メモ/ランダム

memorandum || (memory / random)

『ノマドランド』

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居場所が奪われた人々や、居場所から立ち去った人々が旅行く。そんなノマドの人々の言葉で揺さぶる映画だった。そして、エンドクレジットで、主人公と助演男優以外の、ほとんどの登場人物の役名と実名が一致するのを目の当たりにして、この映画に登場した人々は、役者ではなく、本当のノマドの人々だと察し、ここでまた感銘を受けた。私は基本的に映画を観るときは前情報をほぼ入れないようにしているので、何も知らなかったのだが、ノマドの人々のこの言葉の重みはどこからくるのか、と私が劇中に感じていた疑問はここで解消された。

 

また、もう一つ好きなシーンとしては、ノマドの60代ほどの男性と、その息子(ミュージシャン役)の2人が、家でピアノを連弾するところ。2人の親子が、つたないながらも歩みよっている姿が、音にもあらわれていて、とても良かった。
そして、後で調べると、この2人は本当の親子(俳優David Strathairnと息子のTay Strathairn)で、息子のTayは本当にミュージシャンと言うことが分かった。

 

この映画では、このように、脇を固めるキャストが(ほぼ)本人役で出演しているようだ。しかし、ここで彼/彼女らが伝える言葉は、本人の言葉なのか、または、他の人が考えた脚本の言葉なのか、どちらなのか?ということは、気になってはいるものの、調べて考察する、ということは、今はしない。(考察する際には、この映画には、原作のノンフィクション本があり、それにあたるべきだろう)

 

この映画は、ペドロ・コスタのように、ポルトガルの現地の人々と作り上げたような共作性という所までは、もちろん振り切ってはいない。コスタの手法は極北と呼べるものだろう。あくまでもこの映画の佇まいは劇映画だ。
それは、主演のフランシス・マクドーマンド演じるファーンから派生した物語であることに多くを負っていると思う。
とはいえ、ノマドの人々の脈打つリアリティさというのはこの映画で強く感じ、それは職業俳優には出すことが難しいだろう。
この映画は劇映画然としながらも、ドキュメントとしても息吹いている。

 

スタジオセットを使用せず、素人の俳優を起用する、という手法は、戦後イタリアの、ロッセリーニや初期フェリーニなどで、知られる「ネオリアリズモ」として知られているが、この映画が評価されているのは、ネオリアリズモ的手法で描いた現代のロードムービーであることが大きいのだろう。

 

また、「あくまでも劇映画」と感じた、ほかの要因として、音楽の使い方がある。音楽をどのように、どれくらい鳴らすか?というバランスは、映画とドキュメンタリーの差や両者のグラデーションを考える上で肝だ。(もちろん無神経に大仰に音楽が使われてしまうドキュメンタリー作品、というのも、ちまたには多い)

 

この映画の音楽は、先に書いた、親子のピアノの連弾、バーのブルースピアニスト(この2つは特に素晴らしい)、主人公の鼻歌、主人公が遭遇するカントリーミュージシャン、など、映画内の人々が実際に奏でる音楽と、劇伴の音楽の2種類がある。
前者については、前述のとおり良いシーンもあり大きな問題は感じなかった。しかし後者の劇伴については、私は違和感を感じた。


この映画の劇伴は、映画のトーンに沿いながら、静謐なポストクラシカル的音楽が所々に使われ、仰々しさはなく、その点では問題はない。
しかし、特に物語後半において、主演のファーンの心情をわざわざポスクラのメランコリックな音楽で表す必要性はない、と私は感じた。かつてなく活き活きした女性を演じるフランシス・マクドーマンドの気持ちを、音楽が代弁しているとしても説明過剰だし、その代弁もズレているように私は感じたのだ。

 

これは、個人的な好みもあり、仕方がないかもしれない。個人的には無音楽で環境音のみが一番良かったのでは、と感じている。

 

ただ、それよりも一番違和感を感じたのは、その音楽の流れと映像の流れのズレだった。言葉で説明するのは難しいのだが、映画音楽家がこの映像の流れで、このように音楽を展開させることがあるのだろうか?という違和感があった。そして、この違和感も観賞後に調べて原因が分かった。それは、この映画で使用されている、メインのLudovico Einaudiの音楽やOlafur Arnaldsのピアノや弦楽のポスクラ的音楽は、監督が選んだ既存曲であり、この映画のために作曲されたO.S.T(Original Sound Track)ではなかった事である。もちろん、映画で既存曲が使われることは何も珍しいことではない。特定の映画を指さなくても、バッハやベートーベンなどのクラシックが映画内で鳴っていることもあれば、ポピュラー音楽の既成曲が映画内で使われることは頻繁にあることは誰にでもすぐに分かるだろう。または、ある映像作品のために音楽が作曲される、からといって、映像ができていない状態で、伝えられたイメージだけで音楽だけが先に作られる、ということもある。

 

既存曲を使用する場合、その曲の挿入は監督の手に委ねられているのが大半だと思うが、それは映画音楽家が挿入するのと大きく変わってくる。そこには、ゴダールのように、音楽をぶつ切りにしてしまうという、音楽家としてはほぼありえない手法が出てくる面白さもある。

 

このノマドランドに関しては、なぜ映画音楽家に委嘱しなかったのか、という疑問がでてくるが、もしかすると、実在人物を役者として採用したのと同じように、既存曲を劇伴として採用した、のかもしれない(これは私の仮定であり妄想である)。しかし、それを仮定したとしても、それには無理がある。役者はこの映画のために演じているが、既存曲はこの映画のために奏でられたものでないからである。とはいえ、私は、映像と音楽の、元々は2つの関係のないものが、なぜか調和してしまう、というマリアージュの可能性、も多分に信じているのだ。しかし、少なくとも、私にとっては、この映画では映像と劇伴の幸福なマリアージュは感じられなかった。監督や役者に対する賞受賞の評価に対して、音楽についてはノミネートの時点で少ないのは一つの証左ではあるだろう(ただ単にオリジナルスコアでないからノミニーされてないということかもしれないが)。もちろん賞をとるから良い音楽という訳ではないし、Twitterで日本語と英語で感想を調べても、多くの人がこの映画の音楽を評価している。しかしある程度音楽を愛し、理解がある者にとって、セッションやララランドの音楽があくまでもショービズ的な音楽にすぎなく、実際のジャズ界とは遠くかけ離れた音楽であると違和感を感じるのと似たものを私はこの映画の劇伴にも感じた(再度言っておくが、登場人物の演奏は良いシーンがあり、ここで私はバックの劇伴についてのみ言及している)

 

個人的には、この映画でアメリカの音楽の考証をもう少しつめていくこともできたのではないかと感じている。もちろん、ここで私はオーセンティシティを求めているわけではない。アメリカの映画にはヨーロッパのクラシック作曲家の音楽があわないなどといいたいわけでも全くない。特にアメリカ映画は多人種かつ多国籍で作られて当然の時代になっている。だから、いくらでも例はあるが、一例では、ブラックパンサーというほぼBlackの人々で作られたエンターテイメント作品の音楽は、アフリカの本格的なポリリズムを多用し、素晴らしい劇伴になっているが、それを作ったのはスウェーデン出身の音楽家である(実際にセネガルの音楽を研究したとのこと)。

 

それに、そもそもこの映画自身、アメリカの物語を中国出身の女性監督が描き、それが素晴らしい仕上がりになっているのだ。ただ、この映画は元々は主演のフランシス・マクドーマンドの企画であり、監督は彼女が指名している。だから、監督にとっては、アメリカの音楽の理解はそこまでは深くなかった結果、この映画ではアメリカのフォーク音楽にもう少し正面から向き合うことはなかった、と考えることもできる。

しかし、だからといって安易にアメリカーナ音楽の代表格のT Bone Burnett(コーエン兄弟など)を起用すればいいというわけでもない。彼の場合、この映画のトーンとは少し異なり土着的すぎるかもしれない。

 

または、非アメリカ人のフォーク、カントリー音楽として、Gustavo Santaolalla(アルゼンチン出身。彼が音楽を手掛けたモーターサイクルダイヤリーズやブロークバックマウンテンと、ノマドランドには近さがある)や、Daniel Lanois(カナダのロック、アンビエント楽家。映画だとスリングブレイド)、日本だとJim O’roukeまたは、渡邊琢磨、が、この映画を手がけるとどうなっていたか?ということをわたしは夢想してしまう(単に私が好きで、この映画とフィットしそうな音楽家を挙げているだけである)

 

この映画はフランシス・マクドーマンドが企画し、監督自身が切望してとった映画ではないと思われるのだが、それ故に近視眼的にもならずも、本来は別々だった人々の歩みよりが生じた、バランスのとれた普遍性がある。だからこそ、数多の賞を受賞しているとも捉えられ、これらの賞受賞には何も異論はないが、私にとっては、映画にとっていかに音楽が重要であるかを再確認させた作品であった。この映画の劇伴に満足している人は多いようだし、私としても劇伴が作品のよさを損なう、という所まではギリギリいっていない。しかし、私にとっては、あと映像と劇伴のマリアージュさえ成就していれば、紛れもなく傑作だったといえる。

 

と、ここまで書いた上で、この映画のジャオ監督は今まで、アメリカを舞台にネイティブアメリカンやカウボーイの作品を描いたというのを確認し、そこではどのように音楽が扱われているかを含めてぜひ観てみたいと思う。

 

2021/5/5 鑑賞

『空に聞く』

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この映画は、陸前高田で震災後に開局された地元のコミュニティFM局のパーソナリティだった阿部裕美さんを取材した作品だ。

タイトルの「空に聞く」の「空」という言葉には様々な意味が含まれていると思うけれど、その一つは、ラジオの電波が飛んでいる「空」のことだろう。
そして、「聞く」こと。ラジオを聞くこと、人の話を聞くこと、など、この映画は、何かを「聞く」ことに焦点があてられている。

 

そんなこの映画では、劇伴として音楽が流れることが一切なかった。
それは、演出的な音楽を流すことが、「聞く」ことのノイズになってしまう、というのがあったのかもしれない。

音楽がない分、感じ取れるのは、パーソナリティの阿部さんの声の表情や、インタビューされる地元の人々の声の機微だ。

それと同時に、阿部さんが語る声と言葉自体が、「うた」そのものに限りなく近いから、音楽がいらなかったのではないか、とも感じる。

阿部さんが、黙祷の生放送を毎月11日に行なっていたことを「そうするしかないから、そうした」(大意)ように、音楽がないのも、そうするしかなかったからそうしているとしか思えない。そういった意思は、この映画の作り方にも阿部さん自身の姿にも何度も垣間見ることができるけれど、その選択が出来るのは、効率や慣習にとらわれずに、真っ直ぐにものごとを捉え、人のことを想うことができる人だけだ。

多分、この映画で唯一流れた音楽は、阿部さんがラジオで流した、(地元と思われる)幼稚園児の合唱だけだったと思う。それを聞く阿部さんの言葉と表情も含めて、グッとくるものがあった。

 

ところで、自分にとって、ラジオというのは、お店でたまたま流れていたり、車の中でたまたま流れていたり、と、空に飛んでいる電波を、たまたまいあわせた場所で聞くものだ(もちろんある番組を目当てに聞くこともある)。

そして、それは、たまたま大陸のプレートの振動を波として受け止めることと似ているし、たまたま人と出会う事とも似ている。
それは飛躍にはならないと思う。私たちは光、音、電波、空気、地面、といったあらゆる波と、常に遭遇していることを考えれば。

 

この作品で、阿部さんの口から語られる人々や風景、または花は、直接映されることがなかったり、映ったとしても、それが語られた時から時間をおいて配置される。この映画は、わかりやすく答え合わせをさせてはくれない。

けれども、それは、私たちがある人と初めて出会って、何回か会ううちに、その人のことを徐々に知ることになる、という体験。この映画を観ることは、その体験をすることに限りなく近いと感じた。

だから、この作品の若干の分かりにくさ、というのは、不親切さでも、共感を妨げるものでも全くない。いや、観客に安易な感動を誘わないような意図は感じ、それは、簡単に被災者の気持ちを分かったつもりにさせないというものだろう。

だとしても、この映画で、語られるが映されないもの、または、語られるが何の事か具体的に分からないこと、でも、それをよく「聞く」と、その断片から、話者の気持ちが滲み出ているのが感じられ、十分にこちらの想像は喚起させられる。

そして、その断片と断片がつながって段々と地図が出来ていく。

それはまた、津波で一掃された土地の上で、ポツンポツンと建物が立っていき、徐々にまちが作られていく、この映画が捉えた被災地の復興の様子にも近い。

 

それはまだ途中で、そこにはまだ答えも完成もない。

それでも、その一つ一つをつなげることをやめずに続けること。

 

2020 11/23 ポレポレ東中野
トークゲスト:
森はるか監督 
細馬宏通(人間行動学者 かえるさん)

『セノーテ』

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太陽から水中へ差し込む光線は、青白く突き抜け、そこから幾層もの波のカーテンが揺らいでは消える。または、水中の粒子や泡のうごめきが光に照らされていく複雑な色彩と陰影は言葉では説明が不可能だ。

映像というのは撮影者とカメラがあって捉えられるものだが、この映画でこのような映像がスクリーンへ映される時、ダイバーとカメラという存在が消え失せる。その時に立ち上がるのは生者がみることのできない世界。もっといえば、そこは、この映画で語られる、隕石が落ちて形成されたメキシコの泉=セノーテで命を神に捧げた者たちが漂っている空間そのものなのかもしれない。そこは、もはや水中であるかどうかすら危うい空間に変化(へんげ)していた。

私はこの映画をみて、「スクリーンに映された水中の幻想的な映像をこの目で見た」というよりも、「セノーテ(泉)で命を落とした者たちの漂いを感じた」というような信じ難い体験をしたのである。観客である私たちは、映画を目でみて、耳できく、という行為をしているにすぎないのは間違いないはずなのに、体験としてはその感覚を超えていくのだ。
水中の陰影や岩の影に、死者の存在を感じることも幾度かあった(念のためだが、心霊現象的な意味では全くない。みた人にはそれが分かるはずだ)。

何故死者を強く感じるのか、ということを考えた時、この映画では、大半が、映像と音声が一致せず、そのせいで現実感が薄くなっていることも挙げられる。地上の人々の顔は若干速度を落として再生され(この減速も現実感を薄めている)、その人々が声を出すことはない。その代わりに、人の声は水中の映像とともに、複数の現地の語り部によって流れる(それは匿名の使者の声にしか聞こえなかった)。人が口を動かして話すシーン、というのがこの映画にはない。
また、水中の映像で流れる音声は、人が水中で実際にきく音ではないし、映像と同時録音された音声ではない(はずだ)*1。そこに流れる音声は、水中の映像のイメージから想起して、水辺の様々な音や人の声をフィールドレコーディングした素材を編集して付加した音声にきこえた。(どうやって制作したかものすごく気になりパンフレットを買ったがまだ読んでいない)。

この映画は、ひたすら水中に潜り続けるシーンが続くか、そのはざまで、地上の人々が歌ったり演奏したり闘牛をしたりする祝祭空間や儀式のシーンがはさまれるかの、おおまかに2種類のシーンで形成されるが、それは死者の世界と、生者から死者の世界へのアクセスの描写そのものだ。

だから、この映画をみて、「映像が幻想的だ」と言ってしまうことほど、危険なことはない。

 

2020 11/6 横浜シネマリン

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その他

・今までこれと似た経験は、アピチャッポンの舞台作品「フィーバールーム」でしたが、あれは人工的な光と煙で形成した世界であったのに対し、この映画では、自然現象をカメラで捉え、その編集で成し遂げているのが驚異的だ。フィーバールーム詳細は以下。

https://soap.hatenablog.com/entry/2017/02/17/030943


・水中の映像が続いた後に、花火の映像が減速再生された時、それが得体の知れない光と粒子の集合体のうごめきに感じられたところにも驚いた。

*1:中盤のダイバーによるゆったりとした撮影を除く。あそこはダイバーの呼吸音が流れている。魚と同化した目線の映像のようにも感じられた。

『眠る虫』 目に光る記憶 / 記憶をきくこと

 

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私たちは眠っている間に夢をみる。
その夢は、私たちが起きている間にみてきた過去の記憶を、編集して再生した私的な映画。

人の目はレンズで、耳はマイク、そして脳を記憶装置(フィルム、メモリ)とみなせば、人は「カメラ」であるといえる。
起きている間、人はカメラとなって撮影しているのだ。
反対に、眠っている間は、撮影を休むかわりに、映像を編集し、再生している。
人はからだの中に、編集機と再生機(プレイヤー)と投射機(プロジェクター)も持っていて、眠っている間にその電源が入り、そのときにみえるものが夢なのだ。夢は、まぶたの裏に投射された記憶の光。

と考えると、目が光る、という事は、何もおかしなことではない。目が光っている時、その人は、夢=その人の映画を再生している、と思えばいいのだから。

人は、寝ても覚めても、自分だけのカメラで世界を捉えているし、自分で世界を再生している。
(再生とは、再び生きるということ、と誰かが言っていたような気がする)

バスに乗っている時でも電車に乗っている時でもなんでもいいけれど、私たちの身の回りでは、全くの赤の他人が、それぞれの人生を生きていて、その誰かは、何かをみていたり、きいていたり、そして、考えたりしている。
でも、他人のそれを、赤の他人の自分が知ることはない。私たちは、自分のみえるもの、自分のきこえるものしか、感受できないから
でもそれは、裏返せば、自分にしかみえないものをみて、きこえないものをきくことができるということ。そして、それを自分の身体で再生できるということだ。

そして、それは希望と絶望の両方に繋がっている。この映画では、その絶望も少し描かれていた。それは自分の声しかきかない人のことだった。

でも、周りの誰かはいつも何かを発していて、そこに微かに残った気配は、かつてその人が再生した夢。それを察知し、追いかけることができることが、希望であると、この映画は話しているようだった。というよりも、それとなく歌っているようでもあった。


2020 10/27 ポレポレ東中野

『タゴール・ソングス』 おしえの音楽

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詩が、愛であり、祈りであり、薬であり、抵抗であり、おしえの言葉となっている。その言葉がメロディーにのせられ、歌となる。すると、言葉がメロディーと結びついて記憶を刻み、血肉化する。そして、それがその人の一部になる。

 

しかし、言葉とメロディーが結びつくことは、言葉にとっても、メロディーにとっても、必ずしも幸せなこととは限らない。

 

ブッダの頃は
修行に音楽はなかった
長く引き延ばした声で経文を歌うのは
よいこととは言えない
教えより声の美しさに心が向いてしまうから

高橋悠治 http://www.suigyu.com/yuji/ja-text/2000/seijaku02.html

 

このような仏教の禁欲的態度を持ち出すのは現在の一般人には難しい。とはいえ、現在の音楽において、メロディーという波に言葉がのまれているような歌は割と多いと私はよく感じるし、そもそも言葉が薄く、メロディーにのりきれずに消えてしまう歌も多々ある。
または、歌の言葉が、その音楽の印象を変えてしまう、ということもある。

 

言葉とメロディーが渾然一体となる、というのは、いつも起こることではない。それは、人と人との関係が、他人であったり、友人であったり、パートナーであったりと、いろんな関係がありえることと同じだ。(とアナロジーをしてみると、メロディーと言葉が他人のような関係の歌、というのも面白いような気もしてくる)

 

歌の話にもっと踏み込む前に、歌になる前の詩の言葉についてここで少しはさもう。

詩の言葉には元々メロディーはない。その言葉は、文字として黙って読むか、声に出して朗読される。しかし、現代において、記述された文字を読むことは黙読であることがほとんどだ。だが、これは昔は当たり前のことではなかったと社会人類学者のティム・インコルドはいう。古代から中世までにおいて、読むことは、声をだすことと結びついており、読むことは、その声を聞くことと等価だったのだ。

 

読む行為は、テクストという対話者の声を聞き、その声と会話をかわす行為(パフォーマンス)だったからである。読むことが孤独な知性の操作となり、読者を周囲の世界に感覚を浸している状態から切り離すことなど考えられなかった。

~~
読書は「歌うことや書くことと同じように、身体と精神が動員される活動」として理解されていた。

ティム・インコルド著『ラインズ 線の文化史』

 

さらに、インコルドは、音楽へと踏み込み、その時代までにおいては、

 

純正な音楽とは本質的に言語芸術だった。

 (同上)

 

という。音楽の上で、歌として声をだすことは、その言葉を聞いて、読むことでもあったのである。音楽は、かつて、神の言葉を伝える手段であった。そこでは、楽器の演奏は二の次だった。そして、声については、なによりもその言葉が重要視されていた。音楽と言葉が分離し、楽器のみの音楽が発達したのはここ数百年のことである(注: インコルドはここでは西洋音楽を中心にこれを論じている)。

  

また、インコルドは、

テクストを読む者は、牛が口を動かして食べたものを反芻するかのごとく、言葉を呟きながら記憶の中でテクストを繰り返すようにと強く促されていた。

 (同上)

 

という。さらにいえば、言葉(テクスト)をただ読むだけでなく、メロディーにのせて歌にすることは、反芻から消化への血肉化をなお一層強化する。

 

しかし、近代以降における、読む行為の、朗読から黙読への変化と似たものは、音楽にもあるのだ。それは、音楽(歌)が、録音技術の誕生によって、自分で演奏(≒朗読)するものから、人の演奏をきくこと(≒黙読)中心へと変化していったことだ(例えば渡辺裕が「聴衆の誕生」で論じているように)。今まで、自分の身体を動かしていた行為は、他へと任せられてしまう。歌と言葉の関係は、かつてより弱くなってしまった。

 

しかし、この映画では、インドやバングラデシュの現代の老若男女たくさんの人々が、タゴールという人物の詩を歌っている。そして、そこでは、歌うことは生きることそのものであるかのようなのだ。

 

タゴールとは1913年にノーベル文学賞を受賞したインド(その中のベンガル語圏)の詩人であり、音楽家であり、教育者であり…、と多彩な人物である。 

 

この映画では、本編中に、ほぼ常に誰かがそのタゴールの詩を歌っている。それをきき、歌詞を字幕で読んでいると、メロディーと詩の言葉が分かち難く結びついているように強く響いていた。

 

詩の言葉自体が、生きるための道しるべになっている以前に、メロディーそのものが、そこにのせられた言葉を、身体深くまで潜らせるための道しるべとなっているのだ。道しるべは、実は言葉ではなく、メロディーなのかもしれない。それが血肉化をより強めている。

 

そこでは、本に言葉が刻まれるように*1、歌い手の体の中に言葉が刻まれているのだ。だから詩が歌われる時、その歌い手は「本」と化しているといえる*2。詩を歌うことは、その自分の身体の中にある本に書かれたおしえを、聞き手に伝えていくことなのだ。さらに同時に、その中の最大の聞き手は、歌い手自身でもある。自分が本となり、自分がその一番の読者なのだ。

 

そして、その歌は、娯楽である以上に、快楽である以上に、または、個人的な心情を歌う以上に、人々に寄り添ったおしえとなる。

 

そのようなおよそ100年前の歌が、現代においても引き継がれ、ギターを弾きながらシンガーソングライター的に歌われ、または、若者に最新のヒップポップのリリックとして堂々とライムされているのをこの映画で目の当たりにし、私は驚嘆した。私だけでなく、この映画をみたほとんどの人(少なくとも日本人)がそう思うことだろう。はじめにインコルドを引用しながら論じた、かつての言葉と声、または、詩と歌の関係のように、100年前の詩が、歌として声にだされながら、おしえとともに人々に継承され根付いていることに驚嘆してしまうのだ。今の日本には、そのような音楽も、おしえも、それらの継承も、ない。

 

ここで、日本にそのような音楽や言葉(おしえ)があったほうがいいか?と考えてはみるものの、それ以前に、この国ではそんな音楽も言葉も、もう成り立ちえないのでは、と思ってしまう。もし出来たとしも、それは簡単に政治的に利用されるリスクが高い、と考えるのは悲観的すぎるだろうか。他の国はどうなのだろう。しかし、あまりにも過去を簡単に捨て、過去から何も学ばない昨今のこの国の状況を鑑みるに、継承の問題を考えざるをえない。

 

と感じる一方、気分をかえていきましょう、この作品の最大の見どころは、大人の、子供の、若者の、老人の、詩を歌う表情なのだ。みんな本当に良い顔をして歌っている。全編を通してみんながそうなのだ。

 

最も大切なことは、自分の身体深くまでを、歌で刻み込むことだ。そして、そのメロディーと詩によって刻まれるのは、あの表情そのものなのだと、強く感じた。深層は表層にも宿るのだ。

 

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コロナ禍という言葉が出てくる前だったと思う。3月前半に、友人主催のイベントが開かれ、そこで監督の佐々木さんが来ていて、タゴールのことも何も知らなかったのだが、そこで前売りチケットを売っていて、バイブスだけで今回観る機会となった。公開延期となりつつ、規制緩和後の上映再開直後のタイミングのこの時期に、この映画と鉢合わせることができたのは、幸運な交通事故だったと感じている。

 

2020 6/13 ポレポレ東中野

*1:インコルドに倣えば、現代の本は印刷され、それは実際に手で文字が刻まれたものと大きく異なるのだが、それについてはここでは置いておく

*2:またそれは、印刷物としての本ではなく、手書きの手帳やノート、詩集のようなこともあるだろうが、ここでは一応として「本」で統一しておく

『Take Me Somewhere Nice』(2019)

 
オランダに移住しているボスニア人の少女(ドジ)が、故郷の父親に会いに行くために、従兄弟(とにかく無愛想)とその友人(チャラい)と一緒に旅をする青春珍道映画。
 
90年代の紛争で多くの人々が移民となったボスニアは、現在は故郷に戻ることが簡単になったようだが、オランダで育った少女にとっては故郷とはいえ、ほとんど異国だ。
そんなボスニアは、この映画では、蛍光色で彩られ、どこかドリーミーに描かれ、終始目が奪われる。
 
服装から建物の内装まで蛍光色が多く、それは映画用にそうしているのか、または、元々がそういう色を好む人の多い国なのかはよく分からない。
しかし、夜の街はネオンで紫に染まったり青白く光るように映されるし、昼間もビビッドに淡目に彩るように映されている。
 
自分がみたことがあるボスニアは、04年公開のゴダールの「アワーミュージック」位しかないと思うのだが、そこでは、紛争の爪痕として、廃墟となったマンションや家が暗く色褪せて映されていた。
 
しかし、この映画で少女がボスニアについた後に映される街は、アパートと世界のどこにでもあるようなショッピングモールくらいで、あとは、旅の移動でたどり着くホテルやお店や病院や田舎が映り、カメラが紛争の痕跡を視覚的に捉えることはない。
 
その代わりに、紛争後の生活の厳しさは、旅の中の会話で少し交わされる位だ。
そして、その旅は、何をやっても上手くいかなく、その様子がシュールかつユーモラスに描かれている。
 
基本的に人々は無表情で、まるでカウリスマキの映画の登場人物のようなのだが、監督のインタビューによるとファスビンダーの影響が大きいらしい(みたことないのでみてみたい)。
 
そして、この映画では犬が野良として結構出てくるのに加えて(特に最後の〜トリア系?の犬!)、登場人物もみんな野良犬みたいなのである。
主人公の少女は常に疲れて不機嫌な犬のような顔をしていて、それがまた魅力的だ。
ここで、少女といっているが、彼女は成人済みである。しかし、大人になりきれていないことに加えて、オランダにもボスニアにも居場所がなく、二重の意味でモラトリアムな少女だ。
 
タイトルの『Take me somewhere nice』=『どこかいいところにつれてって』
という言葉は、

『私をスキーにつれてって』(みたことない)
『私を月につれてって(Fly me to the moon)』

というタイトルと似たような、一聴ポジティブな恋愛の響きがする。

しかし、悩める彼女は、実はどうしても父親に会いたいわけでもないし、オランダにもボスニアにも居場所はなく、「とにかくここではないどこかに行きたい」と、受け身に逃避的に思っている。スキーとか月のように、明確に行きたいところがあるわけではなく、どこに行きたいのか分からないのだ。

この話は後でまた続けるとして、話を初めに戻すが、この映画は、蛍光色でドリーミーに描かれるのに加えて、画角は昔のテレビ風の4:3となっている。

そして、この色合いとこの画角の映像で、映画の序盤にボスニアの街とショッピングモールが映されると、それはまるで、ヴェイパーウェイブのアートワーク的な、蛍光色に染まる都市の感覚と近く感じられたのだ。
ただ、違うのは、ヴェイパー特有の80〜00年代初頭までのビデオ画質のノイジーさやローファイさはなく、この映画では澄んでいて鮮やかな所だ。

さらに、最近世界的に流行っているドリームポップ(有名なのはmen I trustあたりか)や、ベッドルームポップのMVは、映像が4:3のビデオっぽい画質のものが割と多いのだが、これもヴェイパーとは違う形でのノスタルジアのあらわれだといえる。
 
そして、この映画は、これらの最近のMVを含めた音楽の、ゆるさや気怠さと、とても似た現代的な感覚を醸し出している(映画の音楽ではなく、映画の映像の感覚が、である。音楽自体は若干のヴェイパー感もあるが、少し毛色が違う。しかし、これもめちゃくちゃ良い。シンセやテクノやアコースティックなものまで今っぽいのだが、どれも通奏してバルカン(ヨーロッパと中東のあいだ)の響きがしている)。

ここで、ドリームポップとベッドルームポップとヴェイパーウェイブの違いについては置いておいて、半ば強引にいえば、これらのすべてに共通するものは、基本的に部屋=自分の世界で完結する音楽ということである。

ベッドルームポップもヴェイパーウェイブも、自分のベッドルームで曲を作り、きくものである。そして、そもそも、ドリームポップにおける夢(ドリーム)は、自分のベッドルームでみるものだ。

これら全ては、部屋=自分の世界で完結する。さらにいえば、スマホやパソコンも自分の世界=部屋(ベッドルーム)である。

さて、この映画の主人公の少女は自分が望んだわけではないのに、ボスニアを旅することになるのだが、somewhere niceな所に連れてってもらうこともなく、どこにいっても結局自分の居場所がない。言いかえれば、どこにいったとしても、自分の部屋に留まっている状態とそんなに変わらないのだ。

しかし、それをさらに反転してしまえれば、今いる場所を自分の部屋にしてしまうこともできるし、どこでだって夢をみようと思えばみることだって、やろうと思えば出来るのだ。その意思さえあれば。

そして、彼女は人任せではなく、それを自分の意思で最後にやってのけた。それも、官能的に、である。こんなシーンを僕はほかの映画で観たことがない。

最後になったが、この映画は撮影も特筆すべきで、特に前半のカットはキメキメである。初めてフィンチャー堤幸彦をみたときに触れた、新しい感覚がある(この2人に似ているという意味ではなく、とにかく新鮮でカッコいい)。

音楽としては多少は触れてきたが、今の若い世代(20歳前後)の感覚を、映画としてはほぼ初めてみたと思う。しかもそれがオランダに移民したボスニアの女性監督の作品になるとは予想もしていなかった。何か新しいものは今までと違った場所からemergeするのは常のことだが、今後がますます楽しみだ。
 

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以上、MUBIの1週間無料トライアルで、英語字幕でみたのだが、そんなに難しい会話もないので、おすすめします。いきなりこのような映画に出くわしたので、この調子だと加入してしまいそう。でも、Amazonプライムを適当にみるよりいいかも。

ホン・サンス『次の朝は他人』

今は地方の学校で映画を教えている、そこそこ名が知られているらしい映画監督が、先輩に会いにソウルに行く。そして、3夜連続飲みに行き、たまたま誰かと出会う。その中で、多少のメロドラマがあるだけだ。

 

と、ストーリーのみを取り出すと基本的にはなんともない話なのだ。しかし、そのなんともないシーンですら何故か妙に面白く、そして、所々変なことが起こることで、さらに面白いのである。

 

3日の間の1日1日をそれぞれ取り出すと、あることを除けば、とりとめのないことしか起こらない。

 

しかし、その1日1日をつながりでみると、間違いなく3夜連続で飲んだようでもあるのだが、それと同時に、この人たちは実は3夜連続で飲んでいないのではないか…、と不安にもなってくるのだ。

 

そして、どちらかというと控えめな性格にみえる主人公の映画監督は、唐突に、どうしちゃったの?!、という行為を何度かしでかし、あっけにとられる(というか笑えるのだ)。しかし、その後すぐに反省し、そして、翌日にはそのことを覚えていなさそうなのである笑。そうだ、この映画のタイトルは…。

 

突然の衝動と、やらかしてしまった後の自制と、健忘がすべて刹那に消えてしまう。

 

ある意味、ときめきメモリアル(古い!)のような恋愛シミュレーションゲームを1日ごとにリセットしているような感覚もある(女性と出会いました、さあどうする?みたいなことが繰り返されるのだ)といえるのだが、質感としては、昔のヨーロッパ映画なのだ。

 

たとえば、ルイス・ブニュエルの「皆殺しの天使」のような感覚と、あの映画のループ構造を思い出したが、ブニュエルのような不条理やブラックさはなく、ゆるやかである。

 

シュール、コメディ、メロドラマ、といった要素はあるとはいえるが、これら全てのカテゴライズを避けるように作られているようにも感じて、ふわふわしている。

 

幾度とある飲み会のシーンでは、特に食べ物は美味しそうに描かれなく、基本的に飲みに徹しているのだが、飲み会、いいな、zoom飲みより、やっぱり、会って飲みたいな、と感じさせる、飲みの楽しさと退屈さと訳のわからなさが同時に映されている。

 

奇妙な健忘は、酒でやらかし、忘れてしまったからだ。とは単純にいえなく、昼間にシラフで外を歩いている時でさえ、謎な邂逅が起こり、どこかおかしい。

外に出てぶらぶらし、酒とたばこをのみたくなる映画。

 

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と、ホン・サンスの映画はみたことなかったので、Amazonプライムでなんとなく短めのを観てみると異様に面白かったのであった。


しかし調べたら、よりによって菊地さんがトークショーでこの映画について語っていて、ああ、所々同じことを考えてはいるが、はるかに流石だ…


https://eiga.com/news/20121122/15/


で、この映画を面白いと思ったのは間違いないのだが、私は、例えそれほど内容自体が面白くはなくても、構造に特異性をみつけると(すなわち構造が面白いと)感想を書きたくなるタチ(今までのエントリーの半分位はそう)だからこう書いてしまったのもあり、よかったからといってなんでも書きやすいわけでもなかったりする。

最近観た映画だと、「ハッピーアワー」と「光のノスタルジア」はとても大切な映画で、特に「光のノスタルジア」については数年前に映画館に行き、珍しいことにDVDも買ったのだが、なぜか今Amazonプライムで観れるんですね。加入してる方には「光のノスタルジア」をおすすめします!