メモ/ランダム

memorandum || (memory / random)

『セノーテ』

www.youtube.com

 

太陽から水中へ差し込む光線は、青白く突き抜け、そこから幾層もの波のカーテンが揺らいでは消える。または、水中の粒子や泡のうごめきが光に照らされていく複雑な色彩と陰影は言葉では説明が不可能だ。

映像というのは撮影者とカメラがあって捉えられるものだが、この映画でこのような映像がスクリーンへ映される時、ダイバーとカメラという存在が消え失せる。その時に立ち上がるのは生者がみることのできない世界。もっといえば、そこは、この映画で語られる、隕石が落ちて形成されたメキシコの泉=セノーテで命を神に捧げた者たちが漂っている空間そのものなのかもしれない。そこは、もはや水中であるかどうかすら危うい空間に変化(へんげ)していた。

私はこの映画をみて、「スクリーンに映された水中の幻想的な映像をこの目で見た」というよりも、「セノーテ(泉)で命を落とした者たちの漂いを感じた」というような信じ難い体験をしたのである。観客である私たちは、映画を目でみて、耳できく、という行為をしているにすぎないのは間違いないはずなのに、体験としてはその感覚を超えていくのだ。
水中の陰影や岩の影に、死者の存在を感じることも幾度かあった(念のためだが、心霊現象的な意味では全くない。みた人にはそれが分かるはずだ)。

何故死者を強く感じるのか、ということを考えた時、この映画では、大半が、映像と音声が一致せず、そのせいで現実感が薄くなっていることも挙げられる。地上の人々の顔は若干速度を落として再生され(この減速も現実感を薄めている)、その人々が声を出すことはない。その代わりに、人の声は水中の映像とともに、複数の現地の語り部によって流れる(それは匿名の使者の声にしか聞こえなかった)。人が口を動かして話すシーン、というのがこの映画にはない。
また、水中の映像で流れる音声は、人が水中で実際にきく音ではないし、映像と同時録音された音声ではない(はずだ)*1。そこに流れる音声は、水中の映像のイメージから想起して、水辺の様々な音や人の声をフィールドレコーディングした素材を編集して付加した音声にきこえた。(どうやって制作したかものすごく気になりパンフレットを買ったがまだ読んでいない)。

この映画は、ひたすら水中に潜り続けるシーンが続くか、そのはざまで、地上の人々が歌ったり演奏したり闘牛をしたりする祝祭空間や儀式のシーンがはさまれるかの、おおまかに2種類のシーンで形成されるが、それは死者の世界と、生者から死者の世界へのアクセスの描写そのものだ。

だから、この映画をみて、「映像が幻想的だ」と言ってしまうことほど、危険なことはない。

 

2020 11/6 横浜シネマリン

--------------------------------------

 

その他

・今までこれと似た経験は、アピチャッポンの舞台作品「フィーバールーム」でしたが、あれは人工的な光と煙で形成した世界であったのに対し、この映画では、自然現象をカメラで捉え、その編集で成し遂げているのが驚異的だ。フィーバールーム詳細は以下。

https://soap.hatenablog.com/entry/2017/02/17/030943


・水中の映像が続いた後に、花火の映像が減速再生された時、それが得体の知れない光と粒子の集合体のうごめきに感じられたところにも驚いた。

*1:中盤のダイバーによるゆったりとした撮影を除く。あそこはダイバーの呼吸音が流れている。魚と同化した目線の映像のようにも感じられた。