法に影響をあたえるだろう」というように、伝統的な管楽器がただ単に電子楽器の音色を真似るのではなく、電子楽器のテクノロジが音楽のありかたを問い直すことで別の演奏法がうみだされたのだといえる。その時、その伝統楽器から発せられる音は、従来の響きとは別のものとなる。

人間の吸って吐く行為が音となる管楽器は、人間の声帯の代用として捉えることができる。管楽器による音の「発生」は「発声」でもあるのだと。呼吸と声帯の微細なコントロールによって多彩なニュアンスをつけることが可能な声のように、管楽器には管楽器にしかできない音を生じさせる可能性をもつ。これら管楽器奏者たちの演奏の音のうなり、息のかすれの微細なニュアンスを、ピアノや弦楽器のような、基本的に手の入力のみによる完成された楽器で響かせるのは難しい。

最後に、Streifenjunkoの本アルバムについて特徴的な点として、メロディの別のありかたを指摘できる。1,2,曲目のゆったりとしたメロディは、アルバムを通して形をかえて繰り返される。管楽器をかすれる音の持続の微細な変化の中で、メロディはドローンのようにもきこえる。ドローンとメロディ(Jose Maceda)。または、変奏されるドローン・・・。そして、2本の管楽器からならされる持続音は複数の音程という面だけではなく、音色そのもののハーモニーとしても響いている。その静的な制御は、演奏ごとに微妙に変化し、その点では即興でもあるのだが、同時に、その響きはアンサンブルとして繊細につむがれてもいる。

*ちなみに、このメロディは彼らが参加するChristian Wallumrød Ensembleのアルバム『outstaires』(ECMレーベル)でもきくことができる。このアンサンブルグループは、「ノルウェーのフォークと教会音楽にインスパイアされ、古楽ジョン・ケージ後のアヴァンギャルドに影響を受けながら、ジャズの自由な思考により解放された多次元室内楽ECM評)http://www.nedogu.com/blog/archives/8898」と評され、ピアノ、アコーディオンと弦楽器とドラムにくわえて、この2人の管楽器奏者が参加したサウンドは、何を志向/試行/思考しているのかをとらえようとしてみてもいいかもしれない。