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札幌国際芸術祭2017 / おもいがけなく遭遇してしまうということ

○札幌国際芸術祭に行ってきた

音楽関係ではない自分の身の周りの人に、

「札幌の芸術祭に行く(行った)んですよ」というと、

「へー。芸術祭ですか。(格調高そうで難しそうですね。)」

というリアクションがまず返ってくる。

しかし、17/8/15-16の間に、僕が札幌国際芸術祭のいくつかの展示作品を体験するために札幌市街の様々な会場を巡るなかで思ったのはこうだ。

普段、音楽/アートに興味がない人や、音楽/アートに興味はあるが芸術祭はよくわからん、という人にこそ行ってもらいたいということ。

何よりも、難しいことを考えずに楽しめる作品もあるし、地元だったり、たまたま通りかかった人にも開かれているところもあるのがとても良い。

それに、実際にどの展示をみにいってもまず目にしたのは、子供づれの親子の多さだった。夏休み中ということもあってのことだろう。


○子供にとっての芸術祭
モエレ沼公園

例えば、会場の一つであるモエレ沼公園は元々、その広大な芝生と丘の敷地内で、遊びやスポーツが出来る場だ。

そこには、芸術祭とは関係なしに、多くの子供づれの家族が散歩したり遊んでいたりした。

そして、今回の芸術祭の展示として、公園の併設施設であるガラスのピラミッドに行けば、気軽に作品にも接することが出来る。

そこで無料で開放されている展示の(with) without recordsでは、沢山のレコードプレーヤーがそれぞれ勝手に動いたり止まったりする様子を、子供が興味深そうにみていた。


・札幌芸術の森美術館: クリスチャン・マークレー展

札幌芸術の森美術館のクリスチャン・マークレーの展示は、レコードや機械などの廃棄物が解体されゆく様子などを、映像や音の作品にし、それがある種のリサイクルだ!ということを示しているように感じた。

そこには、現代社会に対してなにかしらのメッセージを訴えるという真面目さもある程度あるのかもしれないが、展示全体の雰囲気から感じるのは、ユーモラスさや絶妙な馬鹿さ加減であって、これも子供が面白がれそうな内容だった。

どちらかというと男の子っぽさなのだとは思うが、子供の遊び心の延長のような感覚がある。

 

・札幌芸術の森工芸館: ∈Y∋ 《ドッカイドー/・海・》

芸術の森内の∈Y∋(山塚アイ)の作品は、本来は広い暗闇の部屋で、まるで自分が銀河に浮かんでいるかのようなマットの上で、静かなアンビエント音楽をききながら瞑想的な感覚にさせるような作品である…はずのものだった。

しかし、自分が体験した回では子連れが多く、お化け屋敷的な感覚で子供達がきゃっきゃっと楽しんでいる瞬間もあった。これについては後にもう少し詳しく書く。


札幌市立大学: 毛利悠子《そよぎ またはエコー》
・金市舘ビル: 梅田哲也 《わからないものたち》

または、梅田哲也、毛利悠子の2人の作品に共通する特徴をあげてみると、それらはどちらとも、展示空間に点在している様々な装置の前を通り過ぎる中で、それまで止まっていた装置がいきなり動き出したり、装置に近づくと実は静かに音が鳴っていることに気づかされる、といった点がある。

そこには、「なんだろうこれ?」と、その人の足を止まらせてしまうような、大人/子供を問わず、好奇心をくすぐらせる仕組みがある。


○作品理解の難しさ

しかし、同時に難点だなと思ったのは、装置は常に動いているわけではないので、後になって装置が動き出すのに気が付かずに、なんとなく通り過ぎて帰ってしまう人が多いということだった。割とそういう瞬間を目撃してしまった。

・札幌芸術の森美術館: 鈴木昭男《き い て る》

ほかに分かりにくい、と感じたのは鈴木昭男の作品だった。例えば芸術の森美術館の作品《き い て る》は、石が敷き詰められた庭のような場に、10個くらいの丸く白い台が点在され、その上に人が立って、そこできこえてくる外の音に耳をそばたてる、というものだ。

しかし、この作品は、子供/大人に関わらず、配布用の解説を読んだ上で、その意図を理解し、鑑賞者が耳を澄ましてきくという、自主性を発揮しないと作品が成立しないのでは?と思ったし、実際にこの場に足を踏み入れている人を自分はみる機会がなかった。

子供にどう作品と向かい合えばいいか親が教えてあげる、というのも自分が親になった時は意識したいなあ。

(というか、子供に限らず一緒に鑑賞してる人に対しても意見を交換した方がいい。一人一人の体験で感じるものはそれぞれ違うはず)

例えばこの作品だと、

「ほら、この台の上に立って、耳を澄ましてごらん。風の音とか、虫の音とか、遠くの車の音とか、空調の回転音とか、色んな音がきこえるでしょ」

とひとこと言うだけで、子どもがみたり、きいていた世界がガラッと変わってしまうこともあるのではないか、と思ったりする。


○たまたまそばにいた人たちの、ささいな会話集

ところで、この芸術の森内で、たまたま前を歩いていた父娘の会話がきこえてきた(勝手にごめんなさい)。

女の子「さっきの大学の廊下のやつ(注:毛利悠子作品)面白かったね」

父「そうだね。とても綺麗だったね。ピアノが突然鳴ったりして」

女の子「あ!あの鳥、鳩かな」

父「うーん。鳩っぽいけどなんだろう。フランスだと、鳩とかうさぎを狩りでとって料理するんだよ」

女の子「えーかわいそう…」

 

・旧りんご倉庫: 梅田哲也《りんご》

または、札幌の落ち着いた町中にある木造の旧りんご倉庫で行われていた梅田哲也の展示にて。そこらへんで農作業か何かをしていたような近所のおじいちゃんとおばあちゃんがたまたま通りかかった。

おばあちゃん「最近ここでなにやってるの?」

ときき、係の人がもろもろ説明する。ちょっと騒がしくなった(全然気にはならない)。おばあさんが中を覗く。

おばあちゃん「あら、綺麗。不思議な世界。綺麗ね〜」

と、おじいちゃんや係の人との会話が弾んだのち帰っていった。それからは静かに鑑賞できるようになった。

その後、同じくその場に来ていた女性が僕に、

女性「これ、このまま(水が滴るだけで)動かないんですかね」

僕「んー。(この容器内の)水がある程度溜まると、なんか動きそうですよね」

水滴が滴る様子と同時に、装置が動き出すのをじっと静かに見守る時間が何分か生じた。

そして動き出した瞬間、お互いに、

「おおー!」

となった。


 ・再びモエレ沼公園

または、モエレ沼公園で自転車で走っていると、1人のおばさんに呼び止められる。

おばさん「あの山に沿って大量にある自転車なんなんですか?いつもはないんですけど」

僕「(そうなの?)あー芸術祭のオブジェというか作品なんですかね。あんな所に自転車とめるの大変そうですね〜」

僕が作品に対して、一対一で向かい合う以上に、偶然そこに居合わせた人との関わりは、自分以外の人の作品との関わり合いを気付かされるものであった。それは自分がどう作品を捉えるか以上に、お互いの経験を豊かにする。


○作品の外からまぎれこむ音/人

さらにいえば、音の出る作品というのは、その作品が置かれる環境によって受ける印象が大きく左右される、というのが肝だと感じた。とくに音数が多くない作品だと、そこには作品以外の音がまぎれこんでしまっていることが分かる。完全に外部の環境音を遮断することは困難だ。

・再び毛利作品

例えば、毛利悠子の作品は、大学構内の建物の高い位置にある一直線の通路を歩く上で、ある種の物語のようなものを生じさせている。

展示の入り口は暗いが、前を進んでゆくとそこはガラス張りの空間になっており山や近くの住宅街といった外の景色がみえてくるようになっている。

その外の景色は、その時の天気や、朝-昼-夕の時間帯などの要因で当然変化するだろう。それによって、作品から受ける印象も相当変わってくるんだろうなと感じた。

自分が鑑賞した時は、とても天気が良かった。そこでは大学構内の草刈りの音が聞こえてきたり、近くの木の葉が風で揺れる音がたくさんきこえてきたりした。

しかし、それは邪魔だなー、というよりは、展示物である装置のコイルから鳴る「ジーッ」という音などと、共演しているかの様にきこえたりもする。

・再び山塚アイ作品

また、山塚アイの作品に戻る。これは広い暗闇の部屋全体が作品になっている。暗闇で危険なため、係の人は入場する人に対して、注意の言葉をかける必要がある。

「足元にお気をつけください」

「マットの上に座ったり、横になっていただいてもかまいません」

または、暗闇がゆえに、はぐれる可能性もあるので、親子どうしなどで声をかける必要も出てくる。そのため、その場は喋っても問題ないような空間になりがちであった。

それに加え、会話が少なめになったとしても、暗闇を歩くとすり足になりがちのため、マットとスリッパがこすれる音が目立ったりする。

この会場で響いているのは、山塚アイのハイノートの声にコーラスやディレイのようなものをかけた静かで神聖な感じのアンビエント音だが、その場に人が多いと、それをじっくりきくことも難しい。

その時は純粋に作品に没頭できなくなってしまうが、これは作品の都合上、そうならざるをえないもので仕方がないといえる。柔らかいマットの上でゴロゴロしても良いとのことなので、憩いの場のようにもならざるを得ない。自分自身も疲れていたのでいい休憩になった(笑)。

座って休憩していると、近くに親子とおぼしき2人が近づいてきた。

男の子「なんかここにあるよ」

父「なんだろう」

僕「あ、人です(笑)」

男の子「なんだあ(笑)」

父「すみません(笑)」


・再び金市舘ビル: 梅田哲也 《わからないものたち》

8/15の19時ころに札幌市街地のパチンコ店が入っている古い建物(元デパートらしい)の7階へ梅田哲也の展示へ赴くと、なぜか人っ子一人もいなかった。

しかし、広い空間内で装置が動いて音が鳴ってたり光が点滅しているので、やっぱり展示中なのかなと思って入ってみた。パスもあるし問題はないだろうと。暗めの空間で一人で作品に接することが出来たのは稀有な体験だった。

と、思っていたら、なんか控室っぽい奥から口笛(ナットキングコールのラブ、を、くずしたものにきこえた)が聞こえる。これは、作品のスピーカーとかからの音じゃなさそうだぞ?と思っていたら、しばらくして梅田さん本人が奥からでてきた(笑)。パンフにも情報はかいていなかったが、お盆なので今日は休館にしていたとのことだった。初対面だが、たまたま共通の知り合いがいたので少しお話した。

梅田さん「あの人、味があっていいですよね」

僕「いやあ、ずぼらすぎて困ってます(苦笑)」


○おもいがけなく遭遇してしまうということ

今回色んな作品に接して共通して思ったのは、それらはどれも、美術館で絵などの展示物をみるのとは全く違うし、音の出る作品についても、音楽を1人できくのとも、ライブで沢山の人と一体感を持ってきくのとも全く違うということだ。

そこには、純粋に「わたし(たち)」が「作品」を鑑賞するという、一対一の関係の完結性だったり、「わたし(たち)」が「作品」世界へ没入していくといった要素を阻むような、おもいがけなさを発生させる仕組みがある。

それは、展示空間の作品内で偶発性や突然性を仕組んでいるのもあれば、それだけでなく、ほかのお客さんや、天気やその場の環境からおもいがけなく、紛れ込むということもある。

そもそも、このようなおもいがけなさ、というのは、日々の生活の中で、どこか知らない場所にいったり、知らない人と出くわしたりすると頻繁に起こることだ。

この芸術祭での体験のおもいがけなさには、日々の生活の延長線上であるような感覚があった、ともいえなくはない。

もう少し個人談を書くと、芸術祭巡り後に、とある人に連れて行ってもらったバーで、店員や他のお客さんとちょっとした会話をしたり、すすきののバルで、たまたま隣に座った高田純次的ちょい悪オヤジに、おおよその人格を見抜かれ軽くアドバイスを受けてしまったりしたのだが(笑)、これらの体験と芸術祭の体験はほとんど等価のように感じている。

以上は、自分が体験したことの一部にしかすぎないし、作品についてもう少し詳述することもできなくはない。しかし、もっと時間をかけてみないと分からないこともたくさんあると思った。さらに他にもたくさんの会場だったり、イベントがこれからあったりする。

興味が少しでもあり、予算、時間、身体的に多少の余裕のある方には、実際に行ってもらうことを強くオススメする。

自分にしか起こらないおもいがけない遭遇が、きっとそこで生じることでしょう。