メモ/ランダム

memorandum || (memory / random)

170212 / アピチャッポン・ウィーラセタクン『フィーバー・ルーム』

当日の日記の途中からアピチャッポンの舞台の感想になっています。そこから読むことも可能です。しかし、日記内容と舞台の感想の間にもつながりは多少あります。

 

○1: 起床

前日の飲みから帰って1時位に寝て、起きたのは13時。よく寝た!
起き抜けに、清水富美加の芸能界引退&出家報道を確認。 彼女を知ったのは、自作の変な歌が話題になったときだと思うけども、その時の印象は、かなり変わった子(天然とも違う)、でも、明るくグッドバイブスで好印象でした。仕事を投げ出してまで宗教に走らなければいけないくらいの切実さというのは当人にしか分かりえないことだけども、どちらかというと彼女のパーソナリティよりかは周りの環境起因ように思える。というか自分がそう思いたいだけだろ!っていう。人前での彼女は、闇を一時的に引っ込めるスイッチを巧みに入れていたのかもしれない。

 

この間、遠藤周作原作の映画「沈黙」を観て、あの過酷な境遇を生きていくための信仰、そして棄教の切実さを目の当たりにすると、現代の日本は何と平和なんだろう。というごく平凡な(りゅうちぇるも絶対そう思うに決まっている)感想を抱いた。とはいえ、 現代人も(もちろん、りゅうちぇるも清水さんも)それぞれ大小様々な切実さを抱いているし、特に、ここ最近大変なことになってきている世界を目の当たりにすると、信仰の問題について否が応でも考えてしまう。そのまんま東さんの動物化するポストモダンだが、2011年以前(震災前&自分が学生だった頃)までは、21世紀は、大きな物語(信仰)のない、データベースから生じる多々の小さく即物的な物語を消費するフラットな世界になるのではと半ば期待していたのに、あれはインテリが夢想したユートピア/ディストピアに過ぎなかったのか。データベースを無視し、ねつ造し、自分のみたいようにしか世界をみない人々。と同時に、その反対に、客観的なデータを提示する極端なエビデンス主義というのも人の習性から考えると限界があるように思えてしかたがない。

 

○2: ご飯
全く自分と縁のない世界と価値観に接したい。特に欧(南)米から離れた異国であるほど良い。今日は完全に予定なし。タイの映像作家、アピチャッポンの舞台作品が横浜でやっているときき、詳細は知らないがなんとなく向かってみた。アピチャッポンは映画「光りの墓」と「トロピカルマラディ」の2本を昨年観た。咀嚼できたとは到底いえないが、とても面白かった。

その前に。今日はまだ何も食べていなかった!食べ物もよくわからない国ほど良さそうな気分。関内のネパール料理店に入ってみる。いたる街にネパール人経営のインドカレー屋をみかけるが、ここでは本場のネパール料理を出すとのこと。というわけで、ネパールの定食セットを注文。お店の人にネパールにいったことあるのかと聞かれる。この定食を注文するのは、ネパールに行ったことある人/行く予定のある人が多いらしい。行ったことも行く予定もないじゃん!(行ってみたい!) コーンスープみたいなカレー、タンドリーチキン的なもの、野菜のカレー炒め、サラダなど。 思ったよりヘルシー&美味&かなりの量だった。
https://tabelog.com/kanagawa/A1401/A140104/14041478/

KAATへ向かう途中、まさに今日話題の某教団施設の前を通った。そのとき、10代と思しき二人の女性が建物から出てきた。うーん、みぞみぞする!!

 

○3 アピチャッポン・ウィーラセタクン『フィーバー・ルーム』@KAAT

KAAT着。当日券を購入。会場は大劇場で、舞台作品ときいていたので普通に客席へ通されるかと思いきや、案内されたのは、椅子と座布団が並び、その前にそれほど大きくないスクリーンがかかっている空間だった。ここは舞台上で、前の壁は閉じられた幕なのだろう。舞台作品ときいていたのだが、まもなく普通の映画のように上映がはじまった。作品は三構成に分けられると考えられたのでABCに分け、それに準じて書いてみる。

A
(ここでは記憶が曖昧なため内容は詳述せずに、画面外で何が起こったかを知ってもらう程度に読んでもらいたいのだが)、バナナの木、池、犬、病院などの場面の短いシークエンスが続くうちに、天井から別のスクリーンが降りてきた。また、左右の壁にもスクリーンが準備されていたようで、途中から映像が投影され始めた。計4つのスクリーンに映像が流れているのだが、それぞれには似た光景なのだが別の角度で撮られた少し異なる映像が流れている。 観客はどのスクリーンを観てもいいが、すべてを同時に見ることはできない。
ここで自分が連想したのは、大友良英たちがその展示作品やライブなどで頻繁に試みている方法だった。それは、展示作品だとレコードプレイヤーなどの装置、ライブでは演奏者、といった音の発生源を空間にばらばらに点在させ、 通常のコンサートでの、舞台と観客の一方向の関係の拘束から自由になる方法である。そこでは、 観客それぞれが別々のものをみて/きく状態になり、観客と作品の関係性は多方向になる。
とはいえ、同じ多方向性があるとはいえ、聴覚(音楽)ベースと視覚(映像)ベースの作品では事情が異なる面があると感じている。この着眼点からこの舞台作品について考察するのは今回は保留することにしたい。

B
雨降る夜。映像が映し出されていたスクリーンが天井に向かうと同時に舞台の幕が開く。暗闇の奥から幾多の光の雨が彗星のようにこちらへ舞い落ちる。眩しい。観客は舞台上で光を浴び、作品の中へと誘い込まれたかのようだ。それまでの「作品の観客」としての立場が「作品の中の登場人物」へと反転したといえるか。
闇に靄があらわれる。そこへ光が照射され、雲が生き物のようにうごめく。光がこちらに向けて大きく円を描き始める。目の前に大きな光のトンネルができた。その奥へ吸い込まれそうかのようになる。奥ではもやもやとした人影とおぼしきものがうごめき、かすかに声もきこえてきたが、のち消えた。平面のレーザー光がゆっくりと走査され、閃光を一瞬浴びる。目が潰れそうだ。ここは天上なのか、または、異次元へ渡る空間なのか。

真っ先に連想したのは(そしてtwitterで検索すると多くが同じく思ったようだが)、映画「2001年宇宙の旅」のラストシーンである。あのシーンが光と水蒸気と影、白と黒のみで描かれているよう。(もう少しカジュアルに例えるとドラえもんのタイムマシンの移動空間にも少し似てましたね!でもゆがんだ時計とかは流石にないですよ!)

今日の起床後に感じたことと関連して、人が何かを信仰し始めるきっかけの一つにはこういう経験があるのではないか(特にその人が弱ってるときなどは)、と思いつつ、客席ほぼ最前の右端の座布団に座っていた自分は、どちらかというと光を傍から眺めている感覚で、瞑想も興奮もせず半ば冷めながら眺めていた。 もしかすると、客席ど真ん中で体験すれば、本当に吸い込まれるように感じたのかもしれないと思いながら。

C
光がやみ、幕が閉じられ、一時的に暗闇になったあと、右側面のスクリーンのみに映像が投射される*1。それまで作品の中へ誘い込まれた人々は、再び観客へと戻った、といえるだろうか。

洞窟の中に男と老婆。沈黙が続く。

老婆「夢をみなくなった」
に対し
男「あなたから光を奪ったから」。

で締めくくられる(注:セリフは自分の記憶からの大意)。

自分はこの言葉がとても残酷なものに感じた。そして、ここで意味されている夢とは、「睡眠中の夢」だけをさしているようには思えなかった。(と同時に、なぜ「睡眠中にみる夢」と「理想としての夢」はなぜ同じ「夢」なのだろうと疑問に思った。子供の時以来に。)
おばあさんに何があったかは説明もなく知る由はない。しかし、観客を作品内に誘い込んで存分にアトラクションのような神秘体験をさせたのち、再び観客を純然な 映画の鑑賞者に戻してこの残酷な言葉を突きつけることによって、観客に対して、それまでの神秘の体験者から、「現実=鑑賞者としての立場」に戻ることを暗に伝えているのではないかと私は感じた。

というのも、そもそも、映画鑑賞という形態では、映写機のスクリーンへの光の投影方向と観客のまなざしの方向が一致しており、それ故に、観客は鑑賞者として、スクリーンの中の物語や人物に、自己を「投影」することができる。私がこのセリフに残酷さを感じたのは、その自己の投影という行為ではないか。そして、この投影という行為は、こちら(観客)とあちら(作品) が相対する関係がないと成り立たない。 さらに、こちら(観客)とあちら(作品) は一見近いようで本当は遠く、そこには歴然とした断絶がある。しかし、それを承知で、それでもあちらの世界と接することが出来たと欲望すること。映画を鑑賞するというのはそのような行為をさすのではないか。

と考えるとBパートは、その断絶を超えてしまったといえる。通常の作品の鑑賞では不可能、かつ禁断の横断。観客は自己を作品に投影する立場から、作品から光が投影される立場になることで、こちら(観客)にはいなくなり、あちら(作品)の世界へ入り込む。まるで作品の中の登場人物になったかのように目撃する神秘体験。ここで、多くの人は畏怖の念を感じただろうし、または、全能感を感じた人だっていたかもしれない。しかしそれは実際には、 バーチャルな体験に過ぎず、 主体的な行為でもない。そこでは、作家と技術者による緻密な光の操作/走査と、水蒸気のコントロールによって神秘現象のようなものが生じていて、それによって観客に催眠効果をかけようとしていた、と捉えることだって可能だ。歴史を振り返らないまでも、他人のコントロールによって畏怖の念とか全能感を抱くことは、それによって救われることもあるかもしれないが、支配と服従の危険性と裏腹である。

と批判側の立場をとってみたが、それは、Bパートに特化した場合である。前述したCパートとAパートを考慮すれば、この作品はBパートで神秘体験するためだけの作品ではないことは明らかである。

○検索結果より
しかし、Twitterで感想を検索すると 、そのほとんどが、Bパートの興奮と絶賛の嵐であり (2/14現在) 、AとCパートに関する感想はあまり見えてこない。そのような反響になるのも大いに分かるのだが、まるで神秘体験だったり、テーマパークのアトラクションにのった後のような感想ばかりで自分は違和感を持った。

例えば、私は、人がオーロラのような自然の超常現象をみて感動するのも、または娯楽としてアトラクション体験を楽しむのも(ほぼ)肯定するし、自分もそういうのを楽しむタイプだ。だが、この作品のBパートは実際には自然の超常現象ではないし、単純な娯楽として作品全体が消費されているわけでもないだろう(とはいえ、娯楽と割り切って鑑賞するのも全く問題ないと思います)。

臨死体験のようだった?だとして、そういう人は本当に死にかけた人の気持ちなど気にかけたことがないのではないだろうか。

瞑想で世界観が広がった?だとして、その受け身な瞑想によって広がった世界観で、光を奪われ、信仰を始めざるをえない人々の切実さの何がわかるというのだろうか。

といったところで、もし本当にこのBパートで何か特別な体験を本気でしたと思った人がいたのなら、私にはその人の気持ちなど何も分かってないと跳ね返って来るだろう。人は結局お互いのことなど分かり合えない、どっちもどっちなのである。

相対主義の立場をとってみたが、やはり無批判にBパートばかりが絶賛されるような作品の受容のされ方はいかがなものかと思う。

この作品を体験したほかの人たちにとってAとCパートとはなんだったのか私は気になって仕方がない。Bパートの体験が壮絶すぎて、Aパートも忘れてしまい、Cパートになってもその神秘体験の世界から戻ってこれなかった人も多かったのか。

また、Aパートのマルチスクリーンの上映で提示された、こちら(観客)とあちら(作品)の様々な関係性(多方向性)とはなんだったのだろうか。そして、A->B->Cと向かっていくこの作品の構成にはどのような意図があったのか。まだ考察の余地は無限に残っている。願わくば再度鑑賞したいが難しいだろう。

この作品に興奮し、好奇心が刺激され、技術面で新たな可能性を感じたなんらかの作り手も多いだろうが、そういった人たちはその技術によって何がしたいのか、その技術が孕む危険性を自覚しているのか、不安になってしまった。

(宮崎駿ドワンゴの会長に対するダメ出しみたいやないかーい!)

 

 

*1:右側のみのスクリーンのみが用いられる理由について、こちらの方の洞察が参考になりました。 https://twitter.com/ichrsak/status/831513007205212160

ペドロ・コスタ 『ホース・マネー』

画面奥の暗闇からあらわれてはきえゆく路地の人々の彷徨。大西洋に浮かぶカーボ・ヴェルテ出身の老翁の黒い肌はリスボンの暗闇の中へと沈んでゆく。暗闇の中で変化する陰影は生と死のうつろい。

暗闇の手前でカメラは常に定点観測をしている。その微動だにしないカメラの静観は、観客を異国の貧しい移民の観察者へと強要する。 しかし、私達は観察者にしかなれないのだろうか。いや、それだけでもいいのかもしれない。映画の中で映し出される陰影は、その暗闇を読み解きたいと欲求せずにはいられないほどの描写である。

画面の中央で光に照らされる人物は、その周りの暗闇に閉じこめられている。スクリーン中心の明るみから階調を描きながら四隅へと広がるこの暗闇は、リスボンのスラム街と私たちの劇場の暗闇の空間を地続きにしているようだ。映画の暗闇と劇場の暗闇がまるで同化し、観客である私たちも映画の暗闇へ溶け込んでいるようなのである。しかし、その暗闇を通してこちらから向こうへ簡単に行くことができるのかは分からない。互いの距離は、暗闇であるがゆえに計り知ることはできないからだ。向こうまでの距離は絶望的にまで隔てられているかもしれないし、その反対にもしかしたら、すぐそこに絶望が待ち構えているのかもしれない。とはいえ、映画とは絶望するためだけに観るものではない。

老人の入院と退院。その病院は「行き先も未来もない」時空を隔てた牢獄の迷宮。 現在と過去が区別されずに、ほとんど死にながら生きている老人が、生きているようで死んでいる(もしくは、実存すらしていないのかもしれない)友人や親類や軍人と会う。そして、声をきき、会話をする。

その老人が、甥と思われる人物と一緒に故郷の歌を唄うシーンがある。そこで2人は、歌詞のとある固有名詞が、友達の名前なのかカーボ・ヴェルテの丘の名前なのかで口論する。記録されずに口承により伝えられ、あやふやになりゆく故郷の記憶。そのうち誰も唄わなくなり、誰の口元からも消え去ってゆくのかもしれない。

その唄は、一聴、外側の人間が、ラテンのラウンジ、ムードミュージックとして消費可能な強度を持つ明るいラテンのメロディーである。しかし、その歌に込められた思いに近づくことは、私たちのような部外者にはほとんど不可能だろう。

ただ、この映画で描写される、「過去」は「現在」でもあり、その逆も然りであるというような、その矛盾を受け入れることが出来れば、こちらにも少しはその思いが響き伝わっているのかもしれない。暗闇と時空の隔たりを通り越えて。

映画冒頭でスライドのように映される19世紀の写真家ジェイコブ・リースが撮影したNYのスラム街の写真の数々は、映画半ばで次々に映されるカーボ・ヴェルデの人々のポートレイトと呼応している。その二者のフレームは、定点観測としては同じだが、コスタ監督のそれはリースのような写真の静止画とはなっていない。構図と被写体のポーズは、まるでリースの写真のようなのだが、コスタ監督はそれを動画(映画)として映し出しており、被写体は動いている。写真は簡単に過去の動かぬ記録になり下がってしまうのに対して、動画として存在することは、記憶でも記録である以上に、このような光景が、常にこれから進みゆく「現在」として、この映画の中だけでなく、どこにでも現前するということを示しているかのようだ。

最後に主人公のヴェントゥーラは、まるで絵画の様な夕日に照らされて退院する。これから夜が待っている。

具体的にはいうまでもないが、2016年のこの世界の、日本の情勢の中で、これからのために今こそ観るべき映画。

映画 『Y/OUR MUSIC』  タイの都市と地方の音楽から浮かび上がる世界 (Asian Meeting Festival 2016 2/7 )

トムヤムクン、ガパオ、カオマンガイ・・・、料理屋さんも多数あり、最近ではコンビニの惣菜になったり、スナック菓子のフレイバーにもなっているタイ料理は、現在日本で割と一般的になっていると思います。私自身も時々タイ料理屋さんにいったり、たまたま近くに売っているので昼にガパオ風のお弁当をよく食べています。しかし、タイについて食べ物以外に目をむけてみると、あまり、というか正直ほとんど何も知りません。日本から近く、物価も安い人気観光地ではありますが、それでもタイについてあまり知らない方は私に限らず結構な数いるのではないでしょうか。
そんな中で、とあるきっかけで、タイの音楽について描かれた映画を観て、全くの未知の世界だったタイ音楽の、そして、タイの文化の多様さを垣間みることができました。
私が今まで観てきた音楽ドキュメンタリー作品の中でも屈指の面白さです。
 
 
2/5~2/14の間に日本で開催されたAsian Meeting Festival 2016(http://asianmusic-network.com/about/)の企画の一環で上映された『Y/OUR MUSIC』は、タイの都市(首都バンコク)と地方(タイ東北部のイサーン地方)で音楽に関わる10組ほどの人々を取材したドキュメンタリー映画です。
 
○都市の音楽
バンコクでは、インディペンデントに活動しているレーベル、バンド、楽器職人、商店街でヴァイオリンを弾くおじいちゃんなどか出演し、それぞれがインタビューに答えたり、実際に演奏する映像が流れます。
 
例えば・・・。
ラジオから流れるクラシック音楽をきいて、サックスの音色に惹かれたおじさん。しかし首都バンコクでもサックスは中々手に入らないため、メガネ職人としてのスキルを活かして竹を使って独自にサックスの作成を開始することに一号機は音がまともに鳴らず、一時は完全に作成を断念してしまいます。しかし、数年放置し竹が乾くと、楽器が響くことに気が付いたことがきっかけで、ついに完成させ量産へ。本編のラストでおじさん本人がこの竹サックスを吹くのですが、(正直そんなに期待してなかったんですが)、その響きは、通常の金属のサックスよりあたたかみとふくよかさがあり、タイに行ったら買ってみたい!と思うくらいのものでした。
 
または、ファッション感覚でかっこいいからという理由で、全く楽器は弾けないのにバンドを組み、いきなり野外ステージに挑んだ若者の男女。バンド名はHappy Land。当然、スキルはないものの、音数少ないサイケ/パンクのような感じで、やたら舞台映えしており、結構良い感じでした。楽器演奏素人によるバンドといえば、The ShaggsやNO. NEW YORK 、または、金魚草(完全に脱線しますが、千葉の高校生が一時的に組んだこのバンドには、一種のミラクルが起こっています→ https://www.youtube.com/watch?v=y9tHXlHPXtM)  のようなバンドを連想しました。楽器が弾けなくてもやりたいように堂々と演奏するヘタウマの系譜の人たちです。
 
他にも、欧米のフォーク系のポップスが好きで、自分でもそういう音楽を作ってみたいとインディペンデントレーベルを運営している人など、紹介しきれませんが、様々な方が出演されています。
 
こういった都市の市井の人々だったりインディペンデントな活動をしている人々の音楽を通してみえてくるのは、20世紀において、あらゆる世界が西洋文化の影響を逃れられなかったように、やはりタイにおいても、西洋音楽が文化横断し、人々の生活に浸透している、ということです。さらに、タイでは音楽産業や音楽教育がそれほど発達していないゆえに、ノウハウがあまりない状態で西洋音楽を独自に解釈した音楽が多数うまれているということ。このようなインディペンデントな音楽はタイに限らず世界中のアンダーグラウンドにあるでしょうが、そういった音楽は、いくらインターネットが発達してもきっかけがない限り外国から見たら存在を認知することが難しいですし、このような記録はとても貴重です。
 
○地方の音楽
一方、地方の取材では、タイの伝統音楽や民謡(モーラムと呼ばれます)を演奏する人々が登場します。
 
例えば・・・。
エレクトリックピン奏者のおじさん(というか、おっさん)。ピンは、私のみた感じの印象だと、日本でいう三味線のような弦楽器です。
そのおじさんが、屋外で暑いのか上裸になってピンを弾きながら、若者に打楽器を指導するシーンがあります。演奏が盛り上がるうちに、ピンを弾くのをやめ、塗装のスプレー缶を振り回してリズムを刻んで一人で勝手に盛り上がり、かと思えば、演奏中なのに、そのスプレー缶でピンの楽器本体に塗装を始めたりする自由さには、笑ってしまいました。
 
ほかには、盲目の笙(ケーン)吹きだったり、農村のステージで民謡を歌って踊るおばあちゃんがでてきたりします。
彼/彼女を通して語られるのは、、地方の過疎化による伝統音楽を継承する若者の不足だったり、モーラム(地方の貧しい人々の民謡音楽)への都市からの差別についてです。このような地方の問題、伝統の継承の問題は、あらゆる世界の国々においても起こっていることですが、やはりタイにおいても同様のようです。
ただしこの件については悲観的になって終ったわけではありませんでした。映画のラストの方で、真昼間の田舎で上裸で演奏していたはずのエレクトリックピン奏者おじさんや、盲目の笙吹きサングラスおじさんが、何故かバンコクのライブハウス、またはクラブといえるようなスペースで、ドラム、ベースをバックにいれて、ビートを強調したモーラムの演奏を行い、若者がそれに合わせて踊っている映像が映し出されます。
これについては、上映後に監督の解説があって具体的に分かったのですが、ここ5年ほどで、伝統音楽への再評価がなされ、バンコクにおいて、モーラムとロックのエレクトロニクス系の音楽の融合の試みがなされるようになったとのことで、このラストシーンではその取り組みの一環が撮影されたようです。
 
○最後に
私はこの映画を観て、その国の文化の多様さとは、アンダーグラウンド(いいかえると、人々の生活の範囲のそれほど広くないコミュニティ。いわゆる「アングラ」というジャンルの事ではないことに注意)で活動する市井(一般)の人々の多様さによってあらわれるということを、強く思いました。それらは大手メディアがとりあげるメジャーな文化産業の表面をみるだけでは決して分からないことです。この映画を通して、タイの売れ線の音楽が分かるということはありませんが、映画に登場する市井の人々の音楽からは、タイにはもっとほかにも、ヒットチャートにのるようなポップスや歌謡やロックやアイドル音楽もあれば、インディーズやノイズの様なバンドも一杯あるのだろうし、または、様々な伝統音楽もあるのだろうと想像がふくらみました。いや、想像で終わることなく、タイの外に住む私たちが知らないだけで、それらは独自の形で確実に存在するのでしょう。
 
都市と地方の市井の人々の間を行き交いながらこの映画の中で響きゆく音楽は、タイの人々の生活と社会だけではなく、現代の世界の現状すらもほのかに浮かび立たせているようにきこえます。そこから垣間見ることのできる西洋文化と現地文化の相互関係は、グローバルに捉えれば日本を含めて世界中で同じように起こっている事象であり、ローカルに捉えれば、その自国文化と他国文化の融合/衝突/葛藤は、各国で独自に違っていることです。
 
私がこの映画をみて見逃してはならないと思ったのは、この映画の舞台のタイだけでなく、他のアジアの国々、そしてアジアに限らず世界中には、自分が知らない所で、多様な音楽と人々の生活があるということです。これは、いってみれば恥ずかしいほど当たり前すぎる事ですが、しかし、ある一国の日常に住み、せいぜい広くて欧(南)米の音楽をきくだけでは、中々意識しにくい事だと思います。
 
自分たち(OUR)のまわりの音楽の外には、別の音楽があり、それらをあなたたち(YOUR)の音楽と意識する事によって文化の交流が生まれるということ。
 
『Y/OUR MUSIC』。
 
ある一国(日本)に暮らす私たちが、その生活の中できいたり演奏したりする音楽は、世界の関係の網と過去・現在・未来の時空間において、どこからやってきたのか?、そして、これからどこへ向かおうとしているのか?ということを問い直すきっかけにもなるように、この映画を多くの人に観ていただけたらと思います。
 
 
補記1:
ここ一年で私がみた音楽ドキュメンタリーだと、ミャンマー音楽の現地録音の密着取材をした「BeautyofTraditionミャンマー民族音楽への旅」とキューバ本国とニューヨークで活動するキューバのジャズミュージシャンを密着取材したキューバップ『Cu-Bop』の2本があります。両者とも音楽文化の記録、保存作品として素晴らしいですが、本編内に起きる出来事の説明があまりに不親切で、映像作品制作の素人感はぬぐいきれないのに対して、この映画は、取材や構成など、作りがしっかりしており、本文のようにとても面白いので、規模の大小を問わず、上映の機会がもっとあれば良いと思います。
 
補記2:
上映後のトークで、大友良英さんも仰っていたように録音が素晴らしく、楽器の響きを余すところなく記録しているのに加え、インタビュー中にきこえる生活音、野外の風のせせらぎ、虫の鳴き声までもが気持ちが良かったです。
 
補記3:
この文章の大半は、上映後の帰宅途中にスマホにばーっと書いて、そのまま放置していたものです。久しぶりにたまたま読み直したら、ブログにアップする価値ありと判断し、2か月遅れとなっております。
 

 

151031 水道橋 Ftarri

杉本拓(ギター)、Johnny Chang [from Germany/New Zealand](ヴァイオリン、ヴィオラ)、池田若菜(フルート)、大蔵雅彦(リード)
 
前回紹介したAntoine Beugerの作品にヴィオラで参加しているJohnny Changがちょうど来日し、Wandelweiser楽派の音楽家と親交のある杉本拓とのコンサートがちょうどあるということで、水道橋Ftarriへ。
 
一部の演奏は杉本拓作曲作品(「Quartet」というタイトルだとか)。前回取り上げた『konzert minimal』と同様に、持続音を主体にできている。杉本拓以外の3人はアコースティック楽器。杉本拓はエレクトリックギターをe-bow(電気的に弦を振動させ持続音をならすための装置)を使用して演奏。e-bowから生じる持続音にはゆらぎやかすれは感じられない。
 
4人の前には楽譜が置かれた譜面立てがあり、それぞれ、別々のタイミングで(きっと楽譜にかかれているであろう)一定のピッチのロングトーンを持続させては、沈黙し、ピッチをかえてまたロングトーンを響かせる。
 
単純に思える演奏だが、少ない組み合わせの中で*1、各楽器から生じる音の関係はさまざまに、そしてゆるやかに移り変わってゆく。
 
その中で4人ともが音をならさない沈黙の時間は短くて、長くて5秒程度だったと思う(もっと長かったかもしれないけれども、体感ではこの程度のように感じた)。この沈黙の短さは何かしらの指示で制御されていたのかもしれない。一旦の短いリセットはあるが、音はほとんど常に響いていたかのような印象が残る。
 
そして、音量はほぼ一定であり、音のダイナミクスもほとんどない。そうなると、耳は自然と、4つのそれぞれの楽器と、変わりゆく音程の響きのたたたずまいにひかれる。その中で、楽器の倍音を感じ取ることもだんだんとできるようになるが、それも束の間の事であった。持続していた音はある瞬間にふと消えゆき、または、別の楽器の音がふとたちあらわれる。ある一つの状態の響きを捉えようとしてもすぐに逃げてゆく。
 
このため、ある音をフォーカスしてきこうとしようとしても集中力は続かず、しだいに、それぞれの音が溶けたかのようにきこえる感覚になる。
 
演奏は50分間、延々と行われたが、長時間だと感じることはなかった。永続的にゆるやかに移りゆく音の運動の中で、耳の焦点もゆっくりと変化してはうつろいゆき、それは、飽きがこない、といういいかたもできるが、それよりも、持続音は時間を感じる感覚を限りなくなくそうとするからなのかもしれない。
 
面白いのは、12音階を用いており、ときおり、各楽器の音程関係が長3度(ドに対してミ)や完全5度(ドに対してソ)などになることがあっても、それは和音(ハーモニー、コード)の協和には決してきこえようがないところ。一般の音楽における和声進行の力学は、規則的な時間順序の中での変化によって成立しているのが分かる。
 
そして、長時間の持続音の、不規則な時間順序での音程の変化と音の消失は、決してメロディにはなりえない。
 
また、時折、楽器の音が重なると鼓膜の奥に重みが少しのしかかったかのような低い響きを感じることが幾度もあった。それは、二つの音のピッチが近いときに発生する「うなり」であるように感じることもあり、それは、光の干渉縞(高校物理で習うヤングの実験を思い出そう)を鼓膜で感じている、かのような感覚。
 
さらに、うなりというよりかは低周波の音が実際に響いているようにきこえるときもあった。それは楽器から直接ならされていないはずの音。これも勘違いや幻聴でなければ、二つの楽器のそれぞれの音程の「差音」(二つの音の周波数の「差」)*2がきこえていたのだと思う。
 
そしてどこから発生しているか指さすことのできないこれらの低い響きは、片方の楽器の音が抜けた瞬間に消える。その瞬間、音が透きとおって響く。
 
ここで、差音を意識的に認知できるかどうかは重要ではないし、この差音の効果を作者が意図しているのかも分からない。しかし、この効果は、無意識の中で、ききての印象に対してなにか影響をあたえているかもしれない。
 
私は以上のように、この作品を成り立たせているシステムや音の物理現象を中心に捉えてこれを書いてみた。しかし、本エントリーを読み、Wandelweiser楽派に興味をもたれることがあれば、以上の事をいったんは忘れ、先入観なしにこの楽派の作品をきいてみてもらいたい。以上のことはもしかしたらききかたの参考にはなるのかもしれないが、他人のききかたを縛ることはあってはならないと考えている。それは、この文章に限ったことではない。まずは、自分なりに捉え、それから他人の捉え方と、照らし合わせてみること。同じ音をきいても、同じように鼓膜に響くとは限らず、同じように脳内で処理されるとは限らず、同じように感じられるとは当然限らない。
 
ところで、杉本拓のこの作品を7人編成に拡張したと思われる(思われる、というのは、これも特に確認を取った訳ではないため)『Septet』というCDが近日リリースされる。さらに、11/22に六本木Super Deluxで開催されるFtarri Fes(2日目)でもこの『Septet』が演奏されるそうだ。

*1:とはいえ、単純計算で楽器の組み合わせは15通り。それに、各楽器の音程の組合わせと、音の入る/消えるタイミングを考慮すれば、パターンは果てしなく多い

*2:周波数A Hzの音と周波数B Hzの音をかけあわせると、加音(A+B Hz)と差音(A-B Hz)が生じる。これは高校数学で習う、三角関数の積和の公式で理解できる。この原理はリング・モジュレーションといわれる技術で使用され、電気的に加音と差音を生じさせることができる。また、電気的な処理を行わない場合、人間の耳には加音はあまりきこえず差音の方がとらえやすいといわれている

Antoine Beuger 『Konzert Minimal』

 
この音楽は、12のアコースティック楽器の持続音と沈黙のみによって演奏されている。ただそれだけだ。しかし、そこには驚くほどに情報量が豊かな楽器の音色、そして、問題提起でみちている。
 
John Cageの、かのあまりにも有名な「4分33秒」は、楽曲中に楽器を全く演奏しないことで、私たちが普段音楽をきいている際に無視してしまっている環境のノイズを浮かび上がらせ、そして、それは音楽になりえるのだと提示した。しかし、コンセプトなどの事前情報を知らない状態で、4分33秒」を鑑賞した場合、能動的にそれらのノイズを「音楽」としてきこうとする者は極めて少ないだろうと思われる。きっと、いつ演奏がはじまるのかと疑問に思ううちに4分33秒が過ぎてしまうだけだろう。それに、もし、4分33秒」のコンセプトを知っている場合でも、そこできくことのできる音は、その演奏会場で偶然に発生するノイズの恣意性にしかすぎない。
 
極端なまでのミニマリズムを志向しているというWandelweiser(ヴァンデルヴァイザー)楽派のAntoine Beuger(アントワーヌ・ホイガー)によるこの作品は、起伏のない持続音と種々の楽器の響きの重なり合い、そして、沈黙によって演奏されている。ここで、本作品で用いられるこの沈黙は、「4分33秒」の演奏しない状態の役割と、全く異なっている。この作品での沈黙は、音が響く状態とのコントラストを生じさせ、楽器の響きを如実に浮かび上がらす。これによって、この音楽のきき手の意識は、否応にも楽器の多彩な響きのテクスチャー(肌触り)に向かうことだろう。そして、その中には、様々な管楽器の息の掠れ、弦楽器の摩擦の掠れ、そして、それらの重なり合いによるうなりが豊かに響いていることに気が付く。持続音とはいえ、それらは決して均質に響いてはいない。
 
これは、この作品で用いられる楽器が全てアコースティック楽器であることによってなしえられる。持続音を生じさせるための管楽器の呼吸の循環、弦楽器の弓の往復の循環はともに、人間の身体を用いる限り、不可避的にずれやゆらぎを生じさせる。
 
持続音は表面をなぞれば線の運動といえるが、その運動を駆動しているのは、このような呼吸と身体の循環運動、または回転運動だといえる。
 
例えば、サイン波の持続音を、完全な球体がフラットで摩擦のない平面を回転しながら直進する運動としてみよう。そうすると、本作品のアコースティック楽器の持続音は、道行く先を車輪で走る際に身体が感じる振動のようだといえるだろうか。どんな道にも少なからず凹凸があり、車輪との接触では摩擦が生じ、また、車輪を駆動する力(例えば、漕ぐ力やアクセルの力)も常に均一であることはない。管楽器はマウスピースと唇との接触の状態で、呼吸というエンジンの循環によって音が響き、弦楽器は弦と弓の摩擦のなかでの腕の往復運動によって音が響く。呼吸の反復も身体運動の反復も常にわずかにゆらいでいる。そして、そこから生じる響きは二度とおなじには起こらない。
 
音には重力があり、ほとんどの音楽はその重力に対して、あらがったり、従ううちに、時が進んでゆく。例えば、わたしたちの日常に溢れるポップミュージックは、西洋クラシックのドミナントモーション(カデンツァ)の、不安定から安定状態の反復運動で成り立っている。ジャズにおいても基本的には、この運動で成り立っており、特にビバップにおけるドミナントでの高度なフレーズの繰り出しは、体操選手が床体操で飛び跳ねて技を繰り出す姿に似ている。それは、アスリート的な音楽である。技を繰り出すには、適度な助走が必要で、空中での技の後に、きれいに着地することで評価が高くなる。それとは異なり、一回飛び跳ねた後に、長い間浮いたままの状態となる音楽も多々あるだろう。
 
しかし、この音楽の沈黙から持続音への往復は、脚が地面を離れることなく、這いながら進んでは止まったりする運動のようだ。
 
それは暗闇の中で、耳と触覚をたよりにゆるやかに進みゆく、ゆきさきのみえない旅。

UN.a 『Intersecting』

 
Intersect : 交差する,相交わる.
 
現在進行形の交差、と題される本アルバムが「ジャズ&エレクトロニカのニュースタンダード」とプロモートされるのは、このアルバムが昨今世界的に活性化しているジャズ周辺の音楽への応答となっている面があるからだといえる。

澄んだ女性ボーカルによるエレクトロポップスとして多くの音楽リスナーに訴求する響きとなっている本作品に、ジャズの響きがあるとしたらどこだろう。

例えば、響きのテクスチャ。フュージョンやソウルなどのブラックミュージックで多用されるローズ・ピアノや、サックス、ウッドベースの音色。
 
例えば、音列操作。セブンスの和声進行、M1で不穏にはさまれるAugmentedコード。サックスのフレーズの半音階の動き。
 
例えば、リズム。現代版ジャズにおけるビートの進化は主に、ポリリズム変拍子の導入、そしてそこから生じる訛りを指し、これらはもはや一般教養化しているといっても言い過ぎではないと思うが、本アルバムでも、M1には7拍子と5拍子の奇数拍子の移り変わりがあり、M3には5連符の揺らぎの3拍子に対し、さらに4拍子が交差している箇所があるようにきこえる。
 
ここで私は、ジャズで用いられる楽器の音色が響き、音列や和声の時間変化があり、リズム構造があるということで、この音楽も現代のジャズなのだ、と単なる普遍論を唱えることはしない。ジャンルを規定するのは、音色でも音列でもリズム構造でもなく、私たちのラべリングの欲望、所有の欲望である。
 
とはいえ、キャラメルナッツがトッピングされたアイスクリームが美味しいように、フレイバーとしてジャズがトッピングされたエレクトロニカはとても美味しい、という喜びのマリアージュを本アルバムから感じることはできる。しかし、それよりも私は、打ち込みと人力演奏の交差(Intersecting)から芽生えようとしている響きに興味がある。私は、ここに、本アルバム自身がもつ特性、昨今のジャズにおいてもあまりみられないサウンドをききとる。
 
人力とマシンのリズムの相互影響によって、ニューチャプターや今ジャズとよばれる現代のジャズにおいて人力ドラムの進化論が指摘される中、本アルバムでは、プレイヤーによるドラム演奏はなく、人力リズムの揺らぎのグルーヴは感じられない。その代わりにリズムは打ち込まれ、電子音、ノイズがステレオ空間をあらわれてはきえゆく。そこには、生ドラムでは生じえないグルーヴがある。
 
そのような空間の中で、生演奏の導入の割合が特に多いのが、M1である。ローズピアノのやわらかな和声がボーカルを彩り、エレクトリックギターはボーカルに対してカウンターのようなメロディを奏でたりしている。低音はエレクトリックベースが支え、5拍子の躍動的なグルーヴを作ったり、ビートが控えめな箇所ではメロディアスになったりしている。これらの生演奏は機械的なバッキングをすることなく、ボーカルのメロディに対して、有機的に絡み合っている。それは最初に指摘した面も合わせてジャズ的ではあるが、さらにそこに共存する電子音の数々は、ジャズとは別の何かにたらしめている。
 
トラックに導入される生演奏のバランスは曲によってまちまちである。例えば、M2やM4などは特に親しみやすいエレクトロポップチューンとなっている反面、生演奏の割合は少ない。だが、全ての楽曲の中であらわれるサックスは、メロディ装置となっていると同時に、スケールから音をはずし、断片的なフレーズをはさみこみ、それはフリージャズ的なソロであるという以上に、本アルバムに通奏して不穏さをあらわす。特に、M5において、サックスのメロディの半音階の動きは、調性の希薄なウッドベースのラインとともに、ドローンの曖昧な世界をよびだす。
 
反対に、ときに曖昧にうつろいゆく音世界になっても、本アルバムがポップスと聞こえる強度をもたらしているのは、ボーカルの透明な声色とメロディだ。M8の途中で曲が切断され、ウッドベースとビートのアブストラクトな世界になるなかで、ボーカルがもう一度メロディの世界を誘い出す。
 
エレクトロニカとジャズとクラシック、ポップスと実験、人と機械、具体と抽象・・・など幾層もの交差が生じている本アルバムは、様々な角度から照射することで、影響関係などを露わにする事はある程度可能だとは思うが、交差から新たに芽生えるものは、既存の価値観で捉えようとしても、多くは影となり残されたままになるだろう。本アルバムの魅力はそのあいまいな影のうごめきにあらわれていると私は思う。

Streifenjunko 『Sval torv』/電子楽器の思想が管楽器奏法にもたらしたもの


streifenjunko.bandcamp.com

1曲目の、静的なドローンでもありメロディでもあるかのような響きをきいて、どのような楽器から音が生じていると想像するだろうか。もしかしたら、電子楽器やエフェクタによる音の操作が行われていると感じる人もいるかもしれない。しかし、この演奏は2本の管楽器のみで行われている。録音のためのマイクロフォンが微細な音を捉えるのみで、電子的な音の加工は一切なされていない。

Streifenjunkoはノルウェー出身のトランペット奏者Eivind Lønningとテナーサックス奏者のEspen Reinertsenによる2本の管楽器のみによるduoである。ここできくことのできるのは、通常のクラシックやジャズでもちいられるこの2本の管楽器から一般に想像できる響きからは程遠い音色である。西洋クラシックでよい発音とされる整数次倍音を強調した音色でないのはもちろん、ジャズのざらついたニュアンスもない。

彼らの立ち位置は50年代末から登場したフリージャズの系譜、特にDerek Baileyに端を発するヨーロッパのフリーインプロヴィゼーションシーンの流れから捉えることができる。しかし、その演奏はフリージャズといえば多くの人が思い描くであろう、乱雑さや轟音の快楽性からは一線を画している。マウスピースへの息の過入力によるノイズ発生装置としての管楽器の用い方を彼らはしていない。

乱雑であったりノイジーなイメージを抱かれがちなフリーインプロヴィゼーションシーンにおいても演奏の変遷の歴史がある。特に近年になると、音数を減らし静寂に耳をすましながら、ノイズ発生装置というよりかは音響発生装置として管楽器を駆使する奏者があらわれる。Michel Doneda、John Butcher、Axel Dörner、Xavier Charleなどがその例としてあげられる。彼らは管楽器の特殊奏法によって繊細で多様な響きをつむいでゆく演奏家である。そして、Streifenjunkoの2人はこの彼らの系譜にいるとみなすことができるだろう。しかし、そうとはいえども、この演奏をきいてしまうと、Michel Donedaらの演奏には静寂の中にも音の自由な羽ばたきがあることに気づかざるをえない。それに対して、Streifenjunkoの多くの演奏はより徹底して静的に響いている。

2本の管楽器がそれぞれロングトーンを持続して響かせながら、呼吸とアンブシュア(マウスピースをくわえる口の形や力)をコントロールし、ゆったりとしたうなりを発生させたり、音をひずませる。そして、吐く息が、リード、マウスピース、管内、ミュートの間をこぼれたり、かすれては過ぎ去ってゆく。また、サックスのキーを押さえるときのタンポンの打音や、トランペットにおいても点描される音があり、極小音の打楽器のように管楽器を使用しているともいえる。

2本の管楽器による明滅しあう音響。

持続音を発生させるとき、彼らは響きの微細な変化をききながら、呼吸、口腔、そして手によって静的な制御を行い、それによって音色をゆっくりと変調させてゆく。その制御は、たとえば、電子楽器のフィルタやLFOなどのつまみをゆっくりとまわして音を変調させる制御方法に近いように私は思う。電子楽器の発する音をききながら、手でエフェクトを調整して響きを変化をさせるかのように、管楽器にむかいあっているかのようである。

管楽器奏者がこのような音を発するようになるまでにはどのような過程があっただろうかと考えてみたとき、それは音楽をめぐるテクノロジの発展の歴史と大いに関わりがあるとしてみよう。

まず、作曲家、ピアニストの高橋悠治は74年に「電子楽器の思想」と題して、以下のように伝統楽器と電子楽器の違いを指摘している。彼は60年代に欧米を飛びまわりながらコンピュータ音楽に関与し、この文章を書いた70年代中盤当時は、バロック時代のバッハのフーガの技法パーセルの作品を、電子楽器によって演奏した意欲的な録音を残している時である。以下は彼が電子楽器の発達の過渡期の真っただ中に試行錯誤を重ねてきた中での言葉だ。

「この(引用註= 電子楽器における)操作という概念は、演奏についての伝統的なかんがえ方とは対立する面をもっている。楽器で音をだすのは、それを演ずるのであり、筋感覚に対応して、演奏者には音に対する感情移入がはたらく。発振器の音をコントロールするときは、ききながら調節するので、装置は筋肉の延長ではなく、音は演奏者の外部にある。(中略)電子的な操作は、発音の方法ではなく、きくための方法なのだ。のぞむ音を装置からひきだすのは、なれた手ではなく、敏感な耳である。」
[*1] 「電子楽器の思想」 高橋悠治著 『ロベルト・シューマン』 p140 1974年9月初出

ゴングなどの残響の多い楽器を除き、多くのアコースティック楽器(伝統楽器)は、手(時には足)の動きや呼吸を制御することで音がなる。それは、演奏家が「このような音をならしたい」と思う意志から生じる制御と、実際に響く音が直接連動するということである。この時、楽器は「筋肉の延長」として、体の一部のように扱われ、そこから発せられる音は、演奏者や作曲者の感情と容易に結びつきやすい。

しかし電子楽器に相対する場合は事情は異なる。例えば、発振器は、そのスイッチをオンした後、自分の意志とは無関係に無防備に音が鳴り続ける。または、鍵盤のついているオルガンやシンセサイザについても、アコースティック楽器のように手の微細な動きと音のニュアンスの変化が連動しにくく、ピアノよりも感情を音に乗せにくい。電子楽器においては、その「装置」そのものも、そこから発生する「音」も「演奏者の外部」にあり、さらに、「のぞむ音を装置からひきだすのは、なれた手ではなく、敏感な耳である」と高橋はいう。

このように、電子楽器を操作するとき、そこから発生する音は演奏者から離れて対象化されやすいといえる。この時、演奏者は、電子楽器が発する音を、耳を敏感にして観察する必要が生じてくる。

くわえて、この音の観察は、テクノロジの別の側面が推し進めることを、ここで補足しておく。それは、入力する音をこだまさせる「ディレイ」や、演奏した一部のフレーズを反復再生する「ループ」処理である。これらのエフェクトは、本来なら一度ならされると消えゆく音が再生されることで、リアルタイムに音が演奏者から離れて自立する。そして、「再生」といえばそもそも、20世紀初期から本格的に発達した録音のテクノロジそのものが、消えゆく演奏を保存し、過去を振り返ることを可能にした。

音楽に導入された新たなテクノロジは、音を人から切り離し、対象化するポテンシャルをもつ。そして、音の対象化は、人の音に対する意識をかえ、音のきこえかたをかえ、耳をかえる。その変化は新たな音楽が生まれる契機となる。その新しさとは、音色の新規性の追求によるものではなく、音自体をどうきくのか?という態度をもって、既存の音楽がどのようなシステムで成り立っているかを見直すことによってあらわれるものである。 

しかし、そのような変化が表だってみえるようになるには、ある程度時を待たなければならない。高橋が同論考内で以下のように指摘するように、変化はそう簡単にドラスティックには起こらないものだ。

「技術は芸術より、おそらく科学自体よりも状況の変化と、表面にあらわれない要求に敏感なのだ。芸術家があたらしい技術のもつ意味を知るのは、何十年もあとのことである。」
[*2] 同前 p137

電子楽器黎明期は、新たな音楽のありかたの模索がクラシックのアカデミズムの現場で試みられてきた。そして、60年代末になり商用の電子楽器が普及し始めると、ジャズにおいても実験が試みられ、その結果は、フュージョンと呼ばれる音楽になる。たとえば、フュージョン黎明期の70年代前半のMiles Davisや、Weather Report初期を振り返ってみてもいいかもしれない。しかし、70年代中盤になると鍵盤化されるシンセサイザはピアノの進化系となることで成熟する。その成熟化は、電子楽器を従来のオーケストレーションやアレンジの延長線上で用いることを容易にした。しかし、そのようなテクノロジの使用方法は、パレット上にならべられる音色の種類が増えただけにすぎなかった。たとえば、冨田勲のシンセサイザによる音楽はオーケストラの電子音響化にすぎないといえるだろう。新たな音色は作曲のイメージを新たに膨らますことを可能にしたかもしれないし、今までにない素材の響きやリズムの目新しさを生じさせることは可能にしたが、音楽そのものがなりたつシステムを見つめ直すまでにはあまり向かわなかった。

高橋は以下のように電子楽器がもたらす新たな可能性を示唆している。

「電子楽器での操作の概念は、伝統楽器の演奏法に影響をあたえるだろう。楽器は体の一部のようにかけがえのないものではなく、その部分はとりかえられるものとなり、演奏者のエゴの表現や、音への感情移入はすがたをけし、持続する音の各瞬間に対する意識はするどくなり、特殊な個人的技術は否定されるだろう。」
[*3] 同前 p142

20世紀が終わる直前の00年、東京においてオフサイトという演奏スペースがあらわれる。杉本拓、中村としまる、大友良英Sachiko Mをはじめとした多くの即興音楽が集うようになるその場所は、近隣への騒音問題対策のため、そこでの演奏は静かにならざるをえなかったそうだ。彼らはそのような環境の中で、音楽のありかた、もっといえば、音の発生や、音と音の関係性を、耳をすますことによって問い直しながら、演奏活動をおこなっていった。当事者でもあった音楽家、批評家の大谷能生は当時の演奏のありかたをこう振り返る。

「ベイリーによる楽器の拡張は、彼の身体に蓄えられたギター技術によって支えられている。彼の手によってギターはそれまでとは異なった連続体となるが、その変化を導く彼の手自体は、更新されることはあっても常に統合され続けている。(中略)
ぼくたち(引用註= 00年前後にかけてのオフサイトまわりにいた日本の即興音楽家たちをあいまいに指している)は、この技術を一旦括弧にいれてみた。ステージに上がり、演奏として、たとえば、アンプの電源をONにして、その後、OFFすること。たとえば、ターンテーブル上にシンバルを乗せて、それにレコードの針を落としてその響きを聴いてみること。たとえば、コンタクト・マイクで机をこすってみること。このような作業によって、ぼくたちは音と発音体とそれを扱う身体とのあいだに距離を作り、個人的な手の技術に依存しない即興演奏のあり方を模索してみた。操作の減少は、演奏を個人的なものから非=個人的なものへ、能動的なものから受動的なものへと導き、そして、その非人称的な音は、演奏者と観客両方に、いま鳴っている音の帰属先を常に疑いながら聴くことを要求する、積極的な耳のあり方について示唆するようなライブを形成するようになる。」 
[*4] 「覚えていないことを思い出すために(レコードとは何か?)」 大谷能生著 『ジャズと自由は手をとって(地獄へ)行く』 p25 2013年 

先の高橋の「楽器は体の一部のようにかけがえのないものではなく、その部分はとりかえられるものとなり、(中略)、特殊な個人的技術は否定されるだろう。」という70年代の予見は、そのまま、大谷が指摘する「音と発音体とそれを扱う身体とのあいだに距離を作り、個人的な手の技術に依存しない即興演奏のあり方」に対応してしまう。高橋の予見は約20年後の00年前後の日本の即興音楽シーンにおいてようやくあらわれたといえる。Derek Baileyの試みてきたフリーインプロヴィゼーションでは、伝統楽器を用いる限り、楽器は手の延長となり、音からイディオム(意味)を引きはがそうとしても、そこには"Bailey"という個人はどうしても音に残存してしまう。対して、00年前後にあらわれる彼らは、簡易な装置、または既存の楽器を用いながら、やろうと思えばだれでも操作できる方法によって、「非人称的な音」を響かせてゆく。そのような匿名性のある音楽は、音響的即興と呼称されるようになる。

それでは、はじめに戻ろう。Michel Doneda、John Butcher、Axel Dörner、Xavier Charleら、そして、Streifenjunkoの2人のような、従来の管楽器の発音技術とは全く異なる技術の習熟が必要な特殊奏法は、Derek Baileyと同様に「特殊な個人的技術」に依ってはいる。しかし、そこでは、音響的即興とよばれる音楽の思想を通過した響きがつむがれている。高橋が「電子楽器での操作の概念は、伝統楽器の演奏法に影響をあたえるだろう」というように、伝統的な管楽器がただ単に電子楽器の音色を真似るのではなく、電子楽器のテクノロジが音楽のありかたを問い直すことで別の演奏法がうみだされたのだといえる。その時、その伝統楽器から発せられる音は、従来の響きとは別のものとなる。

人間の吸って吐く行為が音となる管楽器は、人間の声帯の代用として捉えることができる。管楽器による音の「発生」は「発声」でもあるのだと。呼吸と声帯の微細なコントロールによって多彩なニュアンスをつけることが可能な声のように、管楽器には管楽器にしかできない音を生じさせる可能性をもつ。これら管楽器奏者たちの演奏の音のうなり、息のかすれの微細なニュアンスを、ピアノや弦楽器のような、基本的に手の入力のみによる完成された楽器で響かせるのは難しい。

最後に、Streifenjunkoの本アルバムについて特徴的な点として、メロディの別のありかたを指摘できる。1,2,曲目のゆったりとしたメロディは、アルバムを通して形をかえて繰り返される。管楽器をかすれる音の持続の微細な変化の中で、メロディはドローンのようにもきこえる。ドローンとメロディ(Jose Maceda)。または、変奏されるドローン・・・。そして、2本の管楽器からならされる持続音は複数の音程という面だけではなく、音色そのもののハーモニーとしても響いている。その静的な制御は、演奏ごとに微妙に変化し、その点では即興でもあるのだが、同時に、その響きはアンサンブルとして繊細につむがれてもいる。

*ちなみに、このメロディは彼らが参加するChristian Wallumrød Ensembleのアルバム『outstaires』(ECMレーベル)でもきくことができる。このアンサンブルグループは、「ノルウェーのフォークと教会音楽にインスパイアされ、古楽ジョン・ケージ後のアヴァンギャルドに影響を受けながら、ジャズの自由な思考により解放された多次元室内楽ECM評)http://www.nedogu.com/blog/archives/8898」と評され、ピアノ、アコーディオンと弦楽器とドラムにくわえて、この2人の管楽器奏者が参加したサウンドは、何を志向/試行/思考しているのかをとらえようとしてみてもいいかもしれない。