メモ/ランダム

memorandum || (memory / random)

2019年12月中旬

▪️「Jackie」「Julieta」

週末にアマゾンプライムで映画JackieとJulietaを観た。偶然にも、両作品ともに、イニシャルがJの女性の名前がタイトル。そしてともに喪失の物語であり、悲しみの中でひそやかにも希望を見出そうとする物語だった。

とても感銘を受けた鑑賞後に、画面を下にスクロールをしてついレビューを目にし、最悪の読後感で映画の余韻は台無しに。悲しみに暮れる女性にあのような感想を抱ける人間性とは、以下省略。とはいえ、これも2019年のインターネットのいかにもな日常の一部で、とても現代的だ。


◾️Mica Levi

両作品ともに音楽も素晴らしい。特に「Jackie」の音楽担当のMicachuことMica Leviはイギリスのアヴァンポップ アーティストの認識だったが、映画内で流れるスコアは、映画のトーンと相まった厳粛なストリングスを基調としていて、こんなことも出来るのか、と驚く。

とはいえ、グリッサンドで凋落/高揚するピッチ、トレモロの揺らぎなどの弦楽のアコースティックな奏法が、どこか電子変調的(例:ピッチベンド)に響かせているように感じられるのは、まさにアヴァンな感覚の彼女らしい。と同時にその響きは、ナタリー・ポートマン演じる大統領夫人の心の揺さぶりそのものの描写にもなっているのだ。


◾️英語圏以外の名前は覚えにくい

ジュリエッタの監督は、

ペドロ・アルモドバル

で、大好きなスペインの映画監督ですが、いつも

ペドロ ・アドモルバル?

ペドロ ・アルドモバル?

と混乱してしまい、いい加減覚えてしまいたいもの。

ややこしい名前といえば、

シックスセンスでブレイクしたインド系の映画監督の

M・ナイト・シャマラン

も、シャラマン、とどっちか分からなくなる。

あとは、デヴィッド・リンチ等で有名な映画音楽の、

アンジェロ・バラダメンティ

もバダラメンティ?

となってしまう(めちゃくちゃ好きなのに)。


▪️Superorganism?

勘違いといえば、去年Superorganismという文字列を初めてみたとき、Super orgasm?凄い!快感むきだしで振り切ってるバンド名だなあ!と3日くらい感心&勘違いしてました。

間違いに気付いた後は「緑黄色社会」くらいつまらないバンド名だなとがっかり。

絶対ほかにもそう思った人がいるに違いないと思い、ツイートしようとしたものの、恥ずかしいのでようツイート出来んく、下書き行き。

でも、音楽はなかなかイケてる、と当時思うとりました。が、今久しぶりに聞いてみると…、驚くことに、物凄く古い音楽に聞こえる…。いや、いかにも2018年ぽい音楽だが、その2018年が(海原)はるかかなたに思えるような…。

ところで、どなたかSuper orgasmというユニット名で活動してもらいたいもの(私は絶対いやです)。

最近あまりエンタメ産業にセックスシンボルっていないような気がするが(ポルノへのアクセシビリティが人類の歴史上かつてないほど格段に向上したからか?)、壇蜜or橋本まなみですらちょっと違う。官能、といえば今でも菊地成孔かもしれないが、これも違和感がある。憂鬱がないからか。

やっぱりDMM改めFANZA的に恵比寿マスカッツ?又はやっぱり叶姉妹パリス・ヒルトン

しかし、これだと2019年以前に2018年感すら全然ない!

ファビュラス!エクスタシー!スペクタキュラー!


▪️Vikingur Olafsson : Bach Kaleidoscope

先生から教えてもらったアイスランド出身のピアニストのアルバム。35歳。ピアノのバッハをまともに聞いたことがあるのはグールドと高橋悠治くらいだが、バッハのピアノ演奏で、現代性をここまで感じさせることができるとは驚き。しかし、具体的にどこが現代的なのかほとんど言葉に出来ない。もちろんこの現代的とは「現代音楽的」という意味ではないし、ましてや「ポスト・クラシカル通過後」の、といったニュアンスであるわけがない。

ただ、曲ごとの響きの表情の多彩さに驚嘆し、それは指先とペダルのニュアンスで変化させているのは勿論だが、録音の方法も彼の作る曲調に追随して変えているのか、そう感じさせる響きの違いも結局全て指先でコントロールされたものなのか、よく分からない。


とにかく、正統的に聞こえるバッハの演奏であるにも関わらず、全く新しく響くバッハでもあるという面で、今は2019年なんだとも実感できる透徹とした演奏。最近よくきいてます。普段クラシックをきく/きかない人に関わらずきいてみてもらいたいアルバム。

グールドと高橋悠治以外のバッハのオススメもあったら教えて下さい。

 

▪️坂道の鍵盤/氷上の鍵盤

高橋悠治のバッハをきいていると、石が坂道をコロコロと飛び跳ねながら転がる様子が思い浮かぶ。坂の凹凸と回転する石の接触で、いつどの方向に飛び跳ねるか分からない偶発性がありつつも、その石は、意思を持って先を見越しながら、決して脇に逸れることなくコントロールして走行しているような運動である。指がその回転する石で、鍵盤が坂道のようだといえる。

指と鍵盤の接触に生じる運動の揺らぎの偶然性を受け入れた演奏といえるか。重力と摩擦とその反作用の力学の系がみえる演奏である。

Vikingur Olafssonのバッハは、氷上を推進する運動体を想起させる。摩擦も限りなく少なく、重力からも自由になった運動体。その運動体をスケートで例えると、鍵盤が氷上であり、指先が研ぎ澄まされた刃のようだといえる。ただし、その刃はあらゆる柔軟さを持って氷の結晶を様々な形に削りとり散らしていく。それが万華鏡のような光景として響いている。


とアナロジーをしたのも、バッハのアルバムのタイトルが、kaleidoscopeからなのだが、アイスランド出身で氷に例えるのは、ダジャレ以前に文字通り(literally)で安直すぎる?とも思いつつ、そう感じたんだからしょうがない。それに、その人の出自と音楽性が関連することが多々あるのは間違いない。アイスランドといえばBjorkだが、彼女をきけば、辺境は宇宙に近いのではとひしひしと感じる。そして、Olafssonの演奏も人間じみていないのだ。3月にドビッシー/ラモーの新譜がでるらしいので楽しみですね。