この映画は、陸前高田で震災後に開局された地元のコミュニティFM局のパーソナリティだった阿部裕美さんを取材した作品だ。
タイトルの「空に聞く」の「空」という言葉には様々な意味が含まれていると思うけれど、その一つは、ラジオの電波が飛んでいる「空」のことだろう。
そして、「聞く」こと。ラジオを聞くこと、人の話を聞くこと、など、この映画は、何かを「聞く」ことに焦点があてられている。
そんなこの映画では、劇伴として音楽が流れることが一切なかった。
それは、演出的な音楽を流すことが、「聞く」ことのノイズになってしまう、というのがあったのかもしれない。
音楽がない分、感じ取れるのは、パーソナリティの阿部さんの声の表情や、インタビューされる地元の人々の声の機微だ。
それと同時に、阿部さんが語る声と言葉自体が、「うた」そのものに限りなく近いから、音楽がいらなかったのではないか、とも感じる。
阿部さんが、黙祷の生放送を毎月11日に行なっていたことを「そうするしかないから、そうした」(大意)ように、音楽がないのも、そうするしかなかったからそうしているとしか思えない。そういった意思は、この映画の作り方にも阿部さん自身の姿にも何度も垣間見ることができるけれど、その選択が出来るのは、効率や慣習にとらわれずに、真っ直ぐにものごとを捉え、人のことを想うことができる人だけだ。
多分、この映画で唯一流れた音楽は、阿部さんがラジオで流した、(地元と思われる)幼稚園児の合唱だけだったと思う。それを聞く阿部さんの言葉と表情も含めて、グッとくるものがあった。
ところで、自分にとって、ラジオというのは、お店でたまたま流れていたり、車の中でたまたま流れていたり、と、空に飛んでいる電波を、たまたまいあわせた場所で聞くものだ(もちろんある番組を目当てに聞くこともある)。
そして、それは、たまたま大陸のプレートの振動を波として受け止めることと似ているし、たまたま人と出会う事とも似ている。
それは飛躍にはならないと思う。私たちは光、音、電波、空気、地面、といったあらゆる波と、常に遭遇していることを考えれば。
この作品で、阿部さんの口から語られる人々や風景、または花は、直接映されることがなかったり、映ったとしても、それが語られた時から時間をおいて配置される。この映画は、わかりやすく答え合わせをさせてはくれない。
けれども、それは、私たちがある人と初めて出会って、何回か会ううちに、その人のことを徐々に知ることになる、という体験。この映画を観ることは、その体験をすることに限りなく近いと感じた。
だから、この作品の若干の分かりにくさ、というのは、不親切さでも、共感を妨げるものでも全くない。いや、観客に安易な感動を誘わないような意図は感じ、それは、簡単に被災者の気持ちを分かったつもりにさせないというものだろう。
だとしても、この映画で、語られるが映されないもの、または、語られるが何の事か具体的に分からないこと、でも、それをよく「聞く」と、その断片から、話者の気持ちが滲み出ているのが感じられ、十分にこちらの想像は喚起させられる。
そして、その断片と断片がつながって段々と地図が出来ていく。
それはまた、津波で一掃された土地の上で、ポツンポツンと建物が立っていき、徐々にまちが作られていく、この映画が捉えた被災地の復興の様子にも近い。
それはまだ途中で、そこにはまだ答えも完成もない。
それでも、その一つ一つをつなげることをやめずに続けること。