メモ/ランダム

memorandum || (memory / random)

記憶の影 その1: 夢

◾️光の消失 
起きているとき、人はその目で物そのものをみているわけではない。人は物体に照らされた光の反射をその目でみている。光がないと人は物をみることができない。
夕方になると日が沈み徐々に光が失われやがて夜になる。暗闇の影が深くなると、人のまぶたは自然に閉じられ眠りにつく。地球の自転が太陽の光を遮断するのと連動し、人間も自らまぶたを閉じて光を遮断する。
夜眠っている時は、こうして二重の状態で暗闇が作り出される。

◾️空間のまぶた

暗闇は夜にのみあらわれるわけではない。
太陽が空に浮かぶ時、その光を私の手前で遮る対象があると影が生じる。
動物は影のある木陰や巣穴があって暮らすことができる。生きるには光と同時に影が必要だ。そして、動物でもある人は古来、洞窟で暮らしていたが、そのうち建築を始め、住居を作るようになった。
住居内の空間である部屋を作ることは光を遮断し、夜を模す空間を作るためでもある。窓は部屋の目であり、すだれや、カーテン、ブラインドなどの日よけは、そのまぶたである。
こうして夜が来なくても、人は自分の目、そして部屋の目(窓)を閉じることで光を遮断し暗闇を作り、夜に同化して眠ることができる。

◾️夢の光
その暗闇の中、人は目で何もみることができない。
でも、そのかわりに夢をみることがある。暗闇の中、人は夢をみることで自ら光を生み出す。

◾️過ぎ去る光の記憶
夢は起きているときに目でみた映像の記憶が元になって生じる(夢では視覚情報以外も駆動しているということはひとまずおいておく。盲目の人も夢をみるという)。
しかし、記憶の多くは鮮明に思い出すのが難しい。
なぜなら、起きているときに網膜に映った実像の光はすぐに過ぎ去り自分の目の前から消えて行くからである。

◾️雪解けと記憶
それでも、それらは過ぎ去って消えてしまうのではない。雪解け水が地中を流れるように、自分の身体の中に曖昧にとけながらも残っている。それらは幾重にもなって流れている。起きているときも、眠っているときも。

◾️記憶の喚起(起床時/睡眠時)
起きているとき、人はひとつの時間軸に生きていて、目の前の現実をきっかけに記憶が引き出される。それによって、思い出したり、言葉を話したりすることができる。
それに対して眠っているとき、人は視覚的には目の前の、今、現在、を体験することはないから、それをきっかけに記憶が喚起されることはない。

◾️記憶の魚
海の中に記憶が広がっている。その海の上に夢見る人が船にのっている。そこからは海=記憶の中に何がひそんでいるのか把握はできない。
そして、そこで何かを釣ろうとしても、望むものが出てくるとは限らない。むしろ自分の希望や意思とは関係なしに、ひゅるひゅると泳ぐ記憶の方から勝手にあらわれるかもしない。魚のように泳ぐ記憶。または、ただ漂っているだけ記憶。実際の釣りと同じで 、夢でも何がでてくるのか見当がつかない。
そして、飛び跳ねた魚が海に戻るように、夢では何かがあらわれたとしてもそれはすぐにきえてしまう。記憶の残像が連鎖する。それが夢となる。だから夢が過去そのものであることはない。

◾️人=カメラ(記憶装置)
起きている時、人は眼でみた映像を脳に保存している。ならば、人は「カメラ」になって眼で見た光景を撮影をしているといえるだろう。この時、眼はレンズとなり、脳がフィルムやメモリになっていると例えられる。
しかし、本物のカメラと異なるのは、カメラがレンズを通してフィルムや記憶素子に映像をそのまま記録するような処理が、人の脳にはできないことだ。実像はフィルムに焼きつけられたり、素子に電子情報を保存されることなく、脳内に曖昧に残るだけである。脳はカメラの実機と異なり、記録装置でなく記憶装置である。

◾️脳内の編集室
そして、眠っている時、人は、起きている時に撮影した映像を脳内で編集しているといえる。睡眠中の脳内は編集室となっている。
ところで、現実としての編集作業は、映像をみながら確認するものであるが、眠っている時はその確認が出来ているとは言い難い。夢のストーリーの荒唐無稽さは目視確認を無視した脳内の編集にあるといえる。

◾️編集室の投射機
夢の中では、その編集室で作られた映像がみえている。映像は光として出力され、「人は夢の中で自ら光を生み出す」と考えれば、その脳内の編集室には投射機もあるといえる。
しかし、毎回の睡眠で夢をみるとは限らないから、そのプロジェクターは魚が飛び跳ねるように気まぐれに映像を投射する。

 

◾️眼=スクリーン
ではその脳=編集室で投射される光はどこに映されるのだろうか。夢=光は聞くものでも臭うものでも味わうものでもなく、基本的に見るものである。だから、その光は目に投射されると言える。起きている時、眼はレンズとなり、外側からの光を取り入れるのに対して、夢では「眼がスクリーンに」なって、自ら生み出した光を内側から映しているのだ。*1

◾️夢の上映

以上より
「夢とは個人の身体内で作られた私的な映画である」
といえる。

夢とは、監督も主人公も、カメラも録音も、編集も上映も、全て自分自身によってなされる映画なのである。自己完結型の映画なのだ。

◾️映像は夢たり得ないのか
カメラで保存された映像は現実をそのまま切り取って再生されるわけではない。むしろ、編集や再生の方法によっては、その映像が夢のようになりうることだってある。
「夢とは自己完結型の映画である」と指摘したばかりだが、「映画とは他人と共有可能にした夢である」ということもできるだろう。

続く

*1:これについては福尾匠氏の著作「眼がスクリーンになるとき」のタイトルからヒントを頂いた。しかし、まだ1章までしか読み進められていない。それに、学者による研究と比較すると、この文章は夢についての個人的なアナロジーにすぎない。