メモ/ランダム

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『タゴール・ソングス』 おしえの音楽

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詩が、愛であり、祈りであり、薬であり、抵抗であり、おしえの言葉となっている。その言葉がメロディーにのせられ、歌となる。すると、言葉がメロディーと結びついて記憶を刻み、血肉化する。そして、それがその人の一部になる。

 

しかし、言葉とメロディーが結びつくことは、言葉にとっても、メロディーにとっても、必ずしも幸せなこととは限らない。

 

ブッダの頃は
修行に音楽はなかった
長く引き延ばした声で経文を歌うのは
よいこととは言えない
教えより声の美しさに心が向いてしまうから

高橋悠治 http://www.suigyu.com/yuji/ja-text/2000/seijaku02.html

 

このような仏教の禁欲的態度を持ち出すのは現在の一般人には難しい。とはいえ、現在の音楽において、メロディーという波に言葉がのまれているような歌は割と多いと私はよく感じるし、そもそも言葉が薄く、メロディーにのりきれずに消えてしまう歌も多々ある。
または、歌の言葉が、その音楽の印象を変えてしまう、ということもある。

 

言葉とメロディーが渾然一体となる、というのは、いつも起こることではない。それは、人と人との関係が、他人であったり、友人であったり、パートナーであったりと、いろんな関係がありえることと同じだ。(とアナロジーをしてみると、メロディーと言葉が他人のような関係の歌、というのも面白いような気もしてくる)

 

歌の話にもっと踏み込む前に、歌になる前の詩の言葉についてここで少しはさもう。

詩の言葉には元々メロディーはない。その言葉は、文字として黙って読むか、声に出して朗読される。しかし、現代において、記述された文字を読むことは黙読であることがほとんどだ。だが、これは昔は当たり前のことではなかったと社会人類学者のティム・インコルドはいう。古代から中世までにおいて、読むことは、声をだすことと結びついており、読むことは、その声を聞くことと等価だったのだ。

 

読む行為は、テクストという対話者の声を聞き、その声と会話をかわす行為(パフォーマンス)だったからである。読むことが孤独な知性の操作となり、読者を周囲の世界に感覚を浸している状態から切り離すことなど考えられなかった。

~~
読書は「歌うことや書くことと同じように、身体と精神が動員される活動」として理解されていた。

ティム・インコルド著『ラインズ 線の文化史』

 

さらに、インコルドは、音楽へと踏み込み、その時代までにおいては、

 

純正な音楽とは本質的に言語芸術だった。

 (同上)

 

という。音楽の上で、歌として声をだすことは、その言葉を聞いて、読むことでもあったのである。音楽は、かつて、神の言葉を伝える手段であった。そこでは、楽器の演奏は二の次だった。そして、声については、なによりもその言葉が重要視されていた。音楽と言葉が分離し、楽器のみの音楽が発達したのはここ数百年のことである(注: インコルドはここでは西洋音楽を中心にこれを論じている)。

  

また、インコルドは、

テクストを読む者は、牛が口を動かして食べたものを反芻するかのごとく、言葉を呟きながら記憶の中でテクストを繰り返すようにと強く促されていた。

 (同上)

 

という。さらにいえば、言葉(テクスト)をただ読むだけでなく、メロディーにのせて歌にすることは、反芻から消化への血肉化をなお一層強化する。

 

しかし、近代以降における、読む行為の、朗読から黙読への変化と似たものは、音楽にもあるのだ。それは、音楽(歌)が、録音技術の誕生によって、自分で演奏(≒朗読)するものから、人の演奏をきくこと(≒黙読)中心へと変化していったことだ(例えば渡辺裕が「聴衆の誕生」で論じているように)。今まで、自分の身体を動かしていた行為は、他へと任せられてしまう。歌と言葉の関係は、かつてより弱くなってしまった。

 

しかし、この映画では、インドやバングラデシュの現代の老若男女たくさんの人々が、タゴールという人物の詩を歌っている。そして、そこでは、歌うことは生きることそのものであるかのようなのだ。

 

タゴールとは1913年にノーベル文学賞を受賞したインド(その中のベンガル語圏)の詩人であり、音楽家であり、教育者であり…、と多彩な人物である。 

 

この映画では、本編中に、ほぼ常に誰かがそのタゴールの詩を歌っている。それをきき、歌詞を字幕で読んでいると、メロディーと詩の言葉が分かち難く結びついているように強く響いていた。

 

詩の言葉自体が、生きるための道しるべになっている以前に、メロディーそのものが、そこにのせられた言葉を、身体深くまで潜らせるための道しるべとなっているのだ。道しるべは、実は言葉ではなく、メロディーなのかもしれない。それが血肉化をより強めている。

 

そこでは、本に言葉が刻まれるように*1、歌い手の体の中に言葉が刻まれているのだ。だから詩が歌われる時、その歌い手は「本」と化しているといえる*2。詩を歌うことは、その自分の身体の中にある本に書かれたおしえを、聞き手に伝えていくことなのだ。さらに同時に、その中の最大の聞き手は、歌い手自身でもある。自分が本となり、自分がその一番の読者なのだ。

 

そして、その歌は、娯楽である以上に、快楽である以上に、または、個人的な心情を歌う以上に、人々に寄り添ったおしえとなる。

 

そのようなおよそ100年前の歌が、現代においても引き継がれ、ギターを弾きながらシンガーソングライター的に歌われ、または、若者に最新のヒップポップのリリックとして堂々とライムされているのをこの映画で目の当たりにし、私は驚嘆した。私だけでなく、この映画をみたほとんどの人(少なくとも日本人)がそう思うことだろう。はじめにインコルドを引用しながら論じた、かつての言葉と声、または、詩と歌の関係のように、100年前の詩が、歌として声にだされながら、おしえとともに人々に継承され根付いていることに驚嘆してしまうのだ。今の日本には、そのような音楽も、おしえも、それらの継承も、ない。

 

ここで、日本にそのような音楽や言葉(おしえ)があったほうがいいか?と考えてはみるものの、それ以前に、この国ではそんな音楽も言葉も、もう成り立ちえないのでは、と思ってしまう。もし出来たとしも、それは簡単に政治的に利用されるリスクが高い、と考えるのは悲観的すぎるだろうか。他の国はどうなのだろう。しかし、あまりにも過去を簡単に捨て、過去から何も学ばない昨今のこの国の状況を鑑みるに、継承の問題を考えざるをえない。

 

と感じる一方、気分をかえていきましょう、この作品の最大の見どころは、大人の、子供の、若者の、老人の、詩を歌う表情なのだ。みんな本当に良い顔をして歌っている。全編を通してみんながそうなのだ。

 

最も大切なことは、自分の身体深くまでを、歌で刻み込むことだ。そして、そのメロディーと詩によって刻まれるのは、あの表情そのものなのだと、強く感じた。深層は表層にも宿るのだ。

 

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コロナ禍という言葉が出てくる前だったと思う。3月前半に、友人主催のイベントが開かれ、そこで監督の佐々木さんが来ていて、タゴールのことも何も知らなかったのだが、そこで前売りチケットを売っていて、バイブスだけで今回観る機会となった。公開延期となりつつ、規制緩和後の上映再開直後のタイミングのこの時期に、この映画と鉢合わせることができたのは、幸運な交通事故だったと感じている。

 

2020 6/13 ポレポレ東中野

*1:インコルドに倣えば、現代の本は印刷され、それは実際に手で文字が刻まれたものと大きく異なるのだが、それについてはここでは置いておく

*2:またそれは、印刷物としての本ではなく、手書きの手帳やノート、詩集のようなこともあるだろうが、ここでは一応として「本」で統一しておく

『Take Me Somewhere Nice』(2019)

 
オランダに移住しているボスニア人の少女(ドジ)が、故郷の父親に会いに行くために、従兄弟(とにかく無愛想)とその友人(チャラい)と一緒に旅をする青春珍道映画。
 
90年代の紛争で多くの人々が移民となったボスニアは、現在は故郷に戻ることが簡単になったようだが、オランダで育った少女にとっては故郷とはいえ、ほとんど異国だ。
そんなボスニアは、この映画では、蛍光色で彩られ、どこかドリーミーに描かれ、終始目が奪われる。
 
服装から建物の内装まで蛍光色が多く、それは映画用にそうしているのか、または、元々がそういう色を好む人の多い国なのかはよく分からない。
しかし、夜の街はネオンで紫に染まったり青白く光るように映されるし、昼間もビビッドに淡目に彩るように映されている。
 
自分がみたことがあるボスニアは、04年公開のゴダールの「アワーミュージック」位しかないと思うのだが、そこでは、紛争の爪痕として、廃墟となったマンションや家が暗く色褪せて映されていた。
 
しかし、この映画で少女がボスニアについた後に映される街は、アパートと世界のどこにでもあるようなショッピングモールくらいで、あとは、旅の移動でたどり着くホテルやお店や病院や田舎が映り、カメラが紛争の痕跡を視覚的に捉えることはない。
 
その代わりに、紛争後の生活の厳しさは、旅の中の会話で少し交わされる位だ。
そして、その旅は、何をやっても上手くいかなく、その様子がシュールかつユーモラスに描かれている。
 
基本的に人々は無表情で、まるでカウリスマキの映画の登場人物のようなのだが、監督のインタビューによるとファスビンダーの影響が大きいらしい(みたことないのでみてみたい)。
 
そして、この映画では犬が野良として結構出てくるのに加えて(特に最後の〜トリア系?の犬!)、登場人物もみんな野良犬みたいなのである。
主人公の少女は常に疲れて不機嫌な犬のような顔をしていて、それがまた魅力的だ。
ここで、少女といっているが、彼女は成人済みである。しかし、大人になりきれていないことに加えて、オランダにもボスニアにも居場所がなく、二重の意味でモラトリアムな少女だ。
 
タイトルの『Take me somewhere nice』=『どこかいいところにつれてって』
という言葉は、

『私をスキーにつれてって』(みたことない)
『私を月につれてって(Fly me to the moon)』

というタイトルと似たような、一聴ポジティブな恋愛の響きがする。

しかし、悩める彼女は、実はどうしても父親に会いたいわけでもないし、オランダにもボスニアにも居場所はなく、「とにかくここではないどこかに行きたい」と、受け身に逃避的に思っている。スキーとか月のように、明確に行きたいところがあるわけではなく、どこに行きたいのか分からないのだ。

この話は後でまた続けるとして、話を初めに戻すが、この映画は、蛍光色でドリーミーに描かれるのに加えて、画角は昔のテレビ風の4:3となっている。

そして、この色合いとこの画角の映像で、映画の序盤にボスニアの街とショッピングモールが映されると、それはまるで、ヴェイパーウェイブのアートワーク的な、蛍光色に染まる都市の感覚と近く感じられたのだ。
ただ、違うのは、ヴェイパー特有の80〜00年代初頭までのビデオ画質のノイジーさやローファイさはなく、この映画では澄んでいて鮮やかな所だ。

さらに、最近世界的に流行っているドリームポップ(有名なのはmen I trustあたりか)や、ベッドルームポップのMVは、映像が4:3のビデオっぽい画質のものが割と多いのだが、これもヴェイパーとは違う形でのノスタルジアのあらわれだといえる。
 
そして、この映画は、これらの最近のMVを含めた音楽の、ゆるさや気怠さと、とても似た現代的な感覚を醸し出している(映画の音楽ではなく、映画の映像の感覚が、である。音楽自体は若干のヴェイパー感もあるが、少し毛色が違う。しかし、これもめちゃくちゃ良い。シンセやテクノやアコースティックなものまで今っぽいのだが、どれも通奏してバルカン(ヨーロッパと中東のあいだ)の響きがしている)。

ここで、ドリームポップとベッドルームポップとヴェイパーウェイブの違いについては置いておいて、半ば強引にいえば、これらのすべてに共通するものは、基本的に部屋=自分の世界で完結する音楽ということである。

ベッドルームポップもヴェイパーウェイブも、自分のベッドルームで曲を作り、きくものである。そして、そもそも、ドリームポップにおける夢(ドリーム)は、自分のベッドルームでみるものだ。

これら全ては、部屋=自分の世界で完結する。さらにいえば、スマホやパソコンも自分の世界=部屋(ベッドルーム)である。

さて、この映画の主人公の少女は自分が望んだわけではないのに、ボスニアを旅することになるのだが、somewhere niceな所に連れてってもらうこともなく、どこにいっても結局自分の居場所がない。言いかえれば、どこにいったとしても、自分の部屋に留まっている状態とそんなに変わらないのだ。

しかし、それをさらに反転してしまえれば、今いる場所を自分の部屋にしてしまうこともできるし、どこでだって夢をみようと思えばみることだって、やろうと思えば出来るのだ。その意思さえあれば。

そして、彼女は人任せではなく、それを自分の意思で最後にやってのけた。それも、官能的に、である。こんなシーンを僕はほかの映画で観たことがない。

最後になったが、この映画は撮影も特筆すべきで、特に前半のカットはキメキメである。初めてフィンチャー堤幸彦をみたときに触れた、新しい感覚がある(この2人に似ているという意味ではなく、とにかく新鮮でカッコいい)。

音楽としては多少は触れてきたが、今の若い世代(20歳前後)の感覚を、映画としてはほぼ初めてみたと思う。しかもそれがオランダに移民したボスニアの女性監督の作品になるとは予想もしていなかった。何か新しいものは今までと違った場所からemergeするのは常のことだが、今後がますます楽しみだ。
 

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以上、MUBIの1週間無料トライアルで、英語字幕でみたのだが、そんなに難しい会話もないので、おすすめします。いきなりこのような映画に出くわしたので、この調子だと加入してしまいそう。でも、Amazonプライムを適当にみるよりいいかも。

ホン・サンス『次の朝は他人』

今は地方の学校で映画を教えている、そこそこ名が知られているらしい映画監督が、先輩に会いにソウルに行く。そして、3夜連続飲みに行き、たまたま誰かと出会う。その中で、多少のメロドラマがあるだけだ。

 

と、ストーリーのみを取り出すと基本的にはなんともない話なのだ。しかし、そのなんともないシーンですら何故か妙に面白く、そして、所々変なことが起こることで、さらに面白いのである。

 

3日の間の1日1日をそれぞれ取り出すと、あることを除けば、とりとめのないことしか起こらない。

 

しかし、その1日1日をつながりでみると、間違いなく3夜連続で飲んだようでもあるのだが、それと同時に、この人たちは実は3夜連続で飲んでいないのではないか…、と不安にもなってくるのだ。

 

そして、どちらかというと控えめな性格にみえる主人公の映画監督は、唐突に、どうしちゃったの?!、という行為を何度かしでかし、あっけにとられる(というか笑えるのだ)。しかし、その後すぐに反省し、そして、翌日にはそのことを覚えていなさそうなのである笑。そうだ、この映画のタイトルは…。

 

突然の衝動と、やらかしてしまった後の自制と、健忘がすべて刹那に消えてしまう。

 

ある意味、ときめきメモリアル(古い!)のような恋愛シミュレーションゲームを1日ごとにリセットしているような感覚もある(女性と出会いました、さあどうする?みたいなことが繰り返されるのだ)といえるのだが、質感としては、昔のヨーロッパ映画なのだ。

 

たとえば、ルイス・ブニュエルの「皆殺しの天使」のような感覚と、あの映画のループ構造を思い出したが、ブニュエルのような不条理やブラックさはなく、ゆるやかである。

 

シュール、コメディ、メロドラマ、といった要素はあるとはいえるが、これら全てのカテゴライズを避けるように作られているようにも感じて、ふわふわしている。

 

幾度とある飲み会のシーンでは、特に食べ物は美味しそうに描かれなく、基本的に飲みに徹しているのだが、飲み会、いいな、zoom飲みより、やっぱり、会って飲みたいな、と感じさせる、飲みの楽しさと退屈さと訳のわからなさが同時に映されている。

 

奇妙な健忘は、酒でやらかし、忘れてしまったからだ。とは単純にいえなく、昼間にシラフで外を歩いている時でさえ、謎な邂逅が起こり、どこかおかしい。

外に出てぶらぶらし、酒とたばこをのみたくなる映画。

 

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と、ホン・サンスの映画はみたことなかったので、Amazonプライムでなんとなく短めのを観てみると異様に面白かったのであった。


しかし調べたら、よりによって菊地さんがトークショーでこの映画について語っていて、ああ、所々同じことを考えてはいるが、はるかに流石だ…


https://eiga.com/news/20121122/15/


で、この映画を面白いと思ったのは間違いないのだが、私は、例えそれほど内容自体が面白くはなくても、構造に特異性をみつけると(すなわち構造が面白いと)感想を書きたくなるタチ(今までのエントリーの半分位はそう)だからこう書いてしまったのもあり、よかったからといってなんでも書きやすいわけでもなかったりする。

最近観た映画だと、「ハッピーアワー」と「光のノスタルジア」はとても大切な映画で、特に「光のノスタルジア」については数年前に映画館に行き、珍しいことにDVDも買ったのだが、なぜか今Amazonプライムで観れるんですね。加入してる方には「光のノスタルジア」をおすすめします!

20200418 雨

先週ああいう風に書いたのがあだになったとしか思えないが、ここ1週間は舞い込んでくるものだけでほぼ100%支配されている苦笑。仕事しかしておらず、状況は悪化するばかり。

 

このご時世はどこ吹く風か。

しかし、今日吹く風はとても激しく、昼の今は春の嵐だ。それに巻き込まれるように仕事も嵐(こんにちは、松本潤です)。

 

朝、雨がまだ強まる前、水たまりをよけつつ、できるだけ濡れないように風向きに傘を向けて歩きながら、まだきいたことのないJoan of Arc(ジャンヌダルク!)の昔のアルバムをききながら職場へ向かう。このバンドはGapしかきいたことがなかった(大好き。大好きなのに、長らく一枚しかアルバムをきいたことがなかったバンドはほかにも、キリンジ「7」、クラムボン「Musical」、、話が長くなるので、ここでカッコ閉じる→)。

灰色にそまる雨の中、イヤホンをして世界が耳から内側に閉じると、雨にではなく、しとしと、と音に濡れていると錯覚するかのように響いている。

 

そんなこんなで、職場の近くのローソンに入り、水1リットルとリポビタンDと納豆巻き。普段は給水機(ところで、高校の時、こう、足でボタンを押して水がピューっと出てきたのをかがんで飲む装置の事を、ぼくたちは「水野美紀=水飲み機」と呼んでいた。なぜか今思い出した。)、で水をくんでいるが、このご時世で止まってるので、水を買う。やっぱり買う水の方が良いね。でも、ファミリマ(略が変)で売ってる宮崎の水の方がもっと美味しかったような気がする。口触りとか硬度とかだろう。

 


栄養ドリンクなんかほぼ飲まないが、明らかに元気がないので…、なにがええんやろ、と思いつつ、剤っぽい棚を眺める。リポビタンDは、私が参加しているKのK氏(中華にいくと必ずピータンと腸詰を頼みたがる人の方)が、たまにライブ前とかに飲んでいるので参照した。あの人が飲んでも特にいつもと変わらずファイト感を感じることはなかったが、私も特にファイトになるわけでもなく(そもそもメンバー全員ファイトとは無縁そう)。

 


納豆巻きはたまに食べる。のだけど、かじり始めたもう片側の穴から豆がこぼれないようにして食べられた事が一度もない。いつも気をつけようとするのに、また手に糸がひいた。スパイダーマンになれるわけでもなく、毎度のように手を洗いに行く。

 


昼ご飯を調達するために外に出ると嵐だった。瞬時に下半身はびちゃびちゃである。仕方なく、最も近い飲食店であるうどん屋に入る。前に3年間くらい週3くらいで通っていて、その時は永遠に通えると思っており、当時の私の身体の3割ほど(地球における大陸の割合と同じである。地球の3割がうどんと天ぷらで出来てると想像してみよ)を形成していたと思うのだが、去年から体が受けつけなくなったうどん屋である。永遠なぞないのである。まあ、うどんというより、天ぷらが厳しくなったのだが、2019年、私は蕎麦派に転向した。また長くなるので省略する。

 


仕事をしつつ、昨日の夕方に買っておいた、グリコのメンタルバランスチョコレートを開ける。普段、こういうものに頼ろうなんて思うことはないから、いかに切羽詰まっているかが分かる。すこしづつポリポリ食べて、いつのまにかなくなっていた。その後にパッケージをみると1日5粒まで、とある。計20粒ほど食べたような気がするが…、うん、ここ数日ずっとピリピリしてたし、確かにいつもより落ち着いているような気もしなくはない。雨はいつの間にか止んでいた。

 


今帰宅途中にこれを書いているが、このように思った事をパーッと書いて、岸に打ち上げられた魚のようにそのままアップするというのは今までほぼないし、本当は書いている余裕すらないような気がするが…、まあ、そんなことは本当はどうでもよくて、雨に濡れて染みこんだ言葉が乾かないうちに書き留めておくべきだと思い至ったわけです。

 

今からKのメンバーでオンライン飲みをするらしい(恥ずかしいので映像なしとのこと)。

20200412

あれ?コロナってなんだっけ?というくらい、色んなことが舞い込んでいる。外から勝手に舞い込んでくるし、そのカウンターとして自分から舞い込ませている節もある。舞い込んでくるものと舞い込ませているものは互いにカウンターしあっては連鎖し、歯車となってグルグルとまわっている。歯車はいくつかあり、互いに組み合わされたり離れたり、時には休憩しながら色んな速度でまわっている。ガタガタ、トコトコ。

全部コロナとは関係ないし、全部関係あるともいえる。少なくとも、コロナハイ、ということはできるかもしれない。ビールなのか、チューハイなのか、カクテルなのか、よく分からないが、コロナハイという美味しいのかも謎なお酒を日々飲んでハイになっては落ち込んでいる。独りだから、状況と相手の許可さえとれれば仕事をし、人に会いにいく。仕事は外から強制されたものだが(そして忙しく異常だ)、仕事以外は半ば強引で自分でそうさせている。後者は自分としてはとても珍しい。こんな時期なのに、という感覚さえ自分の中では麻痺している。やはりハイなのだろうか。

ここの所、家には寝に帰るくらいだ。深夜、最寄りから家に帰る途中の街の通りは、客引きと自分しかいない世界に変わっていた。彼らは獲物をみつけたというばかりか、いつもより積極的にこちらに向かってきては、接触しようとしてくる。ゾンビにしかみえない。ごめんなさい、といいながら、ゾンビから逃げて帰宅している。


4週連続で土曜はうちに帰らなかった。1週目はギリギリのギリギリで敢行された親戚の結婚式で富山までいき、なにもないだろうと思っていたのに、このタイミングで、あの場で、音楽面で、いくつか出会いがあったことには未だにびっくりしている。人から人へと感染してしまうのはコロナだけではない。そこにはあらゆる経路(lines)がある。もうそんなことはないと思っていたのに、どうやら僕はいまだに音楽に感染しているようだし、時には知らずのうちに人へ感染させてしまうこともあるだろう。あの客引きの人たちと同じように、すでに僕もゾンビなのかもしれない。でも、検査のしようはないし、ワクチンもないだろう。

それ以降の土曜は音楽に感染していると思われる数少ない友達といえる人たちとお酒を飲んだり夜遅くまで話した。ことしはおかしなことしか起こっていない。


タイムラインを見る時間もあまり取れないし、そもそもあまりみたいとも思ってないが、たまに眺めるといつも阿鼻叫喚としている。友達や信頼のおける人の個人としての言葉をみつけようとしつつ、その他の叫ぶラインはとりあえず心の中でミュートして(実際に目に見えないようにするのは無理で、楽器のミュートのように、発せられている振動を抑えるように)受け止めてはみるものの、すぐにそっと閉じる。代わりに本でも読みたいが、時間も心の余裕もなく、いつの間にか春だから漱石草枕でも読みたいと思うものの青空文庫アプリで適当にめくりながら少しの間眺めてはやめている。その後はボーっとなにも考えないように試みる。しかし、その時間はなぜか休憩にもならず、身体と思考が動かなくなるきざしを感じる。いや、すでに一部の身体と思考は働いてないという自覚はあり(例えば、徐々に歩けなくなり身体が硬直する夢、というのを昔からたまにみるのだが、最近はそれが実際に起こってしまいかけている)、その他の働ける部分が動かない箇所に無理やり歯車をかみ合わせてなんとかしているようにしか思えない。今日ようやく多少の余裕ができたので、こう書いてみた。どこであれ、誰にでもあれ、状況的なことをなんとなくでしかいえないし、それ以外を(能力として)言葉にできないのはいつもどうかと思いつつ、いわないよりマシなのかどうかも分からない。

今まで特に食べたいと思うことはなかったのに、毎日目の前を通る屋台で最近よくクレープを食べている。今日は灰色の小雨の下で生地を濡らしながら。眠たくなってきた。

アニエス・ヴァルダ『ラ・ポワント・クールト』読む映画/触れる映画

 

1955年のフランスの漁村の映画に終始目が画面に釘付けにさせられるとは思ってもいなかった。画面の四隅から四隅までをこんなに凝視させられる映画を今まで私はほとんどみたことがない。
 
映画に存在するのは物語だけではない。映画の主人公は、そこに映された運動体なのだ。
人々が歩き、食事をし、船をこぎ、漁をする。
海辺の波、船が通った後の波紋、風に漂う草木、または洗濯物。
道端の猫、捕まえたうなぎ、沼を歩くカニ
白黒のフィルムに映される数え切れないあらゆる運動体をみていると、映画の物語とはただ単にその運動体の付随物にすぎない、と思えるほどだ。
 
はっきりいって、字幕をほとんど読む必要がないのである(ただし男女の会話のシーンは台詞も必要だ)。
この映画においては、字幕を読むことが、どれほど画面から受け取る情報量を少なくしているのか、または、映画体験を貧しくしているのか、と感じられるほど、ほとんど常に、画面の隅々で何かがうごめいて、目が離せないのだ。
例えば、主人公2人が漁村を歩き、会話をするシーンだけを取り出しても、その2人の周りで、あらゆる角度で、何かがひしめいている。主人公2人よりも、それらの背景の方が重要なのである。もはや背景が背景でなく、前景へと逆転してしまっている。
この時、字幕を読むと視野がどうしてもスクリーン下部中心になってしまう。この映画では画面上部までの情報量があまりにも多いため、字幕を読む時間が惜しくなるのだ。
 
私自身初めて鑑賞したアニエス・ヴァルダ作品であり、ほとんど彼女についての知識なしのフレッシュな状態でこれをこれを書いているのだが、パンフレットを購入し、一瞬開いて「映画を読む」というキーワードがみえた*1
これは(こんな言葉は滅多に使いたくないのだがそうとしかいえないので)、真理だと思う。
先に、「字幕を読む必要がない」、と指摘したが、さらにいえば、言語の壁関係なしに(もし、あなたがフランス語をききとれたとしてもor映画が日本語吹き替えだとしても)、映画を物語として読む必要がないのだ。(この時、言語理解という点で、言葉を「聞く」ことは「読む」ことと等価とみなす)
そもそも物語だけを読むのだったら小説でも読んでおけばいい。物語は言葉にすぎない。映画を観るということは、物語を読むことだけでなく、画面そのものを読むことでもある。
 
はじめに私は、この映画の画面に釘付けになり、四隅を凝視していた、といったが、それは、画面そのものを読む行為そのものだったと実感している。
 
また、「背景が前景へと逆転している」、というのは、背景を含めたスクリーン上の画面全体が、本のページになり、スクリーンが読み物になっているといえる。この作品で、映画のコマが進むことは、スクリーンが本になり、そのページがパラパラとめくられるということだ。この時、鑑賞者は本となった映画を読み進めているのだ。
 
振り返ると、この作品では映画の始まりから、観客を「画面を読む」という行為へと誘導していた。
 
木目のような表面を背景にして流れる開始のタイトルバックは、はじめは何の模様かと思いつつ、その後のカメラの移動で、それが作りかけの手作りの船の一部をアップにしたものだと分かる
あまりにもむき出しの、その船の木材の表面を映したカメラは、その後、漁村の家が並ぶ通路をゆっくりとなめるようにしながら進んでいく
私は、序盤のここまでのシーンがこの映画の主題=「映画を読むこと」の静かな助走であったと考える。
というのも、ここまでのシーンで人は映されることはなく、映されるのは、木材の表面の静止画から、漁村の街並みの運動体への動的な変化なのだ。
 
それまで死に体のように映っていた木材の表面の静止画が動き出すと、家の壁や、風に漂う洗濯物、一面に広がる漁の網、水面…、といったものが、徐々に生々しく映し出されていく。
波や風、生き物といった運動体が生々しい、というのは、殊更通常のことであるが、それと同時に、汚い壁、放り出された網、沼、原っぱ、壁紙、ベッド、タオル…、といったむきだしになったあらゆる静止した表面の、その肌触りが感じられるようになってくるのだ。
そして、その画面に映し出される表面の肌触りを、観客である私たちは、目で感じている、いや、目で読み、かつ、目が手のようになって直接その肌触りが感じられるかのようなのだ。
どういうことか。
先に、この映画では「スクリーンが本になっている」と例えたが、実際に本を読むときに、ページを手でめくる行為では、触覚が起動される(紙の手触りを好む人も多いことだろう)。
それでは、スクリーンが本のような「読み物」になっているこの映画では、目が「視覚」であると同時に「触覚」にもなっているといえる。目でページをめくっているのだ。
より具体的にいえば、この映画は、水面、網、沼、部屋の壁紙、ベッドのシワ、汚れた家の壁、猫の毛並み、ヌルヌルのうなぎ、船…、といったあらゆる画面が束ねられた本となっているのだ。
そしてこの時、鑑賞者の「目」は同時に「手」となって、その本のページをめくっているといえる。画面を目で見ることと本のページを手でめくることが等価になったとき、鑑賞者は、画面に映っているそれらの表面の肌触りや質感を直接手に触れて感じ、読み取ることが出来るのである。まるで目が手になったかのように。
 
祝日の昼の上映で9割ほどの入りだったが、上映後に一部で拍手が起きた。この手の映画では珍しいことだが、映画を読むことの可能性と、映画を撮ることの可能性がまだまだあるということに、65年もの前の映画に気付かされた。私も拍手である。
 
また、「映画を読むことの可能性」というのは、いいかえれば、今まで私はいかに物語ばかりを追い(読み)、映画を読めてなかったのか(画面がみれてなかったのか)、ということへの反省でもあるのだ。私の今までの映画のみかたが否定されたようで、喝を入れられた気分である。
 
 
 

*1:これを書き終わって、どこに書いていたかを確認しているのだが、どこにもみつからない…。検索しても見つからない…

2020年1月15日(水)「ナスノミツル&菊地雅晃 ~ Bass solo & duo ~ @荻窪ベルベットサン」

ナスノミツル / Fender Precision Bass・エフェクト
菊地雅晃 / コントラバスkorg MS-50(リングモジュレーター)・エフェクト


open 19:30
start 20:00
charge:¥3,000 (tax in + 1 drink)

 

珍しく告知します。

1/15水に荻窪ベルベットサンにて、
ベーシストのナスノミツル氏と菊地雅晃氏のsoloとduoのライブがあります。
なぜ私が告知するかというと、私がこのライブを企画したからです。*1

私もベースを弾くからこその発案ではあるものの、ベースに興味のある人向けのみとはさらさら思っていません。お二方ともベーシスト以前に、素晴らしい音楽家/作曲家/即興演奏家/エレクトロニクス駆使派です。面白い共演になること間違いなし!

その他、色々と思いはあるのですが、その50%ほどは、フライヤーに書かれています。そのフライヤーはベルベットサン、新宿ピットインなどを中心とした都内ライブハウスで配布されています。
インターネット上だと、菊地雅晃さんのホームページに貼られていますので、そちらをご参照のこと。
*2

http://blog.livedoor.jp/leoneturbogt2/archives/52455414.html

なんでここに直接貼らないの?!と思われること必須かと思いますが、菊地雅晃さんのブログは、めちゃくちゃ面白いので、アクセスしてもらいたいからです(60%本当です!あとは恥ずかしいからです!)。
私が大学生の頃、ヘビー読者だったのですが、まちゃあきさんのブログがあったからこそ、ジャズ、フリージャズ、フュージョン、現代音楽、サイケ等、色々きくきっかけになりました。


ちなみに、ナスノさんのブログもあります。
好きな音楽家が書く文章は必ずといっていいほど、いいな、と思うのですが、ナスノさんについても多分に漏れません。ナスノさんは文章も音も詩に感じます。

http://nasunomitsuru.jugem.jp

解説的なことはフライヤーに書いているのでそちらを読んでいただくとして、お二人のソロの音源を貼っておきます。

■Crooked Sun:bass solo/nasuno mitsuru
https://www.youtube.com/watch?v=bOq1O4lR9bg

菊地雅晃ベースソロ / 日曜の夜、午前3時(抜粋) Masaaki Kikuchi
https://www.youtube.com/watch?v=GCQrgCPFWqs

その他にも多々あるものの長くなるので割愛。

最後に比較的一般的にわかるトリビアルな話題。

どちらも最近知ったのですが、ナスノさんは川本真琴のDNA、1/2でベースを弾いており、菊地さんは紅白歌合戦小沢健二のバックでベースを弾いたとのことです。
私が小学生だったころ、川本真琴はヒットチャートに結構長く入っていてHey!x3で出てたのをみて当時好きでした(今聞いても最高です)し、紅白の小沢健二では両親が「小澤征爾の甥は歌が下手」(大きなお世話ですよね)といっていた記憶が確実にあります。当時の私はそれと知らずにお二人の演奏をきいていたということになります。

私がお二人を認識したのは大学生のころですが、音楽産業が最も潤っていた時代にメジャーからアンダーグランドの垣根を越えて活動されていた方がいたのは興味深いことです(今そういう方がいないとかそういうことではなく、今と20〜30年前だと状況がずいぶんと変わったのではないかという意味です)。
現在の日本の音楽シーンにも現在なりの豊かさはあると思いますが(現状を否定する気は全くありません。本当にありません!)、このころには、音楽産業が発達していたからこその、日本の独自のアンダーグラウンドの音楽シーンの豊潤さ、というのはあったのではないかと思います。

*1:とはいえ、私がやったことは発案と連絡係とフライヤーの文章を書いた事くらいなので、実感としては企画した感覚はあまりなかったりします。

*2:ここの所ツイッターをするモチベーションゼロで、その上で告知なぞさらさらする気はなく、フライヤー配布とベルサンのライブ予定表、おふたりのライブ告知、直接の口コミ、という古典的方法に賭けていましたが、私もブログなら告知する気が出てきました。直前になりすみませんでした