170212 / アピチャッポン・ウィーラセタクン『フィーバー・ルーム』

当日の日記の途中からアピチャッポンの舞台の感想になっています。そこから読むことも可能です。しかし、日記内容と舞台の感想の間にもつながりは多少あります。

 

○1: 起床

前日の飲みから帰って1時位に寝て、起きたのは13時。よく寝た!
起き抜けに、清水富美加の芸能界引退&出家報道を確認。 彼女を知ったのは、自作の変な歌が話題になったときだと思うけども、その時の印象は、かなり変わった子(天然とも違う)、でも、明るくグッドバイブスで好印象でした。仕事を投げ出してまで宗教に走らなければいけないくらいの切実さというのは当人にしか分かりえないことだけども、どちらかというと彼女のパーソナリティよりかは周りの環境起因ように思える。というか自分がそう思いたいだけだろ!っていう。人前での彼女は、闇を一時的に引っ込めるスイッチを巧みに入れていたのかもしれない。

 

この間、遠藤周作原作の映画「沈黙」を観て、あの過酷な境遇を生きていくための信仰、そして棄教の切実さを目の当たりにすると、現代の日本は何と平和なんだろう。というごく平凡な(りゅうちぇるも絶対そう思うに決まっている)感想を抱いた。とはいえ、 現代人も(もちろん、りゅうちぇるも清水さんも)それぞれ大小様々な切実さを抱いているし、特に、ここ最近大変なことになってきている世界を目の当たりにすると、信仰の問題について否が応でも考えてしまう。そのまんま東さんの動物化するポストモダンだが、2011年以前(震災前&自分が学生だった頃)までは、21世紀は、大きな物語(信仰)のない、データベースから生じる多々の小さく即物的な物語を消費するフラットな世界になるのではと半ば期待していたのに、あれはインテリが夢想したユートピア/ディストピアに過ぎなかったのか。データベースを無視し、ねつ造し、自分のみたいようにしか世界をみない人々。と同時に、その反対に、客観的なデータを提示する極端なエビデンス主義というのも人の習性から考えると限界があるように思えてしかたがない。

 

○2: ご飯
全く自分と縁のない世界と価値観に接したい。特に欧(南)米から離れた異国であるほど良い。今日は完全に予定なし。タイの映像作家、アピチャッポンの舞台作品が横浜でやっているときき、詳細は知らないがなんとなく向かってみた。アピチャッポンは映画「光りの墓」と「トロピカルマラディ」の2本を昨年観た。咀嚼できたとは到底いえないが、とても面白かった。

その前に。今日はまだ何も食べていなかった!食べ物もよくわからない国ほど良さそうな気分。関内のネパール料理店に入ってみる。いたる街にネパール人経営のインドカレー屋をみかけるが、ここでは本場のネパール料理を出すとのこと。というわけで、ネパールの定食セットを注文。お店の人にネパールにいったことあるのかと聞かれる。この定食を注文するのは、ネパールに行ったことある人/行く予定のある人が多いらしい。行ったことも行く予定もないじゃん!(行ってみたい!) コーンスープみたいなカレー、タンドリーチキン的なもの、野菜のカレー炒め、サラダなど。 思ったよりヘルシー&美味&かなりの量だった。
https://tabelog.com/kanagawa/A1401/A140104/14041478/

KAATへ向かう途中、まさに今日話題の某教団施設の前を通った。そのとき、10代と思しき二人の女性が建物から出てきた。うーん、みぞみぞする!!

 

○3 アピチャッポン・ウィーラセタクン『フィーバー・ルーム』@KAAT

KAAT着。当日券を購入。会場は大劇場で、舞台作品ときいていたので普通に客席へ通されるかと思いきや、案内されたのは、椅子と座布団が並び、その前にそれほど大きくないスクリーンがかかっている空間だった。ここは舞台上で、前の壁は閉じられた幕なのだろう。舞台作品ときいていたのだが、まもなく普通の映画のように上映がはじまった。作品は三構成に分けられると考えられたのでABCに分け、それに準じて書いてみる。

A
(ここでは記憶が曖昧なため内容は詳述せずに、画面外で何が起こったかを知ってもらう程度に読んでもらいたいのだが)、バナナの木、池、犬、病院などの場面の短いシークエンスが続くうちに、天井から別のスクリーンが降りてきた。また、左右の壁にもスクリーンが準備されていたようで、途中から映像が投影され始めた。計4つのスクリーンに映像が流れているのだが、それぞれには似た光景なのだが別の角度で撮られた少し異なる映像が流れている。 観客はどのスクリーンを観てもいいが、すべてを同時に見ることはできない。
ここで自分が連想したのは、大友良英たちがその展示作品やライブなどで頻繁に試みている方法だった。それは、展示作品だとレコードプレイヤーなどの装置、ライブでは演奏者、といった音の発生源を空間にばらばらに点在させ、 通常のコンサートでの、舞台と観客の一方向の関係の拘束から自由になる方法である。そこでは、 観客それぞれが別々のものをみて/きく状態になり、観客と作品の関係性は多方向になる。
とはいえ、同じ多方向性があるとはいえ、聴覚(音楽)ベースと視覚(映像)ベースの作品では事情が異なる面があると感じている。この着眼点からこの舞台作品について考察するのは今回は保留することにしたい。

B
雨降る夜。映像が映し出されていたスクリーンが天井に向かうと同時に舞台の幕が開く。暗闇の奥から幾多の光の雨が彗星のようにこちらへ舞い落ちる。眩しい。観客は舞台上で光を浴び、作品の中へと誘い込まれたかのようだ。それまでの「作品の観客」としての立場が「作品の中の登場人物」へと反転したといえるか。
闇に靄があらわれる。そこへ光が照射され、雲が生き物のようにうごめく。光がこちらに向けて大きく円を描き始める。目の前に大きな光のトンネルができた。その奥へ吸い込まれそうかのようになる。奥ではもやもやとした人影とおぼしきものがうごめき、かすかに声もきこえてきたが、のち消えた。平面のレーザー光がゆっくりと走査され、閃光を一瞬浴びる。目が潰れそうだ。ここは天上なのか、または、異次元へ渡る空間なのか。

真っ先に連想したのは(そしてtwitterで検索すると多くが同じく思ったようだが)、映画「2001年宇宙の旅」のラストシーンである。あのシーンが光と水蒸気と影、白と黒のみで描かれているよう。(もう少しカジュアルに例えるとドラえもんのタイムマシンの移動空間にも少し似てましたね!でもゆがんだ時計とかは流石にないですよ!)

今日の起床後に感じたことと関連して、人が何かを信仰し始めるきっかけの一つにはこういう経験があるのではないか(特にその人が弱ってるときなどは)、と思いつつ、客席ほぼ最前の右端の座布団に座っていた自分は、どちらかというと光を傍から眺めている感覚で、瞑想も興奮もせず半ば冷めながら眺めていた。 もしかすると、客席ど真ん中で体験すれば、本当に吸い込まれるように感じたのかもしれないと思いながら。

C
光がやみ、幕が閉じられ、一時的に暗闇になったあと、右側面のスクリーンのみに映像が投射される*1。それまで作品の中へ誘い込まれた人々は、再び観客へと戻った、といえるだろうか。

洞窟の中に男と老婆。沈黙が続く。

老婆「夢をみなくなった」
に対し
男「あなたから光を奪ったから」。

で締めくくられる(注:セリフは自分の記憶からの大意)。

自分はこの言葉がとても残酷なものに感じた。そして、ここで意味されている夢とは、「睡眠中の夢」だけをさしているようには思えなかった。(と同時に、なぜ「睡眠中にみる夢」と「理想としての夢」はなぜ同じ「夢」なのだろうと疑問に思った。子供の時以来に。)
おばあさんに何があったかは説明もなく知る由はない。しかし、観客を作品内に誘い込んで存分にアトラクションのような神秘体験をさせたのち、再び観客を純然な 映画の鑑賞者に戻してこの残酷な言葉を突きつけることによって、観客に対して、それまでの神秘の体験者から、「現実=鑑賞者としての立場」に戻ることを暗に伝えているのではないかと私は感じた。

というのも、そもそも、映画鑑賞という形態では、映写機のスクリーンへの光の投影方向と観客のまなざしの方向が一致しており、それ故に、観客は鑑賞者として、スクリーンの中の物語や人物に、自己を「投影」することができる。私がこのセリフに残酷さを感じたのは、その自己の投影という行為ではないか。そして、この投影という行為は、こちら(観客)とあちら(作品) が相対する関係がないと成り立たない。 さらに、こちら(観客)とあちら(作品) は一見近いようで本当は遠く、そこには歴然とした断絶がある。しかし、それを承知で、それでもあちらの世界と接することが出来たと欲望すること。映画を鑑賞するというのはそのような行為をさすのではないか。

と考えるとBパートは、その断絶を超えてしまったといえる。通常の作品の鑑賞では不可能、かつ禁断の横断。観客は自己を作品に投影する立場から、作品から光が投影される立場になることで、こちら(観客)にはいなくなり、あちら(作品)の世界へ入り込む。まるで作品の中の登場人物になったかのように目撃する神秘体験。ここで、多くの人は畏怖の念を感じただろうし、または、全能感を感じた人だっていたかもしれない。しかしそれは実際には、 バーチャルな体験に過ぎず、 主体的な行為でもない。そこでは、作家と技術者による緻密な光の操作/走査と、水蒸気のコントロールによって神秘現象のようなものが生じていて、それによって観客に催眠効果をかけようとしていた、と捉えることだって可能だ。歴史を振り返らないまでも、他人のコントロールによって畏怖の念とか全能感を抱くことは、それによって救われることもあるかもしれないが、支配と服従の危険性と裏腹である。

と批判側の立場をとってみたが、それは、Bパートに特化した場合である。前述したCパートとAパートを考慮すれば、この作品はBパートで神秘体験するためだけの作品ではないことは明らかである。

○検索結果より
しかし、Twitterで感想を検索すると 、そのほとんどが、Bパートの興奮と絶賛の嵐であり (2/14現在) 、AとCパートに関する感想はあまり見えてこない。そのような反響になるのも大いに分かるのだが、まるで神秘体験だったり、テーマパークのアトラクションにのった後のような感想ばかりで自分は違和感を持った。

例えば、私は、人がオーロラのような自然の超常現象をみて感動するのも、または娯楽としてアトラクション体験を楽しむのも(ほぼ)肯定するし、自分もそういうのを楽しむタイプだ。だが、この作品のBパートは実際には自然の超常現象ではないし、単純な娯楽として作品全体が消費されているわけでもないだろう(とはいえ、娯楽と割り切って鑑賞するのも全く問題ないと思います)。

臨死体験のようだった?だとして、そういう人は本当に死にかけた人の気持ちなど気にかけたことがないのではないだろうか。

瞑想で世界観が広がった?だとして、その受け身な瞑想によって広がった世界観で、光を奪われ、信仰を始めざるをえない人々の切実さの何がわかるというのだろうか。

といったところで、もし本当にこのBパートで何か特別な体験を本気でしたと思った人がいたのなら、私にはその人の気持ちなど何も分かってないと跳ね返って来るだろう。人は結局お互いのことなど分かり合えない、どっちもどっちなのである。

相対主義の立場をとってみたが、やはり無批判にBパートばかりが絶賛されるような作品の受容のされ方はいかがなものかと思う。

この作品を体験したほかの人たちにとってAとCパートとはなんだったのか私は気になって仕方がない。Bパートの体験が壮絶すぎて、Aパートも忘れてしまい、Cパートになってもその神秘体験の世界から戻ってこれなかった人も多かったのか。

また、Aパートのマルチスクリーンの上映で提示された、こちら(観客)とあちら(作品)の様々な関係性(多方向性)とはなんだったのだろうか。そして、A->B->Cと向かっていくこの作品の構成にはどのような意図があったのか。まだ考察の余地は無限に残っている。願わくば再度鑑賞したいが難しいだろう。

この作品に興奮し、好奇心が刺激され、技術面で新たな可能性を感じたなんらかの作り手も多いだろうが、そういった人たちはその技術によって何がしたいのか、その技術が孕む危険性を自覚しているのか、不安になってしまった。

(宮崎駿ドワンゴの会長に対するダメ出しみたいやないかーい!)

 

 

*1:右側のみのスクリーンのみが用いられる理由について、こちらの方の洞察が参考になりました。 https://twitter.com/ichrsak/status/831513007205212160