メモ/ランダム

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グレタ・ガーウィグ 『バービー』

*途中からネタバレあり

前作が若草物語というグレタ・ガーウィグが、バービーを監督する、と知った時、主に少女の青春期の繊細な問題を扱ってきた彼女が、キラキラした架空のバービーの世界をどう扱い、どのような作風にするのかまるで想像できなかったのだが、それはまず自分が男であるという事が大きい。私は、バービーで遊んだことがないし、実物のバービーをよく知らない。

とはいえ、この酷い時代であるし、彼女のことだから、バービーの世界の中でも現代の問題を取り扱うに決まっている。それに、なんでも燃やそうとする輩(戦争欲望)にあふれているこの時代だから、全方位に気を配った映画にもなるだろう。なんとなく予想したのはここまでで、あとは事前知識やネット上のノイズをできるだけ入れずに新鮮な気持ちで映画館へ行くに限る。

感想としては、この映画は、新機軸を打ち出しつつも、私が知っているグレタ・ガーウィグらしさは確実にあり、それと同時に、バービーの世界観を壊さずに巧妙に描ききっているところに唸ってしまった両者は違和感なく溶けあっている。私はバービーを知らなかったが、この映画の原作リスペクトはビシバシと感じるし、バービーの世界設定という「制限(呪い)」を存分に生かしながら、楽しんで制作したんだろうな、というバイブスまでもが伝わってくる。

コミカルでありつつ、ここぞとばかりに、男も女もこの社会も風刺していくのは痛快だ。風刺の対象は自己言及的にバービー本人に向けられるのも面白い。バービーは、(私ってイタいのね…)、と自覚までさせられるのである。

結局のところ、私たちはこの世界の問題を抱え続けるしかないけど、それでもジョイフルにいこうではないか。というようなメッセージを私は受け取った。この映画はとてもアイロニカルながらも、人間が現実世界で生きていくことを祝福している。


以下、ネタバレありの個人的な思考の整理/バービーの構造把握


オープニング。
のっけからシリアスな映画が始まるのか?と思わせぶりのSEも束の間に、あの超有名映画のパロディが繰り広げられる。ここでは、「バービーの実写化って一体どうなるのかな?」という観客の疑問に対して、「この映画はコメディです」というプレゼンテーションをしているのである。導入部として、とても上手いと思う。

かつ、ここではそれと同時に、人形としてのバービーが誕生したことの「革命」について簡潔に説明される(それにしても、あまりに象徴的にしているパロディだ)。このことも導入部としてきちんとおさえないといけないポイントだ。でないと、この映画の物語の本筋があまり理解できなくなるからだ。

古代から、小さな女の子は、赤ちゃんの人形で遊ぶことで、自分自身が「母」になりきる、という、おままごとをして遊んできた。
しかし(ここまではナレーションで説明されていて、ここからは映画内で直接言葉で説明はされていないものの、以下がベーシックな理解だろう)、戦後に誕生したバービーで遊ぶことは、自分が「母」になるのではなく、バービーに「自立した女性像」(そこにはその子の将来の夢が伴ったりする)を投影して遊ぶことなのだと。これは男性に抑圧され続けた女性の権利がようやく解放されつつあった時代の「革命」だったのだ

 

そうして、物語はピンクを基調としたカラフルでツルツルとした眩しい質感のバービーランドへと流れ込む。そこではカルフォルニアのビーチがデフォルメされ、能天気でユートピアな(ように一見感じられる)世界がコミカルに描かれていく。

バービーの世界の登場人物(といっても、複数のバービーと複数のケンと1人のアランしかいないのだが)は人間によって演じられるものの、人間が人形を演じている、という違和感を感じさせない。あまりにも絶妙なビジュアルの演出と演技。これがバービーの世界なんだと納得してしまう。

ヴィジュアル面だけではない。この映画は商品としてのバービー人形の世界設定を忠実に扱っていると思われる。
それは、うがった見方をすれば、この映画がバービーという商品のプロモーション映画だから、とも捉えられるだろう。下手にバービーの世界を壊そうとするならば、サザエさんでタラちゃんをムキムキにしようとした三谷幸喜のようにクビになるに違いない。

ルール違反をしないで、いかに勝負するのか?というのは腕の見せどころ。

ここで、バービーの世界設定を箇条書きにすれば、以下のようになるだろう。特に1,2,5は理念といえるだろう。

0.バービーは人形である(大前提)
1.自立した女性像としてのバービー
2.職業/人種/身体性の多様性を体現するバービー
3.男性(ケン)は存在する
4.性器は存在しない
5.バービーは恋愛しない
6.バービーはケンから愛されるが、バービーはケンを愛さない
7.ケンはサブキャラにすぎない
8.ケンは無職のプー太郎(人種/身体性は多様)

当然だが、バービーの「バーチャルな世界」では女性優位だ。
そんなバービーの世界は、オープニングで説明されているように革命であった。それは、「現実世界」の男性優位性に対するカウンターとしての革命である。多分にもれず、バービーの誕生は戦後のカウンターカルチャームーブメントの一部とみなせるだろう。

そして、この映画はこれらの設定を前提にした上で、物語が展開していく。

その物語は、
A: バービー界vs人間界 (0,4のカウンター)
B:  女vs男(1,2,5,6,7,8に対する男からのカウンター)
の2つの対立項が上記の各設定のカウンターによって生み出される事で、駆動されているのである。

A、Bともに、この映画の二つの主題だ。

Aについて。非人間が人間に目覚める物語として、例えば人魚姫がある。しかし、人魚姫とは異なり、バービーはその世界の理念として異性には目覚めない。そうではなく、いつかむかえる「死」を突然自覚してしまうことで、人間に目覚めてしまうのである。

それは老いることへの自覚ともいいかえられる。それは「人間」そのものが老いることへの自覚であると同時に、「人形」も子供によって遊ばれることで徐々に磨耗し、子供が成長すると捨てられる、という自覚も少し含まれている。このため、この物語はトイストーリー的側面も持ち合わせているとはいえる。しかし、この映画の主題としてはやはり人間の老いの重みの方が断然ある。(この点で、現在33歳のマーゴット・ロビーと、現在42歳のライアン・ゴスリングがキャスティングされているのは、なるほどと思わせるものがある。バービーの実写化、ときけば、普通若いキャストになると思うだろう)


そして、老いを受け入れたうえで、バービーは人間になることを決断する。しかし、それはやはり、「自立した女性としての自己像の実現」としての人間化なのである。

なので、ラストシーンはあくまでも、人間になる第一段階として、まず、自分の身体の女性性を受け入れる。ということだろう。その後、異性を受け入れるかどうかは、描かれないその後にゆだねられている。

この映画が面白いのは、やはり、男性のマチズモ社会を断固拒否することから全てが始まっていて、それがバービーの世界での理念であり、その世界で戦っているからだ。このールから外れると、主題がぶれてしまい、面白くなくなる。そして、バービーの世界の行き過ぎたフェミニズム性についても、映画内の人間の少女によって、きちんと批判にさらされている。そして、主題は男女間の問題から、生きることそのものにシフトしていくのだ。

ルール内で戦っている点に戻ると、それゆえに、この映画の多様性への配慮は、基本的に商品(人形)としてのバービーの世界における多様性の内に留まってしまうことが指摘できる(上記1、8のことである)。これは欠陥だといいたいわけでは全くなく、ルール内で戦うならそうならざるを得ない、という指摘である。

まず、バービーの世界では性愛が拒否されているため、LGBの人々を構造的に取り扱うことはできない。バービー軍団とケン軍団、どちらもホモソーシャル的ではあるが、ホモセクシャルには転じられない。(「バービーのホモソーシャル性」、みたいなことを考え始めると、ほとんど研究になってしまうし、私には無理だ。アカデミズムの世界で誰かやりそうですよね)

T(トランスジェンダー)について、これは例えば、ボーイッシュなビーバー、位でもいいから、そういうキャラクターがいてもいいのでは?、と感じた。性自認のズレなのだから、恋愛禁止の世界でも存在可能だと思う。商品としては存在していないのだろうか。ちなみに、セーラームーントランスジェンダーキャラクターの天王はるか(セーラーウラヌス)が登場してきたのは3期からだし、いきなり扱い始めるのは難しいのかもしれない。

Q(クィア)について。ヘンテコバービーはクィア「的」に扱われている。子供に遊び倒されて髪型もめちゃくちゃで、足があらぬ方へ開脚しすぎるヘンテコバービーは性別も不詳にみえる。そして、かなり夏木マリに似ている。


似ているといえば、安藤玉恵さん(クドカンのドラマなど)っていつの間にかハリウッドに進出していたんだ!と思わずにはいられなかった女優さんは、調べると、アグリーベティぶりにみたアメリカ・フェレーラだった。合成なしでドッペルゲンガーの映画が作れると思う。

また、日本で実写化するなら、リカちゃんになるのだろうが、ガーウィグと双璧をなす同世代の女性監督は山田尚子しかいない。リカちゃんはだれでも構わないが、いっそのこと、RIKACOさんがやれば良いと思う。となると相手は渡部篤郎になるしかないだろうか。

 

2023/8/15