メモ/ランダム

memorandum || (memory / random)

『君たちはどう生きるか』

幼少期から観てきたジブリ映画の断片の記憶が喚起され、「あ、これみたことある」という既視感が何度もあったのに、ノスタルジーを感じさせないことに驚く。
それは、鑑賞者のほとんどが感じたとは思うが、この映画が夢と似ているからだろう。

 

でも、確かに夢に近いとはいえるものの、これほど強烈なイメージが連鎖し続ける夢、というのは自分は実際にみたことはない。宮崎駿がみる夢はこんな感じなのだろうか?
「夢とは個人の身体内で作られた私的な映画である」といえるのかもしれないが、これは「宮崎駿の夢を他人と共有可能にしてしまった映画だ」、といえるかもしれない。

 

それにしても、今回特に強烈に感じたのは、「ぬめぬめ」した表現だ。もちろん今までの宮崎作品でも「ぬめぬめ」の表現はたくさんあったと思う。溶ける巨神兵千と千尋での銭湯の掃除、などたくさん。

でも、今作をみると、今までのそれらの表現は、あくまでもファンタジーじみていてたかのように感じる。ここまで生々しく、汚物や臓物、あるいは人間の不気味さ、を、狂気じみながら描いたことはあっただろうか。
ネタばれになるので具体的には書くのは避けるが、これらの「ぬめぬめ」は、死と生の両方を表象している、と、つい言いたくなってしまう(わかりやすくフロイトじみているが)。

 

あと一つだけ言っておくと、今回はかなりはっきりと「現実はクソです(で、どう生きますか?)」と言っているように僕には聞こえたのだが、その「クソ」が汚物として直接的に表現されているのが興味深い。

 

 

ツイッターのタイムラインをのぞくだけで、色んな作品との類似性の指摘をみかけるが、この多さは一体なんなのだろうか。そんなに普遍性のある物語だろうか?というよりかは、一種の鏡として機能しているのだろうか。または、映画のストラクチャーだろうか。

 

自分が鑑賞中に感じた既視感は、黒澤明ゴダールデビッド・リンチ大林宣彦鈴木清順の晩年の作品たちだった。全員、老人になってから夢のような映画を作っている点が似ている。(黒澤についてはそもそもタイトルが「夢」だしね)
しかし、やはり検索すると、全員すでに誰かに指摘されていて、一定数共感もされている模様。
ちなみに、フェリーニタルコフスキーへの指摘もみかけたが、僕は全く想起しなかった。それは、この2人は老人(ひとまず70歳以上とする)になってからの映画がないことと関係があるような気がする(ちなみに両方とも好きです。タルコフスキーは寝る確率が高いけど)。

 

これらの作家の晩年の作品にある自由さとは何なのだろう。人はみな、他の誰でもなく、自分自身であるしかない、ということに呪われ、そこから逃れることができない、そして、その中で「どう生きるか?」、というのは、宮崎駿の作品のテーマであり続けてきたと思うが*(ちなみにそこから逃れようとして失敗していたのが90年台のエヴァの世界だと思う。失敗していたのはエヴァの中の世界であって、作品が失敗していたという意味ではないよ。人類補完計画が成功したわけだけど笑)、その呪いに自覚的なのは、だれよりも作家自身だろう。作家は、多分幼少期-青春期に呪われ、同じモチーフを形をかえながら描き続けていくしかない。

今回のように老境に達しながらの自由さをみせつけられると、呪いというのは不自由さのようでいて、その呪いは自由へと転換することもできるのだと、上に挙げた作家たちが教えてくれていることに気づいたのが僕にとって希望だった。呪いが解かれていないまま。


また、この作品は夢っぽいイメージの連鎖はありつつ、あるもの(ネタばれになるので伏せておく)を追い求める物語として筋が通っている面では、夢の荒唐無稽さはないように感じた。
それは少年性の強さゆえんだと思うが、観ているこちらを(ノスタルジーなしで)童心にかえさせる感覚があるのも、誰よりも童心を保ち続けているのが宮崎自身にほかならないからだろう。

 

この面でこの作品は、スピルバーグの最新作「フェイブルマンズ」とも酷似していると感じたが、やはりその類似性を指摘している感想もあった。
どちらも血筋に呪われた物語、かつ、マザコンを乗り越える物語である。ちなみに少年性や女性を偶像とする面では、村上春樹(海辺のカフカねじまき鳥クロニクル)っぽさも強く感じたが、やはりこの指摘も多くみかける。

 

みんな連想することが似すぎだよ~!ここまで似ていると、こういう連想はAIでも可能になってしまのだろうか。
というわけで、まだ指摘されていなさそうな点で挙げると、前述したスピルバーグの「フェイブルマンズ」とリンチの「ツイン・ピークス リミテッドイベントシリーズ」との類似点が、前者の少年性の強さや、後者の夢の感覚だけでなく、映画と音楽の関係性にもあるところだ。

 

宮崎駿 x 久石譲
スティーブン・スピルバーグ x ジョン・ウィリアムズ
デビッド・リンチ x アンジェロ・バダラメンティ

 

3ペアともに、30年以上にわたり、映画監督x作曲家の強固な関係性を維持しながら、数々の名曲を生み続けてきた後、その晩年で、いぶし銀のような渋いサウンドトラックの仕事をしている点で酷似している。
(晩年といっても亡くなっているのはバダラメンティだけなので、他の方々には作品を作り続けてほしい所)

 

この3ペアの最新作ともに、過去作のように簡単に記憶できるようなメロディはない、と言い切っていいと思う。というより、そもそも映画の中で音楽が鳴っていたと感じさせないのだ。

 

それは「夢」のようなイメージの中では、音楽も夢のようにおぼろげに響かせるしかないから、としかいいようがないだろう。
映画において、強固なメロディーは強固な物語があって生まれやすい。やはり夢とは反-物語の世界なのだ。

(といってみたところで、他の夢のような映画作品における音楽も振り返りたくなってきた)


スピルバーグ最新作については、少年の「未来の夢」の側面が強く、「イメージの連鎖としての夢」の要素は薄い。しかし、あまりにも私的な物語であることが、音楽にも影響を与えている。例えば、この私的な物語にハリー・ポッターのテーマのような強いメロディを付けるのはどう考えても不可能だ。と考えたところで、プライベートライアンのテーマのようなシンプルで印象的なメロディならつけらるような気がしてきた。。しかし、ファイブルマンズでもっとも印象的な音楽は母親のピアノ演奏だ。多分観た人ほとんどはそう思うのではないか。やはり母親に呪われた映画、ということがいえる)

(ツインピークス新作でのバダラメンティに関係ないエンディングのバンド演奏と、今回の米津玄師のエンディングの役割も、どちらも本筋と関係ないし、物語にそのものに対してあまり機能していないという点で、とても似ている。)

(宮崎駿きっかけで偶然にもスピルバーグとリンチが並置されたのでいいたくなったが、フェイブルマンズのラストで、リンチが登場してきたのには驚いた(爆笑した)。音楽が薄いのに対して、あの映画はラストのリンチのセリフがエンディングテーマだと言ってしまえるのではないか。リンチの話し方にはメロディがある。リンチもスピルバーグもチャーミングなおじいちゃんだと思った。もちろん、宮崎駿鈴木敏夫もおじいちゃんもおばあちゃんもみんなチャーミングだ)

 

2023/7/21