メモ/ランダム

memorandum || (memory / random)

240124

 

Twitter(Twitter)で、Domi and JD Beckが、エイフェックスツインのflimをカバーしてるライブ動画が結構バズっているのを目撃して、「そのカバーってバッドプラスがメジャーデビュー(SONY)でやってるけどなあ。ひゃー21年前…!」とか思ってしまったのだけど、こういう指摘をするだけで、マウントをとっていると捉えられかねないな、だから黙っとこ(通常営業、いや閉店ガラガラ)とか思いつつ、マウントがどうとか置いといて、誰もバッドプラスについて言及してなさそうなバイブスが見受けられるので、何もかも、やっぱり今の時代はそんなものなのか、と思ってしまった。少なくともバッドプラスはそんなものではないはずだ。(というかspotifyでかなり再生されてた記憶があったので今確認すると526万、、)

 

それにしても、この、何もかも何もいえねえ、感、は一体なんなのだろうと自問自答はしてみるものの、何も、先にやってる人が偉いとかそんなことは全くどうでもいいことになっていると思っていたはずではあるのに。確かにバッドプラスは、ジャズの文脈で、人力ドラムンベースとか人力テクノを(その少し後のグラスパーとかのブラックミュージックからのアプローチよりも)一足早く演奏してたと思う。(それよりもさらに前に誰々がやってる、とかあるとは思うが、音楽をそんな考古学じみて掘るのも、今の僕としては優先度的に第100位である。100位以内には残しておきたいということである)

 

何を隠そう、僕にとっての音楽のファーストインパクトは、高一のある冬の土曜に何気なくNHKFMをつけてみた瞬間に流れていたバッドプラスによるスメルズライクティーンズスピリットなのだ。ちなみにニルバーナの事なんて全く聞いたこともなかったし、今もよく知らない。(エイフェックスツインとブロンディは原曲にあたり、その後好きになったのに)。バッドプラスは(ポスト)モダニストだったと思う(簡単にいうと、既存の音楽の価値観を更新させ続ける態度のことである)。これを偶然電波で聴いたせいなのか、そもそもの自分の性格なのか、若気の至りなのか、どれかは分からないが(多分全部だ)、少なくともリスナーとして自分も相当な(ポスト)モダニストになるように運命付けられたと思う。
しかし、(ポスト)モダニストでい続けることはテン年代以降困難になってしまった。

 

バッドプラスからピアノのイーサン・アイヴァーソンが脱退した経緯については全く知らない(多分自己言及的にも明らかにされてないと思う。コマンダンテみたいだ)が、脱退後の彼のソロ(既に数枚あるが、つい5日前にブルーノートからの2枚目がリリース。めちゃいいジャケ)をきいて、モダニストであり続けることの困難さ、その決別ぶりをバシバシと感じられてとても興味深いと丁度思っていた(そもそも、バッドプラス自体、そのごった煮の音楽性で方法論的にスタイルを更新できていたのは、05年のメジャーの3枚目までだと感じていたことも思い出した)。


Domi and JD Beckをいつ知ったのかは、具体的には思い出せないが、コロナよりも大分前、多分2018年位のyoutubeだと思う。共に10代で、小柄の少年の小さいドラムキットによる高速ドラムンベース的演奏に合わせて、長身の少女も高速フレーズをシンクロさせていく、というスタイルで、ジャズ、フュージョンの楽曲を新しい感覚でカバーしてた記憶がとにかく強い。その時すごいなと思ったので、当時上がっていた動画は結構見た記憶があるのだが、見続けていくうちに気になったのは、表面上の新しさよりも、2周以上、少なくとも3周して、上の世代が忌避しがちな昔の感覚を、本人達は何もネガティブに感じずに蘇らせていることである。これも簡単に言えば、ソロを弾きまくることと、カバーでよしとする、という感覚だ。

 

一例としては、この10年で世界中のベーシストはジャコ・パストリアスの呪いから解放されたように僕は感じているのだが、革命家ベーシストのジャコの影響を完全に避けることは困難とはいえ、誰もジャコ本人を越えることはできないし、ジャコとは違う道がある、ということを、多くの音楽家もリスナーも感じていたことだと思う。いかにもなジャコっぽいそれっぽいフレーズを弾く人はここ10年で相当減ったと思うのだ。そんな中で、ウェザーリポートのカバーでDomiが左手でジャコっぽいフレーズのベースソロをバカ弾きしていたのを見て、新しい世代が来たな、と思った。ジャコのことを脇においても、上原ひろみでさえ、最新作で今まで以上に昨今の空気感を読んで昔よりも抑制した演奏をしているように思えるのだが、「弾きまくっていいのだ」 という感覚、過剰(な情報量)をよしとする感覚は、最近の20代前半以下の音楽家で新たに蘇っているとよく感じる。その過剰さの新しさ、とは、カオティックというよりか、統制のとれた状態での過剰さといえる。

 

カバーについては、彼らが作曲しないのか/出来ないのかは当時は分からなかったが、カバーをして曲を拡張させる、というのはジャズの伝統そのものだ。だから、オリジナル曲を演奏することが重きに置かれがちな昨今のジャズ界に対して、何周かしてカバーをする伝統を引き継いでいるように感じていた。新世代のキース・ジャレットみたいだなど(本当にキースを引き継ぐなら完全インプロもしなきゃいけないけど)。なので、18年当時で近々アルバムが出るのだろうな、と思っていたのだが、実際にリリースされたのは23年の去年で、しかもオールオリジナル曲だった。それは今までこの2人が何でバズってきたかを考えると、相当な挑戦であったはずだし、それでこの時間がかかったのだと思う。以下色々と省略するが、次は躊躇せずにカバーアルバムを真剣に作れば良いとは僕は思うのだが、それは既に動画でたくさん上がってるから良いでしょ、ということもあるのかはよくわからない。2人がいつまで共に活動するのか、気になるところだ。