メモ/ランダム

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『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』

 
 
1969年の夏のニューヨーク。黒人文化の中心地ハーレムで、6回にわたり開催され、30万人が集ったというブラックミュージックの「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」。
 
出演する数多の黒人ミュージシャンのオールスターぶりは、まるで、マーベル映画のスーパーヒーローが集結した『アベンジャーズ』さながらである(決してReady Player Oneではない)。
 
さらにマーベル映画で例えるなら、フェスティバル全体から放たれる、彼/彼女たち自らがブラックであることの誇りや気概は、黒人主導で制作された黒人ヒーロー映画『ブラックパンサー』を観てビシバシ伝わるエネルギーと同質だ。
 
ところで、この大人数集まるフェスは、当初は警察の協力を得られなく、警備に当たっていたのが「ブラックパンサー」の党員であったと映画の中で語られる。
 
ブラックパンサー(党)とマーベルのブラックパンサー。「ブラックパンサー」は、現実の世界と架空の世界、それぞれ別に存在している。
 
マーベルのブラックパンサーは、元々、近年の映画よりもはるか前の1966年、このフェスの3年前に、初の黒人のヒーローとして登場したコミックのタイトルかつ主人公である。
そして、それとほぼ同時期に、マルコムXが暗殺され、公民権運動(黒人解放運動)がアメリカで激しくなってきた頃、ブラックパンサー党が結党された。
 
同名のコミックと組織がほぼ同時に現れたことは、偶然なのか、それとも、どちらかがどちらかを引用したのか、諸説あるらしい。しかし、奴隷解放から年月がたっても、人種差別が根強く残る時代に、黒人社会の中でヒーロー像が求められたのは必然だろう。現実の厳しさが虚構を求め、その理想を現実に夢みようとする力学が、現実と虚構において、同名のブラックパンサーを導き出したのだ。
 
さて、スティーヴィー・ワンダーやB.Bキングから始まり、そのフェスティバルで繰り広げられる様々な演奏は、ブラックミュージックラバーズにとっては、至極の演奏だろう。
 
しかし、至極であると同時にすさまじいエネルギーである。私個人としても、こんなにエネルギーのある音楽を体験することはなかなかない。念のためだが、それは昨今のコロナ情勢でライブの音楽を体験する事が少なくなっている、ということでは全くない。
 
このフェスから発せられる音楽のエネルギーとは、ミュージシャンと観客が、ともに踊り、歌い、時には悲しみ、鼓舞し、主張し、それと同時に様々な文化を招き入れる、などといったエネルギーであり、そこでは、音楽体験と今を生きることがアクチュアルに結びついていることを見せつけられるのだ。
政治的である、というのは、本来、このようなことにほかならないだろう。
 
この映画を観ることは、かつての名演を観て、感動し、消費する、ということだけではすまされない。
この映画は、ただ単に演奏シーンを流すのではなく、当時のニュース映像や、当事者の現在のインタビューを、(平井玄氏が指摘したDJのように*1、または、思い出野郎Aチームの高橋氏が指摘したMPCで編集するかのように*2 )巧みに混えることで、そこで演奏される様々な音楽や、演奏間のMCのことばの時代背景を、政治的側面もあわせてあぶり出し、映画を観る者までも鼓舞させる。
 
私自身もブラックミュージックを愛好するが、政治側面を意識することは正直なところ多くはない。だから、ザ・ルーツのクエストラブが、ここまで本気の作品を作るとは思ってもみなかった。思えば、この映画は本国でも今年公開だが、去年のジョージ・フロイド事件から端を発して激しくなったBlack Lives Matter運動と明らかに呼応している。
 
このことは、2019年公開のモータウン初の公式ドキュメンタリー映画『メイキング・オブ・モータウン』で、創設者のベニー・ゴーディが、後に有名曲となるマーヴィン・ゲイの「What’s going on?」のリリース前に、その歌詞の政治メッセージに難色を示したことと対照的である。インタビューが行われたのはせいぜい2〜4年前だろうが、ゴーディは近年でも未だに音楽で政治的主張をすることに肯定的ではなかったのだ。(とはいえ、念のためだが、この映画も時代背景がよく解説された名作である。創始者が90歳をすぎて未だにノリノリかつ元気すぎる姿にびっくりした)
 
もしブラックミュージックに疎く、出演ミュージシャンについてあまり知らなくても(私自身も知っているといえる出演者は1/3ほどだ)、どんなジャンルでもいいから音楽が好きならば、この映画はあなたに関係のない映画ではないはずだ。映画が放つ強烈な熱意にやられるかもしれないし、単純に演奏に心打たれることもあるかもしれない。または、様々な身近なポップスが、ここで演奏されるブラックミュージックの影響を受けていることも感じ取れるだろう。それは、自分の身近な音楽と、このフェスで演奏された音楽との間の距離、ともいえる。
 
距離でいえば、そのほかにも、自分と音楽の距離、音楽と生活の距離、音楽と政治の距離、理想と現実の距離、など、様々な距離を測るきっかけが、この映画にはある。
 
69年にこんな最高なライブがあったことが50年後にようやくこの映画で明るみになったが、時代背景として最悪な事があったのも事実だ。しかしそれは、70年代もそうだし、80年代、90年代、00年代、10年代、そして、20年代の今だってそうだ。ディケイドで区切るまでもなく、歴史を振り返ればいつだってそうだし、今後もそうだろう。意識的にも無意識的にも、新しい音楽は時代の変化に応じて生み出されていく。

*1:私の文章よりはるかに必読だ 沈みゆく街で|①魂の夏|現代書館|note

*2:日本の公式サイトのコメントより