メモ/ランダム

memorandum || (memory / random)

ペドロ・コスタ 『ホース・マネー』

画面奥の暗闇からあらわれてはきえゆく路地の人々の彷徨。大西洋に浮かぶカーボ・ヴェルテ出身の老翁の黒い肌はリスボンの暗闇の中へと沈んでゆく。暗闇の中で変化する陰影は生と死のうつろい。

暗闇の手前でカメラは常に定点観測をしている。その微動だにしないカメラの静観は、観客を異国の貧しい移民の観察者へと強要する。 しかし、私達は観察者にしかなれないのだろうか。いや、それだけでもいいのかもしれない。映画の中で映し出される陰影は、その暗闇を読み解きたいと欲求せずにはいられないほどの描写である。

画面の中央で光に照らされる人物は、その周りの暗闇に閉じこめられている。スクリーン中心の明るみから階調を描きながら四隅へと広がるこの暗闇は、リスボンのスラム街と私たちの劇場の暗闇の空間を地続きにしているようだ。映画の暗闇と劇場の暗闇がまるで同化し、観客である私たちも映画の暗闇へ溶け込んでいるようなのである。しかし、その暗闇を通してこちらから向こうへ簡単に行くことができるのかは分からない。互いの距離は、暗闇であるがゆえに計り知ることはできないからだ。向こうまでの距離は絶望的にまで隔てられているかもしれないし、その反対にもしかしたら、すぐそこに絶望が待ち構えているのかもしれない。とはいえ、映画とは絶望するためだけに観るものではない。

老人の入院と退院。その病院は「行き先も未来もない」時空を隔てた牢獄の迷宮。 現在と過去が区別されずに、ほとんど死にながら生きている老人が、生きているようで死んでいる(もしくは、実存すらしていないのかもしれない)友人や親類や軍人と会う。そして、声をきき、会話をする。

その老人が、甥と思われる人物と一緒に故郷の歌を唄うシーンがある。そこで2人は、歌詞のとある固有名詞が、友達の名前なのかカーボ・ヴェルテの丘の名前なのかで口論する。記録されずに口承により伝えられ、あやふやになりゆく故郷の記憶。そのうち誰も唄わなくなり、誰の口元からも消え去ってゆくのかもしれない。

その唄は、一聴、外側の人間が、ラテンのラウンジ、ムードミュージックとして消費可能な強度を持つ明るいラテンのメロディーである。しかし、その歌に込められた思いに近づくことは、私たちのような部外者にはほとんど不可能だろう。

ただ、この映画で描写される、「過去」は「現在」でもあり、その逆も然りであるというような、その矛盾を受け入れることが出来れば、こちらにも少しはその思いが響き伝わっているのかもしれない。暗闇と時空の隔たりを通り越えて。

映画冒頭でスライドのように映される19世紀の写真家ジェイコブ・リースが撮影したNYのスラム街の写真の数々は、映画半ばで次々に映されるカーボ・ヴェルデの人々のポートレイトと呼応している。その二者のフレームは、定点観測としては同じだが、コスタ監督のそれはリースのような写真の静止画とはなっていない。構図と被写体のポーズは、まるでリースの写真のようなのだが、コスタ監督はそれを動画(映画)として映し出しており、被写体は動いている。写真は簡単に過去の動かぬ記録になり下がってしまうのに対して、動画として存在することは、記憶でも記録である以上に、このような光景が、常にこれから進みゆく「現在」として、この映画の中だけでなく、どこにでも現前するということを示しているかのようだ。

最後に主人公のヴェントゥーラは、まるで絵画の様な夕日に照らされて退院する。これから夜が待っている。

具体的にはいうまでもないが、2016年のこの世界の、日本の情勢の中で、これからのために今こそ観るべき映画。