メモ/ランダム

memorandum || (memory / random)

『フロリダ・プロジェクト』真夏に溶けるソフトクリーム

道端の人に買ってもらった一つのコーンのソフトクリームを子供3人でシェアしながら舐め合う姿が印象的。

子供たちにとって、甘い食べ物はご馳走である。めちゃめちゃ美味しそうに、ベトベトになりながら食べる姿の愛らしいこと。
子供たちは、ちょっとしたことに幸福をみつける天才なのだ。
近所の探索は、子供たちにとって大冒険であり、近くのディズニーワールドにも負けないアトラクションにもなりえる。
楽しそうにはしゃぎ、遊び、悪戯に走って大人達を困らせる子供達から、貧しさの苦難よりも生活の楽しさを感じとれるのは、この映画が基本的に子供の視点から描写されているからである。
しかし、無邪気な子供の姿は本当に救いなのか?と問われれば、未来のことを考えると厳しいのが現実だ。

映画では描かれることなく終わるが、子供たちのふざけた遊びも成長のうちにできなくなるし、アイスクリームを他人から買ってもらい、友達と舐めあうことができるのもせいぜい低学年までだ。
それに、あの状況のまま子供たちが成長できたとしても、彼らもまた、親が直面している問題に再び立ち向かうことになるに違いない。時に幼児的にはしゃいだり、怒ったりする母の姿には、将来のあの女の子の姿と貧困の連鎖が映っている。

ソフトクリームの冷たい刺激と甘さは、フロリダの炎天下の中で束の間の喜びを与えるが、それは一時的に暑さをしのぐだけで、その甘さは喉を乾かしもする。
ディズニーワールド近郊の観光地のモーテルを賃貸がわりに月1000ドルで暮らす彼らのギリギリの生活は、結局、真夏のソフトクリームのようにすぐに溶けて崩れ落ちてしまうほど脆い。

ところで、子供たちがソフトクリームを舐めあうシーンが、性的な意味合いを全く感じさせないように描かれていたように、この映画において大人の性的な描写を避けつつも、間接的にそれを描く演出は見事である。この演出で観客がみることができるのは、子供の性の目覚め前の光景となっているのだ。

同時に、そのシーンで流れる音楽は母親のスマホから流れる最新のヒップホップなのである。(私の記憶では、この母親のスマホからのヒップホップのみが、この映画で流れる音楽だったと思うが勘違いかもしれない)
流石にリリックまでは把握してないが、主に金とセックスと差別についてのヒップホップ(もちろん例外も沢山あるだろう)が彼女にとってアクチュアルな音楽という点で、甲府と同じように、フロリダでの『サウダーヂ』(富田克也監督)を感じさせる。

または、貧困の子供の生活という点において、この映画を『誰も知らない』(是枝裕和監督)になぞらえることも出来るが、あの映画のように、高円寺で人知れず兄弟姉妹だけの閉鎖空間に暮らすというわけではなく、ここには観光地付近に暮らす人々の貧困コミュニティがある。
ママ友のお裾分け、お隣さんの子供の面倒、管理人のトラブル対応、、、この映画の登場人物は、みんな口が悪いが、貧しい中で持ちつ持たれつの関係を維持するための良心を持ち合わせており、それが非常に美しい。
しかし、それでもどうにもならないこともあるのだ。

(ちゃんと調べてないが)、この映画の大半は実際のフロリダのディズニーワールド近郊でロケが行われているように見受けられ、非常にドキュメント的に作られている。
その面でも是枝の作品や、その他では、リスボンのスラム街を描いたペドロ・コスタ監督の諸作(『ヴァンダの部屋』『コロッサル・ユース』『ホース・マネー』)とも呼応していると同時に対照的な面もある。
コスタの作品では、荒廃しきったリスボンのスラム街における未来も希望もない大人の生活が描かれるが、フロリダの真夏の太陽に照らされたきらびやかであざやかな観光地で暮らし、遊ぶ子供にはまだ未来も希望もあるのだ。
もちろん、きらびやかであざやかにみえるのは、子供のうちにすぎない。この映画で描かれるのは希望の兆しが残っている子供からみた光景なのだ。

最後に向かう夢と希望の国は、あの子にとって、純粋な子供として最後に遊んだアドベンチャーになったのだと信じるほかない。

 

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高橋悠治 『エリック・サティ:新・ピアノ作品集』etc. / ピアノの別の顔

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しおれた植物に再度水をあたえる
しかし、今までとは別の場から汲みあげられた水を
蘇生したあとは、かつての姿を保ちながらも、よくみると以前とは別の咲き方をしている
手入れが行き届いた優雅に咲きほこる花々、というより、風になびかれ、自然におもむくまま、ひっそりと咲いている花のように


または、昔から知っていた(つもりの)人が、知らぬ間に今までみたことのない別人のような表情をみせているかのように、以前耳にしたことのあるはずの曲が、今まできいたことのなかった曲のように響いている。

見知らぬ過去とまだ見ぬ未来が、今、同時に自分の前にあらわれているかのように。


以上は、高橋悠治のサティの新録音をきいて思い浮かんだことだが、これは彼の過去の多数の録音や実際のコンサートでクラシックの古典のピアノ演奏をきく際によく感じることでもある。

先日、79歳をむかえたピアニスト、作曲家の高橋悠治は、1960年代から現代音楽をはじめとしたクラシックのピアニストとして活動をはじめ、その後は欧米を飛びまわりながら実験音楽電子音楽へ取り組んだものの、一度それらを捨て、70年代後半からは水牛楽団での活動を行うなど、日本を含めたアジアや他の西洋以外の音楽へ向かう。

高橋の70年代の著作のページをめくると、そこには痛烈かつ真摯な西洋批判で溢れている。それは、閉塞的なクラシック音楽界のみならず、同時に社会批判でもあり、さらにいえば、それまで実験音楽電子音楽を含む西洋音楽に関わってきた自己への批判とも読み取れる。実際、一時的にピアノを弾かなかった期間もあったようだ。

しかし、彼は必ずピアノ演奏に立ち戻っている。そこでは、ピアノという西洋を代表するような楽器を、いかにして西洋以外の観点で扱うのか?という批判的態度をもって鍵盤に向かい続けている。

このことについては、70年代から現在にわたる彼の文章に幾度と記されている。興味があれば書籍はもちろんだが、当初はミニコミとしてはじまり、現在ではWEB上で継続されている水牛というサイトでは、00年以降の彼の文章のアーカイブが充実しているため参照されたし(http://www.suigyu.com/yuji/ja-archive.html)。

ところで、このような彼の思想が実際に演奏でどうあらわれているか。

例えば、77年録音の高橋によるバッハインベンション1。
私は、これをきいたとき、比喩ではなく、椅子から転げ落ちるほど驚嘆した。
というのも、八分音符と三連符の重なりと連なりをもって、バッハのこの曲をアフリカのポリリズムのようなアプローチで演奏していたからである。

バッハインベンションは、クラシックピアノを習う者なら、初歩のバイエルを一通り終えたあとくらいに手にし、この曲はその1ページ目として誰もが弾くであろう有名曲だ。耳にしたことのある人もかなり多いだろうし、一般的な演奏を知っている身からすると、高橋の演奏はあり得ないアプローチにきこえるはずだ。注*1

話はかわり、高橋の電子音楽家としての側面について。

こちらについても60年代から始まり、その後、やめては再開している印象を受けるが、00年代半ばの渋谷慶一郎関連の活動以降の、ここ10年ほどはコンピューターを使用した作品や演奏はあまりない印象がある。

とはいえ、ここ数年の高橋のピアノのコンサートを体験すると、彼はコンピューターを、もはや必要としていないのではないかと感じるのだ(もちろんコンピューターだからこそ出来ることもあるのは承知の上として)。

例えば、ギタリストの内橋和久のようなエフェクターを駆使して音響を発する音楽家との即興演奏においても、近年のライブでは、コンピューターを使わず、ピアノ1台で立ち向かっている。
しかしそこでピアノからきこえる音は、電子音響のようであり、それと同時に、コンピューターには制御不可能な判断の瞬発力/指先の繊細なコントロールをもって響きを生じさせながら、ピアノを演奏しているかのようなのである。

さらにつけ加えるならば、このような即興での印象は、彼のクラシックの古典の演奏においても同様に感じられるのだ。

たとえば

吸っては吐くたびにゆらぐような緩急の呼吸のリズム
右手と左手のタッチのわずかなずれ
随時踏み込まれるペダルから生じるふわっとした音の拡散
消えゆく音と再びあらわれる音のあいだの透明な空白の時間

そこには、なびいては止まる風に身をゆだねて自由になりながら、ゆれ動いたりつっかえたりしつつも、一歩一歩進んでいく姿がみえる。

そして、そのあゆみの中で目撃する光景は、未来であると同時に過去であり、一歩踏み出せば二度と同じようにみえることはないようだ。

一歩ごとに、響きの景色が時空を超えてうつり変わるような反復。


このような演奏は、西洋に全くとらわれない、いや、むしろ西洋から遠く離れようとする作曲家としての面と、音楽を音の響きそのものから捉えて空間に描写していく電子音楽家としての面があるからこそ出来るのではないだろうか。作曲しない伝統的なクラシックの純粋なピアニストには出来ないだろう。

今までのクラッシックのピアニストの誰もが見向きもしなかったリズム面と音響面から、古典をあらたに捉え直しているかのようなのだ。

彼は、古典を、五線譜内の音の拘束と従来の西洋的な解釈から解き放つことで、かつてあり得ていたかもしれない失われた響きを呼び起こし、それと同時に、テクノロジーが人の感覚や音楽のありかたを問い直すことによって生じる響きの未来を描こうとしているかのようである。

と書いてきた上で、本人の言葉の方がしっくりくると思い、一部引用して終えたい。これは、彼が2004年にバッハのゴールドベルクを再録音した際のものだ。

均等な音符の流れで縫い取られた和声のしっかりした足取りをゆるめて 統合と分岐とのあやういバランスの内部に息づく自由なリズムをみつけ 組み込まれた小さなフレーズのひとつひとつを 固定されない音色のあそびにひらいていく といっても スタイルの正統性にたやすく組み込まれるような表面の装飾や即興ではなく 作曲と楽譜の一方的な支配から 多層空間と多次元の時間の出会う対話の場に変えるこころみ 
http://www.suigyu.com/yuji/ja-text/2004/goldberg.html

*1:私は音楽の研究家ではないし、バッハの研究にどのようなものがあるかの知識は皆無なため、詳しくは専門家にお任せしたいが、私の気付きをここで書く。YouTubeでバッハインベンションの一曲目をきき漁ったところ、アンドラーシュ・シフが、この曲を高橋と同じように、八分音符と三連符のアプローチで弾いているのを確認した。https://www.youtube.com/watch?v=31r5ZgWeC0o そして、アマゾンレビューより、三連符で書いたこの曲の自筆稿が存在することを知ったhttps://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RGYE0J0R196YT/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=B000091LCG。これは、クラシック界では有名なことなのだろうか。とはいえ、高橋とシフの演奏は全然異なってきこえる。シフのアプローチは西洋的なリズムの域に留まっているように私には感じる

170909 日ノ出町試聴室その3 / 夕も屋 『hana』

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最近、黄金町から移転した日ノ出町試聴室その3へ。

そこは横浜市街地の風俗街から若干外れた通りの建物の二階にある。
入り口からすぐに登れる階段は洋風の木張りになっている。
この時点で昭和の頃に建てられたと思われる雰囲気を醸し出しているが、階段を登って室内に入るとさらに雰囲気抜群。

床、壁、天井の木目、壁にところどころ貼られた大きな鏡、長いバーカウンター、木の椅子、古いトイレ、そこにある全てのものが、シックでレトロだ。

聞いたところによると元々、社交ダンス教室として使われていた空間らしい。

今回の出演者は毛玉1/2、夕も屋、mayu&平本圭治の2人編成が3組。

毛玉1/2とは、僕を含めた現状4人組の毛玉のうち、黒澤、露木の2人編成のアコースティック版だ。
ちなみに、某漫画のように、お湯をかけられると女性、パンダ、子豚などになる、ということはありません(あるほうが凄い)。

今回は自分の出番はないけれど、移転した後の試聴室に来たかったのと、毛玉の2人の様子をみたかったのと、最近アルバムを出したという対バンの夕も屋さんをもう一度みたくて来てみた。
(以下、今回メインに書くのは夕も屋さんとなった)

夕も屋さんは、去年の秋に下北沢モナレコードで対バンしてはじめてきいた時にとても印象に残っている。

男女の弾き語りのデュオで、女性がピアノ・ボーカル、男性がベースとギターを持ち替えながらコーラスもする。

その音楽の感じを飲み物で例えると、清涼感がありつつも、喉ごしが所々こしょばい感じがする。
時々、(あれ?)と戸惑うような味わいもある。
でも、飲んだ後はほんわかとした暖かさが残るよう。

去年のこの日、同じく対バンのyoji & his ghost bandの青野さんと「みててキュンキュンしますよね」などと、2人で夕も屋の感想を話し合っていたのだが、青野さんとは他に関西トークをしすぎたせいで本人達に伝えるタイミングを逃してしまった。

ちなみに、キュンキュンする、という表現は2人の音楽にマッチしてるな、と思うと同時に、いかにもといった男女の胸キュンソング、ラブソングといった感じではなくて。

人と人とのすれ違いの儚さが、2人が淡々と奏でる音の音のあいだにあらわれているようにきこえるのだ。

2人の演奏の息は全くあっていないというわけではないけれど、曲の途中でテンポが揺らいだり、2人の間でズレが生じたりする。

とくに、彼のベースは、普通に彼女の呼吸に合わせていると思いきや、ところどころリズムとかフレーズがつまづいたり、もつれたりして、かみ合わない。

(…あれ…?今のタイミング…何…?!)
(さっきのフレーズ、ちょっと音がずれてる…?!)

となる瞬間が時々あり、それにつられて彼女の方も揺らいでいき、少し危なっかしい。

このように、演奏が散りゆきそうになる時もありながら、それでも曲は進んでいった。

僕がその時驚いたのは、そのズレは下手だな〜とか、ヘタウマという印象を通り越して、2人の音楽にとって不可欠な表現に感じられたということだ。

2人は演奏しながらも、そこに浮かび立つ風景の中で風を感じている。
そして、時々吹いてはやみゆく風につられ、音がなびいているよう。

今回のライブでは前回使用してなかったメトロノームを、シンプルにピッピッと鳴らしながら曲の半分ほどを演奏していた。

以前の演奏で感じた、風が強めに吹いた時に今にも散りそうになりながらも、なんとか耐えていたような姿に対して、一定のリズムの上では、吹く風に少しよろめきながらも、風に身をゆだねられているように感じた。

と例えてみたものの、以前きいた2人らしさは全く失われていない。

ちなみに、MCが微笑ましく、ほんのりとブラックさもあり面白かった。

それについては長くなるので割愛しておいて、最後の曲の前にベースの彼がチューニング変更中で演奏までの間が出来た時、彼女の中では今日のMCネタが尽きてしまったようだ。

ベースのチューニングの音と、次の曲のためのメトロノームの音が静かに鳴りながら、1分ほど小声で「うーん………うーん………」と、それらのリズムに微妙に合わないように何度も唸った挙句、ようやく、

「あ!そうだ!さんま食べたいですね…!」

「………もう秋ですよね………でもまだ夏は諦めてないですよ…!」


とのこと。
この発言から感じたものは、夕も屋の音楽から受ける印象そのものとなんら変わらなかった。

終わったあと、お二人とお話しできた。

「もうさんま食べましたか?(塩焼きの)」

と聞かれたので、ちょうど最近、すき家でさんま牛を食べたことを話したり。

このさんまは塩焼きではなく蒲焼なのだが、それをほぐしながら、ついてくる大根おろしと牛丼をごっちゃに混ぜご飯ぽくすると(一見まずそうだけど案外)美味しかった、とか。
(ちなみにもう少し前に食べたうな牛という食べ物は、もっとピンとこない食べ物だったのだが、この時も混ぜご飯にすれば印象は違っていたかもしれない)

ほかに話した中で、

「習字やってますか?」
「え?やってないですよ。中学以来。」
「…ならいいです。」

と言われたのは一体なんだったんだろう(笑)。
(ちなみに僕は字がきれいとはいいがたい)


アルバムを購入し、今ききながら書いている。

クレジットをみると、その中の2曲はゲストが参加しているものの、ほかは自分たちで演奏したのだろうか。

少しおぼつかない打楽器、ピアニカ、コーラス、控えめに歪んだギターのメロディ(束の間のレディオヘッドのパラノイドアンドロイドの引用)、その他効果音、駅や街頭、自然音などのフィールドレコーディングの重なり。

それら全てが、2人の音楽になくてはならない音として響いている。


かつてみた、ある季節の風景。
夕靄(ゆうもや)のように、風に吹かれては日が沈むにつれて消えゆきそうなそれらの記憶。
相手に迷惑をかけないほどの多少の自分勝手さは、子供の頃からかわりのないユーモアと遊び心。
人とあまりうまく接することのできない不器用さ。
相手に近づこうとしても、なぜか離れてしまい、また近づこうと歩んでゆく姿。

それでも、そのうち、いつの間にか重なりあうピース。

夕も屋の2人が音で描く響きからはそういった光景が思い浮かぶ
 

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(他の2組についても書きたかったけれど、またの機会に)

札幌国際芸術祭2017 / おもいがけなく遭遇してしまうということ

○札幌国際芸術祭に行ってきた

音楽関係ではない自分の身の周りの人に、

「札幌の芸術祭に行く(行った)んですよ」というと、

「へー。芸術祭ですか。(格調高そうで難しそうですね。)」

というリアクションがまず返ってくる。

しかし、17/8/15-16の間に、僕が札幌国際芸術祭のいくつかの展示作品を体験するために札幌市街の様々な会場を巡るなかで思ったのはこうだ。

普段、音楽/アートに興味がない人や、音楽/アートに興味はあるが芸術祭はよくわからん、という人にこそ行ってもらいたいということ。

何よりも、難しいことを考えずに楽しめる作品もあるし、地元だったり、たまたま通りかかった人にも開かれているところもあるのがとても良い。

それに、実際にどの展示をみにいってもまず目にしたのは、子供づれの親子の多さだった。夏休み中ということもあってのことだろう。


○子供にとっての芸術祭
モエレ沼公園

例えば、会場の一つであるモエレ沼公園は元々、その広大な芝生と丘の敷地内で、遊びやスポーツが出来る場だ。

そこには、芸術祭とは関係なしに、多くの子供づれの家族が散歩したり遊んでいたりした。

そして、今回の芸術祭の展示として、公園の併設施設であるガラスのピラミッドに行けば、気軽に作品にも接することが出来る。

そこで無料で開放されている展示の(with) without recordsでは、沢山のレコードプレーヤーがそれぞれ勝手に動いたり止まったりする様子を、子供が興味深そうにみていた。


・札幌芸術の森美術館: クリスチャン・マークレー展

札幌芸術の森美術館のクリスチャン・マークレーの展示は、レコードや機械などの廃棄物が解体されゆく様子などを、映像や音の作品にし、それがある種のリサイクルだ!ということを示しているように感じた。

そこには、現代社会に対してなにかしらのメッセージを訴えるという真面目さもある程度あるのかもしれないが、展示全体の雰囲気から感じるのは、ユーモラスさや絶妙な馬鹿さ加減であって、これも子供が面白がれそうな内容だった。

どちらかというと男の子っぽさなのだとは思うが、子供の遊び心の延長のような感覚がある。

 

・札幌芸術の森工芸館: ∈Y∋ 《ドッカイドー/・海・》

芸術の森内の∈Y∋(山塚アイ)の作品は、本来は広い暗闇の部屋で、まるで自分が銀河に浮かんでいるかのようなマットの上で、静かなアンビエント音楽をききながら瞑想的な感覚にさせるような作品である…はずのものだった。

しかし、自分が体験した回では子連れが多く、お化け屋敷的な感覚で子供達がきゃっきゃっと楽しんでいる瞬間もあった。これについては後にもう少し詳しく書く。


札幌市立大学: 毛利悠子《そよぎ またはエコー》
・金市舘ビル: 梅田哲也 《わからないものたち》

または、梅田哲也、毛利悠子の2人の作品に共通する特徴をあげてみると、それらはどちらとも、展示空間に点在している様々な装置の前を通り過ぎる中で、それまで止まっていた装置がいきなり動き出したり、装置に近づくと実は静かに音が鳴っていることに気づかされる、といった点がある。

そこには、「なんだろうこれ?」と、その人の足を止まらせてしまうような、大人/子供を問わず、好奇心をくすぐらせる仕組みがある。


○作品理解の難しさ

しかし、同時に難点だなと思ったのは、装置は常に動いているわけではないので、後になって装置が動き出すのに気が付かずに、なんとなく通り過ぎて帰ってしまう人が多いということだった。割とそういう瞬間を目撃してしまった。

・札幌芸術の森美術館: 鈴木昭男《き い て る》

ほかに分かりにくい、と感じたのは鈴木昭男の作品だった。例えば芸術の森美術館の作品《き い て る》は、石が敷き詰められた庭のような場に、10個くらいの丸く白い台が点在され、その上に人が立って、そこできこえてくる外の音に耳をそばたてる、というものだ。

しかし、この作品は、子供/大人に関わらず、配布用の解説を読んだ上で、その意図を理解し、鑑賞者が耳を澄ましてきくという、自主性を発揮しないと作品が成立しないのでは?と思ったし、実際にこの場に足を踏み入れている人を自分はみる機会がなかった。

子供にどう作品と向かい合えばいいか親が教えてあげる、というのも自分が親になった時は意識したいなあ。

(というか、子供に限らず一緒に鑑賞してる人に対しても意見を交換した方がいい。一人一人の体験で感じるものはそれぞれ違うはず)

例えばこの作品だと、

「ほら、この台の上に立って、耳を澄ましてごらん。風の音とか、虫の音とか、遠くの車の音とか、空調の回転音とか、色んな音がきこえるでしょ」

とひとこと言うだけで、子どもがみたり、きいていた世界がガラッと変わってしまうこともあるのではないか、と思ったりする。


○たまたまそばにいた人たちの、ささいな会話集

ところで、この芸術の森内で、たまたま前を歩いていた父娘の会話がきこえてきた(勝手にごめんなさい)。

女の子「さっきの大学の廊下のやつ(注:毛利悠子作品)面白かったね」

父「そうだね。とても綺麗だったね。ピアノが突然鳴ったりして」

女の子「あ!あの鳥、鳩かな」

父「うーん。鳩っぽいけどなんだろう。フランスだと、鳩とかうさぎを狩りでとって料理するんだよ」

女の子「えーかわいそう…」

 

・旧りんご倉庫: 梅田哲也《りんご》

または、札幌の落ち着いた町中にある木造の旧りんご倉庫で行われていた梅田哲也の展示にて。そこらへんで農作業か何かをしていたような近所のおじいちゃんとおばあちゃんがたまたま通りかかった。

おばあちゃん「最近ここでなにやってるの?」

ときき、係の人がもろもろ説明する。ちょっと騒がしくなった(全然気にはならない)。おばあさんが中を覗く。

おばあちゃん「あら、綺麗。不思議な世界。綺麗ね〜」

と、おじいちゃんや係の人との会話が弾んだのち帰っていった。それからは静かに鑑賞できるようになった。

その後、同じくその場に来ていた女性が僕に、

女性「これ、このまま(水が滴るだけで)動かないんですかね」

僕「んー。(この容器内の)水がある程度溜まると、なんか動きそうですよね」

水滴が滴る様子と同時に、装置が動き出すのをじっと静かに見守る時間が何分か生じた。

そして動き出した瞬間、お互いに、

「おおー!」

となった。


 ・再びモエレ沼公園

または、モエレ沼公園で自転車で走っていると、1人のおばさんに呼び止められる。

おばさん「あの山に沿って大量にある自転車なんなんですか?いつもはないんですけど」

僕「(そうなの?)あー芸術祭のオブジェというか作品なんですかね。あんな所に自転車とめるの大変そうですね〜」

僕が作品に対して、一対一で向かい合う以上に、偶然そこに居合わせた人との関わりは、自分以外の人の作品との関わり合いを気付かされるものであった。それは自分がどう作品を捉えるか以上に、お互いの経験を豊かにする。


○作品の外からまぎれこむ音/人

さらにいえば、音の出る作品というのは、その作品が置かれる環境によって受ける印象が大きく左右される、というのが肝だと感じた。とくに音数が多くない作品だと、そこには作品以外の音がまぎれこんでしまっていることが分かる。完全に外部の環境音を遮断することは困難だ。

・再び毛利作品

例えば、毛利悠子の作品は、大学構内の建物の高い位置にある一直線の通路を歩く上で、ある種の物語のようなものを生じさせている。

展示の入り口は暗いが、前を進んでゆくとそこはガラス張りの空間になっており山や近くの住宅街といった外の景色がみえてくるようになっている。

その外の景色は、その時の天気や、朝-昼-夕の時間帯などの要因で当然変化するだろう。それによって、作品から受ける印象も相当変わってくるんだろうなと感じた。

自分が鑑賞した時は、とても天気が良かった。そこでは大学構内の草刈りの音が聞こえてきたり、近くの木の葉が風で揺れる音がたくさんきこえてきたりした。

しかし、それは邪魔だなー、というよりは、展示物である装置のコイルから鳴る「ジーッ」という音などと、共演しているかの様にきこえたりもする。

・再び山塚アイ作品

また、山塚アイの作品に戻る。これは広い暗闇の部屋全体が作品になっている。暗闇で危険なため、係の人は入場する人に対して、注意の言葉をかける必要がある。

「足元にお気をつけください」

「マットの上に座ったり、横になっていただいてもかまいません」

または、暗闇がゆえに、はぐれる可能性もあるので、親子どうしなどで声をかける必要も出てくる。そのため、その場は喋っても問題ないような空間になりがちであった。

それに加え、会話が少なめになったとしても、暗闇を歩くとすり足になりがちのため、マットとスリッパがこすれる音が目立ったりする。

この会場で響いているのは、山塚アイのハイノートの声にコーラスやディレイのようなものをかけた静かで神聖な感じのアンビエント音だが、その場に人が多いと、それをじっくりきくことも難しい。

その時は純粋に作品に没頭できなくなってしまうが、これは作品の都合上、そうならざるをえないもので仕方がないといえる。柔らかいマットの上でゴロゴロしても良いとのことなので、憩いの場のようにもならざるを得ない。自分自身も疲れていたのでいい休憩になった(笑)。

座って休憩していると、近くに親子とおぼしき2人が近づいてきた。

男の子「なんかここにあるよ」

父「なんだろう」

僕「あ、人です(笑)」

男の子「なんだあ(笑)」

父「すみません(笑)」


・再び金市舘ビル: 梅田哲也 《わからないものたち》

8/15の19時ころに札幌市街地のパチンコ店が入っている古い建物(元デパートらしい)の7階へ梅田哲也の展示へ赴くと、なぜか人っ子一人もいなかった。

しかし、広い空間内で装置が動いて音が鳴ってたり光が点滅しているので、やっぱり展示中なのかなと思って入ってみた。パスもあるし問題はないだろうと。暗めの空間で一人で作品に接することが出来たのは稀有な体験だった。

と、思っていたら、なんか控室っぽい奥から口笛(ナットキングコールのラブ、を、くずしたものにきこえた)が聞こえる。これは、作品のスピーカーとかからの音じゃなさそうだぞ?と思っていたら、しばらくして梅田さん本人が奥からでてきた(笑)。パンフにも情報はかいていなかったが、お盆なので今日は休館にしていたとのことだった。初対面だが、たまたま共通の知り合いがいたので少しお話した。

梅田さん「あの人、味があっていいですよね」

僕「いやあ、ずぼらすぎて困ってます(苦笑)」


○おもいがけなく遭遇してしまうということ

今回色んな作品に接して共通して思ったのは、それらはどれも、美術館で絵などの展示物をみるのとは全く違うし、音の出る作品についても、音楽を1人できくのとも、ライブで沢山の人と一体感を持ってきくのとも全く違うということだ。

そこには、純粋に「わたし(たち)」が「作品」を鑑賞するという、一対一の関係の完結性だったり、「わたし(たち)」が「作品」世界へ没入していくといった要素を阻むような、おもいがけなさを発生させる仕組みがある。

それは、展示空間の作品内で偶発性や突然性を仕組んでいるのもあれば、それだけでなく、ほかのお客さんや、天気やその場の環境からおもいがけなく、紛れ込むということもある。

そもそも、このようなおもいがけなさ、というのは、日々の生活の中で、どこか知らない場所にいったり、知らない人と出くわしたりすると頻繁に起こることだ。

この芸術祭での体験のおもいがけなさには、日々の生活の延長線上であるような感覚があった、ともいえなくはない。

もう少し個人談を書くと、芸術祭巡り後に、とある人に連れて行ってもらったバーで、店員や他のお客さんとちょっとした会話をしたり、すすきののバルで、たまたま隣に座った高田純次的ちょい悪オヤジに、おおよその人格を見抜かれ軽くアドバイスを受けてしまったりしたのだが(笑)、これらの体験と芸術祭の体験はほとんど等価のように感じている。

以上は、自分が体験したことの一部にしかすぎないし、作品についてもう少し詳述することもできなくはない。しかし、もっと時間をかけてみないと分からないこともたくさんあると思った。さらに他にもたくさんの会場だったり、イベントがこれからあったりする。

興味が少しでもあり、予算、時間、身体的に多少の余裕のある方には、実際に行ってもらうことを強くオススメする。

自分にしか起こらないおもいがけない遭遇が、きっとそこで生じることでしょう。

Rob Araujo 『Loading​.​.​. [Full EP]』

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全く知らないアーティストの作品を試聴なしで買うという、所謂、「ジャケ買い」をしたことがない私。
というのは冒険心のなさなのか?はたまたケチなだけなのか?
(最近セブンイレブンで買う缶チューハイを100円のやつにしている私は果たしてケチなのか?!)

一つ言えるのは、知らない音楽をきくには、基本的にCDを買うしかなかった時代をギリギリ通過した年代の私にとって、youtube発達以前は、膨大な気になるアーティストの中から順番にアルバムを買うしかなかった。

だから、何者だか知らない人のアルバムなんて手に取る余裕さえなかった、とはいえる。何しろ学生だったし、使うお金が限られていた。と言い訳してみる。

今や、新しい音楽のdigり方がまるで変わってしまった。

今までは、好きなアーティストのオススメや人脈をたどる、友達のおすすめ、音楽雑誌、音楽本、レコ屋の試聴、ウェブショップ、ブログ、ツイッターのフォロワーのオススメを参照して、実際にフィジカルの盤を買う、というのがほとんどだった。

しかし、最近はもっぱらyoutubeの関連動画から適当に探すことが多い。
(SoundCloudやBandCampも、もちろんdigるのには欠かせないが、最近の自分はyoutube比率が高いモードである)

判断材料はサムネイル、ジャケしかない。
だから、可能な限り先入観を与えられず、誰の価値判断にも左右されない。そこが良い。簡単に自分が未知の領域へ開拓できるのもグッド。

さて、そんな中で、なんとなく気になるジャケ画像をポチッとな。

足元に散らばるゲームのコントローラー、マイク、ヘッドホン、右側のオカリナみたいなのはなんだ?(トトロか?!)

背景にうす〜くアップライトピアノ、そしてキーボードの前に座るデブ。

オタクっぽさを醸し出しまくっている。
いけてないいけてさが最高である(誉めてるんですよ!)

なんだこれ?と思って聞くと、エレガントなピアノと揺らいだ打ち込みのビート。
チルアウトな鍵盤が基調になっているヒップホップ、ネオソウル、ジャズ的な今っぽさがある。
しいていうなら宅録グラスパーっぽいといえるか。

誰だろう?と思ってアーティスト名で検索すると、本人のホームページがヒットし、太っちょの写真が出てきた。絵は本人なんかい!

友達になりたいタイプ笑。
(最近身近にデブの友達がいない)
↑ちなみにここでのデブとは100kg超級をさしている

太っちょにしてはお洒落&エレガントすぎる、というギャップは特に感じないし、それを感じるのは偏見でしかない。見た目ダサいけど音が凄い人、沢山いますよね。

とはいえ、完全に偏見をなくす、というのも無理で、たまにはそう感じることもあったりする。

例えば、見た目と音のギャップ、というのを今まで一番感じたのはグラスパーだった。
グラスパーは見た目がゴリラっぽいじゃないですか(これまた念のため、disではなく、そういや去年のタモリ倶楽部のゴリラ回が最高だった)。

初期の名盤『In My Element』を手に取った時、何かドス黒いサウンドを期待してワクワクして再生ボタンを押したんですが、そのピアノはイケメンの貴公子かよ!、もう少し具体的に例えるなら、黒人メルドーか!と思った次第。

さて、戻る。ざっとプロフの感じでは音楽学校を卒業してLAでピアニスト、プロデューサー、講師として活動しようとしてる人みたい。

この作品は、14分の短い中で、さりげなく展開を沢山作っていて、短編集的でありながらも、自然な流れになっているのが良い。

それに、こういうビートミュージック的なトラックで、鍵盤がメインになっていて、ジャズっぽいソロが多いのも、そんなにはないような気がする。

最近の傾向はどちらかというと冗長にならないようにソロは控えめになりがちじゃないですか。
アンサンブルできかせたり、トラックの抜き差しで流れを作ったりして。

でもこの作品のピアノソロはトラックにとって必然なのが良い。

こういう鍵盤奏者のチルっぽい作品で大好きなアルバムが2枚あって、それはハービー・ハンコックの『Mr.Hands』と坪口昌恭トリオの『Radio-Acoustique』なんですが、それと通じるものも感じる。

凄く良い!

とはいえ、これ位のレベルの音楽を作るミュージシャンは、ライブレベルだと自分が知ってる範囲で日本でもいるし、自分の知らない範囲でも沢山いるでしょう。

しかし、youtubeだけで数か月で6万越えのview数で、いとも簡単にネット上で出会うということは、そんなにはない。

この作品に限った話では全くなく、活動、創作、レコーディングのしやすさを含めたシーンやコミュニティの盛り上がりは、やはり日本よりもやはりアメリカの方が底が厚いのか、と、感じてしまう。

そこらへん何とかしていきましょうや、と感じる日々でございます。

宇多田ヒカル「忘却 featuring KOHH」・・・ リズム / 歌詞分析から読み解くラップのフロウ

*注: 本題は中盤以降になります。

 

○最近の日本の洋楽事情って???

街中でギターとかベースを担いだ高校生とかをよくみかけますが、今時の子ってどんなバンドが好きだったり、どんな曲を演奏してるのかなーと気になりながらも、声をかけると不審がられること必須。なので、よくわからないままです。


最近の流行りだとRADWIMPSとか未だにBUMP OF CHICKENとかflumpoolとかなのかしら。洋楽なんかどうなんだろ?最近流行ってる洋楽バンドってなに…?ジャスティン・ビーバー、、ブルーノ・マーズファレル・ウィリアムズレディ・ガガ…、うーん…全部バンドじゃないですね!

昔だったら、リアルタイムでニルヴァーナ、グリーンデイ、レッチリ、オアシスなどのギターロックバンドがコピーされてたと思うんですが、2017年現在の若い世代で有名なギターロックバンドって何でしょうか?あまりないような気がします。

これは統計を確認したわけではなく、全くの自分の主観なんですが、新しいギターロックバンドがぱっと出てこない要因の一つに、PCでの音楽制作の普及に伴い、世に普及する音楽も、バンド演奏から打ち込みへとシフトしているという事があるように思います*1

打ち込みの音楽をバンドで再現する事の難易度と敷居の高さ、というのがある。例えば、きゃりーぱみゅぱみゅをバンドで演奏できると思いますか?シンセ使いの魔術師じゃないと無理っしょ!対してニルヴァーナのコピバンでギターのパワーコードを鳴らすのはちょっとその気があれば(特にモテたいのなら!)誰にでも出来る!

○では、そもそも今洋楽で何が流行ってるの??

ということでUSのビルボードヒットチャートを見てみましょう。(2017/4/1)

http://www.billboard.com/charts/hot-100/2017-04-01

1位はよく知らないのですっとばしますが、2位は元プロ野球選手の新庄と似ていることで有名なブルーノ・マーズですね!死んじゃったマイケルとかプリンスを継承してる感じがしてめっちゃカッコいい!今の日本で歌もダンスも上手い本格派は沢山いますけど(三浦大知さんとか)、バカ売れしたり国民的スターになる、というまでは最近なかなかないですよね。

○完全に雑談です

昔からUSのヒットチャートに入るアーティストをみていると常にセレブ感を感じます。それに比べて、現在あらゆる意味でアイドル(AKB系、ジャニーズ系、EXILE系、声優系、演歌系(おじさま、おばさまのアイドル)…)だらけの日本のヒットチャートをみると「セレブ感」あまりないですよね。そんな中で私はやはり、今の日本に必要なのは「ポスト叶姉妹かつポスト浜崎あゆみ」なんじゃないかと思います!(ポスト・トゥルースなんてもってのほか!)

歌って踊れる、どエロいセレブの歌姫(ディーバ)が売れる国は、勢いと元気がありそうですよね!(えっ格差社会がひどそう?!)
元気があればなんでも出来る!とか言われましても、そもそもお金とエロがないと元気がでない(´-`)よね。

NO MUSIC, NO LIFE.

が成り立つ前提は、

「NO MONEY, NO LIFE.」
「NO SEX, NO LIFE.」

だという基本中の基本(というか資本主義社会&地球の原理!)が分かってないと音楽産業はダメになる一方ですよ!みなさん!


○脱線しがちですが、ここからが本題

では3位が誰かというとMigosという人らしいです。日本では全く馴染みがなさそうですし、私も知りませんでした*2

 

www.youtube.com

 

滅茶苦茶どギツイ黒人のヒップホップです。こういうガチのヒップホップが、日本のヒットチャートに入る音楽で参照されることはないのではと思うなかれ。

いはるんですわー。


こちらです。


宇多田ヒカル「忘却 featuring KOHH」

www.youtube.com


確かに同じラップだけど、そんなにどぎつくなくない?声も全然違うじゃん(そもそもトラックの雰囲気落ち着いてるし全然ちゃうよ?)。とかいう声もあるかもしれません。

しかししかし、「リズム感覚」という観点からみると、KOHHはここ最近の黒人ラッパーのリズム感覚を参照しているのが分かります。実は、さっきのMigosにもそのリズム感覚が如実にあらわれているのです。

これは、私が勝手に言っているだけではありません。KOHH自身が明言しております。

「(略)最近だと、NYのハーレムに先月行ってて、そこでJ $TASHっていうアメリカ人のラッパーが同居人だったんですけど、彼はRELAX GANGっていうクルーに入ってて彼らに食らいました。フロウが新しい。今までの人が『1,2,3,4/1,2,3,4』みたいに載せてきてたのを『1,2,3/1,2,3/1,2,3,4/1,2,3/1,2,3』みたいな。凄いんですよ、グチャグチャだけどちゃんとしてるというか」
http://amebreak.ameba.jp/interview/2014/08/005016.html

ここで、KOHHが言ってる、
『1,2,3/1,2,3/1,2,3,4/1,2,3/1,2,3』
のリズムの取り方は、文字起こしゆえによくわからなくなってしまってますが、2種類の解釈が可能です。もちろん彼はそのどちらか片方だけのことをいっているとは思います。しかし、今回取り上げる宇多田ヒカルのトラックでは、その両方が同時に成り立ってしまっているのです。

もったいぶらずに先に結論を言いますが、それは以下の2つです。
-----------------------------------

1:ポリリズム(主にアフリカ起源)
2:変拍子(主に東ヨーロッパ-中東-インド起源)
-----------------------------------

まず、ポリリズムから説明します。変拍子についてはトラック分析と同時に後述します。

ポリリズムについての簡単な説明


そうですね~、可能な限り分かりやすく、敷居を低くすることをモットーにしてこれを書いてるんですが、幼い子供でも馴染められるような例にしましょう(これ、子供は読まへんやろ~、かもしれませんが、それならお子さんのリズム教育の題材にでもどうぞ!)。


アニメタイトルが以下2つあります。
-----------------------------------
・A:魔法少女まどかまぎか
・B:クレヨンしんちゃん
-----------------------------------

この言葉を、例えば、一定の手拍子を打ちながらリズムに当てはめるとします(音楽なしでやってもいいですし、例えばこの記事に貼ったトラックに合わせるとやりやすいかもですね)。

すると以下のように拍を取ることが出来ます。

*注1:( )を1拍の長さとする
*注2: A,Bで1拍の長さは同じ(手拍子のみの場合気を付けること)
*注3:「しょ」や「じょ」などは一文字カウント
-----------------------------------
・A:(まほう)(しょうじょ)(まどか)(まぎか)
・B:(くれ)(よん)(しん)(ちゃん)
-----------------------------------


Aだと1拍に3文字。
Bだと1拍に2文字。

となってますね。

超簡単に説明すれば、同じ曲の中でこのAとBのリズムが同時に成り立っている状態を、狭義の意味で「ポリリズム」といいます。

ここからKOHHが言っていた
『1,2,3/1,2,3/1,2,3,4/1,2,3/1,2,3』
について解釈してみると、彼は「/」を1拍の区切り位置とみなしてる、といえます。そして同じ曲の中で1拍の割り方が複数(この発言例だと「3」と「4」です)同時に存在しちゃってもいいんだと。これがポリリズムのうちの一つです。(ちなみにポリ=polyとは「複数の」という意味の接頭語です)

○ようやく分析開始:「ポリリズム変拍子はどこにあるのか?」

では、このトラックのどこにポリリズム変拍子があるかを確かめるために、実際にKOHHのラップとヒッキーの歌を文字起こしして、リズムをとらえてみましょう。(注意:ききながら読まないと確実に意味不明ですので、環境にもよるかと思いますが、ききながらじっくり読んで頂けたらと思います)

まず開始から長めのイントロがあります。(これはJames BlakeとかSolange(あのビヨンセの妹)などのアンビエントR&Bへの意識がうかがえますね)

ここでは、心臓の鼓動のようなビートがバックトラックに刻まれていますね。ちなみにこのリズムは、

(くれ)(よん)(しん)(ちゃん)

の4拍で取れます。そして1拍に2文字あり、4拍=1小節に8文字あるので、8ビートと捉えられますね。

そして、1:37からようやくKOHHがラップを開始します。


注:以降、 ()を1拍の区切りの単位とします
-----------------------------------
4拍:(すきな)(ひとは)(いない)(もう・)
-----------------------------------

さて、1フレーズ目からしてトピック登場!ここでKOHHは、1拍に3文字入れてラップを始めました(音楽的にこの状態を「3連」といいます)。

これは、みたらわかるとおり、(まほう)(しょうじょ)(まどか)(まぎか)と同じで、拍の区切りと文節の区切りが共通しているので分かりやすいですよね。

で、バックトラックの1拍の割り方が「2」なのに対し、KOHHの1拍の割り方は「3」で、これら2通りのリズムが同時に成り立ってしまっている。先ほど解説したようにこの状態が、狭義の意味でポリリズムといえるのです。

○クロスリズム(ポリリズムの一種)について


さてKOHHはこの曲では、ほぼ「3連」でリズムをとり続けています。とはいえ、ただ単に3連のフレーズを続けるという方法は割と多くのラッパーもやってます。しかし、KOHHは1拍=3連のリズム感覚を契機として、これから更に階層の異なるポリリズムを発生させていくのです。これは私、ラップではあんまきいたことないです。しかし、この後すぐ出てきちゃいます。

-----------------------------------
4拍:(・・・)(てんご)(くかじ)(ごーく)
4拍:(だれに)(もみえ)(ないと)(ころ・)
-----------------------------------

さて2段目に注目。ここもKOHHは引き続き3連でとってはいますが、(まほう)(しょうじょ)(まどか)(まぎか)のように、拍と文節の区切りが一致していないですよね。意味が取れるように文節に区切ると、

-----------------------------------
[だれにも][みえない][ところ・]
-----------------------------------

4文字で等しく区切れました。それまでの4拍が3拍に変わっちゃいましたね!

ここで、さっきみたいに、これと文節の区切りが同じアニメタイトルの例が欲しいですって?しょうがないなあ!では、「涼宮ハルヒの憂鬱」はいかがでしょう!

-----------------------------------
3拍:[すずみや][ハルヒの][ゆううつ]
-----------------------------------

ほら!文節の区切りが同じになりました!ここからこれ使いますね。

さて、(まほう)(しょうじょ)(まどか)(まぎか)という1小節を

「3文字x4拍=12」と書くとすると、

[すずみや][ハルヒの][ゆううつ]は

「4文字x3拍=12」

と捉えることが出来ますよね。そう!1小節内に3拍が均等に鳴っていると捉えられるのです。

ここが大事なところですが、このように、この箇所では1小節の割り方が「4」と「3」の2つある状態が両立しています。それも1小節に12個のパルスが、3でも4でも除りなく割ることが出来るからです。小学生でもわかる式であらわせば、

3連×4拍=4連×3拍=12=(1小節) という事ですね。

文節の区切り的に、(まほう)(しょうじょ)(まどか)(まぎか)と、4拍に感じやすい言葉も合計12文字がゆえに4文字区切りにもできて、

(まほうしょ)(うじょまど)(かまぎか)


と3拍にしちゃうこともできますし、反対に3拍に感じやすい[すずみや][ハルヒの][ゆううつ]も、

(すずみ)(やハル)(ヒのゆ)(ううつ)


と3文字(3連)刻みの4拍で取ることも可能だということ。

この1小節の分割方法が複数共存している状態が、はじめに説明したのとは階層の異なるポリリズムで、一般的に「クロスリズム」と言われます。


ちなみにこのリズムの起源はアフリカです。日本でポリリズムというと、Perfumeの次に菊地成孔氏なんだと思いますが、この3x4のクロスリズムが常に成り立っている曲の例として菊地さんのバンドの曲を貼っておきます。https://www.youtube.com/watch?v=WWHoSYP5XGc


変拍子について

ではリズム解説に特化するために少し飛ばしまして1:51~から文字を起こします。

-----------------------------------
1拍:(・・・)
3拍:(きたな)(いもの)(でも・)
3拍:(うつく)(しくみ)(える・)
3拍:(なつか)(しいこ)(え・・)
3拍:(おれか)(らはな)(れ-・)
3拍:(だれか)(のとこ)(へ- ・) 
-----------------------------------
=計16拍(=4小節)

-----------------------------------
5拍:(きおく)(なんて)(ごみば)(こへす)(てる・)
3拍:(がそり)(んかけ)(て・も)
2拍:(やしちゃ)(え・・)
3拍:(もふく)(にきが)(え・・)
3拍:(おむか)(えが)(くるま) 
-----------------------------------
=計16拍(=4小節)

-----------------------------------
2拍:(で・・)(・・・)
4拍:(いきて)(んのは)(しぬた)(め・・)
5拍:(そんで)(うまれ)(てくる)(それだ)(け・・)
3拍:(おはか)(のなか)(へ・い)
3拍:(ければ)(しあわ)(せ・・)
3拍:(ねむる)(かんお)(け・・) 
3拍:(いれず)(みだら)(け・・)
3拍:(このつ)(めたい)(て・・) 
3拍:(みんな)(がない)(てる・)
3拍:(そんな)(のさい)(てい・) 
-----------------------------------
=計32拍(=8小節)

さて、この歌詞の文字起こしは、フレーズの区切りごとに改行しているのですが、上記をみれば分かる通り、ここではフレーズの単位が3拍だったり5拍になっていることがわかります。


ずばり、これが変拍子といえます。

開始時点でKOHHは、(すきな)(ひとは)(いない)(もう・)のように4拍=1小節と、バックトラックの小節の繰り返しの中にフレーズを収めていました。

しかし、途中からこの4拍=1小節の垣根を超えて、変拍子でフレーズを区切る事でリズムを錯綜させて、スリリングな瞬間を生み出しているのです。これを一種のラップのフロウ、だということができるでしょう。


KOHHの発言を振り返りまして、この解釈上では、
『1,2,3/1,2,3/1,2,3,4/1,2,3/1,2,3』
の「/」が、フレーズの区切りとして捉えられ、数字が拍のカウントになってるわけです。1フレーズはバックビートの1小節単位=(4拍子だと4拍だし、3拍子だと3拍)だけでなくて、別に2拍でも3拍でも5拍でもどんな数字でも混ぜてしまって構わないんだ!ってわけですね。


また、さらにいえば、この変拍子もランダムに適当にやっているわけではなく、より大きな枠で見れば、4小節の繰り返しが基本となっているバックトラックの4小節の頭にフレーズを着地させているのが分かります。

上記のように、「記憶なんてゴミ箱へ捨てる」、の頭の「き」と、「お迎えが来るまで」の語尾「で」は4小節単位の頭にちゃんと合わせてるのがわかりますよね。体操選手やフィギュアスケーターが空中を舞い、技を決めた後、着地も見事に決めた時の姿を連想してしまいます。


○New Chapter/今ジャズ系のリズム感覚との同時代性。

ここまでで、ポリリズム変拍子の説明は一通りおしまいです。
ところで当ブログで過去、何回か書きましたように、ポリリズム変拍子の両立は、ロバート・グラスパーがはじめとされている、New Chapter/今ジャズ系と呼ばれる、世界中の新しいジャズにおいて顕著にみられます(http://soap.hatenablog.com/entry/20141001/1412182303)。そしてこれらは歴史の起源をたどると、ポリリズムはアフリカの音楽起源であり、変拍子は主に東ヨーロッパ-中東-インド起源です。USラッパーやKOHHがこれらの音楽を参照しているとは思いませんが、ポリリズムは元々アフリカから奴隷としてつれられた黒人に備わっているリズム感覚が顕在化しているのだと考えられます。また、変拍子的側面は何かを参照したというよりかは、なんかいつもと違ったことをしたい、という遊び心から出来てしまったのではないかなと私は思います。


また、New Chapter系を代表しているといってもよいドラマーにクリス・デイヴがいるのですが、最近宇多田ヒカルと一緒にレコーディングしたそうです。KOHHをフィーチャリングしたのと同じように、彼女には新しい音楽感覚の持ち主への興味が尽きないのかもしれません。


○リズムのズレと訛り/ラップのフロウ/グルーヴについて

去年ヒットした邦画シン・ゴジラで日系三世を演じた石原さとみさんの英語の発音が酷い、という事が少し話題になっていました。私からしたら確かにネイティヴ視点だったりガチのアメリカ人という人物設定からしたら違和感がある、という指摘はまあ理解は出来ますが、滅茶苦茶努力したんやろうな~、可愛いな~、という事で好感度高かったです(ただのファンかい!)。

このように、英語に日本語の発音のニュアンスが混ざると訛るように、リズムについても「訛り」があるといえます。

今回説明したリズムは3種類ありました。


①A1:[バックトラックの1拍の2分割の上]に、B1:[1拍の3分割の言葉を乗せる)]、狭義のポリリズム。一般化すると「1拍の分割方法の複数共存」
②A2:[1小節の4分割]と、B2:[1小節の3拍分割]が両立するクロスリズム(ポリリズムの一種)。一般化すると「1小節の分割方法の複数共存」。
③A3:[1小節=4拍]の基礎拍子に対し、それを無視して、B3:[2~5拍のフレーズを自由に組み合わせる]、変拍子。一般化すると「基礎拍子の枠を無視したリズムアプローチ」


①~③それぞれ、A*とB*の2つのリズム秩序が混ざっている状態です。機械が刻む場合は、これらのA*,B*の2種類のリズム秩序をその通りに刻むことが可能かもしれません。一台のロボットに日本語と英語を完璧に話し分けさせるのなら、それぞれ独立にプログラミングすればいいように。ですが、石原さとみに限らず、非英語圏の話者が英語を話そうとするとどうしても母国語に影響された訛りが出てしまう。これと同じように、A*、B*2種類のリズムを人が両立させようとすると、もう片方のリズムに影響されてずれて訛ってしまう、という事象が発生しがちです。


今回の文字起こしでは、あたかも、KOHHは均等な3連に、宇多田は均等な8ビートに言葉を当てはめているかのように表記していますが、厳密にもっと細かく見れば、ズレがあるわけです(それは記号化の限界でもあります)。では、ズレと訛りって何がちゃうねん!て思われそうなので、私の持論を展開してみますが、「ズレ」というのは、ポリリズムでなくても変拍子でなくても発生してしまう事象であり、人間の行為に不可避的に孕んでいるものだといえるでしょう。例えば同じ4拍子の曲を複数人で演奏しようとしてもAさんとBさんそれぞれ別のリズム感覚があるがゆえにずれてしまう。または、均等なメトロノーム(機械)対人間でも同じことが生じるでしょう。人間は完璧にはできていないのです。同じ拍子を複数人で共有しようとしても、別々のリズム感覚が混ざって干渉しあいズレてしまう。この意味において、「ズレとは微小な訛りのことである」と私は考えます。対してここで指摘しているリズムの訛りとは、上記の①~③のように複数のリズム規則が共存しているがゆえに発生してしまう揺らぎといえます。


ラップにおけるフロウとは何か?と考えると、感覚的に簡易に捉えれば、バックトラックのリズムに対する言葉のリズムのズレ、と捉えられますが、より細かく見れば、①~③が個別に、または、同時に発生している状態といえるでしょう。そして、意識(意図)的にも無意識(偶然)的にも、①~③が個別に生じることは割と頻繁にあるとは感じますが、今回分析したKOHHで特筆すべきことは、これら①~③が同時に共存してしまっているという事にあります。このレベルはメジャーな日本語ラップでは今までなかったのではないかと私は思います(とはいえ探せば先行例はあるかもしれません)。

訛りとかズレというのは、太鼓の達人だと高得点にはなりませんが、ズレるがゆえに気持ち良いグルーヴが生じることだってあるんです。ジャストにヒットすることが正しいわけではない。R-1チャンピオンの全裸にお盆のアキラ100%がいうように、「この世に絶対なんかない」んです。だから人前で歌ったり演奏するときにリズムがズレるのも、ズボンのチャックをズラすのも、恥ずかしがらなくていいんですよ!みんなもっとポロリしちゃお!


○最後にリズム分析と歌詞分析を同時に行ってみましょう


ここで終わりでもいいのですが、私自身全歌詞リズム分析済なのでせっかくという事と、「この曲カラオケで歌いけど、簡単そうでリズムよく分からない!」って人用に、後半の「KOHHのラップ->ヒッキーの歌」の流れの文字起こしを全部載せてみましょう。と、同時に、徐々にリズムが変化することの効果を歌詞分析とともに説明してみます。

-----------------------------------
■KOHH続き(2:20-)
4拍:(・・・)(・・・)(・・・)(・・・)
4拍:(そんな)(のさい)(てい・)(・・・)
4拍:(・・・)(・・・)(そんな)(のさい)
4拍:(てい・)(・・・)(・・・)(・・・)
4拍:(ぜんぶ)(わすれ)(たらい)(い・・)
4拍:(かこに)(すがる)(なんて)(ださい)
4拍:(・・・)(もうい)(らない)(・・・)
■宇多田へバトンタッチ
4拍:(あつ)(いく)(ちび)(る・)
-----------------------------------
=計32拍=8小節

リズム分析のためにこの記事内では省略している箇所がありますが、前半のKOHHは「記憶なんてゴミ箱へ捨てる」「お墓の中へ行ければ幸せ」「 眠る棺桶 入れ墨だらけ この冷たい手」などと、過去を忘却したいが故に自分の死を想像していると汲み取ることができます(17/4/7: 他の解釈についての追記本文後にあり)。そして、「もういらない・・」などと絶望的になる中、突如として宇多田の歌が入り込む。ハッとする瞬間ですね。トラックの構成面からみても、4小節単位の繰り返しの中でKOHHには最後の1小節が残されているのに、この女性は絶望を感じている男をみかねて、突然言葉を差し伸べる。いや言葉というより「キス」を差し伸べている、と言ってしまっていいでしょう。「あついくちびる」とは、その後に「冷たい手」という言葉との対比から「熱い唇」の事なんだと解釈できます。唇の温度を感じているのです。(とはいえ解釈なんて自由なんだから石原さとみとかアナゴさんの「厚い唇」を連想しちゃっても大丈夫!)。また、KOHHが3連で言葉を重ねて、トラックの基礎ビートとズレた不安定なフロウをしているのに対して、宇多田はここでトラックのリズムと同期して8ビートで安定したリズムを取っています。死を思う不安定な気持ちの男と、彼にキスと抱擁するかのような声を差し伸べる女性の対比は、KOHHと宇多田のリズムの対比としてもあらわれているのです。


■引き続き宇多田(2:34-)
-----------------------------------
4拍:(・・)(・・)(・・)(・つ)(ーめ)(たい)(て・)(・・)
4拍:(・・)(・・)(・・)(・・)(こと)(ばな)(んー)(かー)
4拍:(・・)(・・)(・・)(・わ)(すれ)(させ)(て・)(・・)
4拍:(・・)(・・)(・・)(・・)(つよ)(いお)(さけ)(に・)
4拍:(・・)(・・)(・・)(・・)(こわ)(いゆ)(め・)(・・)
4拍:(・・)(・・)(・・)(・・)(めを)(とじ)(たま)(ま・)
4拍:(・・)(・・)(・・)(・・)(おど)(らせ)(て・)(・・)
4拍:(・・)(・・)(・・)(・・)(・・)(・・)(・・)(あー)
-----------------------------------
=計32拍=8小節

サビへ~
----------------------
明るい場所へ続く道が
明るいとは限らないんだ
出口はどこだ
入口ばっか
深い森を走った
----------------------
=計64拍=16小節

*注: ここは基本8ビート(しかし厳密に分析したらズレも多いですが)で、リズムも取りやすいと思うので、リズム表記は省略します。


■KOHH(3:31-)
-----------------------------------
3拍:(あしが)(ちぎれ)(ても・)
2拍:(ぎそく)(でも・)
2拍:(どこま)(でも・)
3拍:(はしれ)(メロス)(・・・)
3拍:(くちと)(じてる)(けど・)
7拍:(あける)(めをつ)(よいさ)(けとは)(いたゲ)(ロ・・)(・・・)

↓ここからが変化点
4拍:(にど)(とも)(ど-らな)(い・・・) 
4拍:(できれ)(ばーも)(いっか)(い・・)
4拍:(のんだ)(つばを)(はきた)(い・・)
4拍:(おとこ)(にもに)(ごんあ)(り・・)
4拍:(だいす)(きだか)(らきら)(い・・)
4拍:(会える)(んなら)(あいた)(い・・)
4拍:(しあわ)(せなの)(につら)(い・・)
4拍:(おれた)(ちは)(よくば)(り・・) *
4拍:(またな)(いも)(のねだ)(り・・) *
4拍:(なにも)(なーい)(おねが)(い・・)
-----------------------------------

=60拍=15小節

*170417修正: 変化点以降、フレーズ末尾の韻(i)は必ず4拍目の頭に合わせられている。このため、「おれたちは」「またないも」の箇所では、2拍に5文字を入れた2拍5連に近いニュアンスになっている。他の箇所と比べ、「2拍->6文字」から「2拍->5文字」と、1文字足りないことからリズムが伸びている、と捉えられることが可能だ。


宇多田の言葉によって、絶望的な気持ちだったKOHHが「足がちぎれても、義足でも、どこまでも」がむしゃらに駆け出し始める。変拍子と3連由来のポリリズムが両立している不安定なフロウは、疾走感とともにへとへとになった足の不安定さをあらわしているようです。と同時に、語尾に注目すると、(o)による韻の踏み方*3は、不安定ながらも着実に一歩一歩前に進んでいる様子を感じさせます。

そして、ゲロを吐いた後の、「二度と戻らない」の言葉を契機に、以下の4つのリズムや構成の変化が発生しています。


・1:この瞬間のみ、それまでの3連(=1拍の3分割)のフレーズが、「1拍の2または4分割」に変化しようとしているが、急なためにリズムが訛ってしまっている(=ポリリズム由来)。
・2:以降、バックトラックの1小節=4拍と同期してフレーズも4拍に収めている
・3:以降、フレーズの語尾において、ずっと同じ韻(i)を踏んでいる。
・4:以降、それまでのラップの語りが歌へと変化する。*4

絶望的な気持ちの中、女性からキスと言葉を差し伸べられたことをきっかけに駆け出した男。そんな中、彼はゲロを吐いて「2度と戻らない」と突如と気付いた。戻らない過去。過去への後悔。後悔は生への願望ともいえるでしょう。

また、この楽曲でずっと4拍で刻み続けられていた心臓の鼓動*5のようなビートと、優しく持続する和音、そして、そのリズムと和音に同期したメロディーを口ずさむ女性の歌は、死のことしか考えていなかった彼を遠くから静かに見守っていたようです。

そして、ようやく彼は、その心臓の鼓動のようなリズムと和音の包み込むような温かさを無意識に感じ取じとったことで、歌いだし、トラックのリズムに同期し始めた、と。

それまでの彼の3連のリズムの中に4連のリズムが紛れ込んだその瞬間*6、それまでの死への思いの中に、生への思いが刺し込んできた。死にたいのか生きたいのかどちらなのかよくわからない、いや、どっちでもあるような戸惑いは、3連なのか4連なのか、そのどっちでもあり、どっちでもないようなリズムの訛りに現れてしまっているのです。そして、そこから続いて、「会いたい」「好き」という感情や欲望を正直に吐露していく。[しあわせ][なのに][つらい]、という言葉には、2つの感情と2つのリズム(3と4)の交じりあいがあらわれています。そして、それまでの不安定な変拍子からうって変わり、4拍子でしっかりと韻を踏みながらメロディーを歌い始めた彼の心の中には、依然として生きる辛さを感じながらも、生への思いが芽生えはじめているかのように感じられます。

 

■宇多田(3:58-)
-----------------------------------
8拍:(あつ)(いく)(ちび)(る・)(つめ)(たい)(て・)(・・)
8拍:(こと)(ばな)(んー)(かわ)(すれ)(させ)(て・)(・・)
8拍:(かた)(いジ)(ーン)(ズー)(やさ)(しい)(め・)(・・)
8拍:(なつ)(かし)(いー)(なま)(えで)(よん)(で・)(・・)
8拍:(ひろ)(いせ)(かい)(にー)(みち)(な「`るス」)(テジ)(・・)
8拍:(かば)(んは)(きら)(い・)(じゃま)(なだ)(け・)(・・)
8拍:(つよ)(いお)(さけ)(に・)(こわ)(いゆ)(め・)(・・)
8拍:(いつ)(かし)(ぬと)(き・)(てぶ)(らが)(ベ「`スト」)(・・)
-----------------------------------
=64拍=16小節

*注意:「`」箇所のみもう一段回細かく、2文字で「・」一個分となります(16音符のこと)。


(おしまい)

追記
[17/4/7 0:57]私はKOHHの人物像についてほぼ知らない状態で、KOHHの前半の歌詞内容を「自死の想像」と解釈していますが、KOHHの親が亡くなっていることを先ほど知り、それならばこの歌詞は「親の死」を指している、という解釈も自然にできてしまいます。この場合、本文の私の解釈とは食い違うところも出てしまいますが、それについても「リズム解釈の複数性(ポリリズム)と歌詞解釈の複数性が共存してしまっている」、ということすらできてしまうでしょう。特に冒頭の「好きな人はいないもう」「俺から離れ 誰かのとこへ」の意味を、私は失恋(恋人がいなくなったor死んだ)の事(故に悲しい、死んで忘却してしまいたい)と汲み取りましたが、いわれてみれば親の死とも汲み取れます。この曲の抽象度の高い歌詞は大事な人の死の悲しみと、自分が死ぬ事への気持ちが混淆しているようです。

どんな音楽にしても、映画にしても、あらゆることに絶対的な解釈というものはないですし、分析の目的は一つの答えをだすためではなく、自分の欲望や無意識を自覚することにあると私は考えます。以下引用で締めくくります。

「音楽の永遠の定義をどこかに求めるよりは、一曲の音楽を自分がどういうふうに聞いているか、この音楽と自分がどういうふうにかかわっているかということから逆に、その音楽の意味をみつけ、またそれを写してみて自分の位置をはっきり知ることが大切なのだ」
高橋悠治「音楽の学習のために」より

*1:エビデンス主義に基づくのなら「ヒットチャートにおけるバンドと打ち込みの比率の推移」というデータがほしいところですが、本題ではないので今回は調査しません

*2:これまたエビデンス主義的に正直に情報源を書いておきますが、Migosについては、私のリズムヤクザ(他称)仲間から教えてもらいました。ラップに疎い私の「KOHHみたいなフローをするUSラッパーはいないか?」という問いに答えてもらった所、そもそもバカ売れのラッパーにいたという事実を仕入れたわけです!

*3:「メロス」のみ(u)で踏んでいると思われる方もいませんが、ここでは語尾の「ス」でなく「ロ」で韻を踏んでいます。(o)で韻を踏む位置はこの場面では常に3連の真ん中にありますよね。

*4:KOHHは前半で既にピッチを合わせて歌っているという指摘もあるでしょう。「どこからがラップでどこからが歌か」という、ラップにおける音程問題がありますが、厳密に分析するならば、この楽曲における「KOHHのピッチの12音平均律音程からの偏差(ズレ)」の推移を分析すればよいのかもしれません

*5:そもそも冒頭の映像をみれば女性の胎内をイメージしていることが容易にわかります

*6:改めてKOHHの発言を振り返れば、まさにここが『1,2,3/1,2,3/1,2,3,4/1,2,3/1,2,3』の、ポリリズム側の解釈をあらわしているわけです

PPAP分析(構造主義者としての)

「あれは○○○のメタファーよ」とマツコ・デラックスがいかにも言及していそうな以前に。または、人間の行為をなんでも性的なものに結び付ける精神分析学のフロイトのことをしらなくても。果物にペンをさす、という両手の動き。しかし実際には何も持っていない両手の空白と、刺す瞬間の「Ah!」というピコ太郎の声から連想するのは、性行為である。

 

食事のためのフォーク。動物を、または人を刺すためのナイフ。挿入する/挿入される事の快楽。刺(挿)すという行為は人の生/性の欲望と結びついている。リンゴにペンを刺すのは一見ナンセンスだが、 そこからは刺(挿)すという行為が孕んでいる快楽を喚起して感じることができる。

 

もっと性的に捉えれば、複数プレイが好きな人はPPAPを4Pのことだと思うだろう。PはPlayでもあるのだ。そしてLGBTの人は、PPAPロングバージョンの「Long pen(PP)」と「Apple Pineapple(AP)」をゲイやレズビアンなどの同性同士の行為に、そして最終的にはPP-APと両者が結合することで、男女混成のバイセクシャルと結び付けているかもしれない。*1

 

2つの別々ものが1つになる、という事は新たなことやものを世界に産み落とすことである。いうまでもなく世界の原理である。同時にその一方で、そこに3つ以上の別々のものがあるとき、選ばれし2つ、または、唯一の生存者になるための争奪戦が繰り広げられる。これも世界の原理である。

 

この世界で現在進行形で発生している分断と争いの中、3つ以上の別々のものをテクノビート上で一つにしてみせたPPAPの世界的ブレイクに対して、希望を見出す平和主義者だっているかもしれない。

 

PPAPの世界的なブレイクの要因は様々あるといわれているが、このように、一見意味がなさそうなそのシンプルな行為の中で、下品さを全く感じさせずに、妙なポジティブさをもって生/性的な要素をほのめかしていることは大きいだろう。最近では日本エレキテル連合の「ダメよ~ダメダメ」以来じゃないだろうか。

 

他のブレイクの秘訣としてはよくいわれてるのは、例えば、世界の誰にでも分かるシンプルすぎる英語が用いられ、1分間の短い尺、 丁度良いBPM、といった要因。ゲイなのかヤクザなのか国籍すらもよくわからないおじさんの奇妙なダンス。しかし、それらは、見た目通り、聞いた通りとしか言いようがないし、分析しないまでも誰にでも分かることである。

ここで私は、このブログの基本方針(そんなものあるのか?)として、ここでは曲の構造を分析して捉えてみたい。

小節単位で起こせば、PPAPの構成は以下である。(|が小節の区切り)

 

 

注1: 休拍のみ「・」で表し、ひとつで2拍とする
注2: 言葉のリズムは表記できていない
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ジングル
|・・|・PPAP| ← (Intro)
|・・|・・|・・|・・| ← (Intro)
| I have a pen | I have a apple | Ah! | Apple pen | ← (A) 1段
| I have a pen | I have a pine apple | Ah! | Pineapple pen | ← (A) 2段
|Appele pen | Pineapple pen | Ah! | PenPineapple apple pen | ← (B) 3段
|・・|・・|・・| PenPineapple apple pen | (Outro?)
効果音~  Piko!
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まず、このネタはお笑いの作法でいうと「3段落ち」である。振りが2回あったあとに、3回目で笑いに落とすという形式なのだ(オチとしては全く笑えないと感じている人もいるかもしれないが、少なくとも3回目は展開しているのでオチといえる)。17年2/26現在の最新の例だと以下である。

 

さんまのお笑い向上委員会 2017年2月25日 170225 【87話ローラを本気で狙う男…若手芸人の女優の落し方】 - YouTube

 

また、この1,2回目の反復と3回目のオチという形式は、音楽的にはブルースと同じである。ちなみにブルースとは20世紀初頭に認知され始めたアメリカの黒人による音楽である。厳密にはブルースにも様々な形式があるが、代表的なものとして、4小節x3段の計12小節を反復するAABの構成のものが多い。

https://www.youtube.com/watch?v=3MCHI23FTP8

上記した構成のようにPPAPもAAB構成でブルースと同じ形式なのだ。*2

また、その他のブルースとの関連性を挙げるとリズム面がある。ここでは詳述はしないが、例えば「 PenPineapple apple pen 」を発音すると、「P」が3回裏拍にくるなど、この曲はシンコペーション(裏拍強調)が基調になっているという点で、黒人のリズム感覚と類似している。

加えて、ブルースで語尾で韻を踏んで反復する形式と、執拗に「P」を含む単語を反復する形式も類似している。話はそれるが「P(パ行)」という破裂音を連呼するのも快楽(リビドー)を感じられる。


しかし、ここで私は、PPAPのルーツがブルースだと指摘したい訳では全くない。多くの人に受け入れられた曲やネタの構成を突き詰めると、そこには共通点があったという事である。1,2回目のフリの後、3回目にオチがあるという形式には収まりの良さがあるということ。*3

もっといえば、PP「A」P、と何故3回目だけAなのか? PPPAもPAPPもAPPPも可能ではあるが、PPAPと口ずさんだときの自然な感覚からも、これらは選択肢には入らないだろう。

また、コード進行がなく、歌のメロディーがないという点も、 PPAPが世界中へ拡散され、マネされている要因だと考えられる。音程をきにせず自由に歌えるのだ*4。様々なパロディがなされているのも、このようなシンプルさゆえにアレンジの拡張可能性が著しく高いからだといえる。

そこにはまるで、ブルースがアメリカの、そして世界中のポップスやロックへ影響を与えたのと似たような感染力がある。


○参考文献:

飯野友幸 編著「ブルースに囚われて アメリカのルーツ音楽を探る」
菊地成孔大谷能生 「東京大学アルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・キーワード編」

*1:または道具を使うのが好きな人の中で、自慰行為について歌っていると感じている人もいるかもしれない。ピコ太郎も一人で「Ah!」とやっているのだから(ペンをどうやって使うかは、想像にお任せする)。

*2:厳密に捉えれば、最後に付け加えられた4小節をどう扱うかという問題は残っている。しかし、実質、12小節でオチているから、ベースとしてAABの構成があり、最後に4小節付け加えられ、AAB(Outro)考えればよいだろうか。

*3:とはいえ、念の為だが、自分は三回目を絶対視したい訳でも全くない。サンシャイン池崎のように1発目からインパクトを与えることもできるし、2度あることは3度あることもあるのだ。4回以上繰り返してから、ボケて笑いをとる、というパターンもいくらでもある

*4:もっといえば、この曲はDフラットがルートのベースラインでコード進行が停滞しているのに加えて、3度の音がない(オミットされている)ためメジャーやマイナーといったコード感が希薄である。更に、ベースラインはDb(1度)->Ab(5度)->B(短7度)->C(長7度)->Db(1度)と動いているが、これはブルースのベースラインである。ルートに対する短7度はブルーノートのうちの一つである。