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『ノマドランド』

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居場所が奪われた人々や、居場所から立ち去った人々が旅行く。そんなノマドの人々の言葉で揺さぶる映画だった。そして、エンドクレジットで、主人公と助演男優以外の、ほとんどの登場人物の役名と実名が一致するのを目の当たりにして、この映画に登場した人々は、役者ではなく、本当のノマドの人々だと察し、ここでまた感銘を受けた。私は基本的に映画を観るときは前情報をほぼ入れないようにしているので、何も知らなかったのだが、ノマドの人々のこの言葉の重みはどこからくるのか、と私が劇中に感じていた疑問はここで解消された。

 

また、もう一つ好きなシーンとしては、ノマドの60代ほどの男性と、その息子(ミュージシャン役)の2人が、家でピアノを連弾するところ。2人の親子が、つたないながらも歩みよっている姿が、音にもあらわれていて、とても良かった。
そして、後で調べると、この2人は本当の親子(俳優David Strathairnと息子のTay Strathairn)で、息子のTayは本当にミュージシャンと言うことが分かった。

 

この映画では、このように、脇を固めるキャストが(ほぼ)本人役で出演しているようだ。しかし、ここで彼/彼女らが伝える言葉は、本人の言葉なのか、または、他の人が考えた脚本の言葉なのか、どちらなのか?ということは、気になってはいるものの、調べて考察する、ということは、今はしない。(考察する際には、この映画には、原作のノンフィクション本があり、それにあたるべきだろう)

 

この映画は、ペドロ・コスタのように、ポルトガルの現地の人々と作り上げたような共作性という所までは、もちろん振り切ってはいない。コスタの手法は極北と呼べるものだろう。あくまでもこの映画の佇まいは劇映画だ。
それは、主演のフランシス・マクドーマンド演じるファーンから派生した物語であることに多くを負っていると思う。
とはいえ、ノマドの人々の脈打つリアリティさというのはこの映画で強く感じ、それは職業俳優には出すことが難しいだろう。
この映画は劇映画然としながらも、ドキュメントとしても息吹いている。

 

スタジオセットを使用せず、素人の俳優を起用する、という手法は、戦後イタリアの、ロッセリーニや初期フェリーニなどで、知られる「ネオリアリズモ」として知られているが、この映画が評価されているのは、ネオリアリズモ的手法で描いた現代のロードムービーであることが大きいのだろう。

 

また、「あくまでも劇映画」と感じた、ほかの要因として、音楽の使い方がある。音楽をどのように、どれくらい鳴らすか?というバランスは、映画とドキュメンタリーの差や両者のグラデーションを考える上で肝だ。(もちろん無神経に大仰に音楽が使われてしまうドキュメンタリー作品、というのも、ちまたには多い)

 

この映画の音楽は、先に書いた、親子のピアノの連弾、バーのブルースピアニスト(この2つは特に素晴らしい)、主人公の鼻歌、主人公が遭遇するカントリーミュージシャン、など、映画内の人々が実際に奏でる音楽と、劇伴の音楽の2種類がある。
前者については、前述のとおり良いシーンもあり大きな問題は感じなかった。しかし後者の劇伴については、私は違和感を感じた。


この映画の劇伴は、映画のトーンに沿いながら、静謐なポストクラシカル的音楽が所々に使われ、仰々しさはなく、その点では問題はない。
しかし、特に物語後半において、主演のファーンの心情をわざわざポスクラのメランコリックな音楽で表す必要性はない、と私は感じた。かつてなく活き活きした女性を演じるフランシス・マクドーマンドの気持ちを、音楽が代弁しているとしても説明過剰だし、その代弁もズレているように私は感じたのだ。

 

これは、個人的な好みもあり、仕方がないかもしれない。個人的には無音楽で環境音のみが一番良かったのでは、と感じている。

 

ただ、それよりも一番違和感を感じたのは、その音楽の流れと映像の流れのズレだった。言葉で説明するのは難しいのだが、映画音楽家がこの映像の流れで、このように音楽を展開させることがあるのだろうか?という違和感があった。そして、この違和感も観賞後に調べて原因が分かった。それは、この映画で使用されている、メインのLudovico Einaudiの音楽やOlafur Arnaldsのピアノや弦楽のポスクラ的音楽は、監督が選んだ既存曲であり、この映画のために作曲されたO.S.T(Original Sound Track)ではなかった事である。もちろん、映画で既存曲が使われることは何も珍しいことではない。特定の映画を指さなくても、バッハやベートーベンなどのクラシックが映画内で鳴っていることもあれば、ポピュラー音楽の既成曲が映画内で使われることは頻繁にあることは誰にでもすぐに分かるだろう。または、ある映像作品のために音楽が作曲される、からといって、映像ができていない状態で、伝えられたイメージだけで音楽だけが先に作られる、ということもある。

 

既存曲を使用する場合、その曲の挿入は監督の手に委ねられているのが大半だと思うが、それは映画音楽家が挿入するのと大きく変わってくる。そこには、ゴダールのように、音楽をぶつ切りにしてしまうという、音楽家としてはほぼありえない手法が出てくる面白さもある。

 

このノマドランドに関しては、なぜ映画音楽家に委嘱しなかったのか、という疑問がでてくるが、もしかすると、実在人物を役者として採用したのと同じように、既存曲を劇伴として採用した、のかもしれない(これは私の仮定であり妄想である)。しかし、それを仮定したとしても、それには無理がある。役者はこの映画のために演じているが、既存曲はこの映画のために奏でられたものでないからである。とはいえ、私は、映像と音楽の、元々は2つの関係のないものが、なぜか調和してしまう、というマリアージュの可能性、も多分に信じているのだ。しかし、少なくとも、私にとっては、この映画では映像と劇伴の幸福なマリアージュは感じられなかった。監督や役者に対する賞受賞の評価に対して、音楽についてはノミネートの時点で少ないのは一つの証左ではあるだろう(ただ単にオリジナルスコアでないからノミニーされてないということかもしれないが)。もちろん賞をとるから良い音楽という訳ではないし、Twitterで日本語と英語で感想を調べても、多くの人がこの映画の音楽を評価している。しかしある程度音楽を愛し、理解がある者にとって、セッションやララランドの音楽があくまでもショービズ的な音楽にすぎなく、実際のジャズ界とは遠くかけ離れた音楽であると違和感を感じるのと似たものを私はこの映画の劇伴にも感じた(再度言っておくが、登場人物の演奏は良いシーンがあり、ここで私はバックの劇伴についてのみ言及している)

 

個人的には、この映画でアメリカの音楽の考証をもう少しつめていくこともできたのではないかと感じている。もちろん、ここで私はオーセンティシティを求めているわけではない。アメリカの映画にはヨーロッパのクラシック作曲家の音楽があわないなどといいたいわけでも全くない。特にアメリカ映画は多人種かつ多国籍で作られて当然の時代になっている。だから、いくらでも例はあるが、一例では、ブラックパンサーというほぼBlackの人々で作られたエンターテイメント作品の音楽は、アフリカの本格的なポリリズムを多用し、素晴らしい劇伴になっているが、それを作ったのはスウェーデン出身の音楽家である(実際にセネガルの音楽を研究したとのこと)。

 

それに、そもそもこの映画自身、アメリカの物語を中国出身の女性監督が描き、それが素晴らしい仕上がりになっているのだ。ただ、この映画は元々は主演のフランシス・マクドーマンドの企画であり、監督は彼女が指名している。だから、監督にとっては、アメリカの音楽の理解はそこまでは深くなかった結果、この映画ではアメリカのフォーク音楽にもう少し正面から向き合うことはなかった、と考えることもできる。

しかし、だからといって安易にアメリカーナ音楽の代表格のT Bone Burnett(コーエン兄弟など)を起用すればいいというわけでもない。彼の場合、この映画のトーンとは少し異なり土着的すぎるかもしれない。

 

または、非アメリカ人のフォーク、カントリー音楽として、Gustavo Santaolalla(アルゼンチン出身。彼が音楽を手掛けたモーターサイクルダイヤリーズやブロークバックマウンテンと、ノマドランドには近さがある)や、Daniel Lanois(カナダのロック、アンビエント楽家。映画だとスリングブレイド)、日本だとJim O’roukeまたは、渡邊琢磨、が、この映画を手がけるとどうなっていたか?ということをわたしは夢想してしまう(単に私が好きで、この映画とフィットしそうな音楽家を挙げているだけである)

 

この映画はフランシス・マクドーマンドが企画し、監督自身が切望してとった映画ではないと思われるのだが、それ故に近視眼的にもならずも、本来は別々だった人々の歩みよりが生じた、バランスのとれた普遍性がある。だからこそ、数多の賞を受賞しているとも捉えられ、これらの賞受賞には何も異論はないが、私にとっては、映画にとっていかに音楽が重要であるかを再確認させた作品であった。この映画の劇伴に満足している人は多いようだし、私としても劇伴が作品のよさを損なう、という所まではギリギリいっていない。しかし、私にとっては、あと映像と劇伴のマリアージュさえ成就していれば、紛れもなく傑作だったといえる。

 

と、ここまで書いた上で、この映画のジャオ監督は今まで、アメリカを舞台にネイティブアメリカンやカウボーイの作品を描いたというのを確認し、そこではどのように音楽が扱われているかを含めてぜひ観てみたいと思う。

 

2021/5/5 鑑賞