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高橋悠治 『エリック・サティ:新・ピアノ作品集』etc. / ピアノの別の顔

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しおれた植物に再度水をあたえる
しかし、今までとは別の場から汲みあげられた水を
蘇生したあとは、かつての姿を保ちながらも、よくみると以前とは別の咲き方をしている
手入れが行き届いた優雅に咲きほこる花々、というより、風になびかれ、自然におもむくまま、ひっそりと咲いている花のように


または、昔から知っていた(つもりの)人が、知らぬ間に今までみたことのない別人のような表情をみせているかのように、以前耳にしたことのあるはずの曲が、今まできいたことのなかった曲のように響いている。

見知らぬ過去とまだ見ぬ未来が、今、同時に自分の前にあらわれているかのように。


以上は、高橋悠治のサティの新録音をきいて思い浮かんだことだが、これは彼の過去の多数の録音や実際のコンサートでクラシックの古典のピアノ演奏をきく際によく感じることでもある。

先日、79歳をむかえたピアニスト、作曲家の高橋悠治は、1960年代から現代音楽をはじめとしたクラシックのピアニストとして活動をはじめ、その後は欧米を飛びまわりながら実験音楽電子音楽へ取り組んだものの、一度それらを捨て、70年代後半からは水牛楽団での活動を行うなど、日本を含めたアジアや他の西洋以外の音楽へ向かう。

高橋の70年代の著作のページをめくると、そこには痛烈かつ真摯な西洋批判で溢れている。それは、閉塞的なクラシック音楽界のみならず、同時に社会批判でもあり、さらにいえば、それまで実験音楽電子音楽を含む西洋音楽に関わってきた自己への批判とも読み取れる。実際、一時的にピアノを弾かなかった期間もあったようだ。

しかし、彼は必ずピアノ演奏に立ち戻っている。そこでは、ピアノという西洋を代表するような楽器を、いかにして西洋以外の観点で扱うのか?という批判的態度をもって鍵盤に向かい続けている。

このことについては、70年代から現在にわたる彼の文章に幾度と記されている。興味があれば書籍はもちろんだが、当初はミニコミとしてはじまり、現在ではWEB上で継続されている水牛というサイトでは、00年以降の彼の文章のアーカイブが充実しているため参照されたし(http://www.suigyu.com/yuji/ja-archive.html)。

ところで、このような彼の思想が実際に演奏でどうあらわれているか。

例えば、77年録音の高橋によるバッハインベンション1。
私は、これをきいたとき、比喩ではなく、椅子から転げ落ちるほど驚嘆した。
というのも、八分音符と三連符の重なりと連なりをもって、バッハのこの曲をアフリカのポリリズムのようなアプローチで演奏していたからである。

バッハインベンションは、クラシックピアノを習う者なら、初歩のバイエルを一通り終えたあとくらいに手にし、この曲はその1ページ目として誰もが弾くであろう有名曲だ。耳にしたことのある人もかなり多いだろうし、一般的な演奏を知っている身からすると、高橋の演奏はあり得ないアプローチにきこえるはずだ。注*1

話はかわり、高橋の電子音楽家としての側面について。

こちらについても60年代から始まり、その後、やめては再開している印象を受けるが、00年代半ばの渋谷慶一郎関連の活動以降の、ここ10年ほどはコンピューターを使用した作品や演奏はあまりない印象がある。

とはいえ、ここ数年の高橋のピアノのコンサートを体験すると、彼はコンピューターを、もはや必要としていないのではないかと感じるのだ(もちろんコンピューターだからこそ出来ることもあるのは承知の上として)。

例えば、ギタリストの内橋和久のようなエフェクターを駆使して音響を発する音楽家との即興演奏においても、近年のライブでは、コンピューターを使わず、ピアノ1台で立ち向かっている。
しかしそこでピアノからきこえる音は、電子音響のようであり、それと同時に、コンピューターには制御不可能な判断の瞬発力/指先の繊細なコントロールをもって響きを生じさせながら、ピアノを演奏しているかのようなのである。

さらにつけ加えるならば、このような即興での印象は、彼のクラシックの古典の演奏においても同様に感じられるのだ。

たとえば

吸っては吐くたびにゆらぐような緩急の呼吸のリズム
右手と左手のタッチのわずかなずれ
随時踏み込まれるペダルから生じるふわっとした音の拡散
消えゆく音と再びあらわれる音のあいだの透明な空白の時間

そこには、なびいては止まる風に身をゆだねて自由になりながら、ゆれ動いたりつっかえたりしつつも、一歩一歩進んでいく姿がみえる。

そして、そのあゆみの中で目撃する光景は、未来であると同時に過去であり、一歩踏み出せば二度と同じようにみえることはないようだ。

一歩ごとに、響きの景色が時空を超えてうつり変わるような反復。


このような演奏は、西洋に全くとらわれない、いや、むしろ西洋から遠く離れようとする作曲家としての面と、音楽を音の響きそのものから捉えて空間に描写していく電子音楽家としての面があるからこそ出来るのではないだろうか。作曲しない伝統的なクラシックの純粋なピアニストには出来ないだろう。

今までのクラッシックのピアニストの誰もが見向きもしなかったリズム面と音響面から、古典をあらたに捉え直しているかのようなのだ。

彼は、古典を、五線譜内の音の拘束と従来の西洋的な解釈から解き放つことで、かつてあり得ていたかもしれない失われた響きを呼び起こし、それと同時に、テクノロジーが人の感覚や音楽のありかたを問い直すことによって生じる響きの未来を描こうとしているかのようである。

と書いてきた上で、本人の言葉の方がしっくりくると思い、一部引用して終えたい。これは、彼が2004年にバッハのゴールドベルクを再録音した際のものだ。

均等な音符の流れで縫い取られた和声のしっかりした足取りをゆるめて 統合と分岐とのあやういバランスの内部に息づく自由なリズムをみつけ 組み込まれた小さなフレーズのひとつひとつを 固定されない音色のあそびにひらいていく といっても スタイルの正統性にたやすく組み込まれるような表面の装飾や即興ではなく 作曲と楽譜の一方的な支配から 多層空間と多次元の時間の出会う対話の場に変えるこころみ 
http://www.suigyu.com/yuji/ja-text/2004/goldberg.html

*1:私は音楽の研究家ではないし、バッハの研究にどのようなものがあるかの知識は皆無なため、詳しくは専門家にお任せしたいが、私の気付きをここで書く。YouTubeでバッハインベンションの一曲目をきき漁ったところ、アンドラーシュ・シフが、この曲を高橋と同じように、八分音符と三連符のアプローチで弾いているのを確認した。https://www.youtube.com/watch?v=31r5ZgWeC0o そして、アマゾンレビューより、三連符で書いたこの曲の自筆稿が存在することを知ったhttps://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RGYE0J0R196YT/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=B000091LCG。これは、クラシック界では有名なことなのだろうか。とはいえ、高橋とシフの演奏は全然異なってきこえる。シフのアプローチは西洋的なリズムの域に留まっているように私には感じる