メモ/ランダム

memorandum || (memory / random)

アニエス・ヴァルダ『ラ・ポワント・クールト』読む映画/触れる映画

 

1955年のフランスの漁村の映画に終始目が画面に釘付けにさせられるとは思ってもいなかった。画面の四隅から四隅までをこんなに凝視させられる映画を今まで私はほとんどみたことがない。
 
映画に存在するのは物語だけではない。映画の主人公は、そこに映された運動体なのだ。
人々が歩き、食事をし、船をこぎ、漁をする。
海辺の波、船が通った後の波紋、風に漂う草木、または洗濯物。
道端の猫、捕まえたうなぎ、沼を歩くカニ
白黒のフィルムに映される数え切れないあらゆる運動体をみていると、映画の物語とはただ単にその運動体の付随物にすぎない、と思えるほどだ。
 
はっきりいって、字幕をほとんど読む必要がないのである(ただし男女の会話のシーンは台詞も必要だ)。
この映画においては、字幕を読むことが、どれほど画面から受け取る情報量を少なくしているのか、または、映画体験を貧しくしているのか、と感じられるほど、ほとんど常に、画面の隅々で何かがうごめいて、目が離せないのだ。
例えば、主人公2人が漁村を歩き、会話をするシーンだけを取り出しても、その2人の周りで、あらゆる角度で、何かがひしめいている。主人公2人よりも、それらの背景の方が重要なのである。もはや背景が背景でなく、前景へと逆転してしまっている。
この時、字幕を読むと視野がどうしてもスクリーン下部中心になってしまう。この映画では画面上部までの情報量があまりにも多いため、字幕を読む時間が惜しくなるのだ。
 
私自身初めて鑑賞したアニエス・ヴァルダ作品であり、ほとんど彼女についての知識なしのフレッシュな状態でこれをこれを書いているのだが、パンフレットを購入し、一瞬開いて「映画を読む」というキーワードがみえた*1
これは(こんな言葉は滅多に使いたくないのだがそうとしかいえないので)、真理だと思う。
先に、「字幕を読む必要がない」、と指摘したが、さらにいえば、言語の壁関係なしに(もし、あなたがフランス語をききとれたとしてもor映画が日本語吹き替えだとしても)、映画を物語として読む必要がないのだ。(この時、言語理解という点で、言葉を「聞く」ことは「読む」ことと等価とみなす)
そもそも物語だけを読むのだったら小説でも読んでおけばいい。物語は言葉にすぎない。映画を観るということは、物語を読むことだけでなく、画面そのものを読むことでもある。
 
はじめに私は、この映画の画面に釘付けになり、四隅を凝視していた、といったが、それは、画面そのものを読む行為そのものだったと実感している。
 
また、「背景が前景へと逆転している」、というのは、背景を含めたスクリーン上の画面全体が、本のページになり、スクリーンが読み物になっているといえる。この作品で、映画のコマが進むことは、スクリーンが本になり、そのページがパラパラとめくられるということだ。この時、鑑賞者は本となった映画を読み進めているのだ。
 
振り返ると、この作品では映画の始まりから、観客を「画面を読む」という行為へと誘導していた。
 
木目のような表面を背景にして流れる開始のタイトルバックは、はじめは何の模様かと思いつつ、その後のカメラの移動で、それが作りかけの手作りの船の一部をアップにしたものだと分かる
あまりにもむき出しの、その船の木材の表面を映したカメラは、その後、漁村の家が並ぶ通路をゆっくりとなめるようにしながら進んでいく
私は、序盤のここまでのシーンがこの映画の主題=「映画を読むこと」の静かな助走であったと考える。
というのも、ここまでのシーンで人は映されることはなく、映されるのは、木材の表面の静止画から、漁村の街並みの運動体への動的な変化なのだ。
 
それまで死に体のように映っていた木材の表面の静止画が動き出すと、家の壁や、風に漂う洗濯物、一面に広がる漁の網、水面…、といったものが、徐々に生々しく映し出されていく。
波や風、生き物といった運動体が生々しい、というのは、殊更通常のことであるが、それと同時に、汚い壁、放り出された網、沼、原っぱ、壁紙、ベッド、タオル…、といったむきだしになったあらゆる静止した表面の、その肌触りが感じられるようになってくるのだ。
そして、その画面に映し出される表面の肌触りを、観客である私たちは、目で感じている、いや、目で読み、かつ、目が手のようになって直接その肌触りが感じられるかのようなのだ。
どういうことか。
先に、この映画では「スクリーンが本になっている」と例えたが、実際に本を読むときに、ページを手でめくる行為では、触覚が起動される(紙の手触りを好む人も多いことだろう)。
それでは、スクリーンが本のような「読み物」になっているこの映画では、目が「視覚」であると同時に「触覚」にもなっているといえる。目でページをめくっているのだ。
より具体的にいえば、この映画は、水面、網、沼、部屋の壁紙、ベッドのシワ、汚れた家の壁、猫の毛並み、ヌルヌルのうなぎ、船…、といったあらゆる画面が束ねられた本となっているのだ。
そしてこの時、鑑賞者の「目」は同時に「手」となって、その本のページをめくっているといえる。画面を目で見ることと本のページを手でめくることが等価になったとき、鑑賞者は、画面に映っているそれらの表面の肌触りや質感を直接手に触れて感じ、読み取ることが出来るのである。まるで目が手になったかのように。
 
祝日の昼の上映で9割ほどの入りだったが、上映後に一部で拍手が起きた。この手の映画では珍しいことだが、映画を読むことの可能性と、映画を撮ることの可能性がまだまだあるということに、65年もの前の映画に気付かされた。私も拍手である。
 
また、「映画を読むことの可能性」というのは、いいかえれば、今まで私はいかに物語ばかりを追い(読み)、映画を読めてなかったのか(画面がみれてなかったのか)、ということへの反省でもあるのだ。私の今までの映画のみかたが否定されたようで、喝を入れられた気分である。
 
 
 

*1:これを書き終わって、どこに書いていたかを確認しているのだが、どこにもみつからない…。検索しても見つからない…