詩が、愛であり、祈りであり、薬であり、抵抗であり、おしえの言葉となっている。その言葉がメロディーにのせられ、歌となる。すると、言葉がメロディーと結びついて記憶を刻み、血肉化する。そして、それがその人の一部になる。
しかし、言葉とメロディーが結びつくことは、言葉にとっても、メロディーにとっても、必ずしも幸せなこととは限らない。
ブッダの頃は
修行に音楽はなかった
長く引き延ばした声で経文を歌うのは
よいこととは言えない
教えより声の美しさに心が向いてしまうから
このような仏教の禁欲的態度を持ち出すのは現在の一般人には難しい。とはいえ、現在の音楽において、メロディーという波に言葉がのまれているような歌は割と多いと私はよく感じるし、そもそも言葉が薄く、メロディーにのりきれずに消えてしまう歌も多々ある。
または、歌の言葉が、その音楽の印象を変えてしまう、ということもある。
言葉とメロディーが渾然一体となる、というのは、いつも起こることではない。それは、人と人との関係が、他人であったり、友人であったり、パートナーであったりと、いろんな関係がありえることと同じだ。(とアナロジーをしてみると、メロディーと言葉が他人のような関係の歌、というのも面白いような気もしてくる)
歌の話にもっと踏み込む前に、歌になる前の詩の言葉についてここで少しはさもう。
詩の言葉には元々メロディーはない。その言葉は、文字として黙って読むか、声に出して朗読される。しかし、現代において、記述された文字を読むことは黙読であることがほとんどだ。だが、これは昔は当たり前のことではなかったと社会人類学者のティム・インコルドはいう。古代から中世までにおいて、読むことは、声をだすことと結びついており、読むことは、その声を聞くことと等価だったのだ。
読む行為は、テクストという対話者の声を聞き、その声と会話をかわす行為(パフォーマンス)だったからである。読むことが孤独な知性の操作となり、読者を周囲の世界に感覚を浸している状態から切り離すことなど考えられなかった。
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読書は「歌うことや書くことと同じように、身体と精神が動員される活動」として理解されていた。ティム・インコルド著『ラインズ 線の文化史』
さらに、インコルドは、音楽へと踏み込み、その時代までにおいては、
純正な音楽とは本質的に言語芸術だった。
(同上)
という。音楽の上で、歌として声をだすことは、その言葉を聞いて、読むことでもあったのである。音楽は、かつて、神の言葉を伝える手段であった。そこでは、楽器の演奏は二の次だった。そして、声については、なによりもその言葉が重要視されていた。音楽と言葉が分離し、楽器のみの音楽が発達したのはここ数百年のことである(注: インコルドはここでは西洋音楽を中心にこれを論じている)。
また、インコルドは、
テクストを読む者は、牛が口を動かして食べたものを反芻するかのごとく、言葉を呟きながら記憶の中でテクストを繰り返すようにと強く促されていた。
(同上)
という。さらにいえば、言葉(テクスト)をただ読むだけでなく、メロディーにのせて歌にすることは、反芻から消化への血肉化をなお一層強化する。
しかし、近代以降における、読む行為の、朗読から黙読への変化と似たものは、音楽にもあるのだ。それは、音楽(歌)が、録音技術の誕生によって、自分で演奏(≒朗読)するものから、人の演奏をきくこと(≒黙読)中心へと変化していったことだ(例えば渡辺裕が「聴衆の誕生」で論じているように)。今まで、自分の身体を動かしていた行為は、他へと任せられてしまう。歌と言葉の関係は、かつてより弱くなってしまった。
しかし、この映画では、インドやバングラデシュの現代の老若男女たくさんの人々が、タゴールという人物の詩を歌っている。そして、そこでは、歌うことは生きることそのものであるかのようなのだ。
タゴールとは1913年にノーベル文学賞を受賞したインド(その中のベンガル語圏)の詩人であり、音楽家であり、教育者であり…、と多彩な人物である。
この映画では、本編中に、ほぼ常に誰かがそのタゴールの詩を歌っている。それをきき、歌詞を字幕で読んでいると、メロディーと詩の言葉が分かち難く結びついているように強く響いていた。
詩の言葉自体が、生きるための道しるべになっている以前に、メロディーそのものが、そこにのせられた言葉を、身体深くまで潜らせるための道しるべとなっているのだ。道しるべは、実は言葉ではなく、メロディーなのかもしれない。それが血肉化をより強めている。
そこでは、本に言葉が刻まれるように*1、歌い手の体の中に言葉が刻まれているのだ。だから詩が歌われる時、その歌い手は「本」と化しているといえる*2。詩を歌うことは、その自分の身体の中にある本に書かれたおしえを、聞き手に伝えていくことなのだ。さらに同時に、その中の最大の聞き手は、歌い手自身でもある。自分が本となり、自分がその一番の読者なのだ。
そして、その歌は、娯楽である以上に、快楽である以上に、または、個人的な心情を歌う以上に、人々に寄り添ったおしえとなる。
そのようなおよそ100年前の歌が、現代においても引き継がれ、ギターを弾きながらシンガーソングライター的に歌われ、または、若者に最新のヒップポップのリリックとして堂々とライムされているのをこの映画で目の当たりにし、私は驚嘆した。私だけでなく、この映画をみたほとんどの人(少なくとも日本人)がそう思うことだろう。はじめにインコルドを引用しながら論じた、かつての言葉と声、または、詩と歌の関係のように、100年前の詩が、歌として声にだされながら、おしえとともに人々に継承され根付いていることに驚嘆してしまうのだ。今の日本には、そのような音楽も、おしえも、それらの継承も、ない。
ここで、日本にそのような音楽や言葉(おしえ)があったほうがいいか?と考えてはみるものの、それ以前に、この国ではそんな音楽も言葉も、もう成り立ちえないのでは、と思ってしまう。もし出来たとしも、それは簡単に政治的に利用されるリスクが高い、と考えるのは悲観的すぎるだろうか。他の国はどうなのだろう。しかし、あまりにも過去を簡単に捨て、過去から何も学ばない昨今のこの国の状況を鑑みるに、継承の問題を考えざるをえない。
と感じる一方、気分をかえていきましょう、この作品の最大の見どころは、大人の、子供の、若者の、老人の、詩を歌う表情なのだ。みんな本当に良い顔をして歌っている。全編を通してみんながそうなのだ。
最も大切なことは、自分の身体深くまでを、歌で刻み込むことだ。そして、そのメロディーと詩によって刻まれるのは、あの表情そのものなのだと、強く感じた。深層は表層にも宿るのだ。
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コロナ禍という言葉が出てくる前だったと思う。3月前半に、友人主催のイベントが開かれ、そこで監督の佐々木さんが来ていて、タゴールのことも何も知らなかったのだが、そこで前売りチケットを売っていて、バイブスだけで今回観る機会となった。公開延期となりつつ、規制緩和後の上映再開直後のタイミングのこの時期に、この映画と鉢合わせることができたのは、幸運な交通事故だったと感じている。
2020 6/13 ポレポレ東中野