メモ/ランダム

memorandum || (memory / random)

『ある行旅死亡人の物語』

https://mainichibooks.com/books/nonfiction/post-593.html

 

兵庫県尼崎市のアパートで死後2週間ほど経過後に孤独死で発見され、金庫には大金、右手指は欠損しており、身元も名前も不明の推定75歳の女性。警察も探偵も諦めた中、彼女が一体誰なのかを追い求めて奔走する男女2人の記者のルポだ。今年初めに共同通信のウェブサイトで公開され話題になった記事が再構成され書籍化されたものを手にとったのも束の間、本のページの上で映画が再生されるかのように展開がめぐり、ページをめくるのが止まらなく、一気に読み切ってしまった。2022年12月現在、テレビで放映中のドラマ「エルピス—希望、あるいは災い—」(16年前の少女殺人事件の死刑囚が冤罪ではないかと、女子アナとADが取材するサスペンス) だったり、そこから何となく思い出して最近再鑑賞した、映画版の「ドラゴン・タトゥーの女」(40年前に行方不明になった少女の行方を、雑誌編集者と天才ハッカーが追うサスペンス)さながらの真相究明で、さらに、この物語が現実であることに驚嘆してしまう。ちなみに、「さながら」と記したのは、これら3作品が、男女ペアでの捜査、という面で共通しているのもあり、この本にもいわゆる「バディもの」としての面白さもある*1。  

 

もしも「これはフィクションの小説です」といわれたら、信じてしまうかもしれないほどの展開がこの本にはある。だが、人が物語を作る場合は、エンディングをこれほど藪の中に葬らないだろう。
 

生きているものには全て物語がある。しかし、残された痕跡が少なく、または、その痕跡が弱ければ、それを辿ることは難しいという現実も、読後に突きつけられるのだ。 

 

とはいえ、この取材では、「もの」と「文字」と人の「記憶」といった、残された痕跡を出来うる限り集めていき、まだ灯が消えないギリギリのラインでたどり続け、彼女が旧姓だった頃までの姿を立ち上げてしまった。珍しい旧姓だからこそたどり着けた、と部外者が指摘することはたやすい。しかし、仮にそうだとしても、身元にたどり着けずに取材が終わり、記事にもならなかった世界線も十分にあり得たのではないかと思えるほど、何かの強い「導き」が生じてしまった事を、読んだ誰もが感じるのではないだろうか。もちろんその導きは、真相解明に対する記者2人の執念がなければ起こらなかったのは間違いない。 

 

それにしても、当初のウェブでの記事公開後に1200万PVを得たというように、この女性の謎に何故ここまで多くの人が惹きつけられるのか? 

 

そもそも、ある一つの死亡記事に惹きつけられた記者からこの物語は始まっている。そこから兵庫県職員に連絡し、うっかりなのかその人が女性の名前をこぼし、遺産管理の弁護士に繋げたこと。その弁護士の第一声が「この事件はかなり面白いですよ」だったこと。そこからさらに興味を持った記者の同僚。自分の家系図調査をたまたまWEB公開していている、死亡した女性と同じ姓の男性。彼と連絡がとれたことと、その彼の前のめりな好奇心、、、などなど。首の皮一枚でつながる場面が数多くありつつも、関係していく人々が彼女に惹きつけられ、その思いが連鎖してつながっていき、女性の身元に徐々に近づいていく。 

 

この惹きつける力は、その女性「千津子さん」そのものの謎によるものも当然あるだろう。藪の中に残された真相は確かに気になる。彼女の40年近くにわたる尼崎での暮らしはどういうものだったのだろう?人と関係を持たないながらも、つつましく生きたのだろうか?それとも、、、などなど。
 

このように、こちらの勝手な想像によって彼女の物語を立ち上げ、その物語を消費する、ということはたやすい(そんなことを彼女は夢にも思わなかっただろう)。しかし、この本を実際に読めば、私たちの情動は決して、彼女だけには向かわないはずだ。まず、今まで孤独死してきた他の多くの人々、または、今後孤独死してしまうかもしれない人々に向かうことも大切だ。しかし、より本質的には、自分の内側そのものや、自分と今まで関係してきた人々に向かわざるを得なくなるのではないだろうか。

 

今まで自分はどのように生き、いつ、どのように死ぬのだろうか?それだけでなく、今まで自分と出会い、そして別れてきた人は、今、どこで、どのようにしているのだろうか?

 

人と人の関係は流動的であり、興味や無関心も流動的だ。もう二度と会わない可能性が高いであろうかつての知人。最近会わなくなった知人。最近は縁があるが、その人ともそのうち別れがくるのではないだろうか?、などと、私自身と、私と関係してきた数多くの人に思いめぐらしてしまうのではないだろうか。

 

この本を読めば、千津子さんの物語とともに、それを読んだ人自身や、身のまわりの人々にも、物語があることに気がつくはずだ。少なくとも私は色々と思いをめぐらせてしまっている。せっかくなので、その一部にすぎないが、以下、私に関連するちょっとした個人的な物語(とまで呼べるほど大層なものではないかもしれないが)を立ち上げつつ、本の感想も引き続き記していく。

 

■尼崎
実は、私の父方の祖母の実家も尼崎にある。祖母は千津子さんより年齢が2歳上だから同世代といっていいだろう。
私自身、家族とその祖母とで小学校入学前まで尼崎のその実家で暮らしていた。だから、私の幼少期の記憶は、尼崎という大阪の下町の、ガラの悪い空気感とともに体に刻まれている。その後、私たち家族は祖母と離れて引越すことになり、祖母は四半世紀近くそこで一人暮らしをし、ここ数年はその実家近くの老人ホームで暮らしている。

同じ尼崎とはいえ、千津子さん側は、ダウンタウンの地元でもあるJR沿線であり、私の祖母の家は阪神沿線だ。この間には、隣の、さらに隣町といった距離感がある。だから、祖母と千津子さんは町ですれ違うこともなければ、短歌の会に入り、今もボケながら短歌を詠み続けるような祖母と関わることはなかっただろう。そうとはいえ、祖母と同年代の女性が同じ地域で一人暮らしをしている、という共通点で、千津子さんの半生を私の知っている尼崎の少し物騒な空気感とともに想起しながら、彼女を気にかけてしまうし、その孤独死は人ごとではないように感じてしまう。無論、尼崎に限らず、世界のどこであれ、孤独死は人ごとではないとはいえだ。

結局、写真の男性が誰なのかは不明で、千津子さんがその男性と暮らしていた線は薄いという証言が事実に近そうには思えるが、ちなみに(えいやっと書いてしまうが)、祖母の夫(私の父方の祖父)は、父が学生時代に、行方をくらまし、後に亡くなっていたのが発見され、それ以上のことをいまだに教えてもらえていない謎と、千津子さんと田中という男の謎を、関係ないと思いながらも、どこか照らし合わせてしまう自分がいる。

 

■まだ戦後を生きているということ
千津子さんの住むアパートの名前が鹿児島の湾からとられていることを、アパートの管理人が鹿児島出身だと知って記者が気付いたこと。そこから、高度成長期にかけて、阪神工業地帯には鹿児島や沖縄からの移住者が多い、と記されている点から思い浮かべたことがある。それは、孤独死無縁社会は、生まれた地から離れて移り住み、身辺で頼る者が少なくなることで起こりやすいのではないか?ということ(もちろん移り住まなくても孤独死は起こりうることだという留意は必要だ)、そして、その移住は戦争とその後の復興に伴っている、ということだ。そもそも、千津子さんは、広島出身であり、この本には彼女と原爆投下が関連する話が出てきてしまうところからも、今もまだ戦後が続いていることについて考えざるをえない。

ところで、実は私の母方の祖父(前述した祖母は父方)もアパートの管理人と同じく鹿児島出身で、戦後尼崎に出てきている。
今まで意識をしたことがなかったが、私自身のルーツも、戦争そのものに関わっていることに気付かされた。この歴史がなければ、父も母も生まれていなく、尼崎で出会ってないからだ。

 

■珍しい苗字
千津子さんの旧姓が全国に100程度しかいない、と聞いて、まさかの別の関連での再登場だが、母方の鹿児島出身の祖父の苗字(母の旧姓)を思い浮かべないわけがない。祖父の苗字も全国に300程度しかないらしく、鹿児島ルーツなのだ。話は以下徐々にそれていき再度戻していくが、私は夫婦別姓派であり、というのも、日本での同姓システムは、男性側の苗字が9割5分ほどの確率で勝つトーナメント戦とならざるを得なく、確率的に、将来必ず希少な苗字から消えていき、多数派の苗字が残るからだ。確率的に、と試しにいってみたものの、それが何千年か何万年後なのか計算したわけではないが*2。ただ、もし、その未来が、「自分」と「他者」の区別のつかない世界になれば、姓名というシステムは不要になっているのは確かだろう。無論、これは「人類補完計画」的な意味でいっており、ということは、いずれにしろその頃は姓名システム以前に、少なくとも今の社会システム、または人類か地球そのものが滅びている可能性が高い(70%ほどは大真面目だ)。失礼、話を戻すが、何を言いたいのかというと、もしも、千津子さんが田中ではなく、そのまま旧姓を選べていたら、と仮定すれば、彼女の痕跡をもっとたどることが可能だったかもしれない、ということだ。この点は重要ではないだろうか。もっとも、彼女があえて田中を選んだ可能性もないとはいえない。あくまでも想像にすぎないが。


■知人
特に隠す必要はないと思ったので最後に書くが、そもそもこの本を知ったきっかけは著者の1人が学生時代の知人だからだ*3。まだ夜に寒さが残る4月の夜のサークル棟の前で、やけにアナーキーボブ・ディラン好きな文学男子が入ってきたな、と感じたのはよく覚えている、とだけここでは記しておく。mixiが衰退する前*4のあの頃は、長文を書いて身内で共有し、コメント欄で議論&たまに炎上する文化が一時期あり、その中で彼が書いた文も読んできて、そこからは対面だけでは分からない彼の人となりを多少は知っていたつもりではあり、(この著書は共著であり、ルポという形式をとっているので単純に比較出来るものでもないが)、今回この本を読んで、変わったな、と思うところと、相変わらずやな、という両面を勝手に感じつつ*5、何よりも、2人の記者が関西と広島を奔走する姿が本のページの上でありありと映画のように再生されたのは、片割れに私と知己がある以上に、次々と導かれるように発生する事象に対する記者の克明な描写が、報道の特集記事でもあまりできないであろう小説的描写と伴って展開されているからだといえる。
無論、もし私の人生が彼と出会わなかった人生だとして、この本に出会ったとしても、感想は変わらないだろう。

 

 


2022/12/1 取り壊し前の東急渋谷本店内のMARUZEN&ジュンク堂書店で購入。その日に読了。

 

2022/12/3 アテネフランセへの行き帰りで清書。特に後半は、蓮實重彦の茶目っ気を含んだ意地の悪さとその愛、ジョン・フォードが執着した「投げること」に感化されながら。

*1:バディ、は元々男性同志のコンビを指すらしいが、最近は男女間でも使われることもあるとのこと

*2:そもそもどう計算するのか分からない。出生率が高ければ減らないで増えていく一方か?

*3:今年初頭に書籍化前のWEB記事がバズっていたのは知らなかった。ここ4年ほど、Twitterのトレンドの国設定をアイスランドにしているのもあるだろう

*4:日本でTwitter広瀬香美によって普及する前&ザッカーバーグサバンナ高橋と瓜二つなことに日本国民が気がつく前

*5:そりゃ10年も経つので誰だってそうだ。私もだいぶ変わったし、相変わらずだ