メモ/ランダム

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『ケイコ 目を澄ませて』

確かに誠実にボクシング映画だし、誠実な「ろう」映画だ。でも、終わったあとの余韻には、ボクシング映画や、ろう映画を観た、という感覚がほとんど残らない。

この映画は、みるものをケイコと同じく「ひとり」にする。わたしはこの「ひとり」の感覚をよく知っている、と思ってしまった。
とはいえ、ケイコの「ひとり」の感覚は本人がろうであることが大きく、わたしはケイコと違い、音のない世界を知らない。この間には大きな壁がある。ケイコは、きこえないし、声を出して会話することができない。その世界では、人と「言葉」を介して接することが難しい。
しかし、世界は言葉で出来ているわけではないし、言葉になる/言葉にする以前の感覚がある。この映画は、カメラとマイクがその言葉以前の世界に「目を澄ませている」。わたしがよく知っている、と思ったのは、この言葉以前の世界なのだと思う。そして、言葉以前であるということは、言葉以上であると同時に言葉未満でもあるということだ。それは耳が聞こえていても、本来誰もが知っているのではないか

言葉のかわりに、ケイコはじっと見つめることができる。目を澄ますことができる。この映画では、カメラがケイコの目となり、または、ケイコに寄りそう者の目にもなっている。映画の神様が降りてきて、その神様の目がカメラになっている、とでもあらわしたくなるほど、ケイコを中心とした人々や東京の佇まいが星々のよう*1に捉えられている。観ているこちらも「目を澄ませて」感覚が研ぎ澄まされるように感じた。


2023/1/2 ユーロスペース

 

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*1:「星々のように」というのは、鑑賞後にユリイカ三宅唱特集を購入して、木下氏の「映画が終わったのではない。プラネタリウムが終わったのだ」という評がとてもしっくりと感じたことから。