メモ/ランダム

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Ricardo Moyano x 笹久保伸

2015/2/7 Ricardo Moyano x 笹久保伸 Guests : Miho & Diego Duo 、5歳くらいの女の子 @三軒茶屋 KEN

ペルーでアンデス音楽を学び、現在は埼玉で秩父前衛派として活動しているギタリスト笹久保伸と、アルゼンチン出身のギタリストRicardo Moyanoのコンサートへ。リカルドさんについての前知識は全くなかったのですが、笹久保さんが最も影響を受けたギタリストの中の一人とのことで、熱のこもった告知をツイッターで確認し、気になって向かいました。満員御礼の会場の中、1stセットは、前半を笹久保さん、後半をリカルドさんが別々にソロを演奏。2ndセットから共演が始まりました。以下、リカルドさんのソロから書いていきたいと思います。


リカルドさんのソロがいざ始まり、ギターでシンプルなイントロを奏でる中、静まり返った地下会場には遠くから救急車のサイレンがかすかにこぼれました。演奏の邪魔になるほどではない静かな音量です。すると、リカルドさんはサイレンの音に歩みより、この音を演奏の一部に溶け込ませるように共演してみせました。あからさまにサイレンの音に合わせた場合、客席から笑い声が生じることも十分にありえたと思いますが、気が付かない人もいたかもしれないほどのサイレンの小さな音量と、それに対してさりげなく共演してみせることで、そうなることはありませんでした。静寂の中、耳を繊細に澄ましながら、柔軟にユーモアを発揮してしまう姿を目の当たりに出来たこの瞬間は、演奏開始直後ではありますが、このギタリストはただ者ではないと確信するのに、ささやかかつ十分なハプニングでした。



リカルドさんは簡単な曲紹介をしながら、アルゼンチン、ブラジル、コロンビア、メキシコ、プエルトリコ、そして、現在在住しているトルコ(ロシア経由での来日だとか)の楽曲を演奏していき、寡聞にして私にとっては一曲を除いて聞いた事のないレパートリーでしたが、どの楽曲もきっと現地のスタンダードな歌謡だったり民謡なのではないかと思います。南米の各国からカリブ、そして中東へ旅をするかの演奏であると同時に、1本のギターによって各国の景色が連続して結ばれていくようでした。



この印象は、リカルドさんのリズムアプローチからもう少し具体的に読み解けると感じました。リカルドさんの演奏は各地のリズムがともに溶け込んでいるかのようだったのです。そのリズムは、ラテンのクラーベを基調としつつも、均質なパルスの上に刻まれるというよりかは、演奏の呼吸に合わせて自然な緩急がつけられるうちにへんげしていくようでした。たとえば、3+3+2(=8)の不均等なクラーベのリズムが均等な三拍子に融け込みそうなリズムがあれば、3拍子の中に4拍子を刻んだりとアフリカのポリリズムのようになったり、不均等な5音のフレーズがモーフィングして均等な5拍子に限りなく近くなったりすることがあると感じました。また、トルコの楽曲については、2+2+3+2+3+2(=14)の7拍子と、南米とは異なり、長短のリズムを交互に積んでいく変拍子的なリズム形式で演奏されていました。


リカルドさんのギターは、実際に楽曲として演奏された南米、カリブ、中東のリズムに加えて、それらの音楽と歴史上接触のあるアフリカや欧米のリズムが、一本のギターの呼吸の中に溶け込んでいるかのように響いており、リズムというものは、各地で独自にスタイルが形成されながらも、文化の接触の中で相互に影響を受けあい、伝播していくものだと強く感じました。


音色について。笹久保さんのギターは、明るく、力強く、若さを感じる響きであるのに対して、ラッカー塗装が若干剥げているリカルドさんのギターの音色は、年季と同時に円熟さを感じる響きでした。


また、笹久保さんの演奏は、素早いアルペジオやトリルのなかに土着のメロディーが浮かび上がり、その中で奏でられるベースラインはメロディと一体化するようなのに対して、リカルドさんのギターはメロディと、伴奏、ベースラインが綺麗に分離していると同時に、これら3要素が統合されているように響いていると感じました。この違いは、笹久保さんの演奏楽曲が比較的古いアンデスの土着の音楽なのに対して、リカルドさんの演奏する楽曲は、もう少し近代の、通奏低音と和声と旋律で構成されるバロック以降の西洋音楽の影響を受けている度合いが高いからなのではないか、と印象をもったりしました。



ギター一本から奏でられているとは信じがたいリカルドさんの演奏は、例えば20世紀初頭の伝説的ブルースギタリスト、ロバート・ジョンソンにも感じることができますが、リカルドさんのギターは、それよりも、ラテン化、超絶技巧化されているようです。また、ロバート・ジョンソンのソロギターは、アフリカのポリリズム的要素と同時に、自由に一拍伸縮したりする変拍子的要素もありますが、これは無自覚に演奏されたものであり、アフリカと中東のリズムが融合したとははっきりといえるものではなく、偶然の産物だといえます。それに対して、リカルドさんの演奏は、各国の音楽を学び、それぞれのリズムが体に染み込んだうえで、自然と各国のリズムが一体化しているように感じました。


そのほかには、ギターの3弦目を指板の外にひっかけて、プリペアド風のパーカッシブなアプローチと同時にメロディを奏でる演奏も白眉でした。


2ndセットから、笹久保さんとの共演がはじまりました。リカルドさん曰く、「練習すると本番でやるきがなくなってしまう」そうで、ハプニングを大事にしたいとのことです。このため事前に2人で演奏する曲のリハーサルや打ち合わせはしなかったようです。その中には、5歳ほどの小さな女の子(主催者の関係者の娘さん?)を招き、民謡を歌う中で2人がバックを務める演奏がありました。決して上手な歌とはいえないけれども、会場は暖かい眼差しに包まれ、微笑ましい演奏でした。


また、これも直前に決まったらしいのですが、ちょうどアメリカから来日しているコロンビア人男性と日本人女性のMiho & Diego Duoも最後のセッションに加わり、笛(ケーナ)と太鼓が加わった演奏を行いました。


笹久保さん、リカルドさんのソロ、デュオ、Miho & Diego Duoとのセッションを含め、どの曲についても聞いたことがないものだったため、どこまでが作曲されたパートで、どこまでが即興かは判断がつきにくかったです。けれども、演奏は譜面なしで行われ、楽曲は手、身体の記憶の中に刻まれ、その時その時の演奏の呼吸に応じて、メロディー、リズム、伴奏が変化しているに違いないと思わせる演奏でした。その即興の在り方は、ジャズのような半音階と自己を強調したソロではなくて、楽曲の延長線上で自由自在にその場でアンサンブルアレンジされているかのようです。


また、その場での柔軟なセッションを可能にするのは、西洋音楽平均律とコード進行のフォーマットを用いた楽曲が共有されることで実現されているといえるでしょう。この点では北米での(バロック以降の)西洋音楽と黒人音楽が融合したジャズのように、南米においてもジャズとは別の形で、西洋音楽と、奴隷として連れられた黒人と、土着の音楽が溶け込まれている。そして、現代にかけて、西洋音楽のフォーマットを用いて、即興を交えながら各文化圏の交流がなされているいえるのだな、例えば今回のように、とか考えたりしました。



アルゼンチンで生まれたのち、亡命し、スペインとフランスでクラシック音楽を学んだあと、アルゼンチンへ帰郷し南米音楽に傾倒し、そして、現在はトルコへ移住している複雑なバックグラウンドがそのまま豊潤な音楽性へと結びついているようにリカルドさんのギターは響いています。そして、彼の音からは、歴史を背負うおもみと同時に、そのおもみを跳ね除けてしまうかのようなユーモアも感じます。楽しそうにギターを弾き、共演する姿にその人柄は十分に透けて見えました。かすかなサイレンの音を演奏に溶け込ませるかのような繊細なユーモアをもって、リカルドさんのギターは、南米の、カリブの、トルコの、アフリカの、欧米のそれぞれの音楽を一つに結び付けるかのように響いています。
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Arca 融解するビート/現代のリズムの揺らぎ

2014年現在、Bjorkの次回作のトラックメーカーとして起用されたArcaは世界の音楽シーンでセンセーションとなっているようだ。それは、Arcaの音楽がこの時代の一種の空気をあらわしているからだと僕は感じる。それでは2014年の時代の空気としてどのようなものがあるのか、もう少し踏み込んでみたい。そのためにも、まずはArcaのトラックをまずは聴いてみよう。今年の11月にリリースされたArcaのアルバム『Xen』からタイトルトラック「Xen」を。

幾層に漂うビートがふと切断され、消えてはあらわれていく。時には空白になる間 に、ビートは減速、または加速し、突如と不意打ちされる時もある。そうした中で、リズムは攪乱され融解し、または、揺らぎ、ゆがみ、伸縮しているかのようだ。
複数秩序を単線上に叙述しようとすると訛る*1」とアフリカ音楽のポリリズムの揺らぎや、ヒップホップのラップのフロー(揺らぎ)について菊地成孔氏が解説するように*2、Arcaのトラックにも、通常のポップミュージックの定型的なリズム(8ビートや4つ打ちなど)を超えて、複数のリズムの秩序が多層的に配置されては漂わされ、そして切断されている。
そして、このようなArcaのトラックのリズムは偶発的にランダムにならされ、伸縮し、または一定のビートがないかのように感じられる。例えば、こちらのArcaについての論考のように(http://thesignmagazine.com/sotd/arca_mt/)、人生の時間をはるかに超えているであろう総再生時間の音楽が存在するyoutubeやBand CampやSound Cloudなどで音楽をdigる中で、ブラウザ上の複数タブから無関係の音楽が同時再生されてしまう事が時には起こってしまうような時代に、Arcaの音楽に「ひとつの楽曲のなかで複数の楽曲が同時に再生されているような、無秩序かつ不安定な、「統合された分裂」としての奇妙なグルーヴ(以上記事より引用)」があると指摘しているのは示唆に富んでいる。(ポスト・)インターネット世代は、複層的な時間間隔を持っており、それは現代のテクノロジ環境が可能にしたことなのかもしれない。
それでは、(ポスト・)インターネット世代の新たな才能、Arcaの複層的な時間感覚が、全く新しいものであるかというと、過去〜現在の世界音楽のリズムの多層性と、ある部分で関連性があるとして捉えることは可能だと僕は感じている。例えばこのタイトルトラックである。この曲の複層的なビートの各層は完全にランダムで無秩序な関係にあるというわけではなく、実は4拍子だと僕は分析する*3。そして、その断片的なリズムの根底にはアフリカ音楽のポリリズム構造がある。具体的には、前々回の記事(http://d.hatena.ne.jp/Blackstone/20141001/1412182303)で解説した「3x4のクロスリズム」「ポリがけ(12ビートと16ビートの共存)」「6連の揺らいだ5連への変容」を構造的に取り出すことが可能だ(下記付録参照)。
Arcaのビートを体感上アブストラクトに感じられるのは、このような複数の秩序のリズムが加速され、減速され、断片的に再生されては切断されるなかで、時間がメタモルフォーゼを起こしているかのように聞こえるからだ。それは、通常のブラックミュージック、その起源となるアフリカ音楽のような一定のビートが断片的にあるとしても、Arcaのトラックではタイムキープされずに切断されている故でもある。そして本トラックについてはエレクトロニクスによって生じる空間の中でアフロポリリズムが異化されているかのようである。このビートを気持ちよく感じられるのならば、それは、異化されつつも根底にあるアフリカ音楽の、そしてブラックミュージックのリズムの心地よさを感じているという事なのかもしれない。
しかし、アフリカのポリリズムが構造的に存在するという捉え方は一面的である。Arcaの他のトラックについては、BPMが変化しながら、実際に時間が伸縮している曲も多数存在するようにも感じる。未分析のため保留するが、Arcaの凄さを捉えるための分析の余地はリズム面でもまだまだ残っている。
ところでしかし、まだ余地があるとはいえ、このようなリズムの観点のみで、Arcaの魅力について指摘するには不十分である。リズム以外の視点でもみてみよう。今まで解説してきたように、Arcaの音楽は時間軸の直線上でのリズムの配列のデザインがいびつなのに加えて、得体のしれない粒子が空間内を浮遊しては融解/消失するかのような音の配置のデザイン、そして音色のデザインも、リズムと同時かつ等価にいびつだといえる。
ここで、音楽家、渋谷慶一郎によるArcaについて発言を引用してみる。

この発言に更につけ加えるならば、Arcaはビートについても時間軸を無化しかねないノイズ(非ビート)のように使っているとみなすことができる。空間と時間軸の両方で、複層的に重ねられては別々に切断される音は、空間と時間のお互いの次元を相互に侵食しあっているかのように響いている。渋谷氏の、「ピッチ(ドレミ)をノイズのように扱っている」という指摘と同様に、ビートについてもノイズに変容して空間に融解しているかのようである。または、時間を空間のように扱っているとでもいえるだろうか。

・現代の世界のリズムの揺らぎ
それでは、2014年の時代の空気としてどのようなものがあるのかという話に戻ろう。いってしまえば、Arcaの音楽が世界でセンセーションを起こそうとしているのは、大量の音楽情報が溢れ消費される中で、作る側も聞く側も新たなグルーヴを欲望するようになってきたことのあらわれといえると僕は感じる。20世紀の世界のポップミュージックは主に西洋クラシックの影響による4拍子(と少々の3拍子)が覇権を握ってきた時代だったが、少しずつ時代は変化してきていると確実に言える。これほどまでに、世界中で同時多発的に新たなグルーヴが異なる方法で生み出されている時代は今までなかっただろう。以下、最近の例を挙げていくが、自分の知らない領域があること考えれば、これらはほんの一部にしか過ぎないだろう。
例えば、ダブステップエレクトロニカなどのトラックメーカーでは、前々回解説したMadlibや、2、3年前のトレンドだとJames Blakeのトラックなどにもポリリズム構造が捉えられる。Arcaのビートはそれらよりも断片化され、細分化され、伸縮しているといえる。
または、2000年代前半にはD'angelo(なんと明後日14/12/16に待望の新作リリースだとか)、Erykah Baduを代表とするネオソウルという分野でもそのリズムは揺らいでいた。
そして、このネオソウルなど様々な現代のポップミュージックの影響を受けながら、高度で洗練化されたJazz The New Chapter/今ジャズ系のRobert Glasperを中心とする動き、特にChris Dave、Mark Guiliana、Richard Spavenらのドラマーによる複雑に拍が分割されたグルーヴ感覚。または、このダイアリーで指摘してきた、Antonio Loureiroなどのブラジルミナス派、アルメニアのTigran Hamasyan(通称ハマちゃん)、インド系のVijay Ayerなどの細かくパルスを積んでいくリズム。
最後に、日本に目をむけてみよう。90年代、アフリカ音楽のポリズムを研究し、ジャズ、プログレオルタナティブの影響を受けながら独自の音楽を追求した今堀恒雄をリーダーとするTipographicaのリズムは、現代から振り返っても人力によるポリリズム実験の一つの極北だといえる。97年のTipographica解散後、今堀恒雄はギタートリオのシンプルな構成で伸縮リズムをコンセプトとしたバンド、Unbeltipoでの活動を継続しており、このグルーヴ感覚も世界でほかに到達されていないと感じる。そしてTipographicaのメンバーであった菊地成孔ポリリズムをジャズクラブではなくダンスフロアへ移し、ダンスミュージックとしてのポリリズムバンドとしてDCPRGを活動開始させ、一時の活動休止の後、現在も活動している。また、菊地成孔の相方ともいえる坪口昌恭東京ザヴィヌルバッハは、現在、ジャズバンドのクインテットとしてのフォーマットと、打ち込みのポリリズムビートを共存させる試みとして、最も成功しているバンドだと僕は感じる。
アカデミズム的アプローチではない、インディーズ、アンダーグラウンドの領域では、以前も言及した石橋英子のようなしなやかなプログレッシブ性をもつ音楽家もいれば、脱臼しているかのようなリズムを追求したPanic Smile、skillkillsなどのバンドもある。そして、今年5月の日本のインディーズ、アンダーグラウンドバンドのフェスティバル、新宿JAMフェスで複数のバンドを聞いたが、MUSQISなど、ポリリズムを導入するなどのとても優れたバンドをいくつか確認した。
ところで、J-POPのメジャー音楽の今年のトレンドは一部の聞くところによると「4つ打ちダンスロック」であるらしいのだが、 揺らぐとまではいかなくとも、もう少しリズムの多様性を指摘することは可能である。別の機会があれば言及したいと思う。

・付録: タイトルトラックのリズム分析メモ(CDでの再生時間を参照。youtubeの再生時間で確認する場合2秒ひいて下さい)

*1:例:大阪弁の人が標準語を話す人と会話するとき、相手に影響されて、自分の話す言葉が大阪弁東京弁の中間のどっちともつかないイントネーションになる、など

*2:書籍「憂鬱と官能を教えた学校」にこの解説の詳細があったはずですが、過去友人に貸したままで手元で確認できないので、ネットで確認しています

*3:分析方法は、ネットで落とせるソフト「Hayaemon」でループを作って何回か聴く、という方法しかとっていない。再生スピードを遅くして部分的な確認も一部行っているが、このような音楽は再生スピードを遅くするとリズムは反対に分かりづらくなる。もしもどなたかDAWで波形を確認し、分析に間違いがあればご指摘いただきたい

静寂の果てに

2014/11/21 (Fri)  【静寂の果てに Ambient Version】 灰野敬二 ナスノミツル 一楽儀光 @秋葉原Goodman
静寂な暗闇の空間  3人の手元から光の花がほのかに咲いては消えていく  光は身体にやさしくふれる  照らし続ける振動は対象を揺らして粒子に溶かしていく  粒子が拡散する やがて密集し雲となっては消えていく  光が暗闇の雲の間を通り抜けて陰影をつくっては変化していく 雲はしだいに膨張し大きな唸りとなる  地面と身体を轟かせ天井との間でうごめいていく  四方から飛びかう粒子が身体全体に透過する  それは私を包み込みこんで飲み込むのではなく私自身が粒子のなかに溶けこみながらともに移動しているかのようである  一筋の光のメロディが差し込まれる   うごめく雲はいつの間にか消失し静寂をむかえる   そのとき空間は透明となっていた


『静寂』と名付けられた、従来のブルース、ロックンロールをくつがえすようなバンドの、日本のアンダーグラウンド音楽シーンを代表する3人のメンバーは、一楽がドラマーとしてのキャリアをこのバンドで終えたライブから、まもなく2年という月日が経とうとした秋の終わりに、【静寂の果てに Ambient Version】と題して、ラストライブと同じ空間で再会することとなった。一楽がドラムを引退し彼独自のサウンドシステムを手にするようになったことから、ギター、ベース、ドラムによるバンドサウンドを演奏することが難しくなった代わりに、今回は、強力なリズムを音の持続へ、音の叫びと歪みを音の響きの拡散へと転換することとなった。そのサウンドは、過去の『静寂』のサウンドとは一聴異なるものではあるが、灰野のキャリア初期からの活動、ナスノのアンビエントプロジェクトの離場有浮や先月itunesでリリースされた『Bassmanmachine』、一楽が大友良英Sachiko Mらと活動するI.S.Oなど、彼らが他の活動で志向しているサウンドを知っていればなんら不自然な響きではない。しかし、それでも想像していた以上の演奏であった。
ノイズやドローンのようなサウンドのライブでは、機材による音の増幅、拡散だけではなく、PAのスピーカーとそこから発せられる音が会場の空間内で反響することによって、音は複雑に混じりあい、うねりとなる事が多い。それは演奏者にもよるだろうが、ある程度は意図している部分もあれば、演奏者が制御不可能な効果も生じる事もあるだろう。それに、その時ステージで聞こえるサウンドと、客席で聞こえるサウンドが異なる事もあるはずだ。そして、灰野敬二の場合は、共演者や彼の使用楽器や会場を問わず、彼の発する音量はいくら大きくとも、一聴ノイズに聞こえようとも、そのサウンドは階調を豊かに描いて変化し、ステージ前のスピーカーからしか音が鳴らされていないとはにわかには信じられないほどだ。その中でも今回の演奏は今までも聴いたことがないほど、光が乱反射するかのように、音が左右の間の、天井と床の間の、前面から背後の間の、3次元の中を移動していた。それは今回の3人の演奏の化学反応の結果ともいえるが、そのほかにも通常のライブハウスでの演奏とは異なり、今回は会場の後方の左右にスピーカーを配置していることによる効果も大きかったと感じている(約2時間通しの今回の演奏で、私が会場に着いたのは開演から30分ほど経った暗闇だったためこのことには終演後に気が付いた。演奏中はその音のうごめきにただただ驚くばかりであった)。前方のステージから発せられる音を演奏者が届けて後方の客席の人間が聞く、という従来のコンサートの構図を飛び越えるような演奏を灰野は常に行っていると感じるが、今回は後方にスピーカーが置かれることによって、その効果はより直接的に増強され、そのサウンドはより豊かに複雑に絡まりあっていた。また、一楽が彼のサウンドシステムで多彩に奏でる音響は、彼がドラびでお名義で演奏するスカムさとはうって変わって繊細であり、そのサウンドを彼の手がつまみを調整することで直接左右に移動させている事の効果も大きかっただろう。そして、ナスノのサウンドはエフェクターを駆使することでエレクトリックベースという楽器を超越し、空間を轟かせる。彼らがまた再び集まって演奏するのはそう遠くはないだろうと期待している。

MadlibのトラックからNew Chapter系/今ジャズ系のリズムを解説する試み

  • 前置き

最近話題のNew Chapter系/今ジャズ系の音楽ですが、特にロバート・グラスパー周辺のドラマーがヤバいなどとドラム進化論的なことがいわれていたり、インド系のヴィジャイ・アイヤー、アントニオ・ロウレイロなどのブラジルのミナス系、アルメニアのティグラン・ハマシアン(私の中で通称ハマちゃん)のリズムがヤバい、などと言われています。確かに、話題にのぼる最近のジャズ系の音楽を聞くと必ずといってほど、そのリズム構造にはポリリズム変拍子を個別または同時に、そのなかで例えば5連符の多用、そしてこれらのリズムによる揺らぎが指摘できます。

この最近のジャズのリズムについては、何も突然変異で表れたものではなく、世界音楽の歴史、そしてその中のジャズの歴史と連続性があり、それはアフリカのポリリズムと、中東付近の変拍子の個別導入、または両者の融合と指摘できるといえます。そして、そのリズムの構造や演奏の方法論は、菊地成孔大谷能生の音楽講座を書籍化した「憂鬱と官能を教えた学校」や、高橋健太郎著の「ポップミュージックのゆくえ 音楽の未来に蘇るもの」(こちらはアフリカの3×4のポリリズムの説明のみになります)で説明されている内容とその応用で体系的に理解が足りるものだと思います。ただし、実際に音楽を聴いて体感できるかは個人差があり、人によっては時間がかかるかもしれません。私自身については06年に憂鬱と官能〜を読んでから、2年ほどたって、例えばコンテンポラリージャズの複雑なリズム(そしてそのリズムは今ジャズのリズムに引き継がれています)を理解できるようになったと思います。また、私は受講していませんが菊地成孔氏はニコニコ動画のコンテンツでモダンポリリズムの講義を有料配信しているので、本気でこのリズムについて身につけたい方は受講すればよいと思います。

きっと世界中の音楽家レベルでは上記二つの書籍にあるような発展的なリズムを体系的に理解していることで、作曲で実践されているのでしょうが、曲を作ったり楽器を演奏しない人がこのリズムを理解するのは難易度が高いというのが現状でしょう。例えば、私も去年の春のこのブログの初エントリーで今ジャズ系と呼べるブラジル、ミナス地方のアントニオ・ロウレイロのセカンドアルバム「So」の一曲目について「4/16と5/16を組み合わせた怒涛の変拍子、そしてポリリズムも共存している」ということを文章のみで指摘しているのですが、後に、よくわからないという意見をいくつか頂き、初エントリーにしては内容を詰め込み過ぎて前提の知識がないとわかりにくい内容になってしまったのかなあと反省していました。なので何かの機会にきちんと説明した方がいいのかなあと思いながら、放置していました。ごめんなさい。ですが、1週間ほど前にたまたま、トラックメーカーMadlibの2004年の曲を聴いていたら、一小節内に今ジャズ的なリズムトリックであふれていることを確認し、これはちょうどいいと思って、今回簡単に説明してみます。基本的な内容は上記の菊地・大谷著と高橋健太郎著の本から学び、その体感的な理解は自分のリスニング・演奏体験から得たものになります。以下の内容はそれらの本の内容を簡略化して説明したのと、今ジャズのリズムに対応する発展ヴァージョンの私なりの解説となります*1

ではいってみましょう。
Monk Hughes and The Outer Realm - A Piece For Brother Weldon  (Madlib別名義)

さて、いかがでしょうか。ヤバいですよね。実際にこのアルバムの中の5曲がyoutubeにあるんですけど(14/09/30現在)、この曲だけ再生回数が飛びぬけてるんですが、それはこのトラックのリズムのヤバさゆえなんでしょう。実際、様々なドラムパターンのサンプリングが貼られているかのように聞こえ、リズムがかなり錯綜していてヤバイです。で、ヤバいヤバいばっかりいってるだけでは何もわかりませんが、リズム構造を分析すると特筆事項が以下5点に分類できます。

A:トラックの開始が小節の頭ではない事による、1拍目がつかみにくいというトリック
B:1小節の二通り(3,4)の分割。1小節内の4拍子と3拍子の共存。3 X 4の均等なクロスリズム。アフリカ的。
C:(4拍子中の)1拍の二通り(3,4)の分割。12ビートと16ビートの共存。ポリがけ。アフリカ的。(クリス・デイブなど現代ドラマー的)
D:変拍子のベースライン。東ヨーロッパ〜中東的(このトラックでは拡大解釈として捉える)
E:変拍子を用いた不均等なクロスリズム(これは私の造語)。(アントニオ・ロウレイロ、ヴィジャイ・アイヤー、ティグラン・ハマシアンなど今ジャズ的)

参考のために、模式図も用いてみます(手書きで汚くてすみません…)。


  • A:トラックの開始が小節の頭ではない事による、1拍目がつかみにくいというトリック(図5のラスト5パルス分からトラック開始)

Aは、今回説明したいポリリズム変拍子とは直接関係ありません(広義の意味で変拍子と捉えることも可能かもしれませんが)。これは、このトラック特有の特殊事例なのですが、トラックが本来の小節の頭で開始されないことにより、拍の頭が錯覚され、リズムが不安定に聞こえる→ビートが繰り返されるうちに拍の頭が認識できて安定となる、という巧妙なトリックがしかけられており、詳しくは脚注に説明をまわします。*2

B、Cはどちらもアフロポリリズム的と解釈でき、2つのリズムの共存といえ、実際にアフリカ音楽内に存在する構造です。その共存の段階は2つの階層に分けられるため、B、Cとわけています。

・B:クロスリズム(図3ab)
まずBについてですが、この曲をきいて多くの人は、1小節内に6拍のビートが鳴っていると感じられていると思います(図1。このテキストの理解はこの1小節中の6拍が分かることが前提とします。でも、5拍とか感じられたら天才なのでそのままその道を突き進んで下さい!)
で、6拍でとれるのは正しいのですが、6よりも細かいリズムが鳴らされていると感じられないでしょうか・・・。はい、実際には6拍を倍にした12パルス分の1パルスが、1小節内の最小単位とみなせます(図2)。
ここで、小学生でも分かるように12という数字は3と4で余りなく均等に割ることが可能です。よって1小節内にパルスが12個存在する場合は、そのリズムを3拍子と4拍子の両方でとらえることが出来ます(図3ab)。
3拍子でとらえる場合、12は4+4+4の3つに分割され、4パルスx3拍=12
4拍子でとらえる場合、12は3+3+3+3の4つに分割され、3パルスx4拍=12
きっと多くの人はこの曲を三拍子で捉えるのではないかと予想しますが、それは、ベースラインのフレーズが1拍を4パルス分としてそれが3拍並んでいると捉えやすいからです。ですが、別の取り方として1拍を3パルス分に捉えて1小節内に4拍分捉えることも可能で、かつ、このトラックのある部分ではこちらの4拍子で捉えたパターンの中でさらにリズムを錯綜させているのです(Cで説明)。
まとめるとBは1小節を2パターン(3と4)に分割出来、その2つの数の最小公倍数(3x4=12)の1パルス分が1小節内の最小単位となって、3拍子と4拍子がクロスして共存しているパターンになります。用語としてはクロスリズムと呼ばれているものです。また、こちらは用語として存在しませんが、ファンクなどの4パルスx4拍のリズムを16ビートと呼ぶのに対応すれば12ビートと呼べるリズムでもあります。

・C:ポリがけ(図4)
次にCのもう一段階細かい階層のポリリズムの説明に移動します。
Bは1小節を2通りに分割する方法でしたが、Cはさらに細かく、1拍を2通りに分割する方法です。このトラックを聞きすすめると、例えば1:32や4:31からのように随所に高速のドラムフレーズがさしこまれ、リズムが錯綜しているのが分かります。この瞬間にヤバさを感じる人は多いのではないでしょうか。そして、それはまるでクリス・デイブのドラムのようだと感じる人がいることかと思います。それでは具体的にどうなっているかというと、先ほどのクロスリズムでは1小節を4拍と捉えた場合(図3b)、1拍を3パルス分でとらえていましたが、この方法では、この4拍子中の1拍をさらに細かく4パルスに分割しているのです。よって1小節内には、4パルスx4拍=16パルスが鳴らされていることになり、3x4のクロスリズムによる12ビートと共存している状態になります(図4)。

次にDについてです。これについては、見落とされがちで少し分かりにくいかもしれませんし、実際には図3aで4パルスx3拍子と捉えたときの3拍目が1パルス分シンコペーション(1パルス分食い込んで早く鳴らされている)と捉えるのが通常だと思います。しかし、この曲のベースラインを4+3+5(=12)と不規則に積んでいく変拍子とみなし、アフロミュージックに中東的リズムが孕んでいるのだと敢えて拡大解釈気味に捉えてみます。実際に模式図でみると図5のようになります。

  • E:変拍子を用いた不均等なクロスリズム

そして、この4+3+5(=12)の変拍子が、Bの3x4=12のクロスリズムと同時に共存しているとき、これを変拍子を用いた不均等なクロスリズムと呼ぶことが可能かと私は考えます。
この不均等なクロスリズムは実際に今ジャズでも頻繁に見られます。例えば、素晴らしいウィスパーボイスとリズム感の持ち主のジャズシンガー、グレッチェン・パーラトのロバート・グラスパーによるアレンジのweakという曲です。

この曲は4パルス×3拍を1小節としたきに、その4小節分がコード進行のひと塊りとなっているのですが、前半2小節分の4パルスx3拍x2小節=24パルス分を5+4+4+4+7(=24)と不均等に5つにメロディとともにリズムとコード進行が分割されています。
ここにきてようやくこのブログの一番初めのエントリー、アントニオ・ロウレイロの「4/16と5/16を組み合わせた怒涛の変拍子、そしてポリリズムも共存している」ことの説明が可能になってきました。

彼のセカンドアルバムSoの1曲目のテーマの開始部分は、16分音符を1パルスとしたとき、4+5+4+4+4+5+4+4…(省略)と区切ることが可能です。ここでは通常のポップミュージックの4拍子や3拍子のフォーマット内に収めているという形は見られず、不均等にリズムを積んでフレーズを形成しているとみなせます。そして、このリズム構造自体は中東やインドの音楽の歴史でみられるものです。ですが、このロウレイロの曲で特徴的なのは、全ての楽器がこの区切りの頭でそろったアクセントをつけるのではなく、メロディやパーカッションのフレーズがその区切りに対してシンコペーションしたり間をあけることによって、リズムを錯綜させている所にあります。
この方法を一般化するなら均等なパルスが流れている中で、アクセントの位置を不均等にとりながら拍を区切ってリズムを積んでいくことによってフレーズが形成され、更にそのフレーズの中で、それとは異なる区切り方を行い、リズムを錯綜させる方法といえるのかもしれません。これは、均一のパルスが流れる中で変拍子を含む複数の拍子が共存した不均等なクロスリズムといえると私は考えます。
この手法はアルメニアのティグラン・ハマシアンにもみられ、彼は5という単位を多用して積んでいくことが多いように感じます。そして、更に積むだけではなく1拍を5で割ろうとすることでリズムに揺らぎをもたせようともしています。今回はここまでにしますが、5連符の多用も最近のジャズのトレンドとなっており頻繁に指摘することができます。

●最後に
実際に演奏を行わない人にとっては、音楽の理論的理解というのはハードルとなると思います。特に和声理論の理解は音程を識別できるための音感が必要となり、それには教育を受け、更に実践とその両方が必要です。しかし、リズムについては、音楽が流れる時間の中でリズムを捉え、数えることが出来れば理解できるのではないでしょうか。これらのリズムを頭で理解するには、足し算、引き算、掛け算、割り算が分かれば小学生でもわかるレベルでしょう。しかし、このリズムの理解を体感レベルに落とし込むには、音楽を聴いてそれに合わせて身体を動かしたり、実際に演奏することは避けることが出来ないと思います。この時、今回ここで説明したようにまずは体系的に頭で理解することが、リズム感獲得の手助けになると思います。
また、これは私の経験上の注意ですが、体感での理解まで至らない段階でリズムを数えることに捉われてしまうと、その事に夢中になりすぎて、音楽そのものの響きを聞くことがおろそかになってしまうことがあります。リズムは音楽の一要素ですが、リズムだけが音楽ではないという事は常に気を付けておきたいものです。一度、リズムを捉えて自然と身体が反応できるようになれば、響きを聴く余裕も生まれてきます。
リズムが分かることで、その音楽の謎が解消され、魅力を感じられなくなったとしたら、その人はその音楽のリズムの謎を中心に魅力を感じていた、という事なのかもしれません。リズムが分かってしまったことで、そのリズムに飽き足らなくなり、新たなリズムを追い求めることがあるとすれば、それはその人の音楽的成長のあらわれといえるでしょう。そしてその音楽が本当に魅力あるものだったら、リズムが分かったところで、その魅力は失われるものではないと私は思います。
耳を澄まして細部のリズムが聞き取れることは、演奏家の呼吸をつかむことでもあるといえます。そして、それによって音楽家の方法論や意図が分かり、その音楽の影響関係や、音楽の歴史の時間軸でのつながりが立ち現われてくることもあると思います。また、時間軸上での揺らぎがたい音の物理現象としてリズムが捉えられるようになることで、みえる世界が広がることは必ずあると思います。
音楽の神は細部に宿る、とでもいえるのかもしれません。

*1:ちなみに、なぜか会員でなくても読めるモダンポリリズム講座のサブテキストも参考にしています。 http://sp.ch.nicovideo.jp/bureaukikuchi/blomaga/ar528401

*2:通常、曲の拍の頭は、曲が開始した瞬間だという先入観があると思います。しかし、この曲ではフェードインで開始してから、ビートになんともいえない不安定さがあると感じなかったでしょうか。それは、この曲の1小節内の12の基礎パルスの中の後半の5パルス(図5の後半5パルス分を指す。実際の音はレラレではなくドソドですが)から曲が開始されることによって、本来の小節の頭に対して、錯覚を起こさせているからです。このようなトリックはマイルス・デイヴィスのアルバム、「On the Corner」の一曲目にプロデューサーのテオ・マセロがしかけています。https://www.youtube.com/watch?v=Ps0ka1tY5yg その説明については菊地成孔大谷能生東京大学の講義を書籍化した著書「M/D」にあります。また、最近ではブライアン・イーノプロデュースのシェウン・クティのアルバムの曲にも、トラックの開始の拍が裏拍に転換される、というトリックが用いられています。https://www.youtube.com/watch?v=z43Q5OtRUQM

カフカ鼾 新宿Pit-Inn 2Days

14年9月14日(日) カフカ鼾: ジム・オルーク(Bass+Effects)、石橋英子(Grand Piano、Keybord+Effects )、山本達久(Drums+Effects) + 勝井祐二(Violin+Effects)
14年9月15日(月) カフカ鼾: ジム・オルーク(Bass+Effects)、石橋英子(Grand Piano、Keybord+Effects )、山本達久(Drums+Effects) + 山本精一(Guitar+Effects)

欧米のポストロック、実験音楽シーンで活躍したジム・オルークが、世界を飛び回ることをやめて東京に住み始めたのが2006年。そして、この東京でジム・オルークが主体となって継続的に活動させているバンドは数少ないと思うが、カフカ鼾は珍しくジム・オルークが継続的に13年初頭から数か月に一度のライブを行っているバンドだ。方法論とそれによって生み出されるサウンドを簡潔に説明してしまうならば、即興で生の楽器とエフェクターを用いながら、ミニマルに音を反復させたり、ロングトーンで持続させたり、拡散させたり、変調させながら、微細音から轟音の間の響きのダイナミズムを時間をかけてゆっくりと変化を描いてアンサンブルを形成していくバンドといえる。それはジム・オルークの過去のポストロックや実験音楽の活動でのドローンやアンビエントの作品とも連続性があり、現在音源として入手可能なのはBand Campよりリリースされた初期録音と去年の六本木Super Deluxのライブ演奏を録音したCDの2作品。即興演奏によるそのサウンドはライブごとに全く異なるため、毎回のライブを聞き逃すことのできないバンドだ。
ここで、まずは各メンバーの演奏についてそれぞれ説明していきたい。
ジム・オルークはライブではシンセサイザー(Synthi A)と多数のエフェクターを使用することが多く、バンド全体の響きを聴き調整しながらリアルタイムで電子音のサウンドプロダクションを行う。
石橋英子は鍵盤によるミニマルな反復やエフェクターによるロングトーンの形成、変調を行いつつ、その演奏をループさせることで更にミニマルなサウンドにしていったりする。シンガーソングライターとしての作品作りやピアノでの弾き語りの活動も行う彼女だが、彼女の最近のカフカ鼾周りでの即興のピアノはミニマルな演奏が多い。このミニマルな面は彼女の過去の作品(Works for everythingやイタリアの即興演奏家との共演アルバム「Maboroshi」など)からすでに聞くことができるが、(彼女がドラマーでもあることとももしかしたら何か関わりがあるのかもしれない)、彼女の音楽性が自然とジム・オルークとの出会いを引き起こしてから、彼女のなかでミニマルな演奏の追求がより高まったようにも感じる。
山本達久は、他の二人が静かなアンビエントやドローンを形成して演奏が開始される中で、小物(ホースやたわしや金具の様なもの)で音を出したり、それらを用いてヘッドを擦ったりするなど、多様な方法でドラムセットから様々な音の響きを即興で発生させる。この演奏方法自体は以前から行っていたことだが、更に最近は、カフカ鼾が活動開始して去年から始めたコンタクトマイクとディレイとリングモジュレーターとルーパーによるドローンのようなサウンドをリアルタイムに演奏するようになり、表現の幅がより一層広がっている。
そして、静寂から音楽がはじまり、ゆっくりと音が立ち上がって行き時間が経過する中で、山本達久はドラムでリズムを叩きはじめる。その時の響きや時間が推移していくに従う演奏の高揚に応じてブラシやスティックなどに持ち替えて、しなやかで軽やかなビートから激しいビートまで多様に叩きわける。他の二人がミニマルだったりアンビエントな音響を発生させる中で、その中から呼吸をつかみだし、リズムを立ち上げて、徐々にビートを強調していき、それに応じて石橋英子が紡ぐピアノのリズムが徐々にドラムのリズムとあわさりあったり、またはずれながら共存したりする。リズムの同期と非同期の間を揺れ動く中で、そのドラムのビートは、リズム/バンドの土台になっている以上に、全体の音響の一部に溶け込んでしまうかのように響く時があり、これは様々な音響的な音楽があるなかでも稀有な瞬間だと僕は感じている。
カフカ鼾はメンバー三人がディレイやループを多用するが、これらをバンド内で用いるのは今や特にめずらしいことではない。たとえば、ギタートリオとしてのフォーマットでのバンド的なアンサンブルを完全即興で形成していくキャリアの長いバンドとして、ECMビル・フリゼールから影響を受けている内橋和久のアルタードステイツを挙げてみる。そこでは内橋和久は必ずループを用いるが、それは、自分を増殖させたり、自分で共演者を作り出すことによって、一人でアンサンブルを拡張して形成しているという一面がある*1。しかしカフカ鼾の様な、ゆっくりと響きを変化させるバンドにおけるディレイ、ループの用い方は、それとは少し異なる態度である。ディレイやループによって自分の演奏が時間を隔ててスピーカーから鳴ることによって、自分の音を自分からひき離して、音楽全体の一部にする。そして、自分の過去の響きとリアルタイムで鳴らされる他の奏者の音の響きに耳を開きつつ対話しながらアンサンブルを組み立てていく。そこでとられている態度は、演奏家としての個を増強したりぶつけるのではなく、共演者や過去の自分と対話しながら、新しい響きや波を見つけていくもののように感じる。
さて、ライブの話に徐々にうつりたいと思う。今回の新宿Pit-Innのようにカフカ鼾がゲストを招き入れるのは初めての事ではなく、過去、カフカ鼾はチューバ奏者の高岡大祐、ノルウェーのトランペット奏者Eivind Lonning(ex. Christian Wallumrød Ensemble )と共演している。昨今の即興音楽シーンでは、音響発生装置のように捉えて、電子音、ノイズ、ドローンのように管楽器を演奏する音楽家が多い傾向がある*2のだが、この二人の金管楽器奏者ももれなくその中に入り、エフェクターを通さず、マウスピースや楽器本体を通常の奏法で使用せずに、響きを紡いでいく音楽家だ。
どちらとの共演も私自身ライブで聴き、双方ともとても良いライブだったと記憶している。特にEivind Lonningの、まるでトランペットから音が鳴っていないようかのような響きは、カフカ鼾のサウンド、特にジム・オルークのシンセサウンドにそのまま溶け込んでしまったかのようだった。溶け込みすぎることで、彼のサウンドがどこに響いているのか把握しずらく、彼単独のトランペット奏法の凄さが分かりにくかったが、それは個の主張をあまり行わない最近の即興演奏家の態度ゆえの結果だといえる。*3
このような即興演奏での「個」の主張や感情、存在を無にしようとする試み*4は、例えば大友良英Ground Zero後のFilament、ISOなどでの活動でも行われていたが、大友良英Sachiko Mほどの極端なまでのミニマミズムの追求ではない方法で、このアティチュードを引き継いだり、影響を受けたり、または影響は関係なしに、新たな即興のアンサンブルを目指そうとしている演奏家は最近とても多いのではないか。
大きな決まりがない上で各個人が音を紡いで演奏を形作る即興演奏は、その演奏者の「個性」が演奏の流れや全体のサウンドを作るため、メンバーが一人増減されるだけで、その演奏内容が様変わりする。このため、ただのセッションではない、あるコンセプトをもった即興のバンドではたやすく他の演奏者を入れることは難しい。カフカ鼾のようなミニマム/ミニマルに即興演奏を行うバンドで、高岡大祐やEivind Lonningというゲストと共演したのは、彼らがこのような「ミニマムな個」として音を発することができる音楽家だからこそだといえるのかもしれない。
そんな中で、今回の新宿Pit-Innでの2daysで、一日目に勝井祐二、二日目に山本精一という、ROVOのメンバーでもある若干上の世代の音楽家を招きいれる事となった。二人ともエフェクターを操った多才な音の響きの演奏を行う素晴らしい音楽家だが、高岡大祐やEivind Lonningの共演者の周辺の即興シーンとは少し離れた位置におり、演奏のアプローチも異なるため、カフカ鼾の演奏にどのような変化をもたらすのか大変期待して観に行った。
一日目の勝井祐二との共演は、彼のヴァイオリンとエフェクターによるアンビエントな演奏がカフカ鼾の演奏とマッチしており、また、演奏の後半ではかつてのカフカ鼾にないほどに奏者全員の熱量があがった、かなりハードなシーンもあって、彼らの化学反応をとても楽しめることができた。
二日目の山本精一との共演については、予想以上に素晴らしかったのでもう少し詳述していく。
ゲストが加わって高い音域で音が混雑しカオスにならない事を考慮してなのか、ジム・オルークがベースの役割に回り、いつものシンセサイザーによるサウンドプロダクションが減ることで*5、静寂な音空間が増え、そこに石橋英子グランドピアノのミニマルな響きが浮かび上がる。その上で山本精一は、単音で調性( ドレミファのメジャースケール)にのったシンプルなフレーズを反復させ、山本達久が軽やかな8ビートを叩きはじめる。そして、ジム・オルークはビートに乗せてベースのフレーズをシンプルに反復させる。各々が発する音のリズムが同期と非同期の間を揺れ動いていく。それはまるで、山本精一が2002年のアルバム「Crown of Fuzzy Groove」で目指したミニマルな音世界と、カフカ鼾の音風景が見事に合わさっていたかのようだった。
より具体的には、リズム面でとらえると、山本精一がこのアルバムで打ち込みによって追求したシャボン玉のようなFuzzy Groove=曖昧なグルーヴ*6が、カフカ鼾との生演奏で実現できてしまったかのようだった。個人的には即興演奏でこれほどまでに調和された世界を提示されたことは今までほとんど経験していないと感じている。しかし、その調和された世界に永遠に安住せず、ふとしたきっかけで演奏は次第に激しくカオスに拡散されていって1stセットの演奏は終了した。
2ndセットの前半も1stセットの流れをくむ演奏だった。このセットは20分ほどで一旦演奏が終わり、2回目のセッションもあったのだが、この演奏とアンコールについては、それまでのミニマルでアンビエントな演奏とは少し異なり、より即興的で、フレーズのかたまりのあるセッションとなっており、カフカ鼾の演奏の別の可能性が垣間見れた。
旅に向かい移動する中、いつの間にか周りの風景が変化していく。そして、帰ってきたときには元の自分ではない。カフカ鼾の演奏は、変化や他者を受け入れながら、自分の道を進むことの大切さを伝えているように僕には響いている。

*1:これはあくまでも一面であり、機械のつまみを弄ることによってループさせている素材を偶発的なサウンドに変化させ、その予想不可能なサウンドと共演するという面もある

*2:エフェクターを用いる音楽家もいるが、完全に生音で特殊奏法やミュートを駆使している音楽家も多い。会場や演奏内容の条件や奏者の意図としてマイクを通してスピーカーから出すかださないかの違いはある

*3:脱線しつつ関連のある話題をするが、この夏初めてワールドハピネスに行った。そこで特徴的に感じたのが金管楽器の起用の多さだった。権藤知彦(トランペット or ユンフォニウム)は高橋幸宏 with In Phase、くるり、No Lie-Sense(鈴木慶一&ケラリーノ・サンドロヴィッチ)、高橋幸宏 & METAFIVEに、ファンファン(トランペット)はくるりに参加。奏者の資質にも関係はあるだろうが、ナチュラルな金管楽器の音色は電子機器の響きやアコースティックのアンサンブルに溶け込ませやすく、好まれて使用される傾向がある。反対に木管楽器のサックスがこのような用途で用いられないのは、ざらついたジャズ的な音色の特色やソロ楽器としての存在感がポップミュージックにおけるサックスでは出てしまいがちになるからではないか。

*4:逆説的にその態度は、音を聴きながらミニマムな発音を行うという個の意志の表れでもある

*5:もちろんベースでもエフェクトを駆使して素晴らしいサウンドプロダクションを行うシーンもあった

*6:山本精一曰く、「あれはリズムマシーンの反則使い的なもので、どんどんパターンを1小節に2回ずつつくらい変えていってるんですよ。いや、そんなもんじゃないですね。1小節に8回くらいかえてますね。それがひとつのグルーヴになって錯綜して〜」参照 原雅明著 音楽から解き放たれるために

Old Jazz→Bjork→Jazz The New Chapter(もしくは今ジャズ)

さて、アイスランドの歌姫Bjorkほどあらゆる響きが混淆したジャンルレスなポップミュージックを表現する音楽家は他にいないと思いますが、今回はそのあらゆる要素の中からジャズ的な要素を抽出し、昔のジャズから最近の(ニューチャプター系や今ジャズと呼ばれつつありそうな)ジャズとどのような関連性があるのかみていきたいと思います。まずは、昔のジャズとの関わりから。

ソロデビューする前の1990年に、Bjork母国アイスランドのピアノトリオとともにオーソドックスなジャズアルバムをリリースしています。これを意外に思う人もいるかもしれませんが、デビューアルバム「Debut」ではジャズスタンダードナンバーLike Someone In Love*1をハープの伴奏のみでカバーしていることや、2ndアルバム「Post」では、ミュージカルナンバーIt's Oh So Quiet*2を演奏していることから、彼女がジャズスタンダードの原曲となるブロードウェイミュージカルナンバーを含む昔のジャズが好きだというのは間違いないと言えるでしょう*3。また、地元のジャズピアノトリオとの作品の実現は、アイスランドという人口の少ない*4ヨーロッパの辺境の北国では、音楽シーンが小さい分、ジャンルを超えた交流がしやすい環境があったからこそだからなのではと僕は想像してしまいます。
ここまでは、90年代までの話になります。
Bjorkは00年代に入り、同時代に発達するDAW*5環境での更なる新たな表現の追求を行います。2001年の5thアルバム、「Vespertine」では、室内楽のストリングスとハープ(Zeena Parkins)*6、オルゴールといったアコースティックな静謐な響きの中に、DAWを駆使して様々な微細な自然のノイズとエレクトロニクスのビートを美しく溶け込ませています。そして、2004年の6thアルバム、「Medulla」では、人間の声のみを用いて楽曲を作成しており、これもDAWでの録音、編集技術がなければ、完成が実現しなかった作品です。
特に、エレクトロニクスのリズムの打ち込みという観点で彼女の活動を振り返ると、デビュー後まもなくの1995年位まではソフトウェアの未発達もあるせいか、ライブは通常のロックバンドのドラム、ベース、ギターという形態で行っています。しかし、2ndアルバムリリース後の1996年以降からは、ステージ上でも打ち込みのビートを多用するようになります*7。これは、発達するエレクトロニクスから生じるビートにBjorkが無限の可能性を感じたからなのでしょう。
しかし、07年の7thアルバム「Volta」以降は、それまでのエレクトロニクスの駆使から方向転換しています。この方向転換は彼女がインタビューで「Volta」の製作背景について発言しているので、以下引用します。

「今回はフィジカルでアップビートな音楽を作りたい気分だったわ。シリアスな内容のアルバムが続いたし、自宅で作業することも多かったし、ここにきてまた冒険を楽しみたくなったのよ。娘も3〜4歳になって以前ほど手がかからなくなったから、身軽になれたんだと思うわ」
「いろいろと試しているうちに悟ったのよ。今回は小賢しくて気取ったビートは似合わない、必要なのはすごくベーシックで衝動的な音なんだって。だから生のドラマーも起用したし、楽器にしても同じことで、『Vespertine』の時みたいな透明感のある弦楽器より、もっと弾力のある音が欲しくて、中国の琵琶や西アフリカのコラを使ったの」

http://tower.jp/article/feature/2007/05/24/100035603/100035609

ミュージカル映画Dancer in The Dark」のために制作した「Selma Songs」、そののちの「Vespertine」と「Medalla」と、シリアスで内省的な作品な続いた後、再びポップな方向性でアップビートなダンスミュージックを作成する際に彼女が欲したのは、「ベーシックで衝動的な音」を産み出すことが可能な、人間が身体で叩くドラムのリズムでした。そして、実際にドラマーとして作品に参加したのは アメリカのアヴァンギャルドな音楽シーンで活躍しているBrian Chippendale と Chris Corsanoの二人です。今回はジャズとの関連性をみていくということでChris Corsanoに着目してみたいと思います。
Chris Corsanoに関しては僕自身、日本のフリージャズサックス奏者、坂田明とJim O'Rourkeの新宿Pit-Innでのライブ録音のアルバム*8に参加していることでフリージャズ系のドラマーと認識していたので、Bjorkの作品に参加しているという事を知った時には個人的な驚きがありました。しかし、人脈をよく調べてみると、そもそもBjorkと近接したポストロックやオルタナティヴロックの音楽シーンの重要人物Jim O'Rourkeや、Thurston MooreWilcoのNels Clineとの交流*9のあるChris CorsanoがBjorkの作品に参加するのはごく自然なことであるともいえます。
また、実際にChris CorsanoとのレコーディングについてBjorkがインタビューで話しています。それによると、彼にはじめて曲を聞かせたのはスタジオに呼んだときで、それに合わせて一曲ずつ即興で叩いて貰った結果、一日で録音が終わってしまい、今まで打ち込みでありとあらゆる試行錯誤して迷走していた状態が解決したそうです*10。そして、Chris CorsanoはVoltaicライブツアーのドラマーとしとして選出されました。
こうして、人間が叩くドラムの即興的な演奏の躍動的なリズムは、アルバム「Volta」完成の最後の一ピースとなったのでした。このようにBjorkがフリージャズ系のドラマーを起用した事は、音楽性や表現の方向性は異なるものの、前回のエントリーで指摘したTayler McferrinがジャズドラマーMarcus Gilmoreを起用している事と重なっています。これは、打ち込みのビートがかき鳴らされる中で、人間の感覚と身体によって即興的な判断を行いリアルタイムにグルーヴを調整しながら音楽を紡いでいく演奏能力を、自由で柔軟な表現にこなれたジャズドラマーがポテンシャルとして兼ね備えているが故の、シンクロした事象と考えられると思います。
また、機械と人間のリズムの関係を遡ってみると、エレクトロニクスによる打ち込みは人間によるドラム表現を発達させてきました。具体的には、80年代にMIDIやリズムマシーンが登場し、機械によって均質なビート生成が可能になった事が、人間が叩くドラムのリズムに影響を与えています。たとえばNYのスタジオミュージシャンを代表するSteve Gaddのビートは「機械のようなリズム」と形容されていたりします。しかし、エレクトロニクスの発達によって様々なビートが生み出された後の現在では、機械、人力を問わず、均質ではない身体的な揺らぎをもつビートのポップミュージックが増えてきつつあるように思います。その中で、今回指摘したBjorkやNew Chapter系/今ジャズ系などを含む昨今の様々な世界のポップミュージックにおいて、打ち込みのリズムと人力のリズムの共存のあり方が探究されているのは、機械によって身体感覚の拡張をさせ、それによって今まで体感できなかった一種の「生」の感覚を新たに得ようとするためだといえるのではないでしょうか。当然ですが、それは、人間の機械化のためではないのです。

Voltaic Live in Paris (Drums: Chris Corsano)

そして、ドラマーの起用は、最新作となる8thアルバム「Biophilia」でも継続されます。それはオーストリア出身のハン(スティールパンの改良楽器)、パーカッション、ドラム奏者のManu Delagoです。実際に僕が彼を認識したのは、去年のフジロックフェスティバルBjorkを観に行った時で、ステージ上でManu DelagoがBjorkの楽曲の複雑なビートを人力ドラムンベースのように叩く姿に大変興奮したのでした。以下の動画のラストの方を観れば彼の演奏がある程度分かると思います。基礎ビート(8ビートの一拍分)を3連符でとるパターンと4連符でとるパターンを行き来して、ビートに揺らぎを持たせ緩急をつけながら、高速でフレーズをたたみかけていく方法は、まさにChris DaveやMark Colenburgを代表とするNew Chapter系/今ジャズ系と呼ばれるドラマーの演奏方法の基本であるといえます。
Crystalline (Drums: Manu Delago)

さて、フジロックから帰ってManu Delagoについて調べると、彼は子供のころからロックバンドで活躍し、大学ではクラシックや、ジャズを学んだそうで、今の活動はポップミュージックやワールドミュージック、さらにロンドンシンフォニーオーケストラとの共作など多岐にわたる活動を行っていることが分かりました。そして、2013年の彼のアルバム「Bigger Than Home」を聴くと、まさにNew Chapter系/今ジャズと呼べる音楽となっており、個人的にも13年のベストディスクとなるくらい愛聴しています。硬質なハンの響きの重なりを中心に、鍵盤、ウッドベース、ドラムのジャズ的なサウンド、室内楽ストリングス、そしてそれらのアコースティックな響きの中に自然とエレクトロニクスのビートや歪むシンセ、浮遊するギター溶け込ませており、BjorkRadioheadなどのオルタナティブロックが好きな人はもちろん、最近のジャズのようなジャンルレスな音楽を楽しむ人にお勧めしたくなる音楽です。

Manu Delago 「Bigger Than Home EPK」


A Long Way feat Andreya Triana *11


Manu Delago ライブ動画 2014

番外編: Manu Delagoの人脈をたどってみると、ヨーロッパでも正規な音楽教育を受けた多くの音楽家がポップスやジャズ、クラシックの垣根を越えた音楽の表現をしている事がわかります。これらもNew Chapter系/今ジャズと呼べるのではないでしょうか。
1: 「Bigger Than Home」でギターで参加しているStuart Mccallumはイギリスで活動をしており、この動画ではジャズと室内楽の融合を目指していることが分かります。スタイルは最近の若手ギタリストと同じように、Kurt Rosenwinkelの影響をもろに受けていることが分かりますね。
https://www.youtube.com/watch?v=e8Lt3niWgjo

2: Manu Delago自身のバンドでドラムを担当しているChris Norzは、Manu Delagoと同じオーストリア人で地元でHI5という「Minimal Jazz Chamber Music(公式サイトより引用)」のバンドを組んでいます。
実際に聞いてみると、このポリリズミックなミニマルさはTortoisや、日本のToe、Sardineといったポストロック系の音楽とも近いものを感じます。それにしてもこの動画のように3X4のポリリズムは、世界中の音楽家の共通言語になりつつあるように思います。
https://www.youtube.com/watch?v=gnNaRkZkT9c

*1:Like Someone In Love https://www.youtube.com/watch?v=lGWBx51eda8

*2:It's Oh So Quiet https://www.youtube.com/watch?v=TEC4nZ-yga8

*3:Spike Jonesを監督に起用したPVがミュージカル風なのも、この曲自体1951年のブロードウェイミュージカルナンバーが原曲だからです。比較するとBjorkバージョンは原曲をほぼ原曲に忠実にアレンジしていることが分かりますし、彼女のミュージカルに対する愛情や敬意を強く感じます。原曲 It's oh so quiet - Betty Hutton (1951) https://www.youtube.com/watch?v=WrDZpTHlkLk 余談で付け加えるとこの原曲には更なるドイツの原曲があります。Harry (Horst) Winter - Und jetzt ist es still (1948) https://www.youtube.com/watch?v=6zmhvJpTELc また、ミュージカルといえば、あの救いようのない映画「Dancer In The Dark」に出演しているのはあまりにも有名ですね

*4:2012年で32万人。日本の都道府県人口最下位の鳥取県よりも少ないです

*5:Digital Audio Workstation。簡単にいえばPCでの音楽制作

*6:「Vespertine」に参加のハープ奏者、Zeena Parkinsはフリーインプロヴィゼーションシーンで活躍していたりします。後述するChris Corsanoときわめて近いシーンにおり、Bjorkアヴァンギャルドな音楽シーンとのかかわりがここでもみられます。

*7:この時期のステージについて調べ切った訳ではありませんが、ギターやベースはいなくなり、打ち込みが多用されるようになっています。1997年にドラマーがいるステージを確認していますが、打ち込みが主流になっているという点は見逃せない点だと思います

*8:このアルバムではないですが坂田明との共演の映像です。 https://www.youtube.com/watch?v=m5TQkQlvlD4

*9:Nels Clineをはじめとするシカゴ音響派とジャズの関係については最近刊行されたJazz The New Chapter 2に詳しいのでぜひ参照ください

*10:参考:http://pitchfork.com/features/interviews/6592-bjork/

*11:Andreya TrianaはFlying Lotusと共演しています、https://www.youtube.com/watch?v=XKQVcJ_Zi9M

5/23 Brainfeeder ライブレビュー (テイラー・マクファーリン サンダーキャット フライング・ロータス)

現行音楽シーンの最重要ビートメーカーであるフライング・ロータス主宰のBrainfeederのレーベルパーティーのために新木場Agehaへ。数々の出演者の中、今回の目玉といえるテイラー・マクファーリン、サンダーキャット、フライング・ロータスについてライブレビューを。
(注意:以下、プレイ内容を記述していきますが、テイラーとフライロではワタクシ、ブチ上がっていました。そのため、記憶があいまいな事が多々あるため、勘違いの可能性あり。ちなみに念のためキメたのはレッドブル二本のみでございます(最近お酒飲むと体調悪くなりやすい…))

テイラー・マクファーリンは世界的に有名なシンガーソングライター、ボイスパフォーマーのボビー・マクファーリンの息子であり、マーカス・ギルモアは、90歳近い現在でも現役で、ビバップ時代にチャーリー・パーカーと共演をしているジャズドラマー、ロイ・ヘインズの孫である。二人とも一流ミュージシャンのサラブレッド。この彼らの血筋と、ステージ上に鍵盤とドラムがセッティングされた光景から、ソロなどが含まれるジャズ的な演奏が行われるのではないかと少し予想していたのだが、先に演奏全体を振り返っておくと、生楽器は打ち込まれるビートの中の一トラック、一パーツとして使用されるという方法を取っており、分かりやすい姿でジャズ的な要素は現れていなかった。テイラーは鍵盤を弾くものの、ジャズの語法を用いたソロ演奏は行わず、コード進行の形成、または、ビートメイキングの一環として鍵盤を叩く事に徹しており、マーカスのドラミングも、打ち込みのビートの中の一素材として演奏しているように捉えることができる。アルバムの中のメロディ色の強い曲は演奏されず、ビートのグルーヴを調整しながらシームレスに曲間をつなげていくことで、フロアを持続して湧き上がらせる事に徹したダンスミュージックだった。
それでは、演奏開始から振り返ってみる。
テイラーが森林の鳥のさえずりのようなサンプルを流す中、アルバム「Early Riser」の一曲目をローズピアノとドラムのみで演奏する事から始まる。アルバムのこの一曲目はボーカルが入っており、鍵盤を弾くテイラーの口元にはマイクがあったので、彼の歌やボイスパフォーマンスが聴けるのかなと思っていたのだが、そのマイクはMC(注:ラップではなくしゃべり)以外で演奏に使用されることはなかった。生演奏の中、テイラーが徐々に打ち込みのトラックを重ねることでビートを強調していき、フロアを沸かしはじめていった。そして、機械による複数の打ち込みのトラックを抜き差しすることでグルーヴを変化していくと同時に、それに合わせて行われるテイラーの鍵盤とマーカスのドラムの演奏によって生身の人間の身体的なグルーヴをリアルタイムにビートの中へ溶け込ませ、全体のグルーヴを調整していく。そうやって推進力を持たせて演奏を展開していき、フロアをしなやかにトランスへともっていった。
特筆できる点としては、打ち込みに合わされる生演奏*1の存在のありかたを指摘できる。それは、人間の演奏が機械化されているという風にとらえるのは的外れだ。テイラーが再生するトラック自体にはパターンの変化と揺らぎを同時に含ませており、そして複数のトラックを抜き差ししていく中でグルーヴを変化させていく。その打ち込みのありかただけで、それはテイラーの技術と感覚によるグルーヴといえるのだ。そして、テイラーとマーカスは、リアルタイムにその時その時の打ち込みのビートを聴きながら、即興的な判断で演奏し、そのビートとの共演の中で、全体のグルーヴを調整していっているのだ。この即興的な判断と身体による演奏という点は、ジャズという音楽のもつ特徴そのものであるといえるのかもしれない。
それが特徴的に表れていると感じたのは、アシッドサルサと呼べるような曲(アルバムには入ってないです)で、トラック自体に持たせているパターンの変化と揺らぎと、それらのトラックの抜き差しと、そして生演奏の共演によって、リズムをポリリズミックに錯綜させていたシーン。ここが個人的にハイライトだった。マニアックな話だが、どうポリリズミックだったかというと、まず、クラーベのリズムを強烈なキックに担わせていた。クラーベは1小節を不均等に5つに分割するリズムと16ビートを4つに均等に分割するリズムが共存するのだが、テイラーはトラックの揺らぎとその抜き差しによって、その共存する2つのリズムのグルーヴを階調を描いて変化させ、リズムを錯綜させていたのだ。そうやって、フロアをトランスさせていった。
ライブごとにどのくらい演奏が変化し、どのくらい柔軟性や即興性があるのかを確認したいというのもあるが、そんなことよりも、ただ単純にとても楽しく、彼らのライブパフォーマンスをもう一度観たくて仕方がない。

  • サンダーキャット (Thundercat - bass/vocals Dennis Hamm - keyboards Justin Brown - drums)

基本的にアルバムで聴くことの出来る、彼がソングライティングを行った楽曲の中に、ソロパートを長めに挿入つつ演奏を進めて行った。テーマ→ソロ→テーマという形式がとられている曲が多く、この点ではきわめてジャズ的だったといえる。特にアルバムでは控えめだったサンダーキャットのベースソロがステージではかなり炸裂していた。ジャズやフュージョン的な語法の超高速フレーズだったり、ワウを用いた効果音的なエフェクトソロだったり。このワウについては曲中のベースラインの演奏自体にも用いていたが、エフェクトの調整またはPAの調整か会場との相性が原因なのか、鍵盤とドラムの演奏に埋もれがちに聞こえ演奏があいまいになっているように感じた所は少し残念。また、1stアルバムのIs it Loveの演奏では、ベース、鍵盤、ドラムの三人で曲の繊細なコーラスワークを行おうとしていたのだが、PAの不備でマイクの音が出ないトラブルがあり、演奏の流れが悪くなってしまったのも残念。テイラーとマーカスのグルーヴを繊細に形成していった演奏と比較すると、サンダーキャットの超尺ソロによってベースが抜けてしまう事で、グルーヴが持続されづらく、フロアもガンガンに盛り上がるような演奏ではなかった。ビートミュージックの中におけるジャズ的なソロのあり方の難しさを示しているように私は感じたが、もしも先述したトラブルもなく順調に演奏できていたらより良いサウンドになりフロアは盛り上がったのではないかとも感じている。
後半は、キャプテン・マーフィ(=フライロ)がラップで参加し、サンダーキャットバンドがそのバックに徹するという形に。ここではバンド全体が引き締まった演奏になっておりフロアも沸いていた。

ステージの中央にぽつんとおかれたDJ卓の前後に巨大な2面のスクリーンを立たせ、その前後に宇宙的であったり未来的であったり幾何学的な立体映像の流れが映し出される。銀河の様な映像が流れる中。DJ卓の前に立つFlying Lotusの大きな影が映し出される様子は、彼が宇宙船のコックピットにのって宇宙旅行をしているかのよう。
正直言って、今までここで私がテイラーやサンダーキャットの音楽を記したように、フライング・ロータスの音楽を言葉で描写するには、彼の音楽はとても幻想的で、あらゆるサウンドが溶け合って、とても抽象的だ。彼が使用する機材と彼の才能と音楽性と技術が相まって、彼の音楽は彼独自のものとしかいいようがなく、歴史の連続線上で捉えたり他の音楽との関連性で語る言葉を自分は持ち合わせていないというのが本音だ。
しかし、その記述不可能性が、リスナーを魅了し、夢見心地にさせるのだろう。
それと同時に、なんでガンガンに盛り上がるわけでもない抽象的な音楽がこれほど多くの人に人気があるのだろうと個人的に疑問に思ってもいたのだが、今回彼のプレイが終わった後、近くにいた女性が「やっぱ、ディスコのほうが楽しいよう〜」といっており、「お姉さん、その気持ち分からなくもない」と思ったりもするのでした。

*1:こういうライブ手法は最近結構よくあるのかあまり知らないのですが、菊地雅晃氏のTTTATとか私好きです