メモ/ランダム

memorandum || (memory / random)

2019年12月中旬

▪️「Jackie」「Julieta」

週末にアマゾンプライムで映画JackieとJulietaを観た。偶然にも、両作品ともに、イニシャルがJの女性の名前がタイトル。そしてともに喪失の物語であり、悲しみの中でひそやかにも希望を見出そうとする物語だった。

とても感銘を受けた鑑賞後に、画面を下にスクロールをしてついレビューを目にし、最悪の読後感で映画の余韻は台無しに。悲しみに暮れる女性にあのような感想を抱ける人間性とは、以下省略。とはいえ、これも2019年のインターネットのいかにもな日常の一部で、とても現代的だ。


◾️Mica Levi

両作品ともに音楽も素晴らしい。特に「Jackie」の音楽担当のMicachuことMica Leviはイギリスのアヴァンポップ アーティストの認識だったが、映画内で流れるスコアは、映画のトーンと相まった厳粛なストリングスを基調としていて、こんなことも出来るのか、と驚く。

とはいえ、グリッサンドで凋落/高揚するピッチ、トレモロの揺らぎなどの弦楽のアコースティックな奏法が、どこか電子変調的(例:ピッチベンド)に響かせているように感じられるのは、まさにアヴァンな感覚の彼女らしい。と同時にその響きは、ナタリー・ポートマン演じる大統領夫人の心の揺さぶりそのものの描写にもなっているのだ。


◾️英語圏以外の名前は覚えにくい

ジュリエッタの監督は、

ペドロ・アルモドバル

で、大好きなスペインの映画監督ですが、いつも

ペドロ ・アドモルバル?

ペドロ ・アルドモバル?

と混乱してしまい、いい加減覚えてしまいたいもの。

ややこしい名前といえば、

シックスセンスでブレイクしたインド系の映画監督の

M・ナイト・シャマラン

も、シャラマン、とどっちか分からなくなる。

あとは、デヴィッド・リンチ等で有名な映画音楽の、

アンジェロ・バラダメンティ

もバダラメンティ?

となってしまう(めちゃくちゃ好きなのに)。


▪️Superorganism?

勘違いといえば、去年Superorganismという文字列を初めてみたとき、Super orgasm?凄い!快感むきだしで振り切ってるバンド名だなあ!と3日くらい感心&勘違いしてました。

間違いに気付いた後は「緑黄色社会」くらいつまらないバンド名だなとがっかり。

絶対ほかにもそう思った人がいるに違いないと思い、ツイートしようとしたものの、恥ずかしいのでようツイート出来んく、下書き行き。

でも、音楽はなかなかイケてる、と当時思うとりました。が、今久しぶりに聞いてみると…、驚くことに、物凄く古い音楽に聞こえる…。いや、いかにも2018年ぽい音楽だが、その2018年が(海原)はるかかなたに思えるような…。

ところで、どなたかSuper orgasmというユニット名で活動してもらいたいもの(私は絶対いやです)。

最近あまりエンタメ産業にセックスシンボルっていないような気がするが(ポルノへのアクセシビリティが人類の歴史上かつてないほど格段に向上したからか?)、壇蜜or橋本まなみですらちょっと違う。官能、といえば今でも菊地成孔かもしれないが、これも違和感がある。憂鬱がないからか。

やっぱりDMM改めFANZA的に恵比寿マスカッツ?又はやっぱり叶姉妹パリス・ヒルトン

しかし、これだと2019年以前に2018年感すら全然ない!

ファビュラス!エクスタシー!スペクタキュラー!


▪️Vikingur Olafsson : Bach Kaleidoscope

先生から教えてもらったアイスランド出身のピアニストのアルバム。35歳。ピアノのバッハをまともに聞いたことがあるのはグールドと高橋悠治くらいだが、バッハのピアノ演奏で、現代性をここまで感じさせることができるとは驚き。しかし、具体的にどこが現代的なのかほとんど言葉に出来ない。もちろんこの現代的とは「現代音楽的」という意味ではないし、ましてや「ポスト・クラシカル通過後」の、といったニュアンスであるわけがない。

ただ、曲ごとの響きの表情の多彩さに驚嘆し、それは指先とペダルのニュアンスで変化させているのは勿論だが、録音の方法も彼の作る曲調に追随して変えているのか、そう感じさせる響きの違いも結局全て指先でコントロールされたものなのか、よく分からない。


とにかく、正統的に聞こえるバッハの演奏であるにも関わらず、全く新しく響くバッハでもあるという面で、今は2019年なんだとも実感できる透徹とした演奏。最近よくきいてます。普段クラシックをきく/きかない人に関わらずきいてみてもらいたいアルバム。

グールドと高橋悠治以外のバッハのオススメもあったら教えて下さい。

 

▪️坂道の鍵盤/氷上の鍵盤

高橋悠治のバッハをきいていると、石が坂道をコロコロと飛び跳ねながら転がる様子が思い浮かぶ。坂の凹凸と回転する石の接触で、いつどの方向に飛び跳ねるか分からない偶発性がありつつも、その石は、意思を持って先を見越しながら、決して脇に逸れることなくコントロールして走行しているような運動である。指がその回転する石で、鍵盤が坂道のようだといえる。

指と鍵盤の接触に生じる運動の揺らぎの偶然性を受け入れた演奏といえるか。重力と摩擦とその反作用の力学の系がみえる演奏である。

Vikingur Olafssonのバッハは、氷上を推進する運動体を想起させる。摩擦も限りなく少なく、重力からも自由になった運動体。その運動体をスケートで例えると、鍵盤が氷上であり、指先が研ぎ澄まされた刃のようだといえる。ただし、その刃はあらゆる柔軟さを持って氷の結晶を様々な形に削りとり散らしていく。それが万華鏡のような光景として響いている。


とアナロジーをしたのも、バッハのアルバムのタイトルが、kaleidoscopeからなのだが、アイスランド出身で氷に例えるのは、ダジャレ以前に文字通り(literally)で安直すぎる?とも思いつつ、そう感じたんだからしょうがない。それに、その人の出自と音楽性が関連することが多々あるのは間違いない。アイスランドといえばBjorkだが、彼女をきけば、辺境は宇宙に近いのではとひしひしと感じる。そして、Olafssonの演奏も人間じみていないのだ。3月にドビッシー/ラモーの新譜がでるらしいので楽しみですね。

記憶の影 その1: 夢

◾️光の消失 
起きているとき、人はその目で物そのものをみているわけではない。人は物体に照らされた光の反射をその目でみている。光がないと人は物をみることができない。
夕方になると日が沈み徐々に光が失われやがて夜になる。暗闇の影が深くなると、人のまぶたは自然に閉じられ眠りにつく。地球の自転が太陽の光を遮断するのと連動し、人間も自らまぶたを閉じて光を遮断する。
夜眠っている時は、こうして二重の状態で暗闇が作り出される。

◾️空間のまぶた

暗闇は夜にのみあらわれるわけではない。
太陽が空に浮かぶ時、その光を私の手前で遮る対象があると影が生じる。
動物は影のある木陰や巣穴があって暮らすことができる。生きるには光と同時に影が必要だ。そして、動物でもある人は古来、洞窟で暮らしていたが、そのうち建築を始め、住居を作るようになった。
住居内の空間である部屋を作ることは光を遮断し、夜を模す空間を作るためでもある。窓は部屋の目であり、すだれや、カーテン、ブラインドなどの日よけは、そのまぶたである。
こうして夜が来なくても、人は自分の目、そして部屋の目(窓)を閉じることで光を遮断し暗闇を作り、夜に同化して眠ることができる。

◾️夢の光
その暗闇の中、人は目で何もみることができない。
でも、そのかわりに夢をみることがある。暗闇の中、人は夢をみることで自ら光を生み出す。

◾️過ぎ去る光の記憶
夢は起きているときに目でみた映像の記憶が元になって生じる(夢では視覚情報以外も駆動しているということはひとまずおいておく。盲目の人も夢をみるという)。
しかし、記憶の多くは鮮明に思い出すのが難しい。
なぜなら、起きているときに網膜に映った実像の光はすぐに過ぎ去り自分の目の前から消えて行くからである。

◾️雪解けと記憶
それでも、それらは過ぎ去って消えてしまうのではない。雪解け水が地中を流れるように、自分の身体の中に曖昧にとけながらも残っている。それらは幾重にもなって流れている。起きているときも、眠っているときも。

◾️記憶の喚起(起床時/睡眠時)
起きているとき、人はひとつの時間軸に生きていて、目の前の現実をきっかけに記憶が引き出される。それによって、思い出したり、言葉を話したりすることができる。
それに対して眠っているとき、人は視覚的には目の前の、今、現在、を体験することはないから、それをきっかけに記憶が喚起されることはない。

◾️記憶の魚
海の中に記憶が広がっている。その海の上に夢見る人が船にのっている。そこからは海=記憶の中に何がひそんでいるのか把握はできない。
そして、そこで何かを釣ろうとしても、望むものが出てくるとは限らない。むしろ自分の希望や意思とは関係なしに、ひゅるひゅると泳ぐ記憶の方から勝手にあらわれるかもしない。魚のように泳ぐ記憶。または、ただ漂っているだけ記憶。実際の釣りと同じで 、夢でも何がでてくるのか見当がつかない。
そして、飛び跳ねた魚が海に戻るように、夢では何かがあらわれたとしてもそれはすぐにきえてしまう。記憶の残像が連鎖する。それが夢となる。だから夢が過去そのものであることはない。

◾️人=カメラ(記憶装置)
起きている時、人は眼でみた映像を脳に保存している。ならば、人は「カメラ」になって眼で見た光景を撮影をしているといえるだろう。この時、眼はレンズとなり、脳がフィルムやメモリになっていると例えられる。
しかし、本物のカメラと異なるのは、カメラがレンズを通してフィルムや記憶素子に映像をそのまま記録するような処理が、人の脳にはできないことだ。実像はフィルムに焼きつけられたり、素子に電子情報を保存されることなく、脳内に曖昧に残るだけである。脳はカメラの実機と異なり、記録装置でなく記憶装置である。

◾️脳内の編集室
そして、眠っている時、人は、起きている時に撮影した映像を脳内で編集しているといえる。睡眠中の脳内は編集室となっている。
ところで、現実としての編集作業は、映像をみながら確認するものであるが、眠っている時はその確認が出来ているとは言い難い。夢のストーリーの荒唐無稽さは目視確認を無視した脳内の編集にあるといえる。

◾️編集室の投射機
夢の中では、その編集室で作られた映像がみえている。映像は光として出力され、「人は夢の中で自ら光を生み出す」と考えれば、その脳内の編集室には投射機もあるといえる。
しかし、毎回の睡眠で夢をみるとは限らないから、そのプロジェクターは魚が飛び跳ねるように気まぐれに映像を投射する。

 

◾️眼=スクリーン
ではその脳=編集室で投射される光はどこに映されるのだろうか。夢=光は聞くものでも臭うものでも味わうものでもなく、基本的に見るものである。だから、その光は目に投射されると言える。起きている時、眼はレンズとなり、外側からの光を取り入れるのに対して、夢では「眼がスクリーンに」なって、自ら生み出した光を内側から映しているのだ。*1

◾️夢の上映

以上より
「夢とは個人の身体内で作られた私的な映画である」
といえる。

夢とは、監督も主人公も、カメラも録音も、編集も上映も、全て自分自身によってなされる映画なのである。自己完結型の映画なのだ。

◾️映像は夢たり得ないのか
カメラで保存された映像は現実をそのまま切り取って再生されるわけではない。むしろ、編集や再生の方法によっては、その映像が夢のようになりうることだってある。
「夢とは自己完結型の映画である」と指摘したばかりだが、「映画とは他人と共有可能にした夢である」ということもできるだろう。

続く

*1:これについては福尾匠氏の著作「眼がスクリーンになるとき」のタイトルからヒントを頂いた。しかし、まだ1章までしか読み進められていない。それに、学者による研究と比較すると、この文章は夢についての個人的なアナロジーにすぎない。

『ひかりの歌』

2019/1/20 ユーロスペース

「ひかり」をモチーフにした4つの短歌。それらを元に作られた4つの短編の物語は、ゆるやかにつながりながら季節も心模様もめぐっていく。
4人の女性の4編の物語のつながりは、それこそ短歌を交互に読みあい続ける連歌のよう。
さらにいえば、日常を言葉で切り取った短歌から、別の形の日常を、映像で再度作り変えられるさまも連歌のようだ。

選ばれた4つの短歌自体は連歌となっているわけではないが、この映画には、短歌から物語への、物語から物語への、31文字で描かれた光景から映像への、闇から光への、光から闇への、といった様々な変容がある。
または、4つの短編全てに、日常における行為がいくつか異なる形で描かれていたりもする。
(これについてはこれから観る人のために書かない。あまりにもささやかな描写のため、他人の感想を検索して読んで初めて分かったのもいくつかあった)

以上のように、この映画では、様々な事象が渡され、引き継がれ、作り変えられていて、そのうつろいがとても心地よい。
しかし、それと同時に、この映画では、登場人物が自分の思いを他人に伝えることに関しては、全くスムーズに行われない。
皆、何かしらの思いを秘めつつ、それがなかなか上手く伝わらないのだ。
その思いは、打ち明けられずに断絶されたままにされたり、反対に、傍若無人にも打ち明けてしまい相手を困惑させたりする。
この映画では、人々の日常が描かれるが、その日常とは、時には心がかき乱されることがあることも含めた日常なのだ。

例えば、気持ち悪い人が現れる。面白い人と出会う。知らない人と会話しなきゃいけない。心の探り合いで生じる沈黙。特に何も起こらない退屈な時間。といったシーン。

このようなシーンを観ていると、この映画は間違いなく劇映画だとはわかっているのにも関わらず、スクリーン上の人物とこの出来事は本当にこの世界に実在しているように感じるようになり、それは自分が今まで観た映画にはない感触だった。
それは登場人物への共感や、自己投影や、臨場体験、といったものというより、それがほとんど現実にしかみえない、といった感触だ。

上映後のトークで、野球部の少年、カメラ屋の男性、定食屋の夫婦、といった登場人物は、本当に現役の野球部の少年であり、カメラ屋であり、定食屋であることが明かされるが、実在する人々や空間をほぼそのままその場所に登場させているのも、要因のひとつだろう。
ドキュメンタリー映画やドキュメンタリー的な映画(例えば是枝監督やイタリアのネオリアリズモ)もあるが、そういった作品の感触とも全く異なるように感じる。その理由は今のところ自分にはわからないが、フィクションとドキュメンタリー、そのどちらをも捉えるカメラについて考えることで、なにか浮かび上がるかもしれない(下記引用文献でも示唆深い言葉がある)。

ただ、自分の今までみた映画だと、ペドロ・コスタ*1ポルトガルのスラム街に暮らす人々とともに作った諸作とはかなり近く感じた。
それは、定点観測で人物を捉え続けたり、人が闇に溶けていく様、といった具体的なショットの近似性も挙げられるのだが、全体としては、映画をとるスタンスに同じ匂いがしたのだ。

ここで、去年(2018年)刊行された、「歩く、見る、待つ ペドロ・コスタ映画論講義」より本人の言葉を引用する。

映画とは、私たちにとって芸術である以上に、現実的なものだということです。人生そのものだと言っていいかもしれません。映画は、私たちが暮らしている世界、さらにいえば人間の極めて近くにある存在です。意図せずとも現実を映してしまう。


現実との関わり方を考察することが、芸術的なことを考えるよりも映画を作るうえで多くのことをもたらしてくれる、そのように私は思います。

映画には真実しかないのです。そして真実というものは、皆さんそれぞれが世界に対してどのように対峙するか、その方法にあるのではないかと思います。

ペドロ・コスタは当たり前のように、彼の映画製作においての前提に立って講義の冒頭でこう発言している。しかし、彼の今世紀の作品では役者を使わず、現地で暮らす人々とともに、リスボンのスラム街とそこに暮らす人々を描いた作品を作ったりしている。このスタンスをここまで突き詰めて映画を撮っている人は少数派だろう。ペドロ・コスタからすれば、ほとんどの映画は観客が知らない世界に連れて行こうとさせている作品なのではないか。

そのような中、「ひかりの歌」では、実在する人や空間とともに、そこに共存する役者も、役者以前に人そのものであるように存在している。そうして、映画が現実そのものに肉薄しようとしているのだ。

そこでは、言葉であらわさられないにしても、人々の秘めている思いが浮かび上がるように映されている。

または、「ひかり」を通じてこちらにその思いが移されているともいえるか。


それは、「あちら(映画)」と「こちら(観る人)」の世界を媒介するカメラが、この映画ではどのようなことがあっても、常にやさしく人々と街をまなざしているからだろう。

 

www.youtube.com

 

『フロリダ・プロジェクト』真夏に溶けるソフトクリーム

道端の人に買ってもらった一つのコーンのソフトクリームを子供3人でシェアしながら舐め合う姿が印象的。

子供たちにとって、甘い食べ物はご馳走である。めちゃめちゃ美味しそうに、ベトベトになりながら食べる姿の愛らしいこと。
子供たちは、ちょっとしたことに幸福をみつける天才なのだ。
近所の探索は、子供たちにとって大冒険であり、近くのディズニーワールドにも負けないアトラクションにもなりえる。
楽しそうにはしゃぎ、遊び、悪戯に走って大人達を困らせる子供達から、貧しさの苦難よりも生活の楽しさを感じとれるのは、この映画が基本的に子供の視点から描写されているからである。
しかし、無邪気な子供の姿は本当に救いなのか?と問われれば、未来のことを考えると厳しいのが現実だ。

映画では描かれることなく終わるが、子供たちのふざけた遊びも成長のうちにできなくなるし、アイスクリームを他人から買ってもらい、友達と舐めあうことができるのもせいぜい低学年までだ。
それに、あの状況のまま子供たちが成長できたとしても、彼らもまた、親が直面している問題に再び立ち向かうことになるに違いない。時に幼児的にはしゃいだり、怒ったりする母の姿には、将来のあの女の子の姿と貧困の連鎖が映っている。

ソフトクリームの冷たい刺激と甘さは、フロリダの炎天下の中で束の間の喜びを与えるが、それは一時的に暑さをしのぐだけで、その甘さは喉を乾かしもする。
ディズニーワールド近郊の観光地のモーテルを賃貸がわりに月1000ドルで暮らす彼らのギリギリの生活は、結局、真夏のソフトクリームのようにすぐに溶けて崩れ落ちてしまうほど脆い。

ところで、子供たちがソフトクリームを舐めあうシーンが、性的な意味合いを全く感じさせないように描かれていたように、この映画において大人の性的な描写を避けつつも、間接的にそれを描く演出は見事である。この演出で観客がみることができるのは、子供の性の目覚め前の光景となっているのだ。

同時に、そのシーンで流れる音楽は母親のスマホから流れる最新のヒップホップなのである。(私の記憶では、この母親のスマホからのヒップホップのみが、この映画で流れる音楽だったと思うが勘違いかもしれない)
流石にリリックまでは把握してないが、主に金とセックスと差別についてのヒップホップ(もちろん例外も沢山あるだろう)が彼女にとってアクチュアルな音楽という点で、甲府と同じように、フロリダでの『サウダーヂ』(富田克也監督)を感じさせる。

または、貧困の子供の生活という点において、この映画を『誰も知らない』(是枝裕和監督)になぞらえることも出来るが、あの映画のように、高円寺で人知れず兄弟姉妹だけの閉鎖空間に暮らすというわけではなく、ここには観光地付近に暮らす人々の貧困コミュニティがある。
ママ友のお裾分け、お隣さんの子供の面倒、管理人のトラブル対応、、、この映画の登場人物は、みんな口が悪いが、貧しい中で持ちつ持たれつの関係を維持するための良心を持ち合わせており、それが非常に美しい。
しかし、それでもどうにもならないこともあるのだ。

(ちゃんと調べてないが)、この映画の大半は実際のフロリダのディズニーワールド近郊でロケが行われているように見受けられ、非常にドキュメント的に作られている。
その面でも是枝の作品や、その他では、リスボンのスラム街を描いたペドロ・コスタ監督の諸作(『ヴァンダの部屋』『コロッサル・ユース』『ホース・マネー』)とも呼応していると同時に対照的な面もある。
コスタの作品では、荒廃しきったリスボンのスラム街における未来も希望もない大人の生活が描かれるが、フロリダの真夏の太陽に照らされたきらびやかであざやかな観光地で暮らし、遊ぶ子供にはまだ未来も希望もあるのだ。
もちろん、きらびやかであざやかにみえるのは、子供のうちにすぎない。この映画で描かれるのは希望の兆しが残っている子供からみた光景なのだ。

最後に向かう夢と希望の国は、あの子にとって、純粋な子供として最後に遊んだアドベンチャーになったのだと信じるほかない。

 

www.youtube.com

高橋悠治 『エリック・サティ:新・ピアノ作品集』etc. / ピアノの別の顔

www.youtube.com

 

しおれた植物に再度水をあたえる
しかし、今までとは別の場から汲みあげられた水を
蘇生したあとは、かつての姿を保ちながらも、よくみると以前とは別の咲き方をしている
手入れが行き届いた優雅に咲きほこる花々、というより、風になびかれ、自然におもむくまま、ひっそりと咲いている花のように


または、昔から知っていた(つもりの)人が、知らぬ間に今までみたことのない別人のような表情をみせているかのように、以前耳にしたことのあるはずの曲が、今まできいたことのなかった曲のように響いている。

見知らぬ過去とまだ見ぬ未来が、今、同時に自分の前にあらわれているかのように。


以上は、高橋悠治のサティの新録音をきいて思い浮かんだことだが、これは彼の過去の多数の録音や実際のコンサートでクラシックの古典のピアノ演奏をきく際によく感じることでもある。

先日、79歳をむかえたピアニスト、作曲家の高橋悠治は、1960年代から現代音楽をはじめとしたクラシックのピアニストとして活動をはじめ、その後は欧米を飛びまわりながら実験音楽電子音楽へ取り組んだものの、一度それらを捨て、70年代後半からは水牛楽団での活動を行うなど、日本を含めたアジアや他の西洋以外の音楽へ向かう。

高橋の70年代の著作のページをめくると、そこには痛烈かつ真摯な西洋批判で溢れている。それは、閉塞的なクラシック音楽界のみならず、同時に社会批判でもあり、さらにいえば、それまで実験音楽電子音楽を含む西洋音楽に関わってきた自己への批判とも読み取れる。実際、一時的にピアノを弾かなかった期間もあったようだ。

しかし、彼は必ずピアノ演奏に立ち戻っている。そこでは、ピアノという西洋を代表するような楽器を、いかにして西洋以外の観点で扱うのか?という批判的態度をもって鍵盤に向かい続けている。

このことについては、70年代から現在にわたる彼の文章に幾度と記されている。興味があれば書籍はもちろんだが、当初はミニコミとしてはじまり、現在ではWEB上で継続されている水牛というサイトでは、00年以降の彼の文章のアーカイブが充実しているため参照されたし(http://www.suigyu.com/yuji/ja-archive.html)。

ところで、このような彼の思想が実際に演奏でどうあらわれているか。

例えば、77年録音の高橋によるバッハインベンション1。
私は、これをきいたとき、比喩ではなく、椅子から転げ落ちるほど驚嘆した。
というのも、八分音符と三連符の重なりと連なりをもって、バッハのこの曲をアフリカのポリリズムのようなアプローチで演奏していたからである。

バッハインベンションは、クラシックピアノを習う者なら、初歩のバイエルを一通り終えたあとくらいに手にし、この曲はその1ページ目として誰もが弾くであろう有名曲だ。耳にしたことのある人もかなり多いだろうし、一般的な演奏を知っている身からすると、高橋の演奏はあり得ないアプローチにきこえるはずだ。注*1

話はかわり、高橋の電子音楽家としての側面について。

こちらについても60年代から始まり、その後、やめては再開している印象を受けるが、00年代半ばの渋谷慶一郎関連の活動以降の、ここ10年ほどはコンピューターを使用した作品や演奏はあまりない印象がある。

とはいえ、ここ数年の高橋のピアノのコンサートを体験すると、彼はコンピューターを、もはや必要としていないのではないかと感じるのだ(もちろんコンピューターだからこそ出来ることもあるのは承知の上として)。

例えば、ギタリストの内橋和久のようなエフェクターを駆使して音響を発する音楽家との即興演奏においても、近年のライブでは、コンピューターを使わず、ピアノ1台で立ち向かっている。
しかしそこでピアノからきこえる音は、電子音響のようであり、それと同時に、コンピューターには制御不可能な判断の瞬発力/指先の繊細なコントロールをもって響きを生じさせながら、ピアノを演奏しているかのようなのである。

さらにつけ加えるならば、このような即興での印象は、彼のクラシックの古典の演奏においても同様に感じられるのだ。

たとえば

吸っては吐くたびにゆらぐような緩急の呼吸のリズム
右手と左手のタッチのわずかなずれ
随時踏み込まれるペダルから生じるふわっとした音の拡散
消えゆく音と再びあらわれる音のあいだの透明な空白の時間

そこには、なびいては止まる風に身をゆだねて自由になりながら、ゆれ動いたりつっかえたりしつつも、一歩一歩進んでいく姿がみえる。

そして、そのあゆみの中で目撃する光景は、未来であると同時に過去であり、一歩踏み出せば二度と同じようにみえることはないようだ。

一歩ごとに、響きの景色が時空を超えてうつり変わるような反復。


このような演奏は、西洋に全くとらわれない、いや、むしろ西洋から遠く離れようとする作曲家としての面と、音楽を音の響きそのものから捉えて空間に描写していく電子音楽家としての面があるからこそ出来るのではないだろうか。作曲しない伝統的なクラシックの純粋なピアニストには出来ないだろう。

今までのクラッシックのピアニストの誰もが見向きもしなかったリズム面と音響面から、古典をあらたに捉え直しているかのようなのだ。

彼は、古典を、五線譜内の音の拘束と従来の西洋的な解釈から解き放つことで、かつてあり得ていたかもしれない失われた響きを呼び起こし、それと同時に、テクノロジーが人の感覚や音楽のありかたを問い直すことによって生じる響きの未来を描こうとしているかのようである。

と書いてきた上で、本人の言葉の方がしっくりくると思い、一部引用して終えたい。これは、彼が2004年にバッハのゴールドベルクを再録音した際のものだ。

均等な音符の流れで縫い取られた和声のしっかりした足取りをゆるめて 統合と分岐とのあやういバランスの内部に息づく自由なリズムをみつけ 組み込まれた小さなフレーズのひとつひとつを 固定されない音色のあそびにひらいていく といっても スタイルの正統性にたやすく組み込まれるような表面の装飾や即興ではなく 作曲と楽譜の一方的な支配から 多層空間と多次元の時間の出会う対話の場に変えるこころみ 
http://www.suigyu.com/yuji/ja-text/2004/goldberg.html

*1:私は音楽の研究家ではないし、バッハの研究にどのようなものがあるかの知識は皆無なため、詳しくは専門家にお任せしたいが、私の気付きをここで書く。YouTubeでバッハインベンションの一曲目をきき漁ったところ、アンドラーシュ・シフが、この曲を高橋と同じように、八分音符と三連符のアプローチで弾いているのを確認した。https://www.youtube.com/watch?v=31r5ZgWeC0o そして、アマゾンレビューより、三連符で書いたこの曲の自筆稿が存在することを知ったhttps://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RGYE0J0R196YT/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=B000091LCG。これは、クラシック界では有名なことなのだろうか。とはいえ、高橋とシフの演奏は全然異なってきこえる。シフのアプローチは西洋的なリズムの域に留まっているように私には感じる

170909 日ノ出町試聴室その3 / 夕も屋 『hana』

www.youtube.com

 

最近、黄金町から移転した日ノ出町試聴室その3へ。

そこは横浜市街地の風俗街から若干外れた通りの建物の二階にある。
入り口からすぐに登れる階段は洋風の木張りになっている。
この時点で昭和の頃に建てられたと思われる雰囲気を醸し出しているが、階段を登って室内に入るとさらに雰囲気抜群。

床、壁、天井の木目、壁にところどころ貼られた大きな鏡、長いバーカウンター、木の椅子、古いトイレ、そこにある全てのものが、シックでレトロだ。

聞いたところによると元々、社交ダンス教室として使われていた空間らしい。

今回の出演者は毛玉1/2、夕も屋、mayu&平本圭治の2人編成が3組。

毛玉1/2とは、僕を含めた現状4人組の毛玉のうち、黒澤、露木の2人編成のアコースティック版だ。
ちなみに、某漫画のように、お湯をかけられると女性、パンダ、子豚などになる、ということはありません(あるほうが凄い)。

今回は自分の出番はないけれど、移転した後の試聴室に来たかったのと、毛玉の2人の様子をみたかったのと、最近アルバムを出したという対バンの夕も屋さんをもう一度みたくて来てみた。
(以下、今回メインに書くのは夕も屋さんとなった)

夕も屋さんは、去年の秋に下北沢モナレコードで対バンしてはじめてきいた時にとても印象に残っている。

男女の弾き語りのデュオで、女性がピアノ・ボーカル、男性がベースとギターを持ち替えながらコーラスもする。

その音楽の感じを飲み物で例えると、清涼感がありつつも、喉ごしが所々こしょばい感じがする。
時々、(あれ?)と戸惑うような味わいもある。
でも、飲んだ後はほんわかとした暖かさが残るよう。

去年のこの日、同じく対バンのyoji & his ghost bandの青野さんと「みててキュンキュンしますよね」などと、2人で夕も屋の感想を話し合っていたのだが、青野さんとは他に関西トークをしすぎたせいで本人達に伝えるタイミングを逃してしまった。

ちなみに、キュンキュンする、という表現は2人の音楽にマッチしてるな、と思うと同時に、いかにもといった男女の胸キュンソング、ラブソングといった感じではなくて。

人と人とのすれ違いの儚さが、2人が淡々と奏でる音の音のあいだにあらわれているようにきこえるのだ。

2人の演奏の息は全くあっていないというわけではないけれど、曲の途中でテンポが揺らいだり、2人の間でズレが生じたりする。

とくに、彼のベースは、普通に彼女の呼吸に合わせていると思いきや、ところどころリズムとかフレーズがつまづいたり、もつれたりして、かみ合わない。

(…あれ…?今のタイミング…何…?!)
(さっきのフレーズ、ちょっと音がずれてる…?!)

となる瞬間が時々あり、それにつられて彼女の方も揺らいでいき、少し危なっかしい。

このように、演奏が散りゆきそうになる時もありながら、それでも曲は進んでいった。

僕がその時驚いたのは、そのズレは下手だな〜とか、ヘタウマという印象を通り越して、2人の音楽にとって不可欠な表現に感じられたということだ。

2人は演奏しながらも、そこに浮かび立つ風景の中で風を感じている。
そして、時々吹いてはやみゆく風につられ、音がなびいているよう。

今回のライブでは前回使用してなかったメトロノームを、シンプルにピッピッと鳴らしながら曲の半分ほどを演奏していた。

以前の演奏で感じた、風が強めに吹いた時に今にも散りそうになりながらも、なんとか耐えていたような姿に対して、一定のリズムの上では、吹く風に少しよろめきながらも、風に身をゆだねられているように感じた。

と例えてみたものの、以前きいた2人らしさは全く失われていない。

ちなみに、MCが微笑ましく、ほんのりとブラックさもあり面白かった。

それについては長くなるので割愛しておいて、最後の曲の前にベースの彼がチューニング変更中で演奏までの間が出来た時、彼女の中では今日のMCネタが尽きてしまったようだ。

ベースのチューニングの音と、次の曲のためのメトロノームの音が静かに鳴りながら、1分ほど小声で「うーん………うーん………」と、それらのリズムに微妙に合わないように何度も唸った挙句、ようやく、

「あ!そうだ!さんま食べたいですね…!」

「………もう秋ですよね………でもまだ夏は諦めてないですよ…!」


とのこと。
この発言から感じたものは、夕も屋の音楽から受ける印象そのものとなんら変わらなかった。

終わったあと、お二人とお話しできた。

「もうさんま食べましたか?(塩焼きの)」

と聞かれたので、ちょうど最近、すき家でさんま牛を食べたことを話したり。

このさんまは塩焼きではなく蒲焼なのだが、それをほぐしながら、ついてくる大根おろしと牛丼をごっちゃに混ぜご飯ぽくすると(一見まずそうだけど案外)美味しかった、とか。
(ちなみにもう少し前に食べたうな牛という食べ物は、もっとピンとこない食べ物だったのだが、この時も混ぜご飯にすれば印象は違っていたかもしれない)

ほかに話した中で、

「習字やってますか?」
「え?やってないですよ。中学以来。」
「…ならいいです。」

と言われたのは一体なんだったんだろう(笑)。
(ちなみに僕は字がきれいとはいいがたい)


アルバムを購入し、今ききながら書いている。

クレジットをみると、その中の2曲はゲストが参加しているものの、ほかは自分たちで演奏したのだろうか。

少しおぼつかない打楽器、ピアニカ、コーラス、控えめに歪んだギターのメロディ(束の間のレディオヘッドのパラノイドアンドロイドの引用)、その他効果音、駅や街頭、自然音などのフィールドレコーディングの重なり。

それら全てが、2人の音楽になくてはならない音として響いている。


かつてみた、ある季節の風景。
夕靄(ゆうもや)のように、風に吹かれては日が沈むにつれて消えゆきそうなそれらの記憶。
相手に迷惑をかけないほどの多少の自分勝手さは、子供の頃からかわりのないユーモアと遊び心。
人とあまりうまく接することのできない不器用さ。
相手に近づこうとしても、なぜか離れてしまい、また近づこうと歩んでゆく姿。

それでも、そのうち、いつの間にか重なりあうピース。

夕も屋の2人が音で描く響きからはそういった光景が思い浮かぶ
 

www.youtube.com

 
(他の2組についても書きたかったけれど、またの機会に)

札幌国際芸術祭2017 / おもいがけなく遭遇してしまうということ

○札幌国際芸術祭に行ってきた

音楽関係ではない自分の身の周りの人に、

「札幌の芸術祭に行く(行った)んですよ」というと、

「へー。芸術祭ですか。(格調高そうで難しそうですね。)」

というリアクションがまず返ってくる。

しかし、17/8/15-16の間に、僕が札幌国際芸術祭のいくつかの展示作品を体験するために札幌市街の様々な会場を巡るなかで思ったのはこうだ。

普段、音楽/アートに興味がない人や、音楽/アートに興味はあるが芸術祭はよくわからん、という人にこそ行ってもらいたいということ。

何よりも、難しいことを考えずに楽しめる作品もあるし、地元だったり、たまたま通りかかった人にも開かれているところもあるのがとても良い。

それに、実際にどの展示をみにいってもまず目にしたのは、子供づれの親子の多さだった。夏休み中ということもあってのことだろう。


○子供にとっての芸術祭
モエレ沼公園

例えば、会場の一つであるモエレ沼公園は元々、その広大な芝生と丘の敷地内で、遊びやスポーツが出来る場だ。

そこには、芸術祭とは関係なしに、多くの子供づれの家族が散歩したり遊んでいたりした。

そして、今回の芸術祭の展示として、公園の併設施設であるガラスのピラミッドに行けば、気軽に作品にも接することが出来る。

そこで無料で開放されている展示の(with) without recordsでは、沢山のレコードプレーヤーがそれぞれ勝手に動いたり止まったりする様子を、子供が興味深そうにみていた。


・札幌芸術の森美術館: クリスチャン・マークレー展

札幌芸術の森美術館のクリスチャン・マークレーの展示は、レコードや機械などの廃棄物が解体されゆく様子などを、映像や音の作品にし、それがある種のリサイクルだ!ということを示しているように感じた。

そこには、現代社会に対してなにかしらのメッセージを訴えるという真面目さもある程度あるのかもしれないが、展示全体の雰囲気から感じるのは、ユーモラスさや絶妙な馬鹿さ加減であって、これも子供が面白がれそうな内容だった。

どちらかというと男の子っぽさなのだとは思うが、子供の遊び心の延長のような感覚がある。

 

・札幌芸術の森工芸館: ∈Y∋ 《ドッカイドー/・海・》

芸術の森内の∈Y∋(山塚アイ)の作品は、本来は広い暗闇の部屋で、まるで自分が銀河に浮かんでいるかのようなマットの上で、静かなアンビエント音楽をききながら瞑想的な感覚にさせるような作品である…はずのものだった。

しかし、自分が体験した回では子連れが多く、お化け屋敷的な感覚で子供達がきゃっきゃっと楽しんでいる瞬間もあった。これについては後にもう少し詳しく書く。


札幌市立大学: 毛利悠子《そよぎ またはエコー》
・金市舘ビル: 梅田哲也 《わからないものたち》

または、梅田哲也、毛利悠子の2人の作品に共通する特徴をあげてみると、それらはどちらとも、展示空間に点在している様々な装置の前を通り過ぎる中で、それまで止まっていた装置がいきなり動き出したり、装置に近づくと実は静かに音が鳴っていることに気づかされる、といった点がある。

そこには、「なんだろうこれ?」と、その人の足を止まらせてしまうような、大人/子供を問わず、好奇心をくすぐらせる仕組みがある。


○作品理解の難しさ

しかし、同時に難点だなと思ったのは、装置は常に動いているわけではないので、後になって装置が動き出すのに気が付かずに、なんとなく通り過ぎて帰ってしまう人が多いということだった。割とそういう瞬間を目撃してしまった。

・札幌芸術の森美術館: 鈴木昭男《き い て る》

ほかに分かりにくい、と感じたのは鈴木昭男の作品だった。例えば芸術の森美術館の作品《き い て る》は、石が敷き詰められた庭のような場に、10個くらいの丸く白い台が点在され、その上に人が立って、そこできこえてくる外の音に耳をそばたてる、というものだ。

しかし、この作品は、子供/大人に関わらず、配布用の解説を読んだ上で、その意図を理解し、鑑賞者が耳を澄ましてきくという、自主性を発揮しないと作品が成立しないのでは?と思ったし、実際にこの場に足を踏み入れている人を自分はみる機会がなかった。

子供にどう作品と向かい合えばいいか親が教えてあげる、というのも自分が親になった時は意識したいなあ。

(というか、子供に限らず一緒に鑑賞してる人に対しても意見を交換した方がいい。一人一人の体験で感じるものはそれぞれ違うはず)

例えばこの作品だと、

「ほら、この台の上に立って、耳を澄ましてごらん。風の音とか、虫の音とか、遠くの車の音とか、空調の回転音とか、色んな音がきこえるでしょ」

とひとこと言うだけで、子どもがみたり、きいていた世界がガラッと変わってしまうこともあるのではないか、と思ったりする。


○たまたまそばにいた人たちの、ささいな会話集

ところで、この芸術の森内で、たまたま前を歩いていた父娘の会話がきこえてきた(勝手にごめんなさい)。

女の子「さっきの大学の廊下のやつ(注:毛利悠子作品)面白かったね」

父「そうだね。とても綺麗だったね。ピアノが突然鳴ったりして」

女の子「あ!あの鳥、鳩かな」

父「うーん。鳩っぽいけどなんだろう。フランスだと、鳩とかうさぎを狩りでとって料理するんだよ」

女の子「えーかわいそう…」

 

・旧りんご倉庫: 梅田哲也《りんご》

または、札幌の落ち着いた町中にある木造の旧りんご倉庫で行われていた梅田哲也の展示にて。そこらへんで農作業か何かをしていたような近所のおじいちゃんとおばあちゃんがたまたま通りかかった。

おばあちゃん「最近ここでなにやってるの?」

ときき、係の人がもろもろ説明する。ちょっと騒がしくなった(全然気にはならない)。おばあさんが中を覗く。

おばあちゃん「あら、綺麗。不思議な世界。綺麗ね〜」

と、おじいちゃんや係の人との会話が弾んだのち帰っていった。それからは静かに鑑賞できるようになった。

その後、同じくその場に来ていた女性が僕に、

女性「これ、このまま(水が滴るだけで)動かないんですかね」

僕「んー。(この容器内の)水がある程度溜まると、なんか動きそうですよね」

水滴が滴る様子と同時に、装置が動き出すのをじっと静かに見守る時間が何分か生じた。

そして動き出した瞬間、お互いに、

「おおー!」

となった。


 ・再びモエレ沼公園

または、モエレ沼公園で自転車で走っていると、1人のおばさんに呼び止められる。

おばさん「あの山に沿って大量にある自転車なんなんですか?いつもはないんですけど」

僕「(そうなの?)あー芸術祭のオブジェというか作品なんですかね。あんな所に自転車とめるの大変そうですね〜」

僕が作品に対して、一対一で向かい合う以上に、偶然そこに居合わせた人との関わりは、自分以外の人の作品との関わり合いを気付かされるものであった。それは自分がどう作品を捉えるか以上に、お互いの経験を豊かにする。


○作品の外からまぎれこむ音/人

さらにいえば、音の出る作品というのは、その作品が置かれる環境によって受ける印象が大きく左右される、というのが肝だと感じた。とくに音数が多くない作品だと、そこには作品以外の音がまぎれこんでしまっていることが分かる。完全に外部の環境音を遮断することは困難だ。

・再び毛利作品

例えば、毛利悠子の作品は、大学構内の建物の高い位置にある一直線の通路を歩く上で、ある種の物語のようなものを生じさせている。

展示の入り口は暗いが、前を進んでゆくとそこはガラス張りの空間になっており山や近くの住宅街といった外の景色がみえてくるようになっている。

その外の景色は、その時の天気や、朝-昼-夕の時間帯などの要因で当然変化するだろう。それによって、作品から受ける印象も相当変わってくるんだろうなと感じた。

自分が鑑賞した時は、とても天気が良かった。そこでは大学構内の草刈りの音が聞こえてきたり、近くの木の葉が風で揺れる音がたくさんきこえてきたりした。

しかし、それは邪魔だなー、というよりは、展示物である装置のコイルから鳴る「ジーッ」という音などと、共演しているかの様にきこえたりもする。

・再び山塚アイ作品

また、山塚アイの作品に戻る。これは広い暗闇の部屋全体が作品になっている。暗闇で危険なため、係の人は入場する人に対して、注意の言葉をかける必要がある。

「足元にお気をつけください」

「マットの上に座ったり、横になっていただいてもかまいません」

または、暗闇がゆえに、はぐれる可能性もあるので、親子どうしなどで声をかける必要も出てくる。そのため、その場は喋っても問題ないような空間になりがちであった。

それに加え、会話が少なめになったとしても、暗闇を歩くとすり足になりがちのため、マットとスリッパがこすれる音が目立ったりする。

この会場で響いているのは、山塚アイのハイノートの声にコーラスやディレイのようなものをかけた静かで神聖な感じのアンビエント音だが、その場に人が多いと、それをじっくりきくことも難しい。

その時は純粋に作品に没頭できなくなってしまうが、これは作品の都合上、そうならざるをえないもので仕方がないといえる。柔らかいマットの上でゴロゴロしても良いとのことなので、憩いの場のようにもならざるを得ない。自分自身も疲れていたのでいい休憩になった(笑)。

座って休憩していると、近くに親子とおぼしき2人が近づいてきた。

男の子「なんかここにあるよ」

父「なんだろう」

僕「あ、人です(笑)」

男の子「なんだあ(笑)」

父「すみません(笑)」


・再び金市舘ビル: 梅田哲也 《わからないものたち》

8/15の19時ころに札幌市街地のパチンコ店が入っている古い建物(元デパートらしい)の7階へ梅田哲也の展示へ赴くと、なぜか人っ子一人もいなかった。

しかし、広い空間内で装置が動いて音が鳴ってたり光が点滅しているので、やっぱり展示中なのかなと思って入ってみた。パスもあるし問題はないだろうと。暗めの空間で一人で作品に接することが出来たのは稀有な体験だった。

と、思っていたら、なんか控室っぽい奥から口笛(ナットキングコールのラブ、を、くずしたものにきこえた)が聞こえる。これは、作品のスピーカーとかからの音じゃなさそうだぞ?と思っていたら、しばらくして梅田さん本人が奥からでてきた(笑)。パンフにも情報はかいていなかったが、お盆なので今日は休館にしていたとのことだった。初対面だが、たまたま共通の知り合いがいたので少しお話した。

梅田さん「あの人、味があっていいですよね」

僕「いやあ、ずぼらすぎて困ってます(苦笑)」


○おもいがけなく遭遇してしまうということ

今回色んな作品に接して共通して思ったのは、それらはどれも、美術館で絵などの展示物をみるのとは全く違うし、音の出る作品についても、音楽を1人できくのとも、ライブで沢山の人と一体感を持ってきくのとも全く違うということだ。

そこには、純粋に「わたし(たち)」が「作品」を鑑賞するという、一対一の関係の完結性だったり、「わたし(たち)」が「作品」世界へ没入していくといった要素を阻むような、おもいがけなさを発生させる仕組みがある。

それは、展示空間の作品内で偶発性や突然性を仕組んでいるのもあれば、それだけでなく、ほかのお客さんや、天気やその場の環境からおもいがけなく、紛れ込むということもある。

そもそも、このようなおもいがけなさ、というのは、日々の生活の中で、どこか知らない場所にいったり、知らない人と出くわしたりすると頻繁に起こることだ。

この芸術祭での体験のおもいがけなさには、日々の生活の延長線上であるような感覚があった、ともいえなくはない。

もう少し個人談を書くと、芸術祭巡り後に、とある人に連れて行ってもらったバーで、店員や他のお客さんとちょっとした会話をしたり、すすきののバルで、たまたま隣に座った高田純次的ちょい悪オヤジに、おおよその人格を見抜かれ軽くアドバイスを受けてしまったりしたのだが(笑)、これらの体験と芸術祭の体験はほとんど等価のように感じている。

以上は、自分が体験したことの一部にしかすぎないし、作品についてもう少し詳述することもできなくはない。しかし、もっと時間をかけてみないと分からないこともたくさんあると思った。さらに他にもたくさんの会場だったり、イベントがこれからあったりする。

興味が少しでもあり、予算、時間、身体的に多少の余裕のある方には、実際に行ってもらうことを強くオススメする。

自分にしか起こらないおもいがけない遭遇が、きっとそこで生じることでしょう。