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『ひかりの歌』

2019/1/20 ユーロスペース

「ひかり」をモチーフにした4つの短歌。それらを元に作られた4つの短編の物語は、ゆるやかにつながりながら季節も心模様もめぐっていく。
4人の女性の4編の物語のつながりは、それこそ短歌を交互に読みあい続ける連歌のよう。
さらにいえば、日常を言葉で切り取った短歌から、別の形の日常を、映像で再度作り変えられるさまも連歌のようだ。

選ばれた4つの短歌自体は連歌となっているわけではないが、この映画には、短歌から物語への、物語から物語への、31文字で描かれた光景から映像への、闇から光への、光から闇への、といった様々な変容がある。
または、4つの短編全てに、日常における行為がいくつか異なる形で描かれていたりもする。
(これについてはこれから観る人のために書かない。あまりにもささやかな描写のため、他人の感想を検索して読んで初めて分かったのもいくつかあった)

以上のように、この映画では、様々な事象が渡され、引き継がれ、作り変えられていて、そのうつろいがとても心地よい。
しかし、それと同時に、この映画では、登場人物が自分の思いを他人に伝えることに関しては、全くスムーズに行われない。
皆、何かしらの思いを秘めつつ、それがなかなか上手く伝わらないのだ。
その思いは、打ち明けられずに断絶されたままにされたり、反対に、傍若無人にも打ち明けてしまい相手を困惑させたりする。
この映画では、人々の日常が描かれるが、その日常とは、時には心がかき乱されることがあることも含めた日常なのだ。

例えば、気持ち悪い人が現れる。面白い人と出会う。知らない人と会話しなきゃいけない。心の探り合いで生じる沈黙。特に何も起こらない退屈な時間。といったシーン。

このようなシーンを観ていると、この映画は間違いなく劇映画だとはわかっているのにも関わらず、スクリーン上の人物とこの出来事は本当にこの世界に実在しているように感じるようになり、それは自分が今まで観た映画にはない感触だった。
それは登場人物への共感や、自己投影や、臨場体験、といったものというより、それがほとんど現実にしかみえない、といった感触だ。

上映後のトークで、野球部の少年、カメラ屋の男性、定食屋の夫婦、といった登場人物は、本当に現役の野球部の少年であり、カメラ屋であり、定食屋であることが明かされるが、実在する人々や空間をほぼそのままその場所に登場させているのも、要因のひとつだろう。
ドキュメンタリー映画やドキュメンタリー的な映画(例えば是枝監督やイタリアのネオリアリズモ)もあるが、そういった作品の感触とも全く異なるように感じる。その理由は今のところ自分にはわからないが、フィクションとドキュメンタリー、そのどちらをも捉えるカメラについて考えることで、なにか浮かび上がるかもしれない(下記引用文献でも示唆深い言葉がある)。

ただ、自分の今までみた映画だと、ペドロ・コスタ*1ポルトガルのスラム街に暮らす人々とともに作った諸作とはかなり近く感じた。
それは、定点観測で人物を捉え続けたり、人が闇に溶けていく様、といった具体的なショットの近似性も挙げられるのだが、全体としては、映画をとるスタンスに同じ匂いがしたのだ。

ここで、去年(2018年)刊行された、「歩く、見る、待つ ペドロ・コスタ映画論講義」より本人の言葉を引用する。

映画とは、私たちにとって芸術である以上に、現実的なものだということです。人生そのものだと言っていいかもしれません。映画は、私たちが暮らしている世界、さらにいえば人間の極めて近くにある存在です。意図せずとも現実を映してしまう。


現実との関わり方を考察することが、芸術的なことを考えるよりも映画を作るうえで多くのことをもたらしてくれる、そのように私は思います。

映画には真実しかないのです。そして真実というものは、皆さんそれぞれが世界に対してどのように対峙するか、その方法にあるのではないかと思います。

ペドロ・コスタは当たり前のように、彼の映画製作においての前提に立って講義の冒頭でこう発言している。しかし、彼の今世紀の作品では役者を使わず、現地で暮らす人々とともに、リスボンのスラム街とそこに暮らす人々を描いた作品を作ったりしている。このスタンスをここまで突き詰めて映画を撮っている人は少数派だろう。ペドロ・コスタからすれば、ほとんどの映画は観客が知らない世界に連れて行こうとさせている作品なのではないか。

そのような中、「ひかりの歌」では、実在する人や空間とともに、そこに共存する役者も、役者以前に人そのものであるように存在している。そうして、映画が現実そのものに肉薄しようとしているのだ。

そこでは、言葉であらわさられないにしても、人々の秘めている思いが浮かび上がるように映されている。

または、「ひかり」を通じてこちらにその思いが移されているともいえるか。


それは、「あちら(映画)」と「こちら(観る人)」の世界を媒介するカメラが、この映画ではどのようなことがあっても、常にやさしく人々と街をまなざしているからだろう。

 

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