高橋悠治 『エリック・サティ:新・ピアノ作品集』etc. / ピアノの別の顔

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しおれた植物に再度水をあたえる
しかし、今までとは別の場から汲みあげられた水を
蘇生したあとは、かつての姿を保ちながらも、よくみると以前とは別の咲き方をしている
手入れが行き届いた優雅に咲きほこる花々、というより、風になびかれ、自然におもむくまま、ひっそりと咲いている花のように


または、昔から知っていた(つもりの)人が、知らぬ間に今までみたことのない別人のような表情をみせているかのように、以前耳にしたことのあるはずの曲が、今まできいたことのなかった曲のように響いている。

見知らぬ過去とまだ見ぬ未来が、今、同時に自分の前にあらわれているかのように。


以上は、高橋悠治のサティの新録音をきいて思い浮かんだことだが、これは彼の過去の多数の録音や実際のコンサートでクラシックの古典のピアノ演奏をきく際によく感じることでもある。

先日、79歳をむかえたピアニスト、作曲家の高橋悠治は、1960年代から現代音楽をはじめとしたクラシックのピアニストとして活動をはじめ、その後は欧米を飛びまわりながら実験音楽電子音楽へ取り組んだものの、一度それらを捨て、70年代後半からは水牛楽団での活動を行うなど、日本を含めたアジアや他の西洋以外の音楽へ向かう。

高橋の70年代の著作のページをめくると、そこには痛烈かつ真摯な西洋批判で溢れている。それは、閉塞的なクラシック音楽界のみならず、同時に社会批判でもあり、さらにいえば、それまで実験音楽電子音楽を含む西洋音楽に関わってきた自己への批判とも読み取れる。実際、一時的にピアノを弾かなかった期間もあったようだ。

しかし、彼は必ずピアノ演奏に立ち戻っている。そこでは、ピアノという西洋を代表するような楽器を、いかにして西洋以外の観点で扱うのか?という批判的態度をもって鍵盤に向かい続けている。

このことについては、70年代から現在にわたる彼の文章に幾度と記されている。興味があれば書籍はもちろんだが、当初はミニコミとしてはじまり、現在ではWEB上で継続されている水牛というサイトでは、00年以降の彼の文章のアーカイブが充実しているため参照されたし(http://www.suigyu.com/yuji/ja-archive.html)。

ところで、このような彼の思想が実際に演奏でどうあらわれているか。

例えば、77年録音の高橋によるバッハインベンション1。
私は、これをきいたとき、比喩ではなく、椅子から転げ落ちるほど驚嘆した。
というのも、八分音符と三連符の重なりと連なりをもって、バッハのこの曲をアフリカのポリリズムのようなアプローチで演奏していたからである。

バッハインベンションは、クラシックピアノを習う者なら、初歩のバイエルを一通り終えたあとくらいに手にし、この曲はその1ページ目として誰もが弾くであろう有名曲だ。耳にしたことのある人もかなり多いだろうし、一般的な演奏を知っている身からすると、高橋の演奏はあり得ないアプローチにきこえるはずだ。注*1

話はかわり、高橋の電子音楽家としての側面について。

こちらについても60年代から始まり、その後、やめては再開している印象を受けるが、00年代半ばの渋谷慶一郎関連の活動以降の、ここ10年ほどはコンピューターを使用した作品や演奏はあまりない印象がある。

とはいえ、ここ数年の高橋のピアノのコンサートを体験すると、彼はコンピューターを、もはや必要としていないのではないかと感じるのだ(もちろんコンピューターだからこそ出来ることもあるのは承知の上として)。

例えば、ギタリストの内橋和久のようなエフェクターを駆使して音響を発する音楽家との即興演奏においても、近年のライブでは、コンピューターを使わず、ピアノ1台で立ち向かっている。
しかしそこでピアノからきこえる音は、電子音響のようであり、それと同時に、コンピューターには制御不可能な判断の瞬発力/指先の繊細なコントロールをもって響きを生じさせながら、ピアノを演奏しているかのようなのである。

さらにつけ加えるならば、このような即興での印象は、彼のクラシックの古典の演奏においても同様に感じられるのだ。

たとえば

吸っては吐くたびにゆらぐような緩急の呼吸のリズム
右手と左手のタッチのわずかなずれ
随時踏み込まれるペダルから生じるふわっとした音の拡散
消えゆく音と再びあらわれる音のあいだの透明な空白の時間

そこには、なびいては止まる風に身をゆだねて自由になりながら、ゆれ動いたりつっかえたりしつつも、一歩一歩進んでいく姿がみえる。

そして、そのあゆみの中で目撃する光景は、未来であると同時に過去であり、一歩踏み出せば二度と同じようにみえることはないようだ。

一歩ごとに、響きの景色が時空を超えてうつり変わるような反復。


このような演奏は、西洋に全くとらわれない、いや、むしろ西洋から遠く離れようとする作曲家としての面と、音楽を音の響きそのものから捉えて空間に描写していく電子音楽家としての面があるからこそ出来るのではないだろうか。作曲しない伝統的なクラシックの純粋なピアニストには出来ないだろう。

今までのクラッシックのピアニストの誰もが見向きもしなかったリズム面と音響面から、古典をあらたに捉え直しているかのようなのだ。

彼は、古典を、五線譜内の音の拘束と従来の西洋的な解釈から解き放つことで、かつてあり得ていたかもしれない失われた響きを呼び起こし、それと同時に、テクノロジーが人の感覚や音楽のありかたを問い直すことによって生じる響きの未来を描こうとしているかのようである。

と書いてきた上で、本人の言葉の方がしっくりくると思い、一部引用して終えたい。これは、彼が2004年にバッハのゴールドベルクを再録音した際のものだ。

均等な音符の流れで縫い取られた和声のしっかりした足取りをゆるめて 統合と分岐とのあやういバランスの内部に息づく自由なリズムをみつけ 組み込まれた小さなフレーズのひとつひとつを 固定されない音色のあそびにひらいていく といっても スタイルの正統性にたやすく組み込まれるような表面の装飾や即興ではなく 作曲と楽譜の一方的な支配から 多層空間と多次元の時間の出会う対話の場に変えるこころみ 
http://www.suigyu.com/yuji/ja-text/2004/goldberg.html

*1:私は音楽の研究家ではないし、バッハの研究にどのようなものがあるかの知識は皆無なため、詳しくは専門家にお任せしたいが、私の気付きをここで書く。YouTubeでバッハインベンションの一曲目をきき漁ったところ、アンドラーシュ・シフが、この曲を高橋と同じように、八分音符と三連符のアプローチで弾いているのを確認した。https://www.youtube.com/watch?v=31r5ZgWeC0o そして、アマゾンレビューより、三連符で書いたこの曲の自筆稿が存在することを知ったhttps://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RGYE0J0R196YT/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=B000091LCG。これは、クラシック界では有名なことなのだろうか。とはいえ、高橋とシフの演奏は全然異なってきこえる。シフのアプローチは西洋的なリズムの域に留まっているように私には感じる

170909 日ノ出町試聴室その3 / 夕も屋 『hana』

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最近、黄金町から移転した日ノ出町試聴室その3へ。

そこは横浜市街地の風俗街から若干外れた通りの建物の二階にある。
入り口からすぐに登れる階段は洋風の木張りになっている。
この時点で昭和の頃に建てられたと思われる雰囲気を醸し出しているが、階段を登って室内に入るとさらに雰囲気抜群。

床、壁、天井の木目、壁にところどころ貼られた大きな鏡、長いバーカウンター、木の椅子、古いトイレ、そこにある全てのものが、シックでレトロだ。

聞いたところによると元々、社交ダンス教室として使われていた空間らしい。

今回の出演者は毛玉1/2、夕も屋、mayu&平本圭治の2人編成が3組。

毛玉1/2とは、僕を含めた現状4人組の毛玉のうち、黒澤、露木の2人編成のアコースティック版だ。
ちなみに、某漫画のように、お湯をかけられると女性、パンダ、子豚などになる、ということはありません(あるほうが凄い)。

今回は自分の出番はないけれど、移転した後の試聴室に来たかったのと、毛玉の2人の様子をみたかったのと、最近アルバムを出したという対バンの夕も屋さんをもう一度みたくて来てみた。
(以下、今回メインに書くのは夕も屋さんとなった)

夕も屋さんは、去年の秋に下北沢モナレコードで対バンしてはじめてきいた時にとても印象に残っている。

男女の弾き語りのデュオで、女性がピアノ・ボーカル、男性がベースとギターを持ち替えながらコーラスもする。

その音楽の感じを飲み物で例えると、清涼感がありつつも、喉ごしが所々こしょばい感じがする。
時々、(あれ?)と戸惑うような味わいもある。
でも、飲んだ後はほんわかとした暖かさが残るよう。

去年のこの日、同じく対バンのyoji & his ghost bandの青野さんと「みててキュンキュンしますよね」などと、2人で夕も屋の感想を話し合っていたのだが、青野さんとは他に関西トークをしすぎたせいで本人達に伝えるタイミングを逃してしまった。

ちなみに、キュンキュンする、という表現は2人の音楽にマッチしてるな、と思うと同時に、いかにもといった男女の胸キュンソング、ラブソングといった感じではなくて。

人と人とのすれ違いの儚さが、2人が淡々と奏でる音の音のあいだにあらわれているようにきこえるのだ。

2人の演奏の息は全くあっていないというわけではないけれど、曲の途中でテンポが揺らいだり、2人の間でズレが生じたりする。

とくに、彼のベースは、普通に彼女の呼吸に合わせていると思いきや、ところどころリズムとかフレーズがつまづいたり、もつれたりして、かみ合わない。

(…あれ…?今のタイミング…何…?!)
(さっきのフレーズ、ちょっと音がずれてる…?!)

となる瞬間が時々あり、それにつられて彼女の方も揺らいでいき、少し危なっかしい。

このように、演奏が散りゆきそうになる時もありながら、それでも曲は進んでいった。

僕がその時驚いたのは、そのズレは下手だな〜とか、ヘタウマという印象を通り越して、2人の音楽にとって不可欠な表現に感じられたということだ。

2人は演奏しながらも、そこに浮かび立つ風景の中で風を感じている。
そして、時々吹いてはやみゆく風につられ、音がなびいているよう。

今回のライブでは前回使用してなかったメトロノームを、シンプルにピッピッと鳴らしながら曲の半分ほどを演奏していた。

以前の演奏で感じた、風が強めに吹いた時に今にも散りそうになりながらも、なんとか耐えていたような姿に対して、一定のリズムの上では、吹く風に少しよろめきながらも、風に身をゆだねられているように感じた。

と例えてみたものの、以前きいた2人らしさは全く失われていない。

ちなみに、MCが微笑ましく、ほんのりとブラックさもあり面白かった。

それについては長くなるので割愛しておいて、最後の曲の前にベースの彼がチューニング変更中で演奏までの間が出来た時、彼女の中では今日のMCネタが尽きてしまったようだ。

ベースのチューニングの音と、次の曲のためのメトロノームの音が静かに鳴りながら、1分ほど小声で「うーん………うーん………」と、それらのリズムに微妙に合わないように何度も唸った挙句、ようやく、

「あ!そうだ!さんま食べたいですね…!」

「………もう秋ですよね………でもまだ夏は諦めてないですよ…!」


とのこと。
この発言から感じたものは、夕も屋の音楽から受ける印象そのものとなんら変わらなかった。

終わったあと、お二人とお話しできた。

「もうさんま食べましたか?(塩焼きの)」

と聞かれたので、ちょうど最近、すき家でさんま牛を食べたことを話したり。

このさんまは塩焼きではなく蒲焼なのだが、それをほぐしながら、ついてくる大根おろしと牛丼をごっちゃに混ぜご飯ぽくすると(一見まずそうだけど案外)美味しかった、とか。
(ちなみにもう少し前に食べたうな牛という食べ物は、もっとピンとこない食べ物だったのだが、この時も混ぜご飯にすれば印象は違っていたかもしれない)

ほかに話した中で、

「習字やってますか?」
「え?やってないですよ。中学以来。」
「…ならいいです。」

と言われたのは一体なんだったんだろう(笑)。
(ちなみに僕は字がきれいとはいいがたい)


アルバムを購入し、今ききながら書いている。

クレジットをみると、その中の2曲はゲストが参加しているものの、ほかは自分たちで演奏したのだろうか。

少しおぼつかない打楽器、ピアニカ、コーラス、控えめに歪んだギターのメロディ(束の間のレディオヘッドのパラノイドアンドロイドの引用)、その他効果音、駅や街頭、自然音などのフィールドレコーディングの重なり。

それら全てが、2人の音楽になくてはならない音として響いている。


かつてみた、ある季節の風景。
夕靄(ゆうもや)のように、風に吹かれては日が沈むにつれて消えゆきそうなそれらの記憶。
相手に迷惑をかけないほどの多少の自分勝手さは、子供の頃からかわりのないユーモアと遊び心。
人とあまりうまく接することのできない不器用さ。
相手に近づこうとしても、なぜか離れてしまい、また近づこうと歩んでゆく姿。

それでも、そのうち、いつの間にか重なりあうピース。

夕も屋の2人が音で描く響きからはそういった光景が思い浮かぶ
 

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(他の2組についても書きたかったけれど、またの機会に)

札幌国際芸術祭2017 / おもいがけなく遭遇してしまうということ

○札幌国際芸術祭に行ってきた

音楽関係ではない自分の身の周りの人に、

「札幌の芸術祭に行く(行った)んですよ」というと、

「へー。芸術祭ですか。(格調高そうで難しそうですね。)」

というリアクションがまず返ってくる。

しかし、17/8/15-16の間に、僕が札幌国際芸術祭のいくつかの展示作品を体験するために札幌市街の様々な会場を巡るなかで思ったのはこうだ。

普段、音楽/アートに興味がない人や、音楽/アートに興味はあるが芸術祭はよくわからん、という人にこそ行ってもらいたいということ。

何よりも、難しいことを考えずに楽しめる作品もあるし、地元だったり、たまたま通りかかった人にも開かれているところもあるのがとても良い。

それに、実際にどの展示をみにいってもまず目にしたのは、子供づれの親子の多さだった。夏休み中ということもあってのことだろう。


○子供にとっての芸術祭
モエレ沼公園

例えば、会場の一つであるモエレ沼公園は元々、その広大な芝生と丘の敷地内で、遊びやスポーツが出来る場だ。

そこには、芸術祭とは関係なしに、多くの子供づれの家族が散歩したり遊んでいたりした。

そして、今回の芸術祭の展示として、公園の併設施設であるガラスのピラミッドに行けば、気軽に作品にも接することが出来る。

そこで無料で開放されている展示の(with) without recordsでは、沢山のレコードプレーヤーがそれぞれ勝手に動いたり止まったりする様子を、子供が興味深そうにみていた。


・札幌芸術の森美術館: クリスチャン・マークレー展

札幌芸術の森美術館のクリスチャン・マークレーの展示は、レコードや機械などの廃棄物が解体されゆく様子などを、映像や音の作品にし、それがある種のリサイクルだ!ということを示しているように感じた。

そこには、現代社会に対してなにかしらのメッセージを訴えるという真面目さもある程度あるのかもしれないが、展示全体の雰囲気から感じるのは、ユーモラスさや絶妙な馬鹿さ加減であって、これも子供が面白がれそうな内容だった。

どちらかというと男の子っぽさなのだとは思うが、子供の遊び心の延長のような感覚がある。

 

・札幌芸術の森工芸館: ∈Y∋ 《ドッカイドー/・海・》

芸術の森内の∈Y∋(山塚アイ)の作品は、本来は広い暗闇の部屋で、まるで自分が銀河に浮かんでいるかのようなマットの上で、静かなアンビエント音楽をききながら瞑想的な感覚にさせるような作品である…はずのものだった。

しかし、自分が体験した回では子連れが多く、お化け屋敷的な感覚で子供達がきゃっきゃっと楽しんでいる瞬間もあった。これについては後にもう少し詳しく書く。


札幌市立大学: 毛利悠子《そよぎ またはエコー》
・金市舘ビル: 梅田哲也 《わからないものたち》

または、梅田哲也、毛利悠子の2人の作品に共通する特徴をあげてみると、それらはどちらとも、展示空間に点在している様々な装置の前を通り過ぎる中で、それまで止まっていた装置がいきなり動き出したり、装置に近づくと実は静かに音が鳴っていることに気づかされる、といった点がある。

そこには、「なんだろうこれ?」と、その人の足を止まらせてしまうような、大人/子供を問わず、好奇心をくすぐらせる仕組みがある。


○作品理解の難しさ

しかし、同時に難点だなと思ったのは、装置は常に動いているわけではないので、後になって装置が動き出すのに気が付かずに、なんとなく通り過ぎて帰ってしまう人が多いということだった。割とそういう瞬間を目撃してしまった。

・札幌芸術の森美術館: 鈴木昭男《き い て る》

ほかに分かりにくい、と感じたのは鈴木昭男の作品だった。例えば芸術の森美術館の作品《き い て る》は、石が敷き詰められた庭のような場に、10個くらいの丸く白い台が点在され、その上に人が立って、そこできこえてくる外の音に耳をそばたてる、というものだ。

しかし、この作品は、子供/大人に関わらず、配布用の解説を読んだ上で、その意図を理解し、鑑賞者が耳を澄ましてきくという、自主性を発揮しないと作品が成立しないのでは?と思ったし、実際にこの場に足を踏み入れている人を自分はみる機会がなかった。

子供にどう作品と向かい合えばいいか親が教えてあげる、というのも自分が親になった時は意識したいなあ。

(というか、子供に限らず一緒に鑑賞してる人に対しても意見を交換した方がいい。一人一人の体験で感じるものはそれぞれ違うはず)

例えばこの作品だと、

「ほら、この台の上に立って、耳を澄ましてごらん。風の音とか、虫の音とか、遠くの車の音とか、空調の回転音とか、色んな音がきこえるでしょ」

とひとこと言うだけで、子どもがみたり、きいていた世界がガラッと変わってしまうこともあるのではないか、と思ったりする。


○たまたまそばにいた人たちの、ささいな会話集

ところで、この芸術の森内で、たまたま前を歩いていた父娘の会話がきこえてきた(勝手にごめんなさい)。

女の子「さっきの大学の廊下のやつ(注:毛利悠子作品)面白かったね」

父「そうだね。とても綺麗だったね。ピアノが突然鳴ったりして」

女の子「あ!あの鳥、鳩かな」

父「うーん。鳩っぽいけどなんだろう。フランスだと、鳩とかうさぎを狩りでとって料理するんだよ」

女の子「えーかわいそう…」

 

・旧りんご倉庫: 梅田哲也《りんご》

または、札幌の落ち着いた町中にある木造の旧りんご倉庫で行われていた梅田哲也の展示にて。そこらへんで農作業か何かをしていたような近所のおじいちゃんとおばあちゃんがたまたま通りかかった。

おばあちゃん「最近ここでなにやってるの?」

ときき、係の人がもろもろ説明する。ちょっと騒がしくなった(全然気にはならない)。おばあさんが中を覗く。

おばあちゃん「あら、綺麗。不思議な世界。綺麗ね〜」

と、おじいちゃんや係の人との会話が弾んだのち帰っていった。それからは静かに鑑賞できるようになった。

その後、同じくその場に来ていた女性が僕に、

女性「これ、このまま(水が滴るだけで)動かないんですかね」

僕「んー。(この容器内の)水がある程度溜まると、なんか動きそうですよね」

水滴が滴る様子と同時に、装置が動き出すのをじっと静かに見守る時間が何分か生じた。

そして動き出した瞬間、お互いに、

「おおー!」

となった。


 ・再びモエレ沼公園

または、モエレ沼公園で自転車で走っていると、1人のおばさんに呼び止められる。

おばさん「あの山に沿って大量にある自転車なんなんですか?いつもはないんですけど」

僕「(そうなの?)あー芸術祭のオブジェというか作品なんですかね。あんな所に自転車とめるの大変そうですね〜」

僕が作品に対して、一対一で向かい合う以上に、偶然そこに居合わせた人との関わりは、自分以外の人の作品との関わり合いを気付かされるものであった。それは自分がどう作品を捉えるか以上に、お互いの経験を豊かにする。


○作品の外からまぎれこむ音/人

さらにいえば、音の出る作品というのは、その作品が置かれる環境によって受ける印象が大きく左右される、というのが肝だと感じた。とくに音数が多くない作品だと、そこには作品以外の音がまぎれこんでしまっていることが分かる。完全に外部の環境音を遮断することは困難だ。

・再び毛利作品

例えば、毛利悠子の作品は、大学構内の建物の高い位置にある一直線の通路を歩く上で、ある種の物語のようなものを生じさせている。

展示の入り口は暗いが、前を進んでゆくとそこはガラス張りの空間になっており山や近くの住宅街といった外の景色がみえてくるようになっている。

その外の景色は、その時の天気や、朝-昼-夕の時間帯などの要因で当然変化するだろう。それによって、作品から受ける印象も相当変わってくるんだろうなと感じた。

自分が鑑賞した時は、とても天気が良かった。そこでは大学構内の草刈りの音が聞こえてきたり、近くの木の葉が風で揺れる音がたくさんきこえてきたりした。

しかし、それは邪魔だなー、というよりは、展示物である装置のコイルから鳴る「ジーッ」という音などと、共演しているかの様にきこえたりもする。

・再び山塚アイ作品

また、山塚アイの作品に戻る。これは広い暗闇の部屋全体が作品になっている。暗闇で危険なため、係の人は入場する人に対して、注意の言葉をかける必要がある。

「足元にお気をつけください」

「マットの上に座ったり、横になっていただいてもかまいません」

または、暗闇がゆえに、はぐれる可能性もあるので、親子どうしなどで声をかける必要も出てくる。そのため、その場は喋っても問題ないような空間になりがちであった。

それに加え、会話が少なめになったとしても、暗闇を歩くとすり足になりがちのため、マットとスリッパがこすれる音が目立ったりする。

この会場で響いているのは、山塚アイのハイノートの声にコーラスやディレイのようなものをかけた静かで神聖な感じのアンビエント音だが、その場に人が多いと、それをじっくりきくことも難しい。

その時は純粋に作品に没頭できなくなってしまうが、これは作品の都合上、そうならざるをえないもので仕方がないといえる。柔らかいマットの上でゴロゴロしても良いとのことなので、憩いの場のようにもならざるを得ない。自分自身も疲れていたのでいい休憩になった(笑)。

座って休憩していると、近くに親子とおぼしき2人が近づいてきた。

男の子「なんかここにあるよ」

父「なんだろう」

僕「あ、人です(笑)」

男の子「なんだあ(笑)」

父「すみません(笑)」


・再び金市舘ビル: 梅田哲也 《わからないものたち》

8/15の19時ころに札幌市街地のパチンコ店が入っている古い建物(元デパートらしい)の7階へ梅田哲也の展示へ赴くと、なぜか人っ子一人もいなかった。

しかし、広い空間内で装置が動いて音が鳴ってたり光が点滅しているので、やっぱり展示中なのかなと思って入ってみた。パスもあるし問題はないだろうと。暗めの空間で一人で作品に接することが出来たのは稀有な体験だった。

と、思っていたら、なんか控室っぽい奥から口笛(ナットキングコールのラブ、を、くずしたものにきこえた)が聞こえる。これは、作品のスピーカーとかからの音じゃなさそうだぞ?と思っていたら、しばらくして梅田さん本人が奥からでてきた(笑)。パンフにも情報はかいていなかったが、お盆なので今日は休館にしていたとのことだった。初対面だが、たまたま共通の知り合いがいたので少しお話した。

梅田さん「あの人、味があっていいですよね」

僕「いやあ、ずぼらすぎて困ってます(苦笑)」


○おもいがけなく遭遇してしまうということ

今回色んな作品に接して共通して思ったのは、それらはどれも、美術館で絵などの展示物をみるのとは全く違うし、音の出る作品についても、音楽を1人できくのとも、ライブで沢山の人と一体感を持ってきくのとも全く違うということだ。

そこには、純粋に「わたし(たち)」が「作品」を鑑賞するという、一対一の関係の完結性だったり、「わたし(たち)」が「作品」世界へ没入していくといった要素を阻むような、おもいがけなさを発生させる仕組みがある。

それは、展示空間の作品内で偶発性や突然性を仕組んでいるのもあれば、それだけでなく、ほかのお客さんや、天気やその場の環境からおもいがけなく、紛れ込むということもある。

そもそも、このようなおもいがけなさ、というのは、日々の生活の中で、どこか知らない場所にいったり、知らない人と出くわしたりすると頻繁に起こることだ。

この芸術祭での体験のおもいがけなさには、日々の生活の延長線上であるような感覚があった、ともいえなくはない。

もう少し個人談を書くと、芸術祭巡り後に、とある人に連れて行ってもらったバーで、店員や他のお客さんとちょっとした会話をしたり、すすきののバルで、たまたま隣に座った高田純次的ちょい悪オヤジに、おおよその人格を見抜かれ軽くアドバイスを受けてしまったりしたのだが(笑)、これらの体験と芸術祭の体験はほとんど等価のように感じている。

以上は、自分が体験したことの一部にしかすぎないし、作品についてもう少し詳述することもできなくはない。しかし、もっと時間をかけてみないと分からないこともたくさんあると思った。さらに他にもたくさんの会場だったり、イベントがこれからあったりする。

興味が少しでもあり、予算、時間、身体的に多少の余裕のある方には、実際に行ってもらうことを強くオススメする。

自分にしか起こらないおもいがけない遭遇が、きっとそこで生じることでしょう。

Rob Araujo 『Loading​.​.​. [Full EP]』

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全く知らないアーティストの作品を試聴なしで買うという、所謂、「ジャケ買い」をしたことがない私。
というのは冒険心のなさなのか?はたまたケチなだけなのか?
(最近セブンイレブンで買う缶チューハイを100円のやつにしている私は果たしてケチなのか?!)

一つ言えるのは、知らない音楽をきくには、基本的にCDを買うしかなかった時代をギリギリ通過した年代の私にとって、youtube発達以前は、膨大な気になるアーティストの中から順番にアルバムを買うしかなかった。

だから、何者だか知らない人のアルバムなんて手に取る余裕さえなかった、とはいえる。何しろ学生だったし、使うお金が限られていた。と言い訳してみる。

今や、新しい音楽のdigり方がまるで変わってしまった。

今までは、好きなアーティストのオススメや人脈をたどる、友達のおすすめ、音楽雑誌、音楽本、レコ屋の試聴、ウェブショップ、ブログ、ツイッターのフォロワーのオススメを参照して、実際にフィジカルの盤を買う、というのがほとんどだった。

しかし、最近はもっぱらyoutubeの関連動画から適当に探すことが多い。
(SoundCloudやBandCampも、もちろんdigるのには欠かせないが、最近の自分はyoutube比率が高いモードである)

判断材料はサムネイル、ジャケしかない。
だから、可能な限り先入観を与えられず、誰の価値判断にも左右されない。そこが良い。簡単に自分が未知の領域へ開拓できるのもグッド。

さて、そんな中で、なんとなく気になるジャケ画像をポチッとな。

足元に散らばるゲームのコントローラー、マイク、ヘッドホン、右側のオカリナみたいなのはなんだ?(トトロか?!)

背景にうす〜くアップライトピアノ、そしてキーボードの前に座るデブ。

オタクっぽさを醸し出しまくっている。
いけてないいけてさが最高である(誉めてるんですよ!)

なんだこれ?と思って聞くと、エレガントなピアノと揺らいだ打ち込みのビート。
チルアウトな鍵盤が基調になっているヒップホップ、ネオソウル、ジャズ的な今っぽさがある。
しいていうなら宅録グラスパーっぽいといえるか。

誰だろう?と思ってアーティスト名で検索すると、本人のホームページがヒットし、太っちょの写真が出てきた。絵は本人なんかい!

友達になりたいタイプ笑。
(最近身近にデブの友達がいない)
↑ちなみにここでのデブとは100kg超級をさしている

太っちょにしてはお洒落&エレガントすぎる、というギャップは特に感じないし、それを感じるのは偏見でしかない。見た目ダサいけど音が凄い人、沢山いますよね。

とはいえ、完全に偏見をなくす、というのも無理で、たまにはそう感じることもあったりする。

例えば、見た目と音のギャップ、というのを今まで一番感じたのはグラスパーだった。
グラスパーは見た目がゴリラっぽいじゃないですか(これまた念のため、disではなく、そういや去年のタモリ倶楽部のゴリラ回が最高だった)。

初期の名盤『In My Element』を手に取った時、何かドス黒いサウンドを期待してワクワクして再生ボタンを押したんですが、そのピアノはイケメンの貴公子かよ!、もう少し具体的に例えるなら、黒人メルドーか!と思った次第。

さて、戻る。ざっとプロフの感じでは音楽学校を卒業してLAでピアニスト、プロデューサー、講師として活動しようとしてる人みたい。

この作品は、14分の短い中で、さりげなく展開を沢山作っていて、短編集的でありながらも、自然な流れになっているのが良い。

それに、こういうビートミュージック的なトラックで、鍵盤がメインになっていて、ジャズっぽいソロが多いのも、そんなにはないような気がする。

最近の傾向はどちらかというと冗長にならないようにソロは控えめになりがちじゃないですか。
アンサンブルできかせたり、トラックの抜き差しで流れを作ったりして。

でもこの作品のピアノソロはトラックにとって必然なのが良い。

こういう鍵盤奏者のチルっぽい作品で大好きなアルバムが2枚あって、それはハービー・ハンコックの『Mr.Hands』と坪口昌恭トリオの『Radio-Acoustique』なんですが、それと通じるものも感じる。

凄く良い!

とはいえ、これ位のレベルの音楽を作るミュージシャンは、ライブレベルだと自分が知ってる範囲で日本でもいるし、自分の知らない範囲でも沢山いるでしょう。

しかし、youtubeだけで数か月で6万越えのview数で、いとも簡単にネット上で出会うということは、そんなにはない。

この作品に限った話では全くなく、活動、創作、レコーディングのしやすさを含めたシーンやコミュニティの盛り上がりは、やはり日本よりもやはりアメリカの方が底が厚いのか、と、感じてしまう。

そこらへん何とかしていきましょうや、と感じる日々でございます。

福生の楽器屋 その3. 再訪

中央線の中央特快で新宿から立川までを突っ切るのは久しぶりだ。
そして立川で青梅線に乗り換える。
青梅線の車両はドアがボタン式になっていて停車中に乗客が自由に開閉できるようになっている。これも久しぶり。

電車に乗ろうとすると、自分の前の先に入った人が、後ろの自分に気づかずドアを閉めてしまい、「(わたしいるんですけど!)」ということがよくあるのも、ボタン式あるある。

福生駅に到着し、友人と合流。
横田基地沿いに出るまで、1キロほど、あちぃー、となりながら歩き楽器屋に到着した。

店内はおばあさん1人で、座りながらアコギの調整をしているようだ。

「何かお探しですか?」

プレベを探してまして」

ジャズベは人気があってあまりありませんけど、プレベはたくさんありますよ。」

 

3年前にここでストラトを買った者だと伝えたが、流石に覚えてはいらっしゃらなかった。


アコギを引き続き調整しながら、

「私は何もしませんから、自分でアンプに繋げて、お好きな楽器を弾いてください」

といわれる。

相当な数の楽器やアンプがつめつめで並んでいるため、奥の方の楽器ほど取りだすのが一苦労。ヘマするとドミノ倒しみたいになってもおかしくない。だから、(とても元気な方だが)、体は小さいので、お客さんに任せたいのも納得。

普通の楽器屋だと店員さんに一本づつ「これお願いします」という必要があるので、なんて自由なこと!

というわけで、そこそこ雰囲気のある赤いプレベが気になりシリアルを見るとJVと刻まれていた。いわゆるジャパンヴィンテージとして人気があり巷でプレミア価格気味のものである。取り出そうとすると他の楽器を倒しそうになった。

「倒しても怒りませんから」

と、そこら辺は寛容らしい(もし起こったら悲惨なことに…)。

このベースと70年代フェンダーUSA製など、気になるものをまず3本試奏した。悪くはないが、取り立ててよくもない、という感じ。

「おすすめとかありますか?」

と聞くと。迷わずに、

「これですね。マツモクの昔のものです」

と、メイプルネックのベースが指さされる。

マツモク、とは不勉強ながら知らなかったが、長野にあったメーカーとのこと。
値段的にもさっき弾いたベースの方が2〜4倍の値段がするので、そんなに期待せずに弾いてみた。



明らかにそれまで弾いたものより鳴りがいい!メイプル特有の明るさとパンチのある音なのに加えて、暖かさとふくよかさもある。
友人が「それ、アクティブ(電池入り)なの?」と聞くのももっともだ。もちろんパッシブだし、特別弦高が低かったりピックアップ位置が高いわけでもない。

とはいえ、まだ3本くらいプレベがあり、最初の方に弾いたのも弾き直して、再度このベースを弾いた。
しかし、明らかにこれが良い。


「いやあ、やっぱこれ良いですね。なんでなんですかね」

「私のいうことを信じないんですか?たまたまこの個体のバランスが良いんでしょうね。音に色気があるわね。新しいフェンダーのは木がダメね(その他色々)」

50年間楽器屋をやってきたということは相当な本数の楽器をみてきたということだ。これほど楽器をみる確かな目を持つ人はなかなかいないだろう。それに、自分にとっても納得の「これしかない」という音だ。
と言うわけで購入し、また色々とお話をした。

フレットレス化について伝えると、このお店で受け付け可能とのこと。区内の楽器屋で検討していたが、こういうのは買った店にお願いすべきだろう。何しろ、この楽器屋にまた来たいと思う自分がいた。

「弾き倒してから考えてまた来なさいね」と言われ、お店を出た。

帰りは立川駅で途中下車し、数年前この駅を日常的に利用していた時によく行っていた、東園という中華料理屋さんに久々に行った。

ここは店員全員が中国人で、四川の本場志向な感じだ。とはいえ特別辛いメニューが多いわけでもない。青椒肉絲とかのスタンダードなメニュー含めて、どれも味付けが繊細で美味しい。でも、麻婆豆腐とかになるとつい抑えられずに本場っぽさがでちゃってる感じで、それもご愛嬌。

友人が肉を食いたい、自分は炭水化物を摂取したい、ということで、四川とは関係なしにスタンダードにレバニラとチャーハンを頼んだ。薄味のチャーハンはそれだけでも美味しかったが、レバニラと一緒に食べたり、お店特製のラー油(中国唐辛子を漬けたやつ。あんまり見かけた事ない)を少しかけて食べるとさらに美味しかった。

このお店にしろ、さっき行ってきた楽器屋にしろ、別段、隠れ家、とか、閉鎖的なコミュニティというわけでもなく、日常的に地元内だったり地元外の色んな人が利用してる場がある。そして、SNSが発展してるとはいえ、みんながみんなそれについて投稿するわけではない。

だから、ネット上だけではわからない事はたくさんある。というか、わからない事や、情報があったとしても分かった気になったことがほとんどだろう。

どんな人にも、たまたま縁があって、面白い場、人、もの、こと、に出会ってしまう事がある。

それを、自分のためだけに日記やメモに書いたり、友人との会話で話すように、ひっそりと、ネット上に記録する。そして、何かを特別狙ったり期待しなくても、その記録が、知らない人に思わぬ形で届いているかもしれない。

というあり方がとても良いな、ということを、最近ふと出会った人をきっかけに気付かされ、これを書いてみた。また何かあれば書くかもしれません。

(楽器屋についてですが、もし友人、知り合いで行きたい方がいれば、一緒に行きましょう)

福生の楽器屋 その2. 必要な音

何を目的に福生の楽器屋まで向かったかというと、その根本の理由は今やってるバンドに合う音のベースを追い求めて。加入以来ずっと、持っているベースのセッティングとか弦の種類とか弾き方で試行錯誤しているが、まだ改善の余地を感じている。

それに、リーダーから「ウッドベースを弾きなさい!(実際にはシャイな方なので申し訳なさそうに「よかったら弾いてくれませんか…」的な低姿勢でお願いされるのですが…)」との要望が来たりもする。しかし、予算、運搬、練習場所の確保的にも厳しく流石に無理だ。とはいえ、バンドサウンド的にも、アコースティックっぽい音が向いていそうなのはずっと自分自身も感じていた。という中で色々調べているうちに、プレシジョンベース(以下プレべ)をフレットレスにしたら良いのではないかという案が自分の中で去年の夏に出た。

フレットレスベースというと一般的にはジャコ・パストリアスウッドベースと同じようにフレットを抜いたジャズベースが有名だ。では、そのジャズベフレットレスじゃダメなのか?と問われると、今の自分にとって(そして今後もきっと)NOなのだ。その理由を説明し始めると長くなが、端的にいえば、ジャコ・パストリアスを想起させる路線とは違う方向に行きたいから。とはいえ、ジャコは自分がベースを始めたきっかけの人物だし、今でも大好きだし、ベースを弾くうえで一生付きまとってくる人物になるとも思っている。

さて、プレべのフレットレスの音を初めて聞いたのは、ユーミン(荒井由実時代)の1stと2ndでの細野晴臣のプレイ。このアルバム自体大名盤だし、2ndの「やさしさに包まれたなら」や1stの「ひこうきぐも」はジブリ映画でもお馴染み。聞いたことない人は日本人でほとんどいないはず。特に1stは個人的にも人生のマイベスト10に入る程大好きなアルバムだ。しかし、細野さんがここでフレットレスのプレべを使っているというあまりにもマニアックな情報を知ったのは、つい2年くらい前のベースマガジンだった。

プレべのフレットレスについては、使っている人を一人だけ知っていたものの、普通に売っているものとも思っていなかった。知らなかったので調べてみると、70年代にフェンダーがフレットレスのプレべを作っていたとのこと。しかし、個体は多くなく今は市場にもあまり出てこない。というわけで、去年の夏からデジマートで定期的にフェンダーの純正のプレべフレットレスを探していたわけです。で、季節に1本くらいはみかけ、ようやく試奏にこぎつけたのが今年の3月。細野さんはトーンつまみ絞り気味でこのタイプのベースを使ってたんだろうな、という事が分かり、求めている音にかなり近かった。しかし流石にヴィンテージ扱いなので30万円以上はする。

それに、この純正プレべフレットレスはウッドベースと同じようにフレットラインがない。そのため、正しい音程をとるのが一苦労だ。ならばジャコがやったみたいに、フレットのあるプレべを割安で購入しそれをライン付きでフレットレス化した方が予算的にもプレイアビリティ的にも理にかなっている。

さて、そのためにはプレべを探さないといけないし、それからどこかの楽器屋とか工房にフレットレス化をお願いしないといけない。ということで、色々調べていると、ベース界隈では有名なシンメイさんという方が、昔の日本製のジャズベースを安価に入手し、フレットレス化する試みの記事を多数書いていた。そして、その音は数10万の楽器にも引けをとらないらしい。更に、そのうちの1本があのジャコフォロワーのベーシスト、織原良次のメインベースになっていることを知る。

なるほど、自分はジャズべではなくプレべでトーカイやフェンダージャパンのジャパンヴィンテージの良い個体を探せばいいのだな、という事をここで悟った。そして、この4月くらいから毎日デジマートとヤフオクをチェックするという病気に罹患してしまった苦笑。デジマートでみつけた方は、実際に楽器屋に行き試奏した。しかし、今のところ「これは本当にいいのか?」と疑問を持たざるを得ない楽器しか出会っていない。
というなかで、3年前に行ったあの福生の楽器屋に行くしかない、という結論が出た。引っ越しして福生は行きづらくなっていたのだ。

(ところで、プレシジョンベースとは、フレットのないウッドベースと比べて「正確な(precise)」音程がとれるフレット付きの小型のベースとして、フェンダーが世界で初めて発明したエレクトリックベースに名づけられたものです。プレシジョンベースなのに、フレットを抜くことで、音程が正しく取れなくなるという背徳感、語義矛盾が個人的にたまらないと感じています。この感覚わかるでしょうか(笑))

福生の楽器屋 その1. 赤いストラト

東京に来るまで福生という地名を知らなかった。

一番はじめにその文字列を認識したのは、上京後、青梅線に乗った時。でも、読み方が分からない。「"ふくおい"かな?兵庫の相生(あいおい)みたいに。あれも読めなかったなあ」などと考えていると、車内ディスプレイの経路案内に「Fussa」とあり。斜め上からの回答を与えられ、そりゃ分からん!&記憶となった。

2013-14年にかけて昭島市に住んでいたころ、福生は米軍基地がある事もあって独特な雰囲気の町だということをどことなく耳にするようになった。自転車で行けなくない距離という事もあって、暑さも落ち着いてきたころに、ふとサイクリングがてら行ってみようと思いたった。9月ごろだったと思う。

行く前に、福生のお店(自分の場合、大体、中華などのアジア料理屋、ラーメン屋から始まる)などを検索する中で、楽器屋について調べると、長年やっているという中古楽器屋がヒットした。当時、自分が弾くベースに関しては今のところいらないかな、とは思っていたものの、ギターも弾けるようになりたいなあとなんとなく思っていた。というわけで寄ってみることに。

拝島駅方面から自転車で走っていると、徐々に道路に沿って右手方向がフェンスの地続きとなり、そのフェンスを越えた先が横田基地になっていた。滑走路とかあるのかなと思っていたら、それはもっと基地内部にあるみたいで、道路から見えるのは宿舎っぽい建物など。道路左手沿いを自転車で走ると、徐々に、お店などが増えてきた。雑貨屋、服屋、アクセサリー屋、ミリタリーショップ、教会などを通過した。英語の看板も多い。小学生の時に家族旅行で行った沖縄の感触を思い出した。

楽器屋の前に到着した。中に入ると、その狭い店内には多くの中古楽器が雑然と並べてあった。古そうなギターとベースばかりで、見慣れないロゴのものも多い。

ギターを探していると、フェンダーの赤いストラトキャスターをみつけた。

まず第一印象で、傷とか塗装剥げはあるけどそれ含めてルックス・雰囲気が良い(可愛い!)ところが気に入った。それに弾いてみると(ギターの個体の良さというのは未だにそんなには知らないけど)鳴りが凄く気持ち良かった。

店長のおばあちゃんいわく、「フェンダージャパンの85年のEシリアルです。昔の日本の楽器は本当によくできているんですよ。新しい楽器は木材も作りもダメで買うもんじゃありません」とかいうもんで、当時の自分はよくは分かっていなかったものの、その言葉にも、楽器の音にも妙に説得力を感じ、安価なこともあり、その場で買ってしまった。

このおばあちゃん、50年近くここで楽器屋を続けており、今は常駐ではないリペアマンはいるものの基本1人で切り盛りしてるとのこと。僕は関西出身なのであまり馴染みはないのだけど、ある世代以上に特有の綺麗な東京の言葉を話される方だと感じた。基地周辺の環境もあってか外国人客も多いらしく、電話上で英語での対応も流暢になされていた。

色々お話をした中で、とにかく70、80年代の日本の楽器の作りは良いこと、クイーンが好きだということ、まさかの灰野敬二のことを灰野君と呼んでいたこと(!)、が印象に残っている。

で最近、久しぶりに福生のこの楽器店に行ってきました。今回再度向かった理由は、大学以来の友人(もともとドラマーだが、エフェクター、アンプ、パーツ、楽器などのジャンク品をヤフオク等で調達しては修理、自己流モディファイを施し、各軽音楽サークルの部員に高値で売り付け、その仇で留年しまくり&卒業が危ぶまれていた同級生)が行きたがった、というか、自分が「福生にオモロイ楽器屋あるで。行かへん?」と入れ知恵し、要するに自分も行きたかったわけです。